#19<近代(2/3)>
19世紀にバルカン半島で起きる紛争は起こらない。
オスマン帝国改オスマン連邦が、依然強力な戦力を有していたためだ。
近世オスマン帝国は「瀕死の病人」と言われていた。
宮廷の弛緩から政治+経済+流通が悪化し、帝国の支配力は衰退。
それを補おうとした軍事による民族主義抑圧は、虐殺の連鎖を呼んだ。
アブデュルハミト2世の専制政治は「血まみれスルタン」と恐れられた。
これに対して革命が起こり(青年トルコ革命)、スルタンは退位した。
ここでアフリカ合衆国が政治介入して、一人の青年将校に白羽の矢を立てた。
このアクロバット的革命でオスマン帝国は立ち直り、連邦制を立ち上げる。
この青年がオスマン連邦の初代大統領となった。
ロシアの後ろ盾で民族意識を煽っていたバルカン同盟諸国は茫然自失だった。
エジプト諜報機関は密かに暗躍し、こちらの分裂を図っていたのだ。
謎のエジプト人「ブルガリアが戦後領土拡大を狙っている」
謎のエジプト人「セルビアが暗躍して領土切り取りを画策」
謎のエジプト人「マケドニアが戦後急速に領土を進展する」
その気は確かにあったが、オスマン撃滅の結果次第であった。
戦果による取り分の密約はあらかじめ決めてあった。
だが予想外のオスマンの立ち直りが計画を頓挫させた。
その秘密があからさまになり、各国は硬直して動けなくなった。
その内にオスマンは帝国から連邦制に移行。
あっとういう間に彼らはその構成国になってしまった。
高度の自主権をもつ連邦制の州になったバルカン半島諸国。
多民族による多元主義とそのチェック&バランス等々。
500年に渡る民族と宗教の対立に決着がついた訳ではない。
だが曲がりなりにもヨーロッパの火薬庫は爆発を逃れたのだ。
一方、とある歴史的人物が大きな人生の転機を迎えていた。
1907年ヒトラーは見事ウィーン美術アカデミーに合格。
将来有望な建築デザイナーの道を歩んだ。
彼は課題の人物デザインに不合格ではなかったか?
ここでアカデミーに、とある団体から莫大な寄付があった。
「ヒトラー君の美術道の才能に期待したい」
こうメッセージが添えてあっただけである。
1906年ギムナジウムを卒業したエルンスト・レーム。
鉄道管理官だった父もまた、とある団体から支援を受けていた。
裕福な父、名誉な地位、憧れは鉄道にあった。
鉄道マニアになった彼は、父の家業を継ぎ、鉄道員となる。
ルーデンドルフは宗教家に、ゲッペルスは司祭に、それぞれ別の道を選ぶ。
そこにも、とある団体の影があった。
スターリンは靴職人として腕を磨いていた。
その後事故に遭い、二度目の馬車事故で事故死してしまった。
こうして多くの歴史的人物の人生が湾曲されていった。
とある団体ムハバラート・エル=アーマ。
これはエジプト総合情報庁の呼称であった。
情報庁の役目は将来USAの政敵となりそうな人物の人生を偏心する事だ。
多くの有能な、しかし個性的過ぎる英傑の芽を啄んでいく。
その努力によっても、歴史の潮流は大きく、世界の運命は変わらなかった。
1914年、やはりサラエボ事件は起こってしまった。
オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻はサラエボに向かった。
サラエボへの演習視察の視察のためだった。
。
視察や演説や式典は、民族主義者のテロリストにとって絶好のテロの機会だ。
サラエボ市庁舎に到着するまでに何度も未遂に遭い、その度に難を逃れた。
皇太子「この国ではテロで皇太子を歓迎するのか?」
そんな皮肉も出たが、これもやむなしといったところだ。
テロ未遂事件の受傷者を見舞うため、病院を訪れることにした皇太子夫妻。
その頃、次の暗殺者はカフェで昼食をとっていた。
そしてその真ん前で大公の乗ったオープンカーは立ち往生した。
暗殺者はスッと立ち上がり、やおらオープンカーに詰め寄る。
そして至近距離から致命傷になる銃弾を撃った。
銃弾は大公と妻に命中した。
その銃創は大公の頸静脈を断絶し、妻は腹部を撃たれた。
しかし、フランツ・フェルディナントも妻のゾフィーも死ななかったのだ。
エジプト総合情報庁はあらゆる暗殺の可能性を模索想定していた。
どこでどういう形で暗殺が行われるかまでは絞り込めない。
だが銃撃による失血か、爆弾テロによる熱傷が最も危険な受傷だった。
そのため万が一に備えて、車列に血管外科の心得のある医師を同乗させていた。
失血死でまさに風前の灯火だった命を救ったのはそのエジプト人の医師だった。
若い頃、スイスで結核の治療のために療養所で静養していた大公。
その治療を受け持ち、その縁で知り合った医師であった。
勿論これは偶然ではない、仕組まれた友人である。
今や、大公の御典医であり側近であり友人であった。
すぐに大公の乗用車に駆け付け、軍服を引き裂き、創傷を確認する。
医師「大公の頸静脈は詰め襟から貫通した銃弾により断裂し、出血を確認」
水銀柱血圧計を出したが、血圧が表れない程に低下していた。
医師「GCS(意識レベル)、E1V1M1(反応なし)。血圧測定できず。呼吸微弱」
一人の助手が創部をガーゼで用手圧迫止血。
そして、もう一人がBMV換気を開始する。
すぐ近くの食堂のテーブルが乱暴に片付けられた。
一刻の猶予もなく、シーツが掛けられ、簡易手術台となった。
シーツにヨードをごくごく薄く塗る。乾かさないと薬傷の恐れがある。
大公は死前喘鳴を起こしていて、気管内チューブを挿管して、気道確保した。
ヨードが乾きかけた時分に、心停止した大公が担ぎ込まれた。
圧迫止血しながら、心臓蘇生術(胸骨圧迫)を続ける。
ここで副腎皮質ホルモンのアドレナリンを1mg投与する。
心停止から3分で自己心拍が再開した。
圧迫止血をペアン(止血鉗子)に切り替え、外頸静脈を止血。
深部出血がない事、人工呼吸による空気漏れが創傷部からない事を確認。
以上の所見から気管損傷、総頸動脈断裂を除外した。
大公と夫人は万が一に備えて、自己血輸血の為のスケジュール採血を行っていた。
2週間の間をおいて、各400ccづつ2回採血し、合計800ccの貯血である。
やがて輸血と加温により、血圧と脈拍数が回復。
曲がりなりにも、手術に耐えられる数値となった。
頸部静脈損傷は断端が縫合出来ないほど断裂していたため、2cmほど短縮した。
腓骨動静脈の血管移植も考慮したが、ぎりぎりやらなくて済みそうだ。
医師は10倍の拡大レンズを付けた手術用眼鏡をかける。
顕微鏡手術(マイクロサージャリー)に挑むのだ。
血管外膜と内膜のうち、内膜を密着させるよう縫合する。
カットグッド(ヒツジの腸線)は吸収性の縫合糸としても有能だ。
血管の背面壁をまず縫合し、次に側面、最後に前面を縫合し、血管吻合した。
ニワトリのササミで200回血管吻合の練習を繰り返した成果が出たのだった。
駆け付けたサラエボの医師は何が何だかわからない。
エジプト人医師の高度な医療は異次元であった。
BMV換気?アドレナリン?自己血の貯血?
SSI(手術部位感染)?MIC(最小発育阻止濃度)?PAE?β-Lactam?
サラエボの医師はアレクサンドリアの医療の末端さえ分からなかった。
予後は厳重に看護された。
一時期乏尿となり、体液の補給を要したが、12病日後自尿を認め、転帰は良好である。
こうして大公も夫人も一命を取り留めた。
オーストリア=ハンガリー帝国は跡継ぎを失わずに済んだのだ。
だが歴史の潮流は変わらず、この事件が遠因となり、第一次世界大戦が勃発。
数日間で欧州全体を巻き込む戦闘に発展。
経済+人員+工業総てを巻き込む国家総力戦に発展した。
だがそれはたった7日間で終戦となった。
それはアフリカ合衆国と新大陸の、欧州への宣戦布告である。
欧州での権力争いのスキを突いてきたから欧州はたまらない。
新生ルゥルゥ合衆国の海軍には、世界一強力な大西洋艦隊がある。
また第6艦隊は地中海に展開している。
戦端はイベリア半島のピレネー山脈フランス国境の越境である。
イベリア半島にはスペインもポルトガルもない。
あるのはガリシア=アルフォンソ国でアフリカ合衆国自治領である。
ここからピレネー山脈越えで、アフリカ合衆国陸軍がフランスに侵入。
同日バルカン半島からハンガリーにオスマン連邦陸軍が越境。
オスマン連邦黒海艦隊がセバストポリに強行上陸し占拠。
カスピ海ではバクー油田を占拠した。
こうした示威行為に欧州は直ちに世界大戦を停戦。
各戦力はアフリカ合衆国と新大陸と睨み合った。
オスマン連邦の動きはUSAと共闘していた。
ウラでアフリカ合衆国と連盟を組んでいたのだった。
そこにも、とある団体が影を落としていた。
エジプト軍事情報庁(ムハバラート・エル=ハベヤ)かもしれないが真偽は不明だった。
軍事情報庁の動きは誰も知り得ないのだ。




