過る濁り
「お疲れさまでーす」
オフィスにはパソコンのキーボードをたたく小気味いい音だけが響いていた。
時刻はもう19時を過ぎているが、まだ朝のような出社率だ。
皆意気揚々とパソコンの画面を見つめている。
新卒で入ったこの会社の写真は、皆仕事が大好きなようだ。
どうしてそこまで頑張れるか、千羽子はわからなかった。
そして、自分もそうした雰囲気に飲まれて、いつしか仕事人間になっていくのかなとふと考えていた。
なにもない自分に残るのは、仕事だけかもしれない。
そんなことを考え始めると、ネガティブな思考が止まらなくなるので、一旦目をぎゅっと瞑り、無理矢理思考を立ち切った。
今日は早々と仕事を終えて、また同期との会合に顔を出す。
今回の場所は銀座だ。
毎回ローテーションで開催地を選んでいる。
前回は新宿だったので、今回は私の近場で設定してくれたのだ。
それもあって、ギリギリまで仕事ができたのだ。
「はい、おつかれー。気を付けて帰ってねー」
上司が顔もあげずに挨拶を返した。
真剣にパソコンの画面に向かっている。
そういえば、明日は大事な商談だったか。
仕事が大好きな上司は、どういう風にして家族とプライベートの時間を過ごしているのだろうか。
どういう風にして、奥さんと出会い、恋愛をし、結婚に至ったのか。
何か奥さんに響く特別なものを持っているのかもしれない。
いいな、と千羽子は素直に感じた。
自分には何もない。
いまも、そしてこれからも。
「そろそろいかないと間に合わない」
ひんやりとしたオフィスのドアを押し開けて、無機質なエレベーターへ乗り込んだ。
「お疲れさま」
「お疲れさまー」
「お疲れ~」
お店に入るとメンバー全員がすでに着席していた。
小倉台ちゃん、千葉ちゃん、桜木ちゃん、穴川ちゃん
「ごめん、遅くなった」
千羽子は急いで席に向かう。
「そんなことないよ。みんなオンタイムだし」
「私実は今日有給休暇でお休みだったんだ」
「お客さん先から直帰できたから、間に合った」
みんないいテンポで会話をしていく。
このテンポがとても心地よかった。
気持ちいいところに、会話が入っていって、そして自然と広がっていく。
躊躇いも戸惑いもそこにはない。
何気ない会話だが、小さな幸せを積み重ねていっているような感覚がある。
本音ですべてを話しても、何を言っても許してくれそうな包容力が彼女たちにはある。
千羽子には、こんな素敵な同期がいる。
さっき自分には何もないと嘆いたことを謝りたい。
「千羽子はビールでいい?」
「あ、うん、もちろん」
今日も元気一杯な小倉台ちゃんが、ノースリーブから延びる白くて長い腕を勢いよく上げて店員さんを呼んだ。
楽しい会合の始まりだ。
「さて、定例の会合ですが、みなさん最近はいかがですか」
乾杯と共に穴川ちゃんがみんなに問いかけた。
真ん中分けにした前髪が少し延びて、肩に着きそうな程の長さになっていた。
その聡明さは健全で会社のエース足る由縁が見た目からもにじみ出ていた。
「私来月沖縄にいく。三村とだけど」
千葉ちゃんがビールをぐびぐびと飲みながら、呟くようにいった。
「えー、いいなー。どのくらいいくの?」
小倉台ちゃんが前のめりに話に乗ってきた。
「三泊四日だよ。本当はもっと長く行きたかったんだけど、やっぱり休みを合わせるの難しくて」
「あーそうだよね。オフィス違うけれど、やっぱり社内だと厳しいところあるよね」
穴川ちゃんが困り顔で同意した。
「そういえば最近三村に会ってないね」
私もビールを飲み進めながら会話に入る。
「三村元気だよ。みんなに会いたがってるし、今度新宿のビアガーデンとか行ってもいいかもね。最近暑いし」
三村は私たちの同期であり、千葉ちゃんの彼氏だ。
事後報告だったが、入社後すぐ付き合ってその関係はずっと続いている。
「ちなみに私も旅行行くよ。近場だけど、江ノ島にね」
「あ、噂の彼氏ですか」
小倉台ちゃんの発言に、穴川ちゃんがにやりとした。
「噂のアプリの彼氏だよ」
“アプリ”というワードにぎくりとした。
そして同時に大鷹くんの声が脳裏に響いた。
私もいつか、大鷹くんと付き合うようなことがあったら、沖縄とか江ノ島とかデートに行くのかな。
ありもしない未来を考えるのが、なんとも恥ずかしかったが、嫌いではなかった。
「結構いい感じで続いててさ、もしかしたら結婚するかも」
「え?結婚?すごいね」
「いやー、穴川ちゃんはまだまだ遊んでから結婚すると思うよ」
「まぁ、まだ分かんないけど、向こう年上だし最近結婚式の費用なら大丈夫だよとか言ってくれるからさ」
「結婚いいね。余興とかしちゃう?」
アルコールが進むと会話もどんどんと進んでいく。
みんな頬を少し赤らめながら、会話のキャッチボールを早々と進めていった。
「さて、ここでみなさんに報告があります」
すっと姿勢を伸ばして声色を変えたのは穴川ちゃんだった。
アルコールが体に回ってきているからか、顔は少し綻んでいた。
「何々?もしや結婚?」
「いや、その前にできちゃったとか?」
「転職するとか言わないでね」
みんなが穴川ちゃんの発言に興味津々だった。
「みんなハズレ」
そう言った次の瞬間、穴川ちゃんの顔が少し変わった。
アルコールが抜けて、覚めたような表情をした。
「別れました、彼と」
「えー!?」
全員が同じリアクションをした。
店内に三人の声が響き渡った。
当然他のお客さんや店員さんもこちらを確認するために視線を送った。
私たちは思っていたよりも大きな声だったようで、「すみません」と小さく呟きながら会釈をして場を納めた。
「え、それ、本当?」
「もちろん、本当だよ。実は昨日別れたの」
「もったいないー。どうしたの?何かあったんだよね」
「うん、まぁ、話せば長くなるんだけどね」
「今日はとことん付き合うよ」
「はは、ありがとう」
別れたと言った穴川ちゃんは意外にもけろっとしていた。
それが彼女の強さなのか、強がりなのか。
どちらでも、彼女には幸せになってほしいと、強く願った。
穴川ちゃんの付き合っていた人は、三つ上の先輩だった。
大学のサークルでであった二人は、すぐに意気投合をして、デートを重ねるようになり、そして男性からのアプローチを受けて交際を始めた。
何ともない、普通の出会いと交際だった。
穴川ちゃん自身も多趣味でアウトドアな性格もあり、お互い毎日会うというよりは予定を合わせて週に数回デートをするような関係だった。
お互いにその距離感が心地よく、そうして穴川ちゃんが大学を卒業してもその関係は続いていった。
異変を感じたのは、最近だったようだ。
いままで定期的に出会えていたのが、急にドタキャンが多くなったのだという。
しかも会えるときは丸一日とかではなく、ほんの数時間だけ。
さらに言えば突発的に「今日大丈夫?」と連絡がくるのだった。
大手企業に勤めているのは知っていたし、なかなかな激務とも噂されていたところもあり、多めに見ていたがさすがに様子がおかしいと感じていた。
それでも穴川ちゃんは彼を慕っていたし、結婚の話もあり、仕事が落ち着けば、あとは彼と話をするだけだとなんとなく感じていた。
穴川ちゃんも不信感はあったものの、新卒の会社はそれなりに忙しく同期や趣味の時間も充実していたので、さほどの寂しさは感じなかった。
それでも、様子がおかしい。
連絡も日を追う毎に返事が遅くなる。
これは、浮気なのか、それとも私に覚めたのか。
そんな日は続いていたものの、会うと変わらない様子もあるし何よりも私を女性として扱ってくれ、求めてきてくれる。
たった数時間でも愛してくれる彼を手放す理由は揃っていなかった。
核心的な証拠をつかんだのは、SNSだった。
穴川ちゃんはあまりこうしたソーシャルメディアは好まなかった。
リアルでの付き合いが楽と感じていたのだが、あまりにも手持ち無沙汰な日があったため、暇潰しがてらにネットサーフィンをしていた。
たくさんの人々がいろいろな情報を発信している。
今日何を食べたとか、どこにいったとか、コーディネートはこうだとか、本当に些細なことまで投稿されている。
みんな、ネットでも勤勉だなと客観的に感じて、流し読みをしていた。
すると、「あなたの知っている人かも?」というSNSが独自にサービスしている機能に目が止まった。
交遊関係から「あなたの知っている人」かもしれない人を提案してくれる機能だった。
そこには顔写真と名前が記載されていた。
見覚えのある顔。
たくさん見たことがある顔。
紛れもない。
「彼だったんだよね」
穴川ちゃんはそこまでいうと、ビールをぐいっと飲んだ。
「でも、すでに彼氏さんとは友達同士でつながってたんじゃなかったの?」
「そうなんだけどね。顔は本人なの。でも名字が違うくて、別人なのかなと」
どこか遠くを見つめる穴川ちゃんはその時のことを思い出しているのだろうか。
「元々聞いてた名字は在り来たりなかんじだったの。でもネットで見つけたその人の名前は結構特徴的で。それで一旦はその人のページを見ることにしたんだ。そしたらさ」
「そしたら?」
三人が声を合わせて尋ねた。
「その人、確実に彼だったんだよ。私が誕生日にあげた服まるまる来てたし、スマホもスマホカバーも私が知っている彼だった。彼ね、耳の下に三つ並んだ特徴的な黒子があるの。それも一緒たった。万が一の偶然ってあるかもしれないけど、あまりにも出来すぎてて、双子説を考えるのも馬鹿馬鹿しいくらい似てて。先入観かもしれないけど、彼にしか見えなかった」
さっきまでの意気揚々とした雰囲気から一転、まるでお通夜のような冷たさがこのテーブルを漂っていた。
「結局そのあとは、どうなったの?聞いてみたの」
「…うん、まぁね。お互いのことだし。隠しごとあってもしょうがないからさ」
少しの沈黙のあとに返答した穴川ちゃんは、いつもより小さく見える。
「あー、もう、言っちゃうね。だらだら話しててもどうしようもないから」
おちゃらけさを装っているように見えるが、本当は内心不安で一杯だったのだろう。
元気なふりをしていて、実は心の内側では壊れそうなくらいもろい。
自分もかつてそうだったから、分かる。
「結論から言うと、全部嘘だったの」
「嘘?」
「そう、嘘。名前も会社もステータスも。全部嘘。でも私のことは好きだからって言われると参っちゃうよね。こっちは別れる気満々で聞いたのに、奥さんと、別れるからとか、言われるとさ」
後半はもう涙をこらえるので一杯で、尻すぼみになっていた。
その葛藤があまりにも痛々しくて、思わず私は穴川ちゃんに手を差しのべていた。
隣に座っていた小倉台ちゃんも咄嗟に穴川ちゃんの肩をぎゅっと抱いた。
千葉ちゃんはハンカチを渡して穴川ちゃんを労った。
誰もが質問をしたい気分でいたが、今はそれどころではない。
いまは、傷ついた穴川ちゃんを励まさないと。
テーブルの上にあるキャンドルだけが生き生きと揺れ動いていた。
お客さんで賑わう店内の片隅で、失恋の痛みに泣いている女の子がいる。
その一角だけがまるで世界から切り離されたように、周りの世界から浮いているようだった。
みんな心を痛めている。
ひとつの恋が終わる音がした。




