変な人、だと思った
「はじめまして。流山と言います。銀座オフィスから来ました。しばらくこちらにお邪魔させていただくことが多くなるかと思いますかので、よろしくお願いします」
昼過ぎのオフィスはどこかまったりとした時間が流れていた。
千羽子は会社の営業所がある船橋にいた。
いつもは銀座のオフィスに出社しているが、今回プロジェクトで船橋にまで足を広げることになった。
千羽子にとっては、船橋の方が出社しやすいので、なかなか楽しい日々になりそうだった。
京成線に揺られる朝は、日比谷線と異なり満員でもなければ人がひしめきあってストレスを感じることもない。
このまま船橋に移動でもいいとすら思い始めていた。
千羽子が銀座オフィスに配属されたのは人事の最良以外の何者でもなかった。
振興のビジネスが銀座オフィスに集まっていたので、自ずと新人社員もそこに収まった。
銀座の華やかできらびやかなビジネスイメージからは船橋駅は全く異なり、どこか都内よりもこじんまりとして千羽子には親近感がわいていた。
道行く人も主婦や老人が多く、自然と足取りが軽くなっていった。
目的の船橋オフィスは雑居ビルの一角にあった。
用がなければ入らないようなビルであるものの使い込まれたビルの壁や床は、常にピカピカと磨きあげられた銀座よりも好きだ。
事務所に入ると女性が二人と男性が二人仕事をしていた。
千羽子が入室したのを気づいたのか三人とも作業を止めて席から立ち上がりわざわざ出迎えてくれた。
「こんにちは。流山さん。電話ではよく話してたけど実際会うのははじめましてだね。よろしくね。船橋までわざわざようこそ」
アルバイトの事務をしている女性が優しく出迎えてくれた。
「津田沼さん!お会いしたかったです。これからよろしくお願いします」
津田沼さんはにっこり微笑んで、千羽子の仮の席を案内してくれた。
「あ、所長、よろしくお願いします」
「あ、どうも。よろしくね。このまま船橋オフィスに配属でもいいよ」
背がやや低く黒淵メガネが特徴のこの人は、若くしてこの船橋オフィスの所長となった行徳さんだ。
新卒入社で最短の所長出社は、新入社員の模範であり憧れのルーキーだ。
「こっちは松谷。知ってるよね。基本的に分かんないことは松谷に聞いてな」
「はい、分かりました」
ぺこりとお辞儀をして顔をあげた先にいたのは、背が高くスポーティーな三十代の男性だった。
単発の黒髪は綺麗に切られ、清潔感をとてもよく感じる。
「はじめまして。流山と言います…」
冒頭の挨拶をして、松谷からは「よろしく」と返事があった。
これが千羽子と松谷の始めての対面での出会いだった。
「流山、ちょっといい?」
始めて船橋オフィスに来てから一週間がたった。
通勤も慣れ始め、プロジェクトも順調に進んでいった。
お昼ごはんの時間も過ぎ、時刻は三時少し前だった。
一日の中では比較的忙しくない時間帯に、オフィスには事務のアルバイトの津田沼さんと私と松谷さんの三人だけだった。
「あ、はい」
いきなり呼び出されたので、正直かなりビックリした。
仕事でなにかへまをしたのだろうか。
怒られるのだろうか。
始めての呼び出しに胸騒ぎが止められなかった。
事務所を出て、松谷さんの後を追った。
少し歩くと松谷さんは立ち止まり、「たばこ、大丈夫?」と指でタバコを加えるようなジェスチャーをした。
「あ、はい、まぁ」
私はそのまま松谷さんについて行き、フロアの片隅にある喫煙所に入った。
「最近どこも禁煙とか分煙とかうるさくて、喫煙所あるオフィスって貴重だよね」
「はぁ、そうなんですか」
拍子抜けも当然だ。
松谷さんは私を呼び出すやいなや喫煙所に連れ込んで、雑談を始めた。
「流山はタバコ吸うの?」
「いえ、吸いません。でもお父さんとか昔付き合っていた人が吸ってたりしたので煙自体には抵抗ないだけです」
「あー、それいいね。タバコ吸わない方がいいよ。まぁ俺の嫁さんは吸うけどさ」
この人は何が言いたいのだろうか?と思った。
ただ雑談をするためだけにここに私をつれてきたのだろうか。
それまで業務の件を少しだけ電話でしか話したことのない関係だったので、松谷さんのことなんて名前くらいしか知らない。
千葉ちゃんの彼氏で私たちの同期の三村は、松谷さんはとても仕事ができるからと慕っているのはなんとなく知っている。
松谷さん、変な人。
これが、始めての印象だった。
一本でタバコを吸い終わったところで、「ちなみにさ」と口火を切った。
それまで千羽子は窓際にずっと直立不動でいたので、「あ、いよいよきたな」と身構えた。
「ぶっちゃけ、仕事で悩んでるでしょ」
「へ?」
松谷さんから問いかけられたことは予想外だった。
「なんか、分かるんだよね。昔の俺と同じ顔してるから。仕事楽しくないなー、仕事やだなーって顔」
次のタバコに手をかけながら、千羽子の目をまっすぐ見てきた。
「あ、まぁ、そうですね。大変ですけど、がんばらないといけないですし」
「はい!それ!昔の俺と同じこと言ってるよ。こりゃやばいぞ」
「は、はぁ」
「俺も昔ね、ここに来る前結構なブラック企業で働いてたんだけどさ、そのときの俺を見てるみたいで。ここ何日かうちに来てたけど、結構心配で。顔も目も死んでるし。そんなんだと結婚できないよ」
「それは余計なお世話です!」
思わず語気が強くなった。
自分でもビックリした。
「あ、今の顔いいよ。きっと流山って本当はそんな顔なんだね」
今自分でどんな顔をしているのか全く見ることができないけれど、なぜか肩の重荷が少しだけ落ちた気がした。
それに、本音を言うと仕事でかなり思い悩んでいた。
正直仕事を辞めようかなと考え始めていたところだった。
なかなか立たない自分の売上。
私を置いていく優秀な同期たち。
結婚も仕事も何一つ満足に行かない自分に不満しか感じていなかった。
同期にも相談できなかったのがしばらく続いていた矢先の今回の出来事だった。
「よし、じゃあ俺が教えられること、全部教えるよ。スパルタするからよろしく。じゃあ、そろそろ戻るか」
松谷さんは千羽子を置いてけぼりにして、すたすたと喫煙所を後にした。
喫煙所にはさっきまで松谷さんが吸っていたミントの臭いがするタバコの残り香が仄かに鼻を刺激していた。
こうして松谷さんと千羽子は距離をつめはじめていった。
あんな結果になるなんて、知らずに。
千羽子はまだ真っ暗の部屋の中で昔を思い出し続けていた。
あの頃の自分に何か言えるとしたら何を言うだろうか。
そんなありもしないことを考えてもしょうがないし、過去は変えることはできない。
そして、しばらく考えても過去の自分へのコメントは特に思い付かなかった。
「成長してないのかな、自分」
外では月明かりがベランダの手すりを銀色に照らしていた。
まだまだ松谷との話は続いていく。
千羽子に一生残る傷を残して。




