男女の親友は成り立つのだろうか?
千羽子が感じたその温かい息は、千羽子の耳と首の間で一瞬止まった。
フロントガラスの奥の景色を見ていた千羽子は案の定びっくりして、体が固まった。
しかし咄嗟に、体を捻って、助手席のドアの方にぐっと体を押しやった。
「何してるんですか」
本当は、「止めてください」と言いたかった。
けれども、「今されている行為」を何となく自分で認めたかのように聞こえてしまうと思い「何してるんですか」と言った。
あくまでも「今されている行為」に自分は気づいていない振りをした。
完全に体が千羽子の座席にもたれ掛かっている松谷さんは、この状況をどういうのだろうか。
もしも千羽子が体を移動させなかったから、今頃二人はどうなっていたのだろうか。
「髪にごみがついてたからさ」
松谷が発したのは、予想外の回答だった。
「はぁ、ごみ」
「そう。ここにさ」
そう言うと松谷さんは私の髪に触れてごみをとる仕草をした。
しかし暗闇のせいなのか、松谷さんがとったごみを私は黙視で確認できなかった。
本当にごみだったのか。
私の中でぐるぐると疑問がねじあがる。
ごみであれば、運転席に座ったまま、そのまま腕を伸ばして取ればいいものを。
なぜそこまで近づいて、今にも千羽子の首に顔が触れるくらいに接近しなければならかったのか。
しかし、本人が「ごみをとる」と言っているのであれば仕方がない。
それ以上でもそれ以下でもないのだ。
まさか、よもや、千羽子にキスをしようだなんて、そんなこと天地がひっくり返っても無いはずだ。
なぜならば向こうは既婚者で、子供もいて、独身女性にこんな真夜中に車内に二人きりの状態で安易に接触していいわけがない。
何かことが起きたら、立場上弱いのは千羽子の方だ。
圧倒的に千羽子が悪者扱いされる。
「俺がもし独身だったらなー」
少しの沈黙を置いて言われたのはなんとも無責任な言葉で、千羽子の心をさらに複雑にした。
「そんなこと言われても困りますよ。奥さんに言えないことは言わないでください」
千羽子はまだ助手席のドアに体を寄せて、松谷から距離をとっていた。
「そうだよなー。流山の方が俺よりも大人だわ」
松谷さんはそういってからようやく体を起こして、もとの運転席に体制を埋めた。
「奥さんと何かあったんですか」
「んー。難しいこというね」
私はすぐに返答しなかった。
「何かあったと言えば、流山に逃げていると思われる。何もないと言えば、ただ浮わついていると思われる」
まだ千羽子は何も返さなかった。
「奥さんとはうまくいってるし、子供ももちろん大切にしてる。昔と変わらずに奥さんのことは好きだし、これからも好きでいる」
それなのに、なぜ、と千羽子は沈黙しながら、怒りの初動を感じていた。
自分の眉間に力が入っているのが分かる。
「たぶん、分かってもらえないと思うんだけど、それでも、流山のことが気になる」
千羽子はまだ沈黙を続ける。
「今日トラブルがあったって聞いたとき、なんでか一番最初に流山のこと思い出したんだ。流山とこうして北千住までドライブできないってがっかりした自分がいて。流山はどう思っているか分かんないけど、俺はすごいこの時間好きで居心地よくて。それでこの時間奪われたくなくて必死でトラブル処理して、船橋駅向かった」
「はい」
千羽子は少しだけ相づちを打った。
「それで、船橋駅で流山のこと見たとき、なんだかすごい嬉しくてさ俺。こんなこと言ったらダメだと思ってるし、こわなこと思うことがダメだと思うんだけど、流山と一緒にいたいんだよ。なんか、すごい落ち着くし、癒されるし、流山の純粋なところとか真面目なところとか、俺にないものばっかりで感化されるんだよ」
「はい」
「でも言うと流山のこと困らせるだけだから、言わないでいたかったんだけど、ごめん、さっきはほんとに。反省してる。でもどうしても押さえられなくて、でもなんとか必死に押さえてた」
「はい」
どんどんと松谷さんが小さくなっていくのを感じる。
それでいて、どんどんと松谷さんのことをさらに知りたいと思うようなっている。
もっと、聞かせて。
もっと、私の話をして。
松谷さんが知っている私の話を。
松谷さんが好意を抱いている私のことを。
「あのときは、ごみをとってくれただけなので、大丈夫ですよ」
私の言葉に松谷さんは絵にかいたようにびっくりとした表情を見せた。
「なんだよ、流山、神様かよ」
「でも」
「でも?」
「手を握ったことは怒ります」
「あー」
がっくりと項垂れる松谷さんは子供のように可愛かった。
正直手を握ってくれたことは嬉しかったし、女性としての扱いを受けたのは久々だったので、松谷さんが独身であればもう彼の思うようになってもいいとさえ思っていた。
しかし、彼は千羽子の望む立場の人間ではない。
だからこそ、けじめとして、もう二度と千羽子の手を握らないように、そこはしっかりと線引きをしなければならない。
「私たち、親友でいましょう」
思わぬ提案に豆を食らった鳥のような顔を見せたのは松谷さんだ。
「親友?」
「そうです。親友。男女の垣根を越えた親友。であれば、会う理由もありますし、こうして夜中まで話し込む理由にもなります。ただ、奥さんには理解されないと思いますけど」
「ナイスアイデア」
松谷さんは両手を打って相づちをしてくれた。
しかし千羽子のなかではこう思っていた。
男女の垣根を越えた親友何てありえない。
ただお互いに良いように相手を使うだけだ。
きっと私もまつやさんを利用するし、松谷さんも私をうまいように利用する。
男女が二人で一千を越えないでいるのは難しい。
お互いがお互いに好意を持っているときは尚更。
次の瞬間にでも、どちらかの理性が飛んだら二人の関係は全く別の世界にいく。
しかし、千羽子はここで大人の振る舞いをするしかなかった。
松谷さんが好きでいてくれる自分を少しでも演出するために。
もっと、松谷さんに好いて貰えるように。
叶わない恋がどこまでいくのか、千羽子自身も楽しみだった。
いつか、他に好きな人ができて、自然に松谷さんのことを忘れられたらいいな。
そんな日、待ってても来ないかもしれない。
いつか、奥さんにこの密会がばれて、裁判になるかもしれない。
それはいやだな。
なんて、今振り替えるとまるで映画の主人公のような振る舞いだと千羽子は我ながらに馬鹿馬鹿しいと感じた。
すべてが手遅れであるのに、できる範囲のなかで楽しさを見いだそうとする自分が滑稽だった。
鳥かごの中の鳥は、常に誰かに見られている。
その意識はすでに無かった。
奥さんがいる相手とこうして夜まで話し込むこと。
それがどれだけ、誰かを傷つけることか。
このときの千羽子には分からなかった。
このまま朝まで二人でたくさんの話をする未来を見ていた。
しかし、その未来は一本の電話で断ち切られる。
ブブブブブ
松谷さんの携帯電話がなる。
相手は奥さんからだった。
慎重な顔になり、電話に出る。
「、、、ほんとか。、、、。わかった、すぐいく」
「大丈夫ですか」
「うん。子供が熱だして吐いたりしてるらしい。奥さん車運転できなくて、タクシーも捕まらなくて」
「早くいってください」
「悪いな。また連絡する」
私は急いで車から降りて、スピードをあげる車の姿が見えなくなるまで手を振った。
千羽子は直接見たこともない松谷さんの子供を思って、布団に入った。
そしてまた日が経てば、こうして二人で楽しく会えると思っていた。
しかし、結果的にはもうその日はこない。
今日が二人の、最後の日になった。




