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第二十八話 鳥のいない朝

『死んだら、うちに来なさい』


第二十八話 鳥のいない朝


 朝が来た。


 正確には――


 朝らしい明るさが戻った。


 太陽そのものは、まだ見えない。


 薄暗い空。


 白んだ街。


 そして、


 異様なほど静かな世界。


「……鳥がいない」


 山下は窓の外を見ながら呟いた。


 昨日から一羽も見ない。


 雀も。


 カラスも。


 鳩も。


「鳥だけじゃありません」


 とこが言う。


「虫もいません」


「虫も?」


「はい」


 窓を開ける。


 風は吹いている。


 木の葉も揺れている。


 なのに、


 生き物の気配だけがない。


「何かがおかしいわね」


「最初からおかしいです」


 ミジンコが朝食を食べながら言った。


「アンタは何で朝からカレー食ってるのよ」


「非常時の栄養補給です」


「ただの朝カレーでしょ」


「そうとも言います」


「……」


 山下はため息をつく。


「まあいいわ」


 その時。


 玄関のドアが開いた。


「すみません!」


 若い男性が駆け込んでくる。


「助けてください!」


「どうしたの?」


「妻が……!」


 男は息を切らしている。


「妻が、昨日から眠ったまま起きないんです!」


「救急車は?」


「呼びました!」


「病院には?」


「どこも原因が分からないって……」


 山下は立ち上がる。


「連れてきなさい」


「はい!」


     *


 患者は、


 二十代後半の女性だった。


 ベッドに横たわっている。


 呼吸は正常。


 心拍も正常。


 脳にも異常はない。


「なのに起きない」


 山下が瞳孔を確認する。


「昏睡状態?」


「検査では異常なしです」


 とこが答える。


「それなら……」


 山下は患者の胸に手を置く。


「……」


 命はある。


 けれど、


 どこか遠い。


 まるで、


 身体だけを残して、


 本人の意識だけが別の場所に行っているような感覚。


「これは返命じゃない」


 山下が言う。


「じゃあ何です?」


 ミジンコが尋ねる。


「分からない」


 山下は目を閉じる。


 すると――


 聞こえた。


 遠くから、


 水の音。


 そして、


 女性の声。


『こっち……』


「……」


 山下は目を開ける。


「誰かいる」


「患者さんの中にですか?」


「違う」


「では?」


「分からない」


 山下は患者の手を握る。


「戻ってきなさい」


 返事はない。


「ここは病院よ」


 もう一度。


「帰ってきなさい」


 すると――


 患者の指が、


 ほんの少し動いた。


「……!」


 夫が駆け寄る。


「今、動きましたよね!?」


「静かに」


 山下は目を閉じる。


「……帰ってきて」


 その瞬間。


 患者の身体が、


 大きく震えた。


「っ……!」


 そして、


 目を開いた。


「……ここ……どこ?」


「山下医院よ」


「先生……?」


「そう」


 患者は、


 ゆっくり身体を起こす。


「私……夢を見てました」


「どんな夢?」


 女性は、


 少し考える。


「川がありました」


「……」


 山下の顔が変わる。


「川?」


「はい」


「他には?」


「向こう岸に……」


 女性が言葉を止める。


「誰かいました」


「誰?」


「分かりません」


「男?」


「……たぶん」


 山下は、


 それ以上聞かなかった。


 ただ、


 嫌な予感だけが残った。


     *


 昼。


 患者は無事に帰宅した。


 夫婦が何度も頭を下げる。


「ありがとうございました!」


「もう無理しないでね」


「はい!」


 ドアが閉まる。


 山下は、


 しばらくその場に立っていた。


「院長」


 とこが声をかける。


「何?」


「昨日の山本さん」


「どうした?」


「今朝、家族が全員彼を認識できるようになりました」


「……本当?」


「はい」


「何が変わったの?」


「分かりません」


 とこは、


 一枚の写真を見せる。


 家族写真。


 昨日まで、


 山本誠一だけが薄くなっていた。


 しかし今は、


 普通に写っている。


「……」


 山下は写真を見る。


「戻った」


「はい」


「じゃあ、誰かが死んだ?」


「死亡者の増加は確認されていません」


「……」


 山下は眉をひそめる。


「代償なしで戻った?」


「そのようです」


「そんなこと、ある?」


「分かりません」


 ミジンコが横から口を挟む。


「もしかしたら――」


「何?」


「太陽が関係してるんじゃないですか?」


「……」


「昨日から世界がおかしくなって、今朝少し明るくなったら山本さんが戻った」


「確かに」


「太陽の力とか」


「……」


 山下はミジンコを見る。


「何よ」


「いえ」


「言いたいことがあるなら言いなさい」


「なんとなく、ミジンコちゃん自身が光って見えます」


「は?」


「ほら」


 ミジンコの髪が、


 窓から差し込む光を反射している。


「ただの寝癖よ」


「そうでしたか!」


「納得するの早いわね」


     *


 午後。


 ミジンコは休憩時間になった。


「ちょっと出てきます」


「どこへ?」


「バードウォッチングです」


「……」


 山下が固まる。


「何?」


「鳥を見に行くんですよ」


「鳥、いないわよ」


「だから探しに行きます」


 ミジンコは双眼鏡を取り出した。


 そして、


 意味ありげに笑う。


「雛鳥を観察しに――」


「幼稚園に行くんじゃないでしょうね?」


「……」


「ミジンコちゃん」


 とこが立ち上がった。


「ミーくん」


「はい」


「いくよ」


「待ってください」


 ミジンコが青ざめる。


「私はただ、鳥類の生態調査を――」


「いくよ」


「自分は純粋な観察者で――」


「いくよ」


 ズルズルズル。


「医院長ー!」


「はいはい」


 扉が閉まる。


 数分後。


 ミジンコが戻ってきた。


「……」


 非常に姿勢が良い。


「ただいま戻りました」


「おかえり」


 とこは何事もなかったように席へ戻る。


「それで」


 山下が話を続ける。


「午後の診察だけど――」


「はい」


 ミジンコも何事もなかったように返事をした。


「今日、予約何人?」


「三人です」


「そう」


 山下は、


 ミジンコの目を見る。


「……何も聞かないでおこう」


「賢明です」


     *


 夕方。


 ようやく、


 空に変化が現れた。


「院長」


 とこが窓を見る。


「太陽が出ます」


「……」


 雲の向こうから、


 光が差し込んでくる。


 そして――


 太陽が姿を現した。


 その瞬間。


 街中から、


 鳥の声が聞こえ始めた。


 雀。


 カラス。


 鳩。


 遠くから、


 名前も知らない鳥の声まで。


「……戻った」


 アルちゃんが窓辺に立つ。


「良かったですね」


「ええ」


 山下も空を見る。


 だが、


 何かがおかしい。


 太陽が、


 妙に大きく見える。


「……」


 山下の胸が熱くなる。


「また……」


「院長?」


「大丈夫」


 手のひらを見る。


 文字はない。


 けれど、


 胸の奥で何かが鼓動している。


 昨日の光。


 海。


 嵐。


 そして、


 知らない誰かの声。


 ――


 『姉上』


「……」


 山下は、


 その言葉だけが気になっていた。


「とこちゃん」


「はい」


「アタシに姉なんていたっけ?」


「……」


 とこは少し考える。


「知りません」


「そうよね」


「ただ」


「何?」


「私にも、誰かを呼んでいるような記憶があります」


「……」


 とこは、


 自分の胸元に手を当てる。


「名前は思い出せません」


 その時。


 ミジンコが突然、


 窓の外を指差した。


「あっ!」


「何?」


「太陽の近く!」


 三人が空を見る。


 太陽の横。


 そこに、


 小さな黒い点がある。


「鳥?」


 アルちゃんが目を細める。


「違います」


 とこが答える。


「何?」


「人です」


「……は?」


 黒い影は、


 空からゆっくり降りてくる。


 人の形。


 そして――


 山下医院の屋上に、


 音もなく着地した。


「……」


 白い服。


 長い髪。


 顔は見えない。


 その人物は、


 山下医院を見下ろしている。


「誰よ……」


 山下が呟く。


 男は、


 静かに口を開いた。


「ようやく、太陽が戻ったか」


「……」


「ならば」


 男は山下を見る。


「次は月だ」


 その瞬間。


 空から、


 太陽の光が消えた。


 そして東の空に――


 月が昇った。


 まだ昼なのに。


 白い月が、


 異様なほど大きく。


 山下医院を照らしていた。


「……」


 とこが、


 初めて目を見開いた。


 ミジンコは、


 なぜかその月を見つめたまま動かない。


 そして。


 誰にも聞こえないほど小さな声で、


 ミジンコが呟いた。


「……姉ちゃん?」


「……?」


 山下が振り返る。


「今、何て言った?」


「え?」


 ミジンコは首を傾げる。


「何も言ってませんよ?」


「……」


 山下は、


 もう一度空を見る。


 太陽と月。


 同時に存在する二つの光。


 その光の間で、


 何か巨大なものが動いた。


 けれど、


 それが何なのか。


 山下たちには、


 まだ分からなかった。


 ただ一つ。


 確かなことがある。


 この日を境に――


 山下医院を訪れる患者の「死」は、


 少しずつ普通ではなくなっていった。


**第二十八話 完**

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