長い夜
北千住駅への道を白の軽自動車で向かっていた。
この車は社用車であるものの、中小企業所有のこの車はドライブレコーダーの搭載はまだでGPSもついてないので、正直どこに行っても足がつかない。
そんな無駄知識を披露しながら運転席の松谷さんは意気揚々とアクセルを踏んでいた。
言われた通りに定時ジャストに仕事を終えて、早々と車に乗った私たちは、私の家へと歩を進めている。
「松谷さん、仕事大丈夫だったんですか?」
「あぁ、大丈夫だよ。仕事なんてやりたいと思えばなんぼでもできるからな。こっちの道久々だな~」
少年のようにはしゃぐ彼の意図が分からなかった。
「いつも遅くまで残ってるって三村から聞いたことあります。私のためだったらすみません」
「三村か。おしゃべりだな。男にはいろいろあるんだよ」
「なんですか、そのいろいろって」
「まぁ、その、なんだ、大人の事情ってやつさ」
「私も大人の一人だと思っていたんですが」
「34歳からが大人なんだよ」
「なんですか、それ」
松谷さんは意外にもジョークが好きで、本当はこんな風におちゃらけて話す人だったのかもしれない。
「ふふふ」
思わず笑みが溢れた。
「あ、すみません」
反射的に言葉が出た。
「ようやく」
「え」
信号は今赤で車の外の景色が止まっているのが見える。
さらに視線を移すと、右隣にスーツの上着を脱いでブルーのシャツだけになった男性がいる。
信号を見ていた視線はゆっくりとこちらを向き始めた。
「ようやく、笑ったな」
そう言った松谷さんの顔も笑っていた。
なんだろう。
この人、こんなに柔らかく笑えるんだ、と千羽子はそのとき思ったのを今でも覚えている。
こんな表情するんだ、と驚いた。
ブーッ
後ろから車のクラクションを勢いよく鳴らす音が響く。
前を見ると信号は青に変わっていた。
「いけね、やべ」
急いでアクセルを踏んだので車は前方に重心がかかり、思わずダッシュボードに頭をぶつけそうになった。
「悪い、余所見してたわ。あまりにも流山がガチガチの岩みたいだったからさ、嬉しくて車運転するの忘れてたわ」
「そうなんですね」
「そうなんですねじゃねぇよ」
ごつっと肩を軽くこぶしで小突かれた。
「お前さ、一人で何でも抱え込みすぎなんだよ。パンパンの風船みたいになっててよ。もうあのときの必死な顔見てたら、何とかしないとって思うのが普通の人間だよ」
前を見ながらハンドルをさばいていく。
今度は余所見をしないぞと言う心意気を感じる。
「最近誰にも話してなかったろ。それにさ」
左にウィンカーを切る音がする。
そして一瞬だけ、こちらを見る。
視線が合う。
「仕事辞めようって考えてたろ」
図星だった。
誰にも言えなかった。
同期にも。
家族にも。
入社してすぐに実家に帰るなんて恥ずかしくてできない。
強がりで、平日の五日をなんとか過ごして土日が来るのを待ち遠しく思っていた。
それをあの一瞬で感じ取ったと言うのか。
「俺らの仕事ってさ、結構人の思いを受ける仕事だと思うんだよね。でも受けっぱなしってのはよくなくて、やっぱりどこかで受け流したり発散しないといけないんだよ。そうしないと俺らがつぶれるからな」
「…はい」
「辛かったんだよな」
今度はこちらを見ずに右にウィンカーを出す。
「すみません」
この言葉しか出てこなかった。
「あ、それ流山のよくない癖だから覚えといてな。なんでもかんでも謝ると常に自分が下になる。そうなることで主導権を相手に渡すことになるんだ。ケースバイケースだけど、時には主導権をこっちが握らないといけないときもある。そのときに謝ってばっかりだと後悔するからな」
「…はい」
はい、というのが精一杯の返答だった。
「はい、良くできました。ダッシュボードの中に飲み物あるから飲んでよし。本当はごはんでもーって思ってたけど奥さんがご飯作ってくれてるし、それに若い子と二人でいるとあらぬ誤解持たれかねないからさ、勘弁な」
なぜ、この人は私にこんなにしてくれるのだろうか。
これが彼の素の優しさであるなら、それはなんとも非道だ。
残酷的すぎる。
こんな優しさ、もしも失恋直後なら好意と感じてしまっても致し方ない。
「あれ、要らない?」
松谷さんは車が赤で止まったタイミングで私の代わりにダッシュボードを開けて、中からパックのカフェラテを二つ取り出した。
「はい、これ」
片手で渡されたカフェラテは、冷たくて外装は結露していた。
「ありがとうございます」
「流山さ、音楽とか聞く?ちょっと音楽流してもいい?」
「あ、はい、どうぞ」
「サンキュー」
そうして松谷さんはこなれた手つきで車のオーディオを操作して音楽を流し始めた。
ドラムとベースとギターのアンサンブルが車内に一気に流れ込む。
「あれ、これってあれですよね」
「え、うそ。知ってるの?聞いたことある?」
「というか、私結構ライブ行ったことありますよ」
「え、まじで、このバンド知ってる人会社で初めて会ったよ」
このバンドはよく知っている。
別れた彼氏が好きだったバンドだから。
昔はよく二人でライブに足しげく通ったものだ。
「わー、俺マジ感動だわ。このバンド最高だよな。あ、ちなみに俺昔ベースやってて、結構ガチでやってたんだよ。どちらかというとスタジオミュージシャンってかんじだっけと。でっかいホールでも何回か大物のバックとかしてさ。でもバイクで事故って生死さ迷ってからはやってないんだけどさ。それでそのガチでやってたときの仲間がこのバンドなわけ」
????
一気に情報が溢れて千羽子は混乱した。
「松谷さん、バンドやってたんですか」
「あぁそうだよ」
少し得意気に話す松谷さんは嬉しそうだった。
「ちなみに奥さんは当時の俺の追っかけね」
「へぇーすごいですね」
「昔はモテたんよ、俺さ」
「今もモテるんじゃないですか」
千羽子は、自分がリラックスしながら松谷と話していることになんとなく気がついた。
この人はきっとこんな風にみんなに接して、こんな風に自分のペースで巻き込んでいく人なんだと感じた。
会社の誰かが昔言っていた気がする。
「松谷は人に好かれるのが得意だ」と。
なんとなくその理由が分かる。
松谷さんは裏表がないのだ。
「奥さんにはさ、結構助けられたんだよ。俺はそのときもちろん意識不明だったから知らないんだけど、正直父さんと母さんは半ば諦めてたらしくて。でも見ず知らずの女性が『ヨシは絶対に助かります』ってすげえ言ってきたんだって。あ、ヨシってその当時の俺のバンドでの呼び名ね。それに毎日親以上に見舞いに来てくれて。それで意識戻ったら、それはもう付き合う流れだし、そこまで俺の子と考えてくれるなら結婚したいなって思ってさ」
「素敵ですね」
千羽子は一生懸命病室でこんこんと眠る松谷の様子や白くて無機質な病室を頭の中で想像していた。
「奥さんも幸せですね」
「どうなんだろうね。いまは普通に喧嘩するし相手の嫌なところも見えるし。でも子供がいるからいい潤滑歳になってくれてるかな」
「お子さんいらっしゃるんですね」
「うん。女の子と男の子。かわいいよ。今度会いに来る?」
「機会があれば、ぜひ」
「それ、来ないやつじゃん。三村とかさ、みんな連れてきてよ」
「それ、楽しそうですね」
夕方を過ぎた外の景色はあっという間にオレンジ色から紺色へと変わり、街頭の明かりがリズムよく車内を照らし始めた。
「あと10分くらいで着くね」
「ありがとうございます。こんなに遠くまで」
「いいよ。今日奥さんと子供ら実家帰ってていないからさ。まぁ、いつも俺仕事遅くまでやってるから、土日くらいしか顔会わせらんないけどね」
見慣れた景色が、増えてきた。
楽しかった松谷さんとの意図しないドライブももう終わる。
「松谷さん、仕事好きなんですね」
「好きじゃないよ。好きじゃないけど、働かないと家族を養えないし、それにこの仕事紹介してた小岩さんに恩返ししたいし」
小岩、と聞いて千羽子はピンと来た。
「小岩って小岩課長のことですか」
「そうだよ。小岩課長。流山の上司だよな」
「小岩課長と松谷さんってどんな関係なんですか」
「実は小岩さんがいまのこの会社に来る前に一緒に働いてたんだよ。事故直後だけど、バイクの修理代とかバンド代とかは稼がなくちゃならないけど、病み上がりの体でどこも雇ってくれなかったわけ。そのとき面接したのが小岩さんで、お前面白いからうちきなよって言ってくれてさ。初めてパソコン触るし、電話も出なきゃいけないしだけど、小岩さんずげーよくしてくれて。正直小岩さんいなかったら、俺いまここに居ないと思うし、この世にも居ないと思うんだよね」
「この世にも、ですか」
「そうそう。実はバンドの方で大きいツアーが決まってて、うまく集客できればメジャーデビューか良いところの事務所にも入れそうだったんだ。でも俺の事故で全部パー。ライブハウスのキャンセル料なんて、全国分だと笑えないくらいに高くてさ。奥さんにも協力してもらったっけな。それがきっかけでバンドメンバーにも見切られてさ。あー、いま思い出してもしんどいわ」
ハンドルを握りながら、楽しそうに話す松谷さんは、全くしんどそうではなかった。
きっと思い出せるくらい辛い思いでも、強くなって乗り越えたんだ。
この人は強い人だ。
「それで、小岩さんがその会社辞めるってなって俺はもう絶望したわけ。でも、お前も一緒に来るんだって、抜いてもらって今ここにいるんだ。だから、下手な姿見せられないし、小岩さんには恩返ししたいんだよ。だから、仕事してる」
街頭の明かりで照らされた松谷さんの顔は初めて見るくらい生き生きとしていた。
私もこんな風に働きたいな。
「あ、この辺でいいです。あの路地まっすぐいくと、もう家なので」
「良かった良かった。でもあんまり街頭なくて暗いんだなぁ、このへん」
松谷さんが車を脇に寄せてキョロキョロと辺りを見る。
時刻19時を過ぎた北千住駅周辺の人通りは少ない。
周辺と行っても駅からは徒歩10分ほどの距離があって、周りは住宅街だ。
もうすでに夕食の時間帯で、みな帰るべき場所に収まったのだ。
行く宛がないのはわたしたちだけのような気さえしてくるほど、あたりは静かだった。
「ありがとうございます。次は電車で帰りますね」
「いやいいんだよ。俺も息抜きできたし。本当は家まで送りたいけど、女の子の独り暮らしに男が行くわけにはいかないからさ」
そう笑って松谷さんはハンドルに両手をおき、体重をかけた。
なんとなくお互いに目があって、ふいに止まってしまった。
「飲み物ありがとうございました。また今度お礼させてください」
飲み物は全部飲み干したので、全て空ですよ、というサインも込めて軽くチルドカップを振った。
タッタッタッタッ
小気味いいドラム音がオーディオから聞こえてくる。
流れてきたのは、かつての旧友である松谷さんのバンド仲間の曲だ。
「やっぱり、いいですよね。この曲結構お気に入りです。ライブでいつもオープニングにやる曲ですよね」
すでにいつでも車から出られる体制だったが、なんとなくこの曲の魅力につられて、車から降りることを躊躇してしまった。
「…なぁ」
少しためがあって、戸惑うような物言いで話しかけられた。
「もう少しだけ、話してかない?」
真っ直ぐに見つめるその松谷さんの目はまるで子供のようだった。
子供がお母さんに、寂しいから少しだけここに居て、というような弱さも感じる視線だった。
「あ…はい…」
私はその視線をずっと見つめ返し続けることができず、荷物をまた膝の上に置き直して、なんとなく自分の足の爪先に視線を合わせた。
なぜだか、いま松谷さんのこの言葉を断ってしまうと、彼を傷つけてしまうのではないかと思ってしまった。
強くて元気な先輩が、一瞬にしてこどものような弱くて守ってあげなければいけない存在に感じていた。
千羽子はいまだに認識して感じたことのない「母性」をなんとなく肌身に感じて、ここはひとつ松谷さんの願いを叶えることにした。
どうせ家に帰っても、お酒を飲んで、寝落ちをするだけだ。
それであれば、ただのおしゃべりなら、既婚者でも許されるだろう。
なぜならば、彼は純粋な仕事の先輩だから。
千羽子はこの何とも言えない空気を変えたくて、終わってしまったばかりのさっきのバンドの曲を話に持ち出した。
「そういえば、このバンドいまは活動してないんですよね。なんでだろう」
「あぁ、それかー。それさ、実は…」
そう言い始めた松谷さんは、さっきまでのか弱い感じが全くなり、いつものような陽気で明るい青年に戻った。
そのギャップが急すぎてなんだかまだ受け入れられずに居たが、千羽子は大好きな音楽の話を久しぶりにできたので、意識がそっちの方に完全に向いていた。
二人は話した。
こんこんと、話し込んだ。
お兄ちゃんのような、妹のような他愛もない会話をずっと続けた。
二人は、時間を忘れて、話し続けた。




