見据えた暗闇の街頭の先に
千羽子は、自分に皇位を持ってくれている人のことがなんとなく分かる。
それは超能力のようなものではなくて、ごく一般的な感覚だった。
歴代の彼氏もそうだった。
この人、わたしのこときっと好きだろうな、とふとしたときに思うのであった。
なんとなく会話しているとき、なんとなく目があったとき、なんとなく肩と肩が触れあったとき。
そのなんとなくの瞬間に、相手の好意を感じとる。
そして、いつの間にか相手のことを好きになっている。
気がつくと千羽子の方が相手のことを好きになっている。
きっかけは確実に相手からなのだが、恋を始めるのは千羽子からだった。
しかし、恋を終わらせるのは相手からばかりであった。
千羽子は嫌われるのが怖いのだ。
確実に相手に気があると感じたときでなければ、恋を始めない。
それは千羽子だけではなく、他の女の子にも等しく当てはまることだと彼女は思っている。
大半の女性は、男性でもリスクを犯した恋愛は好まないはずだ。
今回だってそうだ。
松谷さんは、私のことを少なくとも嫌いではいと思ってくれている。
そうでなければ、なぜ毎回のように自宅まで車で送ってくれるのか、日付を越えるギリギリまで一緒にいてくれるのか、奥さんとお子さんが待つ家に一目散に帰らないのかが説明がつかない。
さらに、朝まで一緒にいるなんて、嫌いな相手とは拷問に等しいはずだ。
でも、ここでひとつ問題がある。
彼は子連れの妻帯者であるということである。
これまで千羽子は独身と恋の駆け引きをして来た。
相手には、恋人がいない状態が全てだった。
お互いにゴールは恋人同士になることで、他になにも考えなくてもよかった。
しかし今度はどうだろう。
相手は私に何を望んでいるのかが全く分からない。
不倫相手になってほしいのか。
それともただの後輩か。
ステップアップした友人か。
男女の垣根を越えた親友か。
聞いてもいないことをいくら自分のなかで問いかけても答えはでない。
答えはいつも相手のなかにしかない。
それでも千羽子は、一旦この空気感を大切にすることにした。
この宙ぶらりんな関係を楽しむことにした。
一線さえ越えなければいい。
千羽子も松谷に好意を抱いているものの、本当に恋人になりたいとか妻になりたいとかそこまでは全く望んでいない。
ただ、千羽子は寂しさを埋めてくれる人が欲しかったのだ。
ちょうどいいところに、松谷がいた。
それだけだ。
「ありがとう」
少しだけ熱気に満ちてきた車内にエンジン音に混じって松谷さんの声が響く。
低くて、よく響く声。
ずっと聞いていたくなる声。
もっとそばで感じたい声。
でも、それは許されない声。
そんな駆け引きのようなドキドキを楽し始める余裕が生まれてきた。
そう。
これは恋ではないから。
松谷さんと結ばれなくてもいいから。
なんだかそう思うと一気に気持ちが楽になる。
「いいんですか、本当に。私は大丈夫ですけれども」
「いい、と思う。俺だってたまには外にいたいときだってあるんだよ」
「奥さんのこと、大切にしてあげてくださいね」
自分でも余裕が出てきたことを実感する。
発言に力が込められる。
相手を気遣うこともできるようになっていた。
もはやこの疑似恋愛にも似たような関係は、先輩と後輩の上下関係ではなく、同列の関係だ。
どちらが上でも下でもない。
お互いに同じラインに立っている。
「嫁は大切にしてるよ」
松谷さんが少し困ったような表情で車のハンドルに手を掛けながら言った。
なんだか松谷さんをいじめているようで楽しかった。
「今日のこと、ばれないようにしてくださいね。立場が弱いのは自分の方なので」
言ったあとに、不味かったかなと思った。
自分から不倫を少しでも匂わせるような発言は極力控えていたのに、ここに来て気が緩んでしまったのかぼろが出た。
あっと思ったが、すぐに「俺も分かってるよ」と返事があった。
松谷さんもそこまでバカではないはずだ。
二十代の独身の女性と朝まで車のなかで過ごすことの意味くらい、言わずとも悟るはずだ。
「なぁ」
何かを思い出したような口ぶりで問いかけられた。
「何ですか」
「流山はさ、結婚とか、しないの」
ゆっくりとした話し方だった。
躊躇うような、でも聞いてみたい欲を押さえられないような大胆さが混じった話しぶりだった。
「なんですか、それ」
思わず笑ってしまった。
「それ、二十代の女性には禁句ですよ」
「え、そうなの」
とぼけたように返された。
「結構センシティブな話題なんですから」
「あー、ごめん知らなかった」
悪気がなさそうに笑ってごまかす松谷さんの表情は柔らかくにこやかだった。
「そうなんですよ。私にはいいですけど、他の人には要注意ですよ」
私もつられて笑う。
自分の目尻が緩んでいるのが分かる。
「じゃあ、もう一回聞くけど、流山は結婚したいの?」
「そりゃあしたいですよ、いつかは。いい人がいればですけど」
「ってことは、いまはいないのか」
「そうですね、そうなりますね」
実は松谷さんとこうして実際に恋愛の話をするのは今日がはじめてだった。
初めて車で送迎をしてくれた日から約2ヶ月。
すべてを話してきたように思えて、恋愛の話はお互いにタブーとしていたのか、あえて避けていた。
千羽子は純粋に妻帯者に恋愛事を聞くのが不躾だと感じていたからだ。
だからこそ、今こうして松谷さん自らが聞いてきたのは、千羽子自身かなりびっくりしていた。
「ふーん。なるほど」
「なんですか、なるほどって」
意外とあっさりとした返答に少し残念感を覚えた。
自分に好意があるのではないか。
もう少しいいリアクションをしてもいいのではないか。
自分の中の理想の松谷さん像ができているので、いささか不満だった。
「いやー、もう誰かいい人いるのかなって思ってたからさ。流山はしっかりしてて、かわいいから周りも放って置かないでしょ」
かわいい、という言葉が胸に強く刺さる。
やっぱりこの人は、私に好意を持っている。
少なくとも、嫌いではない。
「いまは、仕事頑張るときだと思ってます。もう少ししたら恋活しますよ」
現に千羽子は仕事でいっぱいいっぱだった。
だから、少しだけ余裕ができてきたので、本当にこれからだと感じていた。
「流山なら、絶対すぐに彼氏できるよ」
「そうですかね。できたらいいですけどね」
「できなかったら、俺が責任持つよ」
「え」
「俺が責任持てたらいいんだけどね」
予想外の言葉にうまく返答ができなかった。
言い直されたその言葉に、果たして本当に責任はあるのだろうか。
「そんなこと、言わないでください」
動揺した感情かそのまま露になる。
少し震えた声が口元から溢れる。
責任を持つってどういうこと?
なんの責任を持ってくれるの?
恋人になってくれるの?
離婚してくれるの?
そんなこと、ありえないこと、責任なんて言葉使ってほしくない。
「自分でも変なこと言うと思ってるけどさ」
千羽子は相づちを打たない。
何故ならば、きっと次に彼が言う言葉もまた、責任がない言葉に違いないからだ。
きっと松谷さんも気づいている。
私の好意を。
その好意に答えようとしてくれているのか否かは不明だ。
彼なりに好意を返そうとしてくれているのか。
私が松谷さんを見る視線が熱くなっていること。
少しだけ、私が女を意識し始めていること。
目が合う時間が前よりも長くなったこと。
ふいに体が触れあったとき、ゆっくり離れていくこと。
きっとすべて分かっている。
それでも、彼は口にする。
言葉にする。
責任のない思いを音にする。
「俺、奥さんいなかったら、流山と結婚してる」
嘘でも言ってほしくなかった。
嘘なら良かった。
聞き間違いなら幸せだった。
「もし俺が独身だったら流山と付き合いたいと思うのにな」
残酷なタラレバ話が千羽子の心臓をさらにえぐっていく。
もう、私はこの人を好きになることを止められない。
好きになってはいけないのに、戻れない。
しかし千羽子は必死に抵抗していた。
松谷の方も向かずに、フロントガラスの先の真っ暗な遠くの街頭を見続けた。
千羽子の膝の上の手には温かなものが置かれていた。
それに反応してはいけないと、必死に景色に集中する。
松谷が自分の左手を千羽子の両手の上に重ねたのだ。
温かくて、大きくて、骨ばった男の人の手。
この人の指の先だけでも、握り返したい。
そう願うことが、もう罪なのだ。
必死に心をどこかに飛ばしていく。
そのことに必死になりすぎて千羽子は次に起こることに対して全く準備ができていなかった。
ゆっくりと、松谷が運転席から体を離し、千羽子に寄り添う形になる。
次の瞬間、千羽子は自分の耳元に温かい息を感じた。




