第二十九話 影を置いてきた男
『死んだら、うちに来なさい』
第二十九話 影を置いてきた男
その男が山下医院に来たのは、
午前九時だった。
「失礼します」
男は受付で立ち止まった。
「どうしました?」
アルちゃんが声をかける。
「……自分でも、何が起きているのか分からないんです」
「具合が悪いんですか?」
「身体は何ともありません」
「では、どこが?」
男は、
足元を指差した。
「影がありません」
「……」
アルちゃんが床を見る。
確かに。
男の足元には、
何もない。
「……本当ですね」
「昨日まではあったんです」
男は困った顔をする。
「今朝起きたら、なくなっていました」
「影が?」
「はい」
そこへ山下がやってきた。
「どうしたの?」
「影がないそうです」
「影?」
山下が男を見る。
そして、
足元を見る。
「……ほんとだわ」
「先生、どうにかなりますか?」
「知らないわよ」
「医者ですよね?」
「医者だからって影の修理まで出来ると思わないで」
「すみません……」
男が落ち込む。
山下は少し考える。
「とりあえず診察室へ」
「はい」
*
「名前は?」
「佐伯亮です」
「年齢」
「三十四」
「職業」
「高校教師です」
「持病は?」
「ありません」
「昨日、何か変わったことは?」
「……」
佐伯は考え込む。
「夢を見ました」
「どんな夢?」
「暗い場所にいました」
「暗い?」
「はい」
佐伯は、
しばらく黙ってから言った。
「川がありました」
山下の手が止まる。
「川?」
「はい」
「向こう岸には何が?」
「……」
佐伯は眉間に皺を寄せる。
「誰かがいました」
「男?」
「分かりません」
「女?」
「分かりません」
「じゃあ何が見えたの?」
「手です」
「手?」
「川の向こうから、手だけが伸びていて」
佐伯は自分の腕をさする。
「俺の影を掴んだんです」
山下の顔が険しくなる。
「それで?」
「引っ張られました」
「影を?」
「はい」
「そして目が覚めたら、影がなくなっていた」
「……そうです」
山下は椅子にもたれた。
「なるほどね」
「分かりましたか?」
「全然」
「……」
「でも」
山下は立ち上がる。
「ちょっと興味深いわ」
*
地下室。
山下は古い資料をひっくり返していた。
「影を失った人間……」
ページをめくる。
「影……影……」
ミジンコが横から覗く。
「医院長」
「何?」
「こういう時は自衛隊では情報収集活動を――」
「ここ病院よ」
「了解です」
「あと何で双眼鏡持ってるの?」
「情報収集です」
「置きなさい」
「はい」
ミジンコが双眼鏡を机に置く。
とこは黙々と資料を読んでいた。
「……ありました」
「何が?」
「影に関する記録です」
とこが古い紙を差し出す。
そこには、
手書きで一行だけ記されていた。
**『影を失った者は、死んでいるのではない。死を置いてきたのである』**
「……」
山下は眉をひそめる。
「何よ、それ」
「分かりません」
「意味不明ね」
ミジンコが紙を見る。
「つまり」
「何?」
「本人は生きてるけど、死んだ部分だけ置いてきたんじゃないですか?」
「……」
山下がミジンコを見る。
「どうしたんです?」
「たまにアンタ、変なところで鋭いのよ」
「褒められました!」
「褒めてない」
とこが紙の裏を見る。
「院長」
「何?」
「続きがあります」
紙の裏。
小さな文字で、
こう書かれていた。
**『死を置いてきた者は、いずれ死を取り戻す』**
「……」
山下の顔が曇る。
「嫌な予言ね」
*
午後。
佐伯は待合室で待っていた。
「先生」
「何?」
「影って、戻りますか?」
「分からない」
「そうですか……」
「でも」
山下は言う。
「取り戻す方法は探す」
「ありがとうございます」
佐伯が笑う。
その瞬間。
待合室の床に、
何かが落ちた。
黒い染み。
「……?」
佐伯が見る。
「先生」
「何?」
「あれ……」
黒い染みが、
ゆっくり動いている。
床を這うように、
佐伯の足元へ近づいてくる。
「動かないで」
山下が言う。
「はい……」
黒い染みは、
佐伯の足元で止まった。
そして、
ゆっくりと人の形になる。
「……」
佐伯の影だった。
「戻った……?」
佐伯が一歩踏み出す。
影も動く。
「良かった……」
佐伯が笑った。
しかし。
山下は笑っていなかった。
「違う」
「え?」
「その影」
山下が指差す。
「アンタの動きと合ってない」
「……」
佐伯が右手を上げる。
影は、
左手を上げた。
「……!」
佐伯が後ずさる。
影は、
一歩前に出る。
「先生……」
「下がって!」
山下が叫ぶ。
影が、
ゆっくり顔を上げた。
顔なんてない。
ただ、
黒い輪郭だけ。
それなのに。
全員が、
「笑っている」
と分かった。
「……」
とこが前へ出る。
「院長、下がってください」
「とこちゃん?」
「私が――」
影が突然、
とこへ向かって走った。
――ドン!
とこが片手を伸ばす。
影が止まる。
「……」
空気が凍ったように静かになる。
影は、
とこの手前で動けなくなっていた。
とこは無表情のまま、
「戻って」
と言う。
影が震える。
「戻りなさい」
その声に反応するように、
影が佐伯の足元へ戻った。
「……」
ミジンコが目を丸くする。
「すごい」
「ミーくん」
「はい」
「今のことは忘れて」
「了解しました」
「……」
山下は、
とこを見る。
「今、何したの?」
「分かりません」
「分からない?」
「ただ、戻しただけです」
「……」
とこ自身も、
自分の手を見つめていた。
*
その夜。
佐伯は帰宅した。
影は、
ちゃんと戻っている。
「ありがとうございました」
「もう変な夢は見ないようにね」
「はい」
玄関を出る。
佐伯は振り返る。
「先生」
「何?」
「この病院って……」
「うん」
「何か変ですよね」
「……」
「でも」
佐伯は笑う。
「嫌いじゃないです」
ドアが閉まる。
山下は、
その背中を見送った。
「変な患者だったわね」
「院長」
アルちゃんが言う。
「患者さんが帰った後の顔、少し嬉しそうでした」
「そう?」
「はい」
「……」
山下は、
少しだけ笑う。
「生きて帰れたなら、それでいいのよ」
「そうですね」
アルちゃんも笑う。
その夜。
山下医院の屋上。
誰もいないはずの場所に、
一つの影が立っていた。
人の形。
けれど、
持ち主はいない。
影は、
山下医院を見つめている。
そして、
小さく呟いた。
「……三人」
誰も聞いていない。
「まだ、揃っていない」
影が、
夜の闇へ溶けていく。
*
翌朝。
山下が診察室へ入ると、
机の上に一枚の紙が置かれていた。
誰が置いたのか、
誰にも分からない。
紙には、
こう書かれている。
**『太陽が戻った』**
その下に、
もう一行。
**『次は、月が欠ける』**
そして最後に、
小さな文字で。
**『三人目が目を覚ます』**
山下は、
その文字を見つめた。
「……三人目?」
背後から、
ミジンコの声がした。
「医院長」
「何?」
「朝ご飯できました」
「……」
「今日は卵焼きです」
「……ミジンコちゃん」
「はい」
「今だけは空気読んで」
「了解です」
ミジンコが去っていく。
山下は、
もう一度紙を見る。
そして。
自分の胸の奥で、
昨日と同じ鼓動が鳴った。
――ドクン。
けれど今回は、
それだけではなかった。
どこからともなく、
遠い海の音が聞こえた。
そして、
誰かが笑った。
山下は振り返る。
誰もいない。
ただ窓の外で、
一羽の鳥が飛んでいた。
その鳥は、
朝日に向かって飛んでいく。
山下は、
なぜかその姿から目を離せなかった。
「……何なのよ」
答える者はいない。
ただ、
鳥だけが空高く飛んでいった。
**第二十九話 完**




