第八話 死者の診察券
第八話 死者の診察券
山下医院の朝は、いつも静かだ。
少なくとも、普通の病院なら。
「医院長」
「なぁに?」
「冷蔵庫にあったプリンがありません」
「……」
山下は新聞から目を上げた。
「ミジンコちゃん」
「はい」
「朝からアタシに話しかける前に、一つ確認していい?」
「何でしょう」
「そのプリン、本当にアンタのだった?」
「はい」
「賞味期限は?」
「昨日です」
「じゃあ捨てたんじゃない?」
「食べました」
「自分で食べてるじゃない!」
「いえ。昨日の分は食べました。今朝の分がありません」
「どうして二個も買うのよ」
「一個は保存用です」
「プリンを保存食にするな!」
診察室の隅で、とこがカルテを整理している。
「ミジンコさん」
「はい、とこ姐さん」
「朝からうるさいです」
「申し訳ありません」
「それと」
とこが顔を上げた。
「患者さんが来ています」
「え?」
山下が時計を見る。
午前八時。
診察開始まで一時間ある。
「予約は?」
「ありません」
「救急?」
「それも違います」
「じゃあ誰?」
「玄関に立っています」
とこは淡々と言った。
「ずっと」
「……何分?」
「二十七分です」
「なんで放っておいたのよ!」
「院長が寝ていたので」
「起こしなさいよ!」
「起こすと機嫌が悪くなるので」
「患者よりアタシの機嫌を優先するんじゃないわよ!」
山下は白衣を羽織った。
「行くわよ」
玄関へ向かう。
扉を開ける。
「お待たせ――」
そこに、
一人の男が立っていた。
三十代くらい。
スーツ姿。
顔色が悪い。
妙に真っ直ぐ立っている。
「どうしたの?」
男は答えない。
「具合悪い?」
沈黙。
「聞こえてる?」
「……はい」
「じゃあ、入って」
「はい」
男は一歩、院内へ入った。
その瞬間。
山下の目が、
男の胸元に止まった。
名札。
社員証。
その裏側から、
一枚の紙が覗いている。
「ちょっと」
「はい」
「それ、何?」
男が紙を取り出した。
「これですか?」
「ええ」
それは、
古びた診察券だった。
山下医院。
現在のものとは違う。
十数年前に廃止したデザイン。
山下が眉をひそめる。
「……それ、どこで手に入れたの?」
「自宅です」
「誰の?」
「私のです」
「名前は?」
男は診察券を見せた。
そこには――
山下医院
患者番号 0001
とだけ書かれていた。
「名前は書いてないのね」
「はい」
「いつから持ってるの?」
「分かりません」
「……」
山下は診察券を裏返した。
裏面には、
小さな文字で一行だけ書かれている。
死亡後、再来院可。
山下の表情が変わった。
「とこちゃん」
「はい」
「これ、誰が作ったと思う?」
「院長の病院です」
「そうじゃなくて」
「分かりません」
「でしょうね」
山下は男を見る。
「名前」
「……」
「どうしたの?」
「思い出せません」
「自分の名前が?」
「はい」
「住所は?」
「分かりません」
「仕事は?」
「……」
男は困ったように笑った。
「分かりません」
「じゃあ、何を覚えてる?」
男は少し考えた。
「病院です」
「この病院?」
「はい」
「何しに来たの?」
「診察を受けるためです」
「いつ?」
「今日です」
「誰に言われたの?」
男は答えた。
「先生に」
「アタシ?」
「……たぶん」
山下は黙った。
妙な患者だった。
だが、
それ以上に妙なのは――
男の身体には、
心臓がない。
山下には分かった。
正確には、
医学的に心臓が存在しないわけではない。
触診すれば鼓動はある。
血圧もある。
呼吸もしている。
なのに、
山下の「目」には、
そこだけが空白に見えた。
まるで、
生きるために必要な何かだけが、
最初から抜き取られている。
「……診察室、行きましょうか」
「はい」
山下は笑った。
「アンタ、ちょっと面白い身体してるわ」
「面白い……?」
「医者として興味深いって意味よ」
「そうですか」
「安心して」
山下は肩を叩く。
「アタシ、変な患者ほど好きだから」
「……はい」
男が診察室へ入る。
とこが後ろからカルテを持ってくる。
「院長」
「何?」
「この人」
「うん」
「玄関の監視カメラに映っていません」
山下が止まった。
「……何ですって?」
「二十七分前から、玄関の前に立っていました」
「じゃあ、映ってるでしょ」
「映っていません」
「おかしいわね」
「はい」
とこが淡々と答える。
「でも、今は映っています」
「……今?」
「はい」
山下が振り返る。
男を見る。
男は椅子に座っている。
何もしていない。
ただ、
自分の診察券を見つめている。
山下は小さく息を吐いた。
「……まあいいわ」
聴診器を手に取る。
「胸、見せて」
「はい」
シャツをめくる。
聴診器を当てる。
ドクン。
ドクン。
心音は正常。
「深呼吸」
男が息を吸う。
「吐いて」
吐く。
異常なし。
「次、脈」
山下が手首を取る。
その瞬間。
男の身体が、
ビクッと震えた。
「どうしたの?」
「……寒い」
「寒い?」
「先生の手が、冷たいです」
山下は眉をひそめた。
「アタシの手が?」
「はい」
山下は自分の手を見る。
普通だ。
むしろ暖かい。
「変ねぇ」
その時だった。
男のポケットから、
何かが落ちた。
カラン。
小さな金属音。
とこが拾う。
「院長」
「何?」
「これ」
古い鍵だった。
札が付いている。
そこには、
山下医院・地下倉庫
と書かれていた。
「……」
山下は鍵を見つめる。
「うち、地下倉庫なんてあった?」
「あります」
とこが即答する。
「使ってませんが」
「アタシ知らないわよ」
「院長が開業した時からあります」
「怖いこと言わないでよ」
ミジンコが鍵を見る。
途端に、
顔が変わった。
「医院長」
「何?」
「それは、触らない方がいいです」
「なんで?」
「政府の記録に――」
ミジンコが言いかける。
その時。
男が立ち上がった。
「地下へ行かないと」
「え?」
山下が振り返る。
「何で?」
「分かりません」
男は、
自分でも困惑しているようだった。
「でも……」
男の目が、
廊下の奥を見る。
「誰かが待っています」
「誰?」
「……私です」
「アンタ?」
「はい」
「どういう意味?」
男は答えない。
ただ、
地下へ続く階段を見つめていた。
山下はミジンコを見る。
「ミジンコちゃん」
「はい」
「地下、行くわよ」
「承知しました」
「とこちゃん」
「はい」
「あなたも」
「分かりました」
「アルちゃんは?」
「私はここにいます〜」
アルちゃんは受付でお茶を飲んでいた。
「そうね」
「はい〜」
「絶対に地下へ来ないで」
「分かりましたぁ」
山下たちは階段を下りた。
地下は、
思ったより広かった。
古い棚。
段ボール。
使われていない医療器具。
そして、
一番奥に鉄の扉。
「……こんなのあった?」
「ありました」
とこが答える。
「鍵を」
山下が差し出す。
ミジンコが受け取る。
「医院長」
「何?」
「本当に開けますか?」
「患者が開けろって言ってるんでしょう?」
「患者というより――」
ミジンコは男を見る。
「患者だった人間、でしょうか」
山下が鍵を差し込む。
カチッ。
扉が開いた。
中には、
大量のカルテが並んでいた。
「……」
山下が絶句する。
何百冊。
何千冊。
古いカルテ。
どれも、
患者名がない。
代わりに番号だけが振られている。
001。
002。
003。
――0001。
「これ……」
ミジンコが一冊を取る。
表紙を開く。
「患者番号0001」
山下が男を見る。
男は、
何も言わない。
ミジンコがカルテを読む。
「死亡日――」
そこで止まった。
「どうしたの?」
「……死亡日がありません」
「え?」
「生年月日もありません」
「じゃあ何が書いてあるの?」
ミジンコは、
最後のページを開いた。
そこには、
一つだけ記録があった。
蘇生処置――成功。
山下の呼吸が止まる。
「……誰が?」
カルテの署名を見る。
古い筆跡。
だが、
山下には見覚えがあった。
自分の字だ。
「……嘘」
とこが山下を見る。
「院長?」
「アタシ……」
山下はカルテを握る。
「こんなの、書いた覚えない」
その瞬間。
男が言った。
「先生」
山下が振り返る。
「何?」
「やっぱり、あなたでした」
「何が?」
「私を生き返らせたのは」
山下の顔が強張る。
「……待って」
「はい」
「アンタ、いつ死んだの?」
男は少し考える。
「分かりません」
「じゃあ、何年前?」
「……」
男は答えた。
「たぶん――」
その瞬間。
地下の電気が、
全部消えた。
「!」
真っ暗闇。
「とこちゃん!」
「ここにいます」
「ミジンコちゃん!」
「はい!」
「患者は!?」
「――いません!」
「は?」
山下が手を伸ばす。
さっきまで隣にいた男が、
いない。
「……嘘でしょ」
暗闇の中。
どこからか、
男の声が聞こえた。
『先生』
「どこ!?」
『次は――』
声が遠ざかる。
『あなたの番です』
電気が戻った。
そこには、
誰もいなかった。
ただ床に、
一枚の診察券が落ちている。
山下が拾う。
表には、
山下医院
患者番号、
0000
そして裏側。
今までのものとは違う。
たった一行。
死亡確認――山下光圀。
「…………」
山下は、
しばらく何も言わなかった。
「院長」
とこが呼ぶ。
「……何?」
「帰りましょう」
「そうね」
山下は診察券を握り締める。
その顔から、
いつもの笑みは消えていた。
「とこちゃん」
「はい」
「アタシね」
「はい」
「自分の死亡診断書、初めて見たわ」
「そうですか」
「……怖くないの?」
「院長が怖がっている方が珍しいので」
「アンタ、ほんっと可愛くないわね」
「ありがとうございます」
「褒めてないわよ」
二人が階段を上がる。
ミジンコが後ろからついてくる。
いつもの軽口はない。
ただ、
診察券を見つめていた。
「医院長」
「何?」
「一つだけ、確認させてください」
「何よ」
「その患者番号――」
ミジンコが言う。
「0000という番号は、政府の記録上存在しません」
「……」
「つまり」
ミジンコは地下室を振り返った。
「医院長より前に、この病院には誰も患者として登録されていない」
山下は答えない。
ただ、
手の中の診察券を見つめる。
そして――
受付に戻った瞬間。
「おかえりなさい〜」
アルちゃんが笑顔で迎えた。
「どうでした?」
「……何もなかったわ」
「そうですかぁ」
アルちゃんは何も知らない。
何も疑わない。
ただ、
いつものようにお茶を飲んでいる。
その横で、
一枚の封筒が落ちていることに山下が気付いた。
「アルちゃん」
「はい〜?」
「これ、何?」
「え?」
アルちゃんが封筒を見る。
「さっき届いたんです」
「誰から?」
「分からないですぅ」
山下が封筒を開ける。
中には、
一枚の写真。
十八年前の山下医院。
その前に立つ、
白い服の女。
そして写真の端に、
小さく写っている少年。
山下だった。
若い頃の、
山下光圀。
「……」
写真の裏には、
文字があった。
たった一言。
あなたは、一度死んでいます。
山下は、
写真を握り潰した。
誰も知らない。
山下自身さえ、
知らなかった。
自分の過去に、
すでに一度、
「死」が訪れていたことを。
そしてその日から、
山下医院の患者カルテに、
一つずつ新しい番号が増え始めた。
0001。
0002。
0003。
――0000。
最初の患者は、
誰だったのか。
その答えを、
山下はまだ知らない。
ただ一つ。
診察券の裏に刻まれた言葉だけが、
妙に頭から離れなかった。
死んだら、うちに来なさい。
第八話 完




