第三十話 忘れ物
『死んだら、うちに来なさい』
第三十話 忘れ物
山下医院の朝は、いつも慌ただしい。
「医院長ー!」
受付からミジンコの声が響く。
「何よ!」
「患者さんが来ません!」
「予約時間は?」
「まだ三十分前です!」
「じゃあ来てないのが普通でしょうが!」
「そうなんですか?」
「そうなのよ!」
「なるほど!」
ミジンコが真面目な顔で頷く。
「では、三十分経過するまで待機します!」
「いちいち報告しなくていいの!」
山下が診察室へ戻ろうとした、その時だった。
「あれ?」
受付の椅子に、一冊の古いノートが置かれていた。
「何これ」
山下が手に取る。
「患者さんの忘れ物ですか?」
ミジンコが覗き込む。
「名前は?」
「書いてありません」
「中身は?」
「見ていいんですか?」
「個人情報が書いてあったらダメでしょうが」
「では見ません!」
「そういうところだけ律儀なのよね……」
山下はノートを閉じた。
「受付で預かっときなさい。持ち主が来たら返す」
「了解です!」
ミジンコがノートを引き出しにしまう。
その時は、それだけのことだった。
*
午前十時。
予約していた患者がやってきた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは。今日はどうしました?」
「昨日から頭痛がひどくて」
「いつから?」
「夕方くらいからです」
「熱は?」
「ありません」
ごく普通の患者だった。
山下が診察をしている間、ミジンコは受付でカルテを整理していた。
「……あれ?」
引き出しを開ける。
さっきのノートがない。
「……?」
ミジンコは首を傾げる。
「医院長ー!」
「今度は何!」
「ノートがありません!」
「さっきしまったでしょうが」
「はい!」
「じゃあ、そこにあるでしょう」
「ないんです!」
「ちゃんと探した?」
「探しました!」
「本当に?」
「はい!」
ミジンコが引き出しを全部開ける。
ない。
受付の下。
ない。
棚。
ない。
「……変ね」
山下も探す。
やはりない。
「誰か持っていった?」
「患者さんでしょうか?」
「可能性はあるわね」
とこが静かに言った。
「でも」
「何?」
「患者さんは、受付から一度も離れていません」
「……」
山下は黙った。
「じゃあ、どこに行ったのよ」
誰も答えられない。
*
昼過ぎ。
「医院長」
アルちゃんが受付へやってきた。
「どうしたの?」
「これ、玄関の前に落ちていました」
手には、あのノート。
「……」
「探してました?」
「探してたわよ!」
「すみません」
「アルちゃんが持ってたの?」
「いえ。玄関に落ちていました」
「玄関?」
「はい」
山下はノートを受け取る。
「変ね……」
「何がですか?」
「一回受付にあったのよ」
「はい」
「その後なくなって」
「はい」
「今度は玄関?」
「そうですね」
山下はノートを見る。
「……開けてない?」
「開けてません」
「そう」
「ただ」
「何?」
「名前だけ見ました」
「誰の?」
アルちゃんが答える。
「私の名前でした」
「……」
山下の手が止まった。
*
「アルちゃんの名前?」
ミジンコが目を丸くする。
「はい」
「何でですか?」
「分かりません」
アルちゃんは首を傾げる。
「私、このノート知りません」
「中は?」
「見てません」
「じゃあ、確認しましょう」
ミジンコが手を伸ばす。
山下が止めた。
「待ちなさい」
「はい」
「アルちゃん」
「はい?」
「そのノート、本当に知らない?」
「はい」
「見たことも?」
「ありません」
「……そう」
山下はノートを開いた。
一ページ目。
何もない。
二ページ目。
何もない。
三ページ目。
白紙。
山下はページをめくっていく。
最後まで、何もない。
「何これ」
「白紙ですね」
ミジンコが言う。
「見れば分かるわよ」
「すみません」
最後のページを閉じる。
その時だった。
――パラッ。
ノートが勝手に開いた。
「……」
全員が見る。
さっきまで何もなかったはずのページに、一行だけ文字があった。
**『忘れ物を取りに来てください』**
「……」
ミジンコが一歩下がる。
「医院長」
「何よ」
「これ」
「見えてるわよ」
「怖いですね」
「うるさいわね」
山下は文字を睨む。
「誰が書いたのよ」
返事はない。
アルちゃんは、静かにノートを見ていた。
「アルちゃん?」
「はい?」
「何か思い出した?」
「いいえ」
アルちゃんは少し考える。
「ただ」
「うん」
「なんだか、懐かしい感じがします」
「……」
山下はアルちゃんを見る。
だが、それ以上は聞かなかった。
*
その日の夕方。
山下医院の前に、一人の男が立っていた。
「……ここか」
男は山下医院の看板を見る。
「まだあったんだな」
そのまま玄関を開ける。
――カラン。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
ミジンコが顔を上げる。
「診察ですか?」
「いや」
男は院内を見回す。
「昔ここに来たことがあるんです」
「患者さんですか?」
「たぶん」
「たぶん?」
「覚えていないんです」
男は苦笑した。
「自分がいつ、ここへ来たのか」
「……」
「でも、ずっと探していました」
「何を?」
男は答えた。
「忘れ物を」
*
男は五十代くらいだった。
「名前は?」
「榊です」
「下の名前は?」
「……」
男はしばらく考えた。
「分かりません」
「え?」
「名字は分かるんです」
「下の名前だけ?」
「はい」
山下が診察室から出てくる。
「どうしたの?」
「昔、この病院に来たことがあるそうです」
「昔?」
山下は男を見る。
「いつ頃?」
「分かりません」
「何の病気で?」
「分かりません」
「じゃあ、何しに来たの?」
男は困ったように笑った。
「それを思い出すために来ました」
「……」
山下は何とも言えない顔をした。
「変な患者ね」
「よく言われます」
「じゃあ、とりあえず座って」
「はい」
*
診察をしても、身体には異常がなかった。
「健康ですね」
「そうですか」
「でも、記憶に関する問題はある」
「はい」
山下はカルテを書く。
「ここで何か思い出すかもしれないし、少し院内を見てみる?」
「いいんですか?」
「構わないわ」
「ありがとうございます」
男は廊下を歩いていく。
受付。
待合室。
診察室。
そして、古い廊下の奥。
「……」
男が立ち止まる。
「ここ」
「何?」
山下が後ろから来る。
「知っています」
「何を?」
「この廊下」
「昔来たことがあるなら当然じゃない?」
「違います」
男は首を振った。
「知ってるんじゃなくて」
「……」
「帰ってきた感じがします」
山下は、何も言わなかった。
*
廊下の突き当たりには、古い棚がある。
普段はほとんど使っていない。
男が、その前に立つ。
「……ここです」
「何が?」
「俺の忘れ物」
「何?」
男が棚を開ける。
一番下。
古い箱が一つ。
「これだ」
「……」
箱には、名前が書いてある。
**榊 誠**
男が息を呑んだ。
「……俺の名前」
「思い出した?」
「はい」
男は箱を抱える。
「全部じゃない」
「何を思い出したの?」
「俺は昔」
男は箱を見る。
「ここで治療を受けた」
「何の?」
「事故です」
「事故?」
「死ぬほどの事故だった」
山下は黙って聞く。
「その時」
男は箱を開ける。
中には、一枚の写真が入っていた。
若い頃の男。
その隣に、一人の女性。
「妻です」
「……」
「事故で亡くなりました」
「そう」
「俺だけ助かった」
男は写真を握る。
「でも」
「うん」
「俺はずっと、何かを忘れている気がしていた」
「それが、この写真?」
「違います」
男は首を振る。
「妻のことを忘れたわけじゃない」
「じゃあ?」
「自分がどうして助かったのかを忘れていたんです」
山下は男を見る。
「……思い出した?」
「はい」
男は静かに笑った。
「この病院で、先生に言われたんです」
「何て?」
「『生き残ったなら、生きなさい』って」
「……」
「ずっと、その言葉だけ覚えていました」
男は写真を見る。
「でも」
「うん」
「誰に言われたのかだけ、忘れていた」
山下は、何故か胸が痛くなった。
「……それ」
「はい」
「私じゃないわよ」
「え?」
「そんな昔から、この病院にいた覚えないもの」
「……」
二人とも黙る。
すると。
「医院長」
とこが廊下の向こうから声をかけた。
「何?」
「その箱」
「うん」
「古いですね」
「そうね」
「でも」
とこが箱を見る。
「埃がありません」
「……」
山下が箱を触る。
確かに。
古い箱なのに、埃一つついていない。
「誰かが最近触った?」
「分かりません」
とこは首を振る。
男が箱の底を見る。
「……」
「どうしたの?」
「もう一つ、入ってます」
「何が?」
箱の底から、小さな紙切れを取り出す。
そこには、一言だけ書かれていた。
**『返すものは、返す』**
山下は、その文字を見つめた。
「……またね」
小さく呟く。
*
夜。
榊は帰っていった。
写真を大切そうに胸に抱えて。
「ありがとうございました」
「忘れ物、ちゃんと持って帰りなさいよ」
「はい」
「もう忘れないように」
「努力します」
男は笑った。
玄関の扉が閉じる。
――カラン。
静かになる。
「医院長」
ミジンコが言う。
「何?」
「今日の患者さん」
「うん」
「普通の人でしたね」
「そうね」
「死んでませんでした」
「そうね」
「よかったです」
「……何で?」
「だって」
ミジンコは笑う。
「生きてる人も来る病院だって分かったので」
「……」
山下は、少しだけ笑った。
「そうね」
「はい」
「ここは病院なんだから」
「はい」
その言葉を聞いて、とこが静かに窓の外を見る。
もう夜だった。
月が出ている。
山下も何気なく空を見る。
「……今日は月が綺麗ね」
「そうですね」
とこが答える。
ミジンコは受付の明かりを消す。
「じゃあ、明日も頑張りましょう!」
「そうね」
四人が、それぞれの場所へ戻っていく。
誰も気づかなかった。
受付の引き出し。
あの白紙だったノートが、
ひとりでに開いていることに。
そして最後のページに、
新しい一行が増えていることに。
――
**『一つ、返した』**
その下には、
小さく。
**『あと二つ』**
とだけ、
書かれていた。
山下医院の夜は、
静かに更けていった。
何も起こらない夜のように。
第三十話 完




