見つけた後ろ姿
しばらくして、落ち着いた穴川ちゃんは目元を少し腫らしながらも笑顔を見せて「ごめんね」を繰り返していた。
無論、謝られるようなことはしていないので、みんな口を揃えて「大丈夫だよ」を繰り返していた。
「もういっぱい泣いたのにな。まだ出てくるとは」
冗談混じりのその言い方がさらに辛さを押し上げているようだった。
「なんでそんな大変なときにひとりでいたのよー」
「ごめんねー。真実が分かるまでは迂闊に言えないと思って」
小倉台ちゃんはまだ穴川ちゃんの肩を抱いている。
「千葉ちゃんハンカチありがとう。洗って返すね」
「いいよ、そんなの。ハンカチあげるし」
みんな、穴川ちゃんを思っている。
「流山ちゃんもありがとう」
私も繋いだ手はまだ離せないでいる。
こんなときでさえも、優等生気質が先行するのか。
穴川ちゃんはみんなのへの配慮を最優先にしているようだった。
「あぁ、続きだったよね。話を聞いたらさ、もう呆れちゃって。どこから突っ込めばいいか」
えへへと笑う彼女の姿は誰が見ても、強がりでしかなかった。
それでも現実と向き合おうとする彼女は素晴らしい、素敵だ、と不本意にも千羽子は感じた。
穴川ちゃんは手を組み直して、そわそわしながら話始めた。
手のどこか一点を見つめ、そこに答えが書いてあるように視線をずっとそこに留めていた。
「彼ね、実は既婚者だったの。私、実はずっと不倫相手だったんだ。それもね、出会った頃から。出会ったときにはすでに彼は結婚していたみたいで、でも若気の至りというか勢いで入籍したのもあって、別れようとしていたんだった。そんなときに私に出会ってね。あ、ちなみ大学も違ったの。3つ上なのは確かなんだけど、彼はもう履修が無くて、時間があったからたまたま私の大学に遊びに来てたんだって。すごいよね。全然気が付かないなんて。それでね、最近になって奥さんに子供ができたみたい。奥さんのつわりがひどくて、なかなか遊びに行けなくて、私との時間も無くなったって言っていた。あー、そうだ。会社も実は嘘でさ。SNSにも書いてあって、もしかしたらなーなんて思ってたら本当に嘘でさ。笑えるでしょ。本当の勤務先は大手なんかじゃなくて、神奈川にある小さい会社の営業マン。聞いたら私の方が給与いいし、もう何が何だか」
そこまで言うと、穴川ちゃんはビールジョッキに三分の一ほど残ったアルコールを一気に喉に流し込んだ。
「さよなら、私の青春。今日はみんなとことん付き合ってよね」
にかっと並びの良い白い歯を見せて彼女は笑った。
「店員さーん。ビール3つジョッキで追加で」
大きな声で店員さんを呼ぶ彼女の瞳にはもう涙は欠片も無かった。
彼女の瞳に映るのは、大きな決心をした力強さだった。
時刻はもう10時が過ぎていた。
この店の閉店は11時だった気がする。
穴川ちゃんは案の定飲み続けて、もうほろ酔い状態を越している。
そういえば、穴川ちゃんはお酒に飲まれるタイプだったと今更ながら思い出した。
飲むと寝てしまうのだ。
うとうとと甘え始める穴川ちゃんは、きっと元カレにもこうして肩を求めていたのだろうか。
「あー、はじまったね。穴川ちゃんは飲むと寝るからなー。もうここまできたら、みんなもお開きかな」
小倉台ちゃんワイングラスに残った液体をまじまじと見つめながら言った。
今日はかなり飲んだ日だ。
四人でビールジョッキを十杯ほど、ワインも3本開けた。
「そうだね」
と私も千葉ちゃんも同意した。
お腹も心も満タンだ。
何よりも早く穴川ちゃんを休ませてあげたかった。
「今度はランチで昼のみかな。きっとまだみんな飲み足りないだろうし」
「そうしよっか」
代金は三人で割り勘にすることにした。
いまできる三人の罪滅ぼしだ。
夜の銀座通りは、タクシーが多く通るのですぐに穴川ちゃんを乗せて見送ることができた。
ネオンが光輝くこの街は、夜の時間からが正念場だ。
昼とは全く違った層の人々が目的地へと急いでいる。
小倉台ちゃんは千葉県、私と千葉ちゃんは都内なので有楽町駅の前でさよならをした。
今度はランチねー!と遠くから元気に叫ぶ小倉台ちゃんはこれから彼氏のところへ向かうのとことだった。
有楽町駅から銀座駅までは徒歩でもそこそこ時間がかかる。
けれども、今日は夜風が心地よくて、いつまででも外にいていいような気持ちにさせてくれる。
私も千葉ちゃんも特に会話することなく、ただ歩を進めていた。
どちらが何かを話さなければならない雰囲気でもなかった。
銀座の雑踏が、二人の沈黙を消してくれていた。
「まさかねー」
口火を切ったのは私だった。
「誰も想像しなかったよね」
「うん」
小さく返答があった。
「まさかね、こんな近くで不倫ってあるものなんだね」
「何て言ったらいいか分かんないや」
少し困ったような口調に感じられた。
「あ、ごめん、そういうわけじゃないよ」
「いや、こっちこそごめん」
「ううん、誰も悪くないと思うし」
そう私が言うと、千葉ちゃんは黙り込んでしまった。
少し居心地が悪いなと思い始めたときには、もうすでにホームまで来ていた。
外の涼しい空気とは異なり、ホームは異様な熱気に包まれていた。
東京にきて驚いたことのひとつに、この駅の温度差があった。
駅はなんだか人を飲み込んでいく悪魔のようで、今でも慣れることはない。
恐らく一生慣れることはない。
慣れたくもない。
時刻は11時30分を回ろうとしているのにも関わらず、ホームには人がたくさん待っていた。
毎日がお祭りのように何処からか沸いて出てきた人たちが東京中にいる。
私もその一人であることには代わりないけれど。
次の電車は5分後だった。
惜しくもホームについた瞬間に、乗りたかった電車が行ってしまった。
「ちょっと座ろっか」
私がベンチを指差したら「もちろん」と千葉ちゃんがノリノリで一番早く青いベンチに腰かけた。
よかった。
機嫌は悪くないようだ。
田舎では電車なんて一時間に一本で、永遠に待てる気がしていたのに、今ではすっかり東京に染まってしまったようで5分が永遠に感じられるほどだ。
一時間よりも5分の方が長く感じるなんてどうかしている。
そうだ、私はどうかしているのかもしれない。
「あ」
右隣から変な声が聞こえた。
押さえようとして不意に出たような、思わずこぼれてしまったかのような「あ」が千葉ちゃんの声で響いてきた。
この時駅のホームがもっとざわついていたら、千葉ちゃんの「あ」に気づかずにいて、きっと私は少しだけ幸せだったのかもしれない。
この時もしもスマホをいじっていたりして、千葉ちゃんの「あ」をスルーしていたら。
そんなことを考えてもどうしようもない。
私は千葉ちゃんの視線の先を探した。
そこには、男女が二人立っていた。
どこにでもいるようなスーツ姿の男性とオフィスカジュアルの女性が仲良く電車を待っているように見えた。
男性は背が高く中肉中背ではあるものの若さと逞しさが感じられるような魅力がある。
後ろ姿でもそれははっきりと分かる。
女性は二十代半ばくらいだろうか、亜麻色の髪をゆるく巻いてピンクのスカートから延びる足は白く華奢だ。
アクセサリーもバッチリつけていて、どこかのオフィスレディ向けの雑誌に出てくるような華やかかを感じる。
恋人だろうか、夫婦だろうか。
いずれにしても二人の距離はすごく近かった。
近いというか無かった。
お互いにぴったりと体を寄せ合って、片時も離れまいと体温を共有し合っているようだった。
なぜ千葉ちゃんが「あ」と発したのかは分からなかったが、そういえば千葉ちゃんはいつか駅でいちゃつく男女が好きでないと言っていたのを思い出した。
そういうことか、と視線を空っぽのホームに戻した。
電車が来るはずのスペースはがらんどうでただの灰色だった。
「3番線に参ります電車は東武動物公園行き。東武動物公園行き。まもなくの到着です」
「よし!電車来た!行こう」
私はベンチから勢いよく立ち上がった。
するとちょうどホームを歩いていた男性とぶつかりそうになり、「あ、すみません」と謝り視線をその男性に戻した。
「…」
お互い声がでなかった。
「あ…」
遅れて後ろから千葉ちゃんの「あ」が聞こえた。
今度の「あ」は確実に「不味い」というときの「あ」だった。
「松谷さん…」
自分でも驚愕だが自然とその名前が出てきたとに驚いた。
「千羽子…」
向こうも私のことを認識したらしかった。
すぐに名前が出てきてくれて、なんだか少し安心した気持ちになった。
「知り合いですか~?」
聞きなれない声がして一気に我に帰る。
くるくるの巻き毛の女性がこちらを覗いている。
「あ、あぁ。前の会社の後輩でさ」
松谷さんは戸惑いながら、その戸惑いをなんとか隠そうとして顎に手を当てながら巻き毛の女性に答えた。
「あ~そうなんですね~。こんにちは」
「こんにちは。お久しぶりです。松谷さん」
パリッとした声が飛び込んできた。
まるでお客さん先に対して話すときのような礼儀はあるが距離があるような言い方だ。
その声はもちろん千葉ちゃんだ。
「私たちあの電車乗るので失礼しますね。すみません」
千葉ちゃんが私の手をぐいっと引いて、今まさに来ようとしている電車を指差してこの場を後にした。
「いいから一旦乗ろう」
私にだけ聞こえるように言って足早にベンチから離れていった。
電車が止まるや否や、ドアが空くのと同時に勢いよく社内に飛び込んだ。
ホームにはたくさんの人がいたが電車はそれほど混んでいなかった。
たまたま二人席が空いていたので、そこに腰かけた。
電車が動くまで二人は話さなかった。
今度こそ本当の沈黙だった。
電車の走る騒音と車内の沈黙がより二人の沈黙を強調しているようだった。
「松谷さん、奥さんじゃない人といたね」
ここは私から切り出さないといけないと千羽子は分かっていた。
あの場から救い出してくれた千葉ちゃんに感謝しなければ。
もしも巻き毛の女性も千葉ちゃんもいなかったら?
私は今ごろどうなっていた?
「もう、ホントに懲りない人だよね。ありがとう千葉ちゃん。わたしはもう大丈夫だよ。私の選択は正解だったんだね」
できる限りの笑顔で答えたが、自分でもひきつっているのは明白に分かる。
穴川ちゃんが無理していたもののあんなに自然に近い笑顔を作れていたのに、私なんて足元にも及ばない。
「同じこと、繰り返してるねー。ホントにやだよね」
わざと明るいトーンで話している自分がいる。
車内は沈黙がせしめている。
「流山ちゃん…」
千葉ちゃんが言えるのは、それが精いっぱいだろう。
「あ、そういえばさ、沖縄ってどこ行くの?やっぱり国際通り?首里城とか行ってみたいよね」
無理矢理過ぎるほどの話題の変え方だが、今はこれしかない。
「あー、そうだね。スキューバダイビングもする予定だから…」
話題は完全に切り替わった。
千羽子は内心少しだけ安心して、千葉ちゃんの最寄り駅である南千住まで会話を続けた。
家に着くまで、家に着いても、ずっと考えていた。
今日はこんな日だ。
仕方がない。
だって、せっかく忘れていたのに、出会ってしまったんだもの。
千羽子の元恋人。
いいえ。
元なんて言えない。
恋人になんてカウントできない。
「松谷さん、まだ不倫続けているんだ」
不倫相手は恋人じゃない。
奥さんを苦しめる悪魔でしかない。
真っ暗な部屋の中で千羽子はベッドにうずくまりぼーっとしていた。
あの夏を思い出し始めていた。
優しかった日々。
ダメだと分かっていたけど、止められなかった日々。
そして修羅を迎えた日々。
松谷と千羽子の短い不倫期間。
今日だけは、罰を受けよう。
千羽子はそう覚悟を決めて、松谷との思い出を呼び起こし始めた。
真っ暗の部屋の片隅で携帯電話のライトがチカチカと点滅を繰り返していた。
その連絡者は果たして誰なのだろうか。
千羽子の田舎の母だろうか。
思いを寄せ始めている出会い系アプリの大鷹だようか。
それとも…。
千羽子は胸の苦しさを感じながら、松谷との出会いを思い出した。
これが罰だから。
こらがけじめだから。
これが私の恋愛だから。
「サイテー」
低く小さく呟いた。
時刻はすでに朝の3時を回っていた。




