天国と地獄
何も成し遂げられない日々の中でも、千羽子はそれなりに楽しさを見いだしながら仕事を続けていた。
あの日から、松谷さんは何度も千羽子を家の近くまで車で送り届けてくれた。
幼馴染みのような親近感さえ感じていた。
ある意味で家まで送ってもらうのが日課にさえなりつつあり、もう何も言わずとも定時になればお互いに車に乗り込むようにもなっていった。
あんなにも思い詰めて、何度も辞めようと思い、辞職願の書き方や円満退職の仕方をネットで検索することはしなくなった。
それはやはり、松谷さんの功績が大きいのは言うまでもないことだった。
今まで仕事の悩みを誰かに相談したことがなかった千羽子にとって、松谷さんの存在はいま確かに何よりも変えがたいものになっていた。
実家の母には東京に来たことに対して、千羽子が弱音をはいている姿は見せたくなかったし、見せられなかった。
それが千羽子のせめてもの強がりだったのだが、それがかえってむしろ千羽子を責めていることにつながっているのは、本人が一番に自覚していることだった。
そんな中、松谷さんは千羽子にはヒーローに見えた。
はじめての仕事での先輩。
仕事の仕方や気持ちの面をサポートしてくれて、過去に同じような境遇を彼も経験してきたことから、親身になって解決してくれる。
さらにそれは千羽子だけではなく、同期の三村や他の人にも同じように救いの手を差しのべていると聞く。
こんな仏のような人、そうそうなかなかいない。
そんな神格化され始めた松谷だが、彼のユニークなお人柄も人を惹き付けて止まない魅力のひとつだろう。
黒髪で短髪の爽やかなイメージとすらりと背が高くスポーティーな立ち居振舞い、奥さんと娘さんを大切にしている姿は、どこに出しても恥ずかしくないシンボル的存在だった。
そんな模範生のような彼との時間をいつの間にか楽しみにしている自分がいて、毎度松谷に会うたびにこころに制御をかけている。
不倫なんて、この先二人の間には起こりえないし、向こうも千羽子を後輩としか見ていない以上、発展はない。
むしろ発展があってはいけない。
わたしは、どん底から這い上げてくれた松谷さんに感謝しながら、次に進まないといけない。
仕事のストレスからようやく解放されていたので、少しだけ恋愛をしたいなというモチベーションになっていた。
松谷さんの代わりとは言わないが、自分にも恋人が欲しい。
心の拠り所がほしい。
そう思いながら京成線からながれる景色を見ながら、千羽子は京成船橋駅に到着した。
今日も松谷さんに会える。
そう思うと、どしゃ降りの中でも千羽子の足取りは軽かった。
「あ、松谷さん?ちょっとトラブルでお客さんのところ行ったよ。雨のなか、おつかれさま」
アルバイトの松戸さんがパソコンから顔をあげて、千羽子の心の疑問を解いてくれた。
「そうなんですね。トラブル、大丈夫ですか」
千羽子はカバンをデスクに起きながら心配そうに、尋ねた。
「多分、大丈夫だと思うけど、今日は帰ってこないかもね」
松戸さんはパソ子に視線を戻して、すでに仕事を続けていた。
千羽子のデスクの斜め向かいにある松戸さんのデスクを眺める。
そこにはパソコンもカバンもない空っぽなデスクがあるだけだった。
連絡してみようかな、と思ってみたものの、トラブル対応で大変な中にさらに重荷を背負わせたくなかったので、連絡は控えることにした。
なんだ、今日は車で送ってもらえない上に、会うこともできないんだ。
そう思うと、さっきまでの楽しい気持ちの行き場がなくて、少しイライラしながら仕事に取りかかった。
船橋での仕事のプロジェクトももう終わる。
楽しい船橋オフィスでへの行き来ももう数えるほどである。
そんなこと松谷さんは知らない。
だって松谷さんにとっては、どうでもいいことだから。
私ばかりが舞い上がって、楽しい思いをしているだけだから。
千羽子はその日悶々としながら仕事を続けた。
定時になっても、松谷さんは帰ってこなかった。
「おつかれさまです。お先に失礼します」
千羽子は定時になるとカバンに荷物をさくさくと入れて退出した。
「はーいおつかれさま。またね」
松戸さんは少しだけ残業するらしい。
オフィスの鍵を持っていない千羽子は、このオフィスに最後まで残ることができない。
松戸さんに迷惑をかけないように、早めに仕事を切り上げることにしたのだ。
外に出るとまだ曇り模様でじめじめと湿気が体を濡らしていく感覚がする。
その湿気はだるさをより引き立て、千羽子を灰色の絵の具で染めていくようであった。
普段であれば連日残業をしている千羽子には、提示で仕事を上がれるのは奇跡に近いので、何のお酒を飲もうかお酒のあてはどれにしようか、それだけが楽しみであった。
しかし松谷と出会ったことでアフターファイブの楽しみが変わり、お酒だけでは満足できなくなっていた。
「欲張りになったな」
自分でも自覚している。
松戸さんと会う前よりも、幸せになれる指数が上がっている。
昔、テレビで誰かが言っていたことを思い出した。
人は生活水準をあげることは容易にできるが、下げることは予想以上に難しい、と。
一旦快適な生活を知ってしまったら、知らなかった頃の自分に戻るのはなかなか厳しいのだという。
幸せもその考え方に寄るのだろう。
一度甘い蜜を吸ってしまったら、水を飲んでも物足りない。
人に蜜は毒なのだ。
今日はせっかく船橋に来ているし、どこか食事処にでも八朗かとふと思った。
駅までの道で飲食店が何軒もあったのをなんとなく覚えていたので、手頃な店に入ろうと決めた。
しかし、気がつくとすでに船橋駅の文字が見えるところまで、歩を進めてしまっていた。
下がりきった気分の中では、何一つ美味しそうに見えるものはなかった。
「帰ろう」
お金も時間も勿体ない。
家で寂しく一人で晩酌だ。
今までもできたのだ。
今日だってできる。
昔に戻ればいいのだ。
そう思い、千羽子はカバンから定期券を探して一瞬立ち止まった。
「流山」
自分の名前を呼ぶ声が後ろから聞こえた。
駅に向かう人々の雑踏の中でもはっきりと聞こえた。
声が聞こえた方向に顔を向ける。
人々が忙しく行き交う駅の入り口にはこちらを見ている人はいない。
何処から、誰が?
車道には絶えずバスが出入りし、降車する人々は脇目も振らずにそれぞれの場所へ向かっていく。
聞き間違いだったのか。
流山なんてどこにでもある名字だし、何よりもここは千葉県だ。
流山という地名も駅名もあるくらいなので、きっと誰かが言った言葉に過敏に反応してしまっただけだったのだ。
なんだ、と少し落胆して勘違いだと分かったので潔くその場を立ち去ることができた。
さて、帰ろう。
「あ、でもJRじゃない。京成線だから上の階に行かないと」
千羽子は間違ってJRの方に来ていることにようやく気がついて京成線のホームがある二階の改札へと方向転換した。
「流山!」
また、聞こえた。
今度はさっきよりもはっきりと、大きく、そして近く。
「松戸さん?」
白い社用車の運転席から大きく手を振るのは、私が会いたかった先輩。
自然と足が早々と車に向かう。
車までは30メートルほどだ。
近くまでいくと、「急いで。ここ駐車禁止だから。乗って」と言葉早く急かされたので、「はい」とすぐに返して助手席に飛び乗った。
流れる景色はいつも見馴れたものだった。
この車から見る景色は、とても心地がよい。
道行く人々がとても愛おしく見える。
それは千羽子の心が穏やかになった証拠だ。
このままずっと、家に着かなければいいのに、とさえ願うようになっていた。
右をさりげなく見てみる。
ワイシャツを腕まくりし、襟のボタンを3つ目まで大胆に開け、腕の筋肉と血管が隆々として見える。
恥ずかしくて、気づかれたくなくて、顔までは見れなかった。
車内には松谷さんのタバコの匂いがいつもより強めに感じる。
「いやー、良かった。ほんとに」
「何がですか?」
「全部だよ」
「全部?」
「そうそう。仕事も流山も」
また自分の名前を呼ばれて、今度は大きな鼓動を自分の中で感じた。
「仕事のトラブルは何とかなってさ。最初はもうダメかと思ったけど、結果問題なくて。再発防止はしなくちゃいけないけど、一旦は一件落着。あー、終わったって事務所戻ったら流山がもういなくて。そっちの方が焦ったわ。松戸さんに聞いたら、いま出たばっかりって言ってたから急いで駅まで行って。ギリギリ電車乗る前で良かったわ」
「ありがとうございます。忙しいのにわざわざ」
「だってもう日課みたいなもんになっちゃったからさ、送るの」
嬉しい言葉だ、と千羽子は感じた。
自分の中で何度も何度も繰り返した。
そして何より、松谷さんと同じように考えていることが嬉しかった。
「あー。でもほんとしんどかったわ」
「私でよければ聞きますよ」
「悪いなー。もっとかっこいいところ見せたいんだけど、今日だけは勘弁だ。俺の愚痴に付き合ってくれ」
「喜んで」
松谷さんに頼られているのが嬉しかった。
ここにいていいんだ、と許された気分だった。
誰にも頼られず、認められず、どこにいったらいいか分からなかった自分に居場所をくれた。
私は外の景色から視線をはずし、少しだけ松谷さんの方に向き直って、座り直した。
「あはははは。そんなことないですよ」
「いや、それがさそのテレビめっちゃ面白くて、まじで見てみて」
「はーい。分かりましたー」
「あ、その返事は見ないやつだろ」
「そんなことないですよ。うち録画機能ないのでがんばってリアルタイムで見ます」
「録画機能付いたテレビ買いなよ」
「私の給与じゃ買えませんよー」
「あ、怒った?」
「怒ってないですよ」
松谷さんの仕事の話は、そうそうに終わった。
どちらからというと、何かを話して発散したいようだった。
話題は尽きずに今は最近始まったお笑い番組のネタになった。
どうやら松谷さん曰くとてもおすすめらしい。
すでに家の近くに車は到着している。
毎回のように家の近くの大通りに停車をして、もう小一時間は話し込んでいる。
時刻は19時38分。
松谷さんと話すと本当に時間を忘れてしまう。
それでも、私は彼が妻帯者で子連れで会社の先輩であることを忘れないようにしている。
常にそれだけは意識する。
自分が傷つかないのようにするためにも。
「そういえば、今日は早く帰らなくてもいいんですか」
奥さんを気遣う質問を投げてみた。
「あー。うん。今日は遅くなるって行ってるから」
「あ、そうなんですか」
一瞬、千羽子は期待をしてしまった。
もしかしたら、朝まで松谷さんと一緒にいられるかもしれない、と。
「今日トラブルだから朝までかかるかもって。実際昔トラブルあったときも朝までかかったから、今回もそうかもっては言っておいたんだ」
「でも、早く終わって良かったですね」
期待を、している。
「なー。ほんとだよ。朝までとかほんとにしんどいから」
期待を、している。
「じゃあ、ゆっくり出来ますね」
期待を、している。
「うん」
短い返答だった。
次の言葉が見つからない。
期待が止まらなくて、言ってはいけないことをいってしまいそうだった。
必死に自分の高揚を押さえた。
「まじで、今日はしんどかったわ」
「おつかれさまでした。何かコンビニで買ってきますか」
「んー」
松谷さんはぐーっと伸びをして、両手を後ろで組んでリラックスした姿勢になった。
「あのさ、良かったから」
謎の溜めがあった。
言葉を選んでいるような、沈黙だった。
「もし良かったらだけど」
私の心臓が大きく高鳴る。
「無理しなくていいんだけど」
次の言葉が怖い。
「良かったらさ、朝まで付き合ってくれない」
ついに言われたのは、妻帯者で子連れで会社の先輩である松谷さんからの言葉だった。
視線を合わせることかできない。
視線を合わせてしまったら、いけない気がした。
「いいですよ」
私は絞り出すように答えた。
外は真っ暗な夜。
人も車も通らない。
二人きりの車内。
男女。
朝まで過ごす。
千羽子は嬉しくて嬉しくて堪らなかった。
松谷さんが何を考えているかわからないけれども、嬉しくて嬉しくてそれだけだった。
「ありがとう」
それだけ言われると、しばらく沈黙が続いた。
千羽子は胸がぎゅっと締め付けられるような気分だった。
松谷さんと一緒に見る朝日に思いを馳せていた。




