夢の続きは
車内のデジタル時計は時刻を22時38分を指していた。
外はもう真っ暗で、行き交う人の姿も全くない。
時折バイクや車が通るが、勢いよく走り去っていくだけだった。
道端に駐車するこの一台の車はすでに駐車を始めてから3時間を越えている。
都内であればすでに警察が運転手に話しかけているか、切符を切っている頃だが、ここは北千住からしばらく歩いた田舎に等しい場所である。
運が良いのもあるが、警察車両は全く姿を現さなかった。
車内のガラスは湿気ですべて曇っていた。
パッと見は、中かどうなっているのかが分からない。
しかしコーティング加工されたフロントガラスだけが、湿気の被害を免れて車内に二人の人がいることが確認できる。
車内からは楽しそうな男女の笑い声が聞こえてくる。
あれからしばらく、千羽子と松谷は話し込んでいた。
何をそんなに話すことがあるのか、お互いに不思議だったが、なぜか話すネタには事切れなかった。
二人の世界には沈黙が存在しないかのように、次々と会話が繰り広げられていった。
「あー、ドイツ村ですよね。行ったことないです。千葉なのにドイツって、始め思ってましたもん」
「バカにすんなよ千葉のこと。ディズニーランドも成田空港もある世界の千葉なんだぞ」
「あはははは。すいません」
千羽子は時間そのものを認識していたが、ここ30分は忘れることにした。
気にしてもしかたがない。
何よりこの時間が楽しいのだ。
「あー、行ってみる?」
「え?」
「ドイツ村さ。イルミネーションきれいだし」
これは、まさか二人でということだろうか。
まさかの、妻子持ちからのデートの誘いだろうか。
そんなまさか。
そんなこと、あってはいけない。
「三村とかさ、たぶん暇だろ。適当に誘ってさ」
「あー、そうですよね」
千羽子は一瞬二人きりでデートする様子を思い描いてしまい、ひどく後悔した。
何を期待しているのか、私は。
「今度誘ってみます」
「今度って、ない言葉だよ」
「俺、お客さんにも直接言うけど、今度ってもうないですよねって。今度があるなら、いま検討してくださいって言ってる。今度なんてずっと来ないって信じてるから。バンドメンバーにも、今度セッションしようなって言われてからもう何年も誘われてない。俺は、今度って言葉信じない」
「す、すみません」
たまに正論をぶつけられるから、千羽子はたじたじした。
「だからさ」
「はい」
「今から、俺がみんなに連絡していい?」
「は、はぁ。それなら、いいと思いますけど」
「おっけー。じゃあグループ作るな」
そう言うと松谷さんは携帯電話を取り出して、画面を指で軽やかになぞった。
ブブブ
千羽子の携帯電話が着信を知らせた。
「もしかして」
「そう。もしかして」
携帯電話を見てみると「ドイツ村」という名のチャットグループができていて、三村と私が招待されていた。
「詳しい日程はここでみんなで話そうぜ」
にこにこしながら、まるで遠足を待つ小学生のように生き生きと目を光らせていた。
そのあとも松谷さんはしばしば「楽しみだなー、ドイツ村」のことあるごとに呟いていた。
なぜ彼がここまで楽しそうにしているのかは分からなかったが、楽しそうであることは千羽子も楽しい気分にさせてくれるのであった。
車内のデジタル時計を見る。
時刻は23時を回って、10分も経過していた。
千羽子はいよいよ帰る決意を固めた。
妻帯者と日付を越えて車内で二人きりでという社会通念上あまり由とされない行動に対しても後ろ髪を引かれていたが、いちばんは、千羽子の体調にあった。
過去に膀胱炎を発祥したことがあるの彼女は、長時間トイレにいっていないことを不安に感じ始めていた。
あとときの痛みが全身に走るような感覚すら思い出していた。
最後にトイレに行ったのは、会社を出たときなので約17時頃。
それからもう7時間近くも行っていないことになる。
松谷さんからもらったカフェラテの利尿作用もあり、そろそろトイレに行かなければならない義務感に刈られていた。
車内には絶えず松谷さんがチョイスした曲がエンドレスで流れている。
何周したか分からないが、またあのバンドの曲になった。
けれども今度こそ行かなければならない。
いま行かなければ、取り返しがつかないことになってしまうかもしれない。
千羽子は意を決して、「すみません、じゃあ、そろそろ」とお辞儀をしながらシートベルトのロックに手をかけた。
「あー、そうだよな。ごめんな、こんな時間まで。楽しかったよ、ありがとう。気を付けてな」
少し寂しそうな声が運転席から聞こえた。
「ありがとうございます。飲み物まで。奥さんとお子さんによろしくお伝えください」
「わざわざありがとう」
松谷さんはハンドルに片手をかけて、ひらひらと手を振った。
車外はびっくりするくらい冷えた。
車内の熱気が嘘のように冷たい空気が一気に千羽子の体から熱を奪っていった。
千羽子の家は反対斜線の小道を少し進んだところにある。
あたりに車の気配はないものの、癖で左右をきちんと確認してから反対の歩道へと早歩きで向かった。
最後にお礼をと思い、振り替えると松谷さんは車の窓を開けて手を振っていてくれた。
「ドイツ村、行こうなー」
そう言って、彼は車を暗闇の中へと走らせていった。
なんとなく、姿が見えなくなるまで歩道にたっていた。
あたりは静かで人通りも車通りもなく、静まり返っていた。
その静寂がさっきまで車内で盛り上がった落差を感じさせ、より千羽子は孤独を感じた。
「急がないと」
孤独よりも、自分の体調を気にしなくては。
ピンとした冷たい空気に満たされた深夜の中を家路へと急いだ。
家に帰るとすぐに、トイレに駆け込んだ。
幸いにして、膀胱炎の発祥はなさそうだ。
ほっとして、トイレに座りながら天井を眺めた。
ユニットバスのこのクリーム色の狭い空間には、千羽子のシャンプーの匂いが充満していた。
自分の匂いで安心するなんて、と思ったが、次の瞬間自分の服からは嗅ぎ慣れぬ匂いがすることに気がついた。
「…松谷さんの匂い」
かすかなタバコの匂いと車独特の匂いが混ざった不思議な感覚が鼻孔をくすぐる。
千羽子は何も考えないようにして、トイレを後にした。
それからしばらくして、千羽子は寝た。
ぐっすりと寝た。
目を閉じても、まだ車内にいるような感覚すらあった。
そうしていると、夢でもまだ松谷さんと話せる気がした。
いけないと分かっていても、千羽子はその夜、夢で続きをみたいと祈った。
千羽子が見た夢は、活動中止中のあのバンドのライブに松谷さんと二人で行った夢だった。
それ以上は覚えていない。
何かあったはずだが、目を開けた瞬間に夢を見た事実だけしか記憶には残されなかった。
朝日が部屋を明るく照らす。
何語とも成し遂げられない一日がまた始まった、と千羽子は思い、だるそうに寝がりを打った。




