第九話 死体が笑った
第九話 死体が笑った
その日の午後。
山下医院に救急車は来なかった。
来たのは――
タクシーだった。
「先生!」
運転手がドアを開ける。
「患者です!」
「どこ?」
「後ろ!」
山下が駆け寄る。
後部座席には、若い男が横たわっていた。
二十代半ば。
顔面蒼白。
目は閉じている。
「脈!」
山下が手首を取る。
――ない。
「呼吸!」
ない。
「とこちゃん!」
「はい」
「AED!」
「もう持ってきています」
「早い!」
とこが機械を開く。
「離れて」
パッドを貼る。
『心電図を解析します』
機械の音声が響く。
『ショックは必要ありません』
「……クソッ」
山下が胸骨圧迫を始める。
「一、二、三、四――」
何度押しても、
戻らない。
「もう一回」
「院長」
「まだよ」
「はい」
「一、二、三、四――」
男の胸が沈む。
戻らない。
山下の額から汗が落ちる。
「お願いだから――」
もう一度。
「戻ってきなさい!」
ドンッ。
男の身体が跳ねた。
次の瞬間。
――ドクン。
モニターに波形が走る。
「……!」
「心拍再開」
とこが淡々と告げる。
山下は息を吐いた。
「よし……」
だが。
「院長」
「何?」
「この人」
とこが男の顔を見る。
「笑っています」
「……は?」
山下が見る。
男の口元が、
確かに笑っていた。
死んでいたはずの男が、
口角だけを上げている。
「……何よ、これ」
山下が顔を近づける。
男の目は閉じたまま。
それなのに――
「ふふっ」
笑った。
山下の手が止まる。
「……今、笑った?」
「はい」
「聞こえた?」
「はい」
「ミジンコちゃん!」
「はい!」
待合室からミジンコが飛び込んでくる。
「何でしょう!」
「この人、笑った?」
「はい?」
「死んでた人間が笑ったのよ!」
ミジンコは男を見る。
そして、
男の顔を覗き込んだ。
「……なるほど」
「何よ」
「これは大変ですね」
「何が?」
「私、こういう死体は初めてです」
「死体って言うな!」
「失礼しました。蘇生患者です」
「それも今は微妙なのよ!」
男が、
ゆっくり目を開いた。
「……先生」
「はい!」
山下が身を乗り出す。
「名前は?」
「……」
「分かる?」
男は山下を見る。
そして、
笑った。
「先生」
「何?」
「あなた、まだ生きてるんですね」
山下の顔から笑みが消えた。
「……どういう意味?」
「分かりません」
男は首を傾げる。
「でも、夢の中で言われました」
「誰に?」
「女の人です」
山下は黙る。
まただ。
「何て?」
男は、
さっきまでの笑顔を消した。
「『あの人を見つけたら、殺して』って」
空気が凍った。
とこが一歩前へ出る。
「誰を?」
男は、
山下を指差した。
「先生を」
――沈黙。
山下は数秒、
男を見つめた。
そして。
「なるほどねぇ」
白衣の袖をまくる。
「患者に殺されるなんて、医者冥利に尽きるじゃない」
「院長」
「何?」
「冗談を言っている場合ではありません」
「分かってるわよ」
山下の目が変わった。
「ミジンコちゃん」
「はい」
「この男の身元を調べて」
「承知しました」
「とこちゃん」
「はい」
「この人、入院させるわ」
「分かりました」
「それから――」
山下が男を見る。
「目を離さないで」
男は黙っていた。
だが、
口元だけがまた笑った。
⸻
午後四時。
山下医院の診察室。
「身元、分かりました」
ミジンコが資料を置く。
「早いわね」
「警察の記録にありました」
「名前は?」
「高城蓮」
「年齢」
「二十七歳」
「職業は?」
「葬儀社勤務です」
山下の眉が動いた。
「……葬儀社?」
「はい」
「じゃあ、死体を見る仕事?」
「そうなります」
「それで本人が死んで運ばれてきた、と」
「はい」
山下はカルテを見る。
「死亡時刻は?」
「午後一時四十二分」
「うちに来たのは?」
「午後一時五十七分」
「十五分」
「はい」
「じゃあ十五分間、死んでたのね」
「医学的には」
ミジンコが一枚の紙を出した。
「四十三分です」
「……何それ」
「別の記録があります」
「どこの?」
「葬儀社」
「死亡時刻が違う?」
「はい」
「何分?」
「午後一時ちょうど」
山下がカルテを見る。
「一時間近く?」
「はい」
「じゃあ、こっちが間違ってる?」
「それが――」
ミジンコは首を振った。
「葬儀社の記録には、死亡した高城さんのサインがあります」
「……本人が?」
「はい」
山下は黙った。
高城が死亡した。
その一時間後。
死亡した本人が、
自分の死亡記録にサインをしている。
そんな馬鹿な話があるか。
「ミジンコちゃん」
「はい」
「アンタ、どう思う?」
「正直に申し上げます」
「うん」
「気持ち悪いです」
「珍しくまともね」
「私は死体より生きたロリの方が――」
「帰りなさい」
「申し訳ありません」
とこが横から言った。
「ミジンコさん」
「はい」
「仕事してください」
「はい」
ミジンコが黙る。
山下はため息をついた。
「でも……」
カルテを閉じる。
「この患者、何か変よ」
「はい」
「身体じゃない」
「……?」
「死に方が変なの」
山下は立ち上がった。
「ちょっと本人に聞いてくる」
⸻
病室。
高城は窓の外を見ていた。
「高城さん」
「はい」
「聞きたいことがあるの」
「何でしょう」
「あなた、自分が死んだこと覚えてる?」
「はい」
「どこで?」
「会社です」
「何してたの?」
「仕事をしていました」
「それから?」
「急に胸が苦しくなって」
高城は胸に手を置く。
「倒れました」
「そこから?」
「……目を開けたら」
「どこにいた?」
「葬儀場です」
山下の目が細くなる。
「自分の葬儀?」
「はい」
「自分が棺桶に入ってた?」
「はい」
「誰がいた?」
「会社の人」
「家族は?」
「いません」
「で?」
「みんな泣いていました」
高城は淡々と話す。
「私は棺桶の中から見ていました」
「……」
「誰も私が見えていませんでした」
「それから?」
「一人の女の人が来ました」
「白い服?」
「はい」
山下の胸がざわつく。
「何て言われた?」
高城は答えなかった。
「高城さん?」
「……覚えていません」
「本当に?」
「はい」
山下は高城の顔を見る。
その時。
高城が笑った。
「でも――」
「何?」
「一つだけ覚えています」
「何を?」
「女の人が、私に言ったんです」
高城は、
山下を真っ直ぐ見た。
「『次に会う人を殺しなさい』って」
山下は黙った。
「それで?」
「私が聞いたんです」
「何を?」
「誰を殺せばいいんですかって」
「……」
「女の人は答えました」
高城の口元が、
ゆっくりと歪む。
「『山下光圀』」
山下は一歩も動かなかった。
数秒。
沈黙。
「……そう」
「はい」
「じゃあ一つだけ教えて」
「何でしょう」
「アンタ」
山下が静かに聞く。
「アタシを殺したい?」
「……」
高城は答えない。
その代わり、
ベッドの下から、
何かを取り出した。
ナイフ。
とこが一歩前へ出る。
「院長」
「大丈夫」
山下が手で制する。
高城が立ち上がった。
「先生」
「何?」
「すみません」
「何が?」
「約束なんです」
ナイフを握る。
「殺さないと、また死ぬんです」
山下は、
ゆっくり白衣を脱いだ。
「……そう」
「逃げないんですか?」
「逃げる必要ないもの」
「なぜ?」
「だって――」
山下の口調が変わった。
オネェの柔らかな声が消える。
「お前が殺す前に、俺がお前を止める」
高城の目が見開かれる。
山下が一歩踏み出した。
「ただし」
さらに一歩。
「患者を傷つけるのは、医者として許さねぇ」
高城がナイフを振り上げる。
その瞬間。
山下の手が、
男の手首を掴んだ。
「遅ぇよ」
ドンッ!
高城の身体が床に転がる。
ナイフが跳ねる。
とこは無表情のまま、それを拾った。
「院長」
「何?」
「危ないです」
「そうね」
山下は高城を見下ろす。
男は震えていた。
「……殺せ」
「嫌よ」
「どうして……」
「アンタ、患者でしょうが」
「私は……」
「死んだんでしょう?」
「……」
「なら――」
山下はしゃがみ込む。
「なおさら診るわよ」
高城の目から、
涙が落ちた。
「先生……」
「何?」
「俺……」
高城は震える声で言った。
「本当に死んだんです」
「知ってる」
「違う」
「何が?」
「俺が死んだのは――」
高城が自分の胸を掴む。
「今日じゃありません」
山下の表情が変わった。
「……いつ?」
「三年前です」
山下は、
言葉を失った。
高城は泣きながら笑った。
「俺は三年前に死んで……」
そして、
小さく呟いた。
「三年間ずっと、生きてるふりをしてたんです」
その瞬間。
病室の時計が止まった。
午後五時十三分。
秒針だけが、
カチッ。
と音を立てて、
逆方向へ動き始めた。
山下は時計を見る。
「……またか」
とこが聞く。
「何がですか?」
「時間を巻き戻す奴がいる」
「敵ですか?」
「分からない」
山下は高城を見る。
高城の身体が、
少しずつ透け始めていた。
「院長」
「ええ」
「患者が――」
「分かってる」
山下は高城の手を握った。
冷たい。
死体の手。
それなのに、
指先だけが、
必死に山下の手を握り返した。
「先生……」
「何?」
「俺を――」
高城は泣きながら言った。
「もう一度、生きさせてください」
山下は、
その言葉を聞いて目を閉じた。
そして――
静かに笑った。
「任せなさい」
その瞬間。
山下の右手から、
淡い光が漏れた。
止まっていた時計が、
動き出す。
カチ。
カチ。
カチ。
高城の身体が、
大きく震えた。
そして――
ドクン。
心臓が鳴った。
もう一度。
ドクン。
「……生きて」
山下が呟く。
「アンタの人生、勝手に終わらせるんじゃないわよ」
高城が目を開いた。
「先生……」
「おかえり」
その瞬間。
病室の窓の外を、
一人の女が通り過ぎた。
白い服。
長い髪。
山下が顔を上げる。
「……!」
だが、
そこには誰もいない。
ただ窓ガラスに、
指で書かれたような文字が残っていた。
次は、あなた。
山下はそれを見つめる。
そして、
小さく息を吐いた。
「……随分と人気者になったものね、アタシ」
とこが隣に立つ。
「院長」
「何?」
「嬉しそうですね」
「え?」
「少しだけ」
山下は窓を見る。
「そうかしら」
「はい」
「……まあ」
山下は笑う。
「死にかけた患者が生き返ったんだもの」
そして、
拳を握る。
「医者としては最高の一日よ」
その頃。
病院の外。
一人の女が、
山下医院を見上げていた。
黒い傘。
白い肌。
そして、
異様に嬉しそうな目。
「……また生かした」
女は呟く。
「やっぱり、あなたはそうなのね」
口元が歪む。
「先生」
雨が降り始める。
「私が殺すまで――」
女は、
傘の下で笑った。
「誰にも死なせないでね」
その女の名前を、
山下はまだ知らない。
だが――
彼女はもう、
山下のすぐ近くまで来ていた。
第九話 完




