第七話 生きている死者
第七話 生きている死者
少女の診察が始まった。
「名前」
「……分かりません」
「年齢」
「分かりません」
「住所」
「分かりません」
「家族は?」
「……」
少女は俯いた。
山下はカルテにペンを走らせる。
「全部分からない、か」
「はい」
「じゃあ、覚えてることだけでいいわ」
「……雨」
「雨?」
「はい」
少女は胸元を押さえた。
「雨が降ってました」
「それから?」
「道路にいました」
「一人で?」
「……誰かと一緒でした」
「誰?」
「分かりません」
「顔は?」
「分かりません」
「じゃあ、何を覚えてる?」
少女は少し考えた。
「手」
「手?」
「私の手を握ってくれてました」
山下の手が止まる。
「どんな手?」
「冷たい手」
少女は顔を上げた。
「女の人でした」
「……白い服?」
「はい」
山下は黙った。
まただ。
白い服の女。
死んだ人間の前に現れる謎の存在。
そして、
必ず最後に同じ言葉を残す。
『死んだら、うちに来なさい』
「院長」
とこが声をかけた。
「はい」
「この子、身体に外傷があります」
「見せて」
少女の服を確認する。
胸部。
腹部。
腕。
目立った傷はない。
だが――
「……心臓」
山下が聴診器を当てる。
「どうしました?」
「妙ね」
「何がですか?」
「心臓が動いてる」
「普通では?」
「そうじゃない」
山下は眉をひそめる。
「この子の心臓……」
ドクン。
ドクン。
確かに動いている。
しかし、
その音が――
どこか遠い。
「まるで……」
山下が呟く。
「誰かが別の場所から動かしてるみたい」
とこが少女を見る。
「そんなこと、あるんですか?」
「普通はないわね」
「普通では?」
「ないわよ」
山下は聴診器を外した。
「だから調べるの」
その時。
診察室の扉が開いた。
「医院長」
ミジンコだった。
「身元が分かりました」
「早いわね」
「はい」
ミジンコは一枚の紙を差し出す。
「この少女――」
一瞬、
ミジンコの顔から笑みが消えた。
「戸籍上、三年前に死亡しています」
「……」
山下は紙を見る。
少女の写真。
名前。
住所。
死亡年月日。
そして――
死亡原因。
「三年前?」
「はい」
「この子、何歳?」
「現在の年齢で計算すると――」
ミジンコが答える。
「十三歳です」
山下は少女を見る。
「あなた、三年前に死んだの?」
少女は首を横に振った。
「分かりません」
「昨日死んだんじゃないの?」
「……分かりません」
山下はカルテを閉じる。
「ミジンコちゃん」
「はい」
「この子の死亡診断書は?」
「あります」
「死因」
「心不全」
「……」
山下は少女の胸を見る。
「心臓は動いてる」
「はい」
「なのに三年前に死んでる」
「はい」
「……医学って何なのよ」
とこが淡々と答える。
「院長がそれを言ったら終わりです」
「そうね」
山下は頭を抱えた。
「まったく……」
その時。
少女が、
「あ」
と声を漏らした。
「どうしたの?」
「思い出しました」
「何を?」
少女は山下を見る。
「私、死んだんじゃありません」
山下の目が細くなる。
「じゃあ、何?」
「殺されたんです」
空気が変わった。
「誰に?」
「……」
少女の顔が青ざめる。
「男の人」
「どんな人?」
「黒い服」
「顔は?」
「見えません」
「何をされたの?」
「首を――」
少女が自分の首に手を当てる。
「……掴まれました」
山下は黙った。
すると、
ミジンコが一歩前へ出た。
「医院長」
「何?」
「この子の死亡記録」
「うん」
「三年前に死亡したことになっています」
「それが?」
「ですが」
ミジンコが資料をめくる。
「死亡した三日後に――」
一枚。
「この子の住民票が移動しています」
「……は?」
「しかも」
もう一枚。
「五年前に出生届が出されています」
「ちょっと待って」
山下が資料を奪う。
「三年前に死んで」
「はい」
「その三日後に住民票が動いて」
「はい」
「五年前に生まれてる?」
「はい」
「……時間がめちゃくちゃじゃない」
「ええ」
ミジンコは頷いた。
「この子の人生そのものが、記録上存在していません」
山下は少女を見る。
少女は何も言わない。
ただ、
自分の手を見つめていた。
「先生」
「何?」
「私、本当に生きてますか?」
山下は答えられなかった。
その時――
診察室の電話が鳴った。
プルルルル。
全員が黙る。
山下が受話器を取る。
「山下医院」
『……』
「誰?」
『その子を返してください』
山下の目が鋭くなる。
「返す?」
『はい』
「どこに?」
『死者のいる場所へ』
「嫌よ」
『なぜです?』
「アタシの患者だから」
『その子は患者ではありません』
山下の眉が動く。
「何ですって?」
『その子は――』
電話の向こうの男が、
静かに言った。
『まだ生まれていない』
プツッ。
電話が切れた。
沈黙。
「……何それ」
山下が受話器を置く。
「ミジンコちゃん」
「はい」
「今の、録音できた?」
「はい」
「解析して」
「承知しました」
ミジンコが電話機へ向かう。
その横で、
とこが少女の顔を見る。
「……怖いですか?」
少女が頷く。
「はい」
「大丈夫です」
とこは少女の肩に毛布を掛ける。
「院長が何とかします」
少女が山下を見る。
山下は苦笑した。
「勝手にハードル上げないでよ、とこちゃん」
「事実です」
「……まあ、いいわ」
山下は少女の前にしゃがむ。
「ねえ」
「はい」
「名前がないの、嫌?」
「……はい」
「じゃあ、仮の名前をつけましょう」
「名前……」
「そう」
山下は少し考える。
「雨の日に来たから――」
「院長」
とこが止める。
「安直です」
「何よ」
「もっと考えてください」
「患者に名前を付けるのって、そんな難しいの?」
「一生使うかもしれません」
「……確かに」
その時。
少女が、
「しのぶ」
と呟いた。
「……え?」
「しのぶ、って」
「それが名前?」
「分かりません」
少女は胸元に手を置く。
「でも……その名前だけ覚えてます」
「じゃあ」
山下は笑った。
「今日から、しのぶね」
「……はい」
少女――しのぶが、小さく頷いた。
その瞬間。
病院の廊下で、
カツン。
何かが落ちる音がした。
全員が振り返る。
床には、
一枚の古い写真。
ミジンコが拾う。
「……医院長」
「何?」
「これ」
写真には、
山下医院の昔の姿が写っていた。
その前に、
一人の女性が立っている。
白い服。
長い髪。
顔は、
やはり見えない。
だが――
写真の裏側に、
文字が書かれていた。
ミジンコが読む。
「……『患者名、しのぶ』」
山下の顔から血の気が引いた。
「……何?」
さらにその下。
古い日付。
三年前。
そして、
一行だけ。
死亡確認。
山下は写真を握り締めた。
「この写真……」
ミジンコが答える。
「十八年前の記録にあったものと同じです」
「違う」
山下が首を振る。
「日付が違う」
「はい」
「じゃあ――」
山下は写真を見る。
「誰がこの写真を撮ったの?」
誰も答えない。
しのぶが、
小さな声で言った。
「先生」
「何?」
「この人……」
少女は写真の女を指差した。
「知ってます」
山下の呼吸が止まった。
「どこで?」
「夢の中です」
「何て言ってた?」
しのぶは、
少しだけ笑った。
「先生に伝えてって」
「何を?」
少女は写真を見る。
「『まだ、七人しか来てない』って」
――静寂。
山下の目が細くなる。
「七人……?」
今、
山下医院にいる死者は七人。
その数を、
なぜ知っている?
そして――
何を待っている?
山下は写真の女を睨んだ。
「……上等じゃない」
白衣を整える。
「患者を集めるなら、好きにしなさい」
そして、
低い声で言った。
「全部、アタシが診てやるわ」
廊下の奥。
誰もいないはずの場所から、
女の声がした。
『……そうしてください』
山下は振り返る。
誰もいない。
ただ、
風もないのに、
白衣の裾だけが揺れていた。
⸻
その夜。
山下医院の地下。
誰も使っていない古い資料室で、
一台の電話が鳴った。
プルルルル。
受話器を取ったのは、
ミジンコだった。
「はい」
『……どうだった』
「見つかりました」
『そうか』
「ですが、想定と違います」
『何がだ』
「彼女は――」
ミジンコは、
ほんの少しだけ声を落とした。
「まだ生まれていません」
電話の向こうで、
沈黙。
そして男が言った。
『……ならば、始まったということだ』
ミジンコは目を閉じる。
「承知しました」
電話を切る。
その背後には、
古い壁画があった。
そこには、
一人の男と一人の女。
そして、
二人の足元から伸びる、
無数の人影が描かれていた。
ミジンコはそれを見上げる。
「……医院長」
小さく呟く。
「どうか、まだ知らないでください」
その壁画の一番下。
誰にも読めないほど古い文字で、
こう刻まれていた。
死者は帰る。
そして、その隣に。
もう一つの文字。
生者は生まれる。
第七話 完




