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第十話 この病院は、誰のため?

第十話 この病院は、誰のため?


 山下医院の朝は、いつもと変わらなかった。


 受付にはアルちゃん。


 診察室にはとこ。


 そして――


「医院長!」


 朝からミジンコの声が響いている。


「うるさいわねぇ」


「大変です!」


「何が?」


「患者が来ません!」


「……は?」


 山下は時計を見る。


 午前九時。


 診察開始から一時間。


 待合室には誰もいない。


「それの何が大変なのよ」


「昨日まで毎日、最低でも三人は来ていたじゃないですか」


「まあね」


「なのに今日はゼロです」


「いいじゃない。たまには休ませなさいよ」


「医院長」


 とこがカルテを置く。


「今日、予約は入っていません」


「でしょう?」


「昨日までの患者も、全員帰宅済みです」


「じゃあ平和ね」


「ですが」


 とこが続けた。


「電話が一件も鳴っていません」


 山下は眉をひそめた。


「……それは確かに変ね」


 この医院に来る患者は、


 なぜか突然現れる。


 予約もない。


 紹介状もない。


 時には住所すら分からない。


 それでも必ず、


 「山下医院に行けばいい」


 と言ってやって来る。


 だからこそ、


 誰も来ない日の方が不気味だった。


「ミジンコちゃん」


「はい」


「外、見てきて」


「承知しました」


 ミジンコが玄関を開ける。


 ――そして。


「……医院長」


「何?」


「外に人がいます」


「患者?」


「いえ」


 ミジンコは振り返った。


「人が、大勢います」


 山下は玄関へ向かった。


「……何これ」


 医院の前。


 道路の向こう側に、


 人。


 十人。


 二十人。


 三十人。


 いや、


 もっといる。


 誰も喋らない。


 誰も動かない。


 ただ、


 山下医院を見ている。


「何の集会よ」


「分かりません」


 ミジンコが答える。


「警察を呼びますか?」


「待って」


 山下が一人の男を見る。


 見覚えがある。


「……昨日の患者?」


 男が、


 ゆっくり顔を上げた。


「先生」


「何?」


「ここに入れません」


「……は?」


「病院なのに」


 男は困ったように笑った。


「今日は誰も、入れてくれないんです」


 山下が玄関を見る。


 自動ドアは開いている。


 それなのに、


 誰一人として中へ入ってこない。


「じゃあ入ってきなさいよ」


「……」


 男は一歩踏み出す。


 しかし、


 見えない壁にぶつかったように、


 その場で止まった。


「……何これ」


 山下が玄関まで出る。


 男の腕を掴む。


「ほら」


 引っ張る。


 男の身体が、


 スッと院内へ入った。


「……入れた」


 男自身が驚く。


 山下も驚いた。


「どういうこと?」


 とこが玄関を確認する。


「院長」


「何?」


「私も出てみます」


「え?」


 とこが外へ出る。


 普通に歩いている。


 そして戻る。


「問題ありません」


「じゃあ、なんでこの人たちは入れないの?」


「分かりません」


 山下は道路を見る。


 大勢の人間。


 誰も、


 病院へ入ろうとしない。


 いや――


 入れない。


「……おかしいわね」


 その時。


 アルちゃんが玄関から顔を出した。


「どうしたんですかぁ?」


「アルちゃん、ちょっと待って」


「はい〜?」


「外の人たち、見える?」


「見えますよぉ」


「普通の人?」


「そうですねぇ」


 アルちゃんは首を傾げた。


「たくさんいますね」


「……」


 山下はアルちゃんを見る。


「アタシにも普通の人に見える」


「はい〜」


「でもね」


 山下は外を見る。


「誰一人として、影がないのよ」


 アルちゃんの顔が、


 一瞬だけ止まった。


 ほんの一瞬。


 山下は気づかなかった。


「……そうなんですねぇ」


「ええ」


 アルちゃんは、


 いつもの調子でお茶を飲む。


「不思議ですねぇ」


 山下は外へ出た。


 一番近くにいる女性へ声をかける。


「あなた」


「……」


「聞こえてる?」


「はい」


「名前は?」


「分かりません」


「ここへ何しに来たの?」


「……分かりません」


「どうしてここにいるの?」


「分かりません」


 女性は、


 山下医院を見上げる。


「ただ……」


「ただ?」


「ここに来ればいい気がして」


 山下の背中に、


 嫌な感覚が走った。


「あなた、身体の具合は?」


「分かりません」


「痛いところは?」


「ありません」


「持病は?」


「ありません」


「じゃあ帰ったら?」


 女性は、


 困った顔をした。


「帰る場所がありません」


「……」


 山下は黙った。


 その時、


 背後からミジンコが叫んだ。


「医院長!」


「何?」


「こっちへ!」


 ミジンコが、


 道路の端を指差している。


 そこには、


 一人の老人が倒れていた。


「救急車!」


「必要ありません!」


 ミジンコが叫ぶ。


「この方――」


 老人の身体を確認する。


「死んでいます」


 山下が駆け寄る。


「いつ?」


「分かりません」


「脈?」


「ありません」


「呼吸?」


「ありません」


「……」


 山下は老人の顔を見る。


 穏やかな表情。


 苦しんだ様子はない。


 ただ――


 老人の胸ポケットから、


 一枚の紙が出ていた。


 山下が取り出す。


 古びた紙。


 そこには、


 山下医院


 と書かれている。


「……また診察券?」


 だが、


 患者番号がない。


 代わりに、


 裏側に一文だけ。


 帰院予定――本日。


「帰院?」


 とこが覗き込む。


「院長」


「何?」


「この方、病院に入院していた患者です」


「え?」


「カルテを確認します」


 とこが受付へ走る。


 数分後。


「ありました」


 カルテを持って戻ってくる。


「患者名――佐伯清一」


「年齢」


「七十八歳」


「死亡日」


「……今日です」


「入院してたの?」


「はい」


 山下はカルテを見る。


「いつから?」


「五日前です」


「何で入院したの?」


「肺炎です」


「退院したの?」


「していません」


「じゃあ――」


 山下は老人を見る。


「なんで外にいるのよ」


 誰も答えない。


 その時、


 老人の指が動いた。


「……!」


 とこが見る。


 山下が手首を取る。


 脈はない。


 それなのに、


 老人の口が開いた。


「……先生」


「はい!」


「予約……」


「何?」


「次の診察……」


 老人の目が、


 ゆっくり開く。


「……いつですか?」


 山下は息を呑んだ。


 死体が、


 普通に喋っている。


「今日よ」


「……そうですか」


 老人は安心したように、


 目を閉じた。


 そして、


 完全に動かなくなった。


 山下はしばらく、


 老人の手を握っていた。


「……なるほど」


 立ち上がる。


「分かったわ」


「院長?」


「この病院が何なのか」


 山下は、


 自分の医院を見上げる。


「少なくとも普通の病院じゃない」


 ミジンコが黙っている。


「ミジンコちゃん」


「はい」


「アンタ、何か知ってるわね」


「……」


「政府から聞いてるんでしょ?」


「……はい」


「言いなさい」


 ミジンコはしばらく黙った。


 そして、


 眼鏡を押し上げた。


「医院長」


「何?」


「この病院には――」


 一瞬だけ、


 ミジンコが真剣な顔になる。


「生きている人間は、基本的に来ません」


 山下の目が細くなる。


「……基本的に?」


「はい」


「じゃあアタシは?」


「それが問題なんです」


「どういう意味?」


「分かりません」


 ミジンコは首を振った。


「政府も、医院長がなぜここにいるのか把握していません」


「……」


「ただ、一つだけ記録があります」


「何?」


「この病院に来られる人間には、共通点があります」


「死んだことがある?」


「いいえ」


 ミジンコが答える。


「死ぬことが決まった人間です」


 山下は黙った。


 その言葉が、


 妙に胸へ刺さった。


「……つまり?」


「この病院は――」


 ミジンコが医院を見上げる。


「死者が来る場所ではなく」


 そして、


「死者になる前の人間が、最後に立ち寄る場所なのかもしれません」


 山下は、


 何も言わなかった。


 ただ、


 外に並ぶ人々を見る。


 誰もが、


 静かに山下医院を見ている。


 その中には、


 昨日死んだはずの人間もいる。


 まだ生きている人間もいる。


 そして――


 もう死んでいる人間もいる。


 境界なんて、


 最初からなかったのかもしれない。


「院長」


 とこが呼ぶ。


「はい」


「診察室、空いています」


 山下は振り返る。


「……そうね」


 白衣を整える。


「なら、診ましょう」


「はい」


 山下医院の扉が開く。


 外にいた人々が、


 一斉に顔を上げる。


 一人。


 また一人。


 静かに、


 院内へ入っていく。


 誰も、


 受付をしない。


 誰も、


 保険証を出さない。


 ただ、


 山下の前を通る。


 山下は一人ずつ、


 名前を聞いた。


 症状を聞いた。


 そして最後に、


 必ず同じ質問をした。


「あなた――」


「死ぬ覚悟はある?」


 誰も答えなかった。


 ただ、


 全員が山下を見る。


 まるで、


 答えを知っているかのように。


 その日の診察が終わったのは、


 深夜だった。


 最後の患者が帰ったあと。


 受付でアルちゃんが、


 眠そうにお茶を飲んでいた。


「医院長」


「何?」


「今日はいっぱい来ましたねぇ」


「そうね」


「皆さん、どこへ帰ったんでしょう?」


「……」


 山下は答えなかった。


 ふと、


 玄関を見る。


 そこには誰もいない。


 道路も、


 いつもの街に戻っている。


 まるで、


 最初から何もなかったように。


「ねえ、アルちゃん」


「はい〜?」


「この病院ってさ」


「はい」


「どこにあると思う?」


 アルちゃんは、


 少し考える。


「ここじゃないですかぁ?」


「……そうよね」


「変な質問ですねぇ」


「そうね」


 アルちゃんは笑った。


「でも、医院長」


「何?」


「病院って、帰る場所じゃないですか?」


「……」


「具合が悪い人が来て」


「ええ」


「元気になったら帰る」


「そうね」


「だから、ここも同じですよぉ」


 山下はアルちゃんを見る。


「……帰る場所?」


「はい〜」


 その言葉が、


 妙に頭に残った。


 アルちゃんは何も気にせず、


 またお茶を飲み始めた。


 山下は、


 窓の外を見る。


 夜の街。


 普通の現世。


 そのどこかに、


 今日ここへ来た患者たちがいる。


 生きている者。


 死んだ者。


 そして、


 これから死ぬ者。


 その境界に、


 山下医院は立っている。


 山下はまだ知らない。


 この医院が、


 「現世にあるのに、生きている者には辿り着けない場所」


であることを。


 そして――


 その医院を、


 ずっと昔から「自分の家」のように知っている女がいることを。


 アルちゃんは湯飲みを置いた。


「……おやすみなさい、医院長」


「ええ。おやすみ」


 電気が消える。


 誰もいなくなった待合室。


 受付の上に、


 一枚の古い診察券が置かれている。


 そこには、


 いつの間にか新しい文字が浮かんでいた。


 患者番号 0000


 そして裏面に、


 小さく――


 次回来院予定:死亡後


 と書かれていた。


第十話 完

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