第三十一話 雨宿り
『死んだら、うちに来なさい』
第三十一話 雨宿り
朝から雨だった。
山下医院の窓を、細かな雨粒が叩いている。
「今日は暇そうですねぇ」
受付でミジンコが頬杖をついていた。
「雨の日は患者さん減るからね」
山下はカルテを整理しながら答える。
「じゃあ今日はお休みですか?」
「何でそうなるのよ」
「雨天休業」
「病院にそんな制度ないわよ」
「残念です」
「何が残念なのよ」
ミジンコが窓の外を見る。
「雨の日って、何か眠くなりません?」
「アンタは晴れてても眠そうじゃない」
「確かに!」
「威張るところじゃないわよ」
とこは少し離れた机で、いつものように書類を整理していた。
「医院長」
「何?」
「午後の予約、一件です」
「今日は少ないわね」
「はい」
「じゃあ、今日は少し楽かしら」
「そうですね」
とこは窓の外を見る。
しばらくして、
「……でも、もう一人来ます」
「予約外?」
「はい」
「何で分かるのよ」
「分かりません」
「じゃあ言わないでよ」
「来る気がします」
「……まあ、そういう日もあるわね」
山下はそれ以上気にしなかった。
*
午前中の診察が終わった。
正午を過ぎても、新しい患者は来ない。
「……」
ミジンコが時計を見る。
「とこ姐さん」
「はい」
「まだ来ませんね」
「はい」
「患者さん」
「はい」
「来るって言ってましたよね?」
「言いました」
「外れましたよ?」
「まだ今日が終わってません」
「なるほど」
ミジンコは納得した。
「では待ちます!」
「仕事しなさい」
「はい」
午後一時。
――カラン。
玄関のベルが鳴った。
「ほら」
とこが言う。
「……」
ミジンコが固まる。
「来ました」
「すげぇ……」
「何がですか?」
「とこ姐さんの予言!」
「予言ではありません」
玄関を見る。
一人の男が立っていた。
ずぶ濡れだった。
*
「どうぞ」
山下がタオルを渡す。
「ありがとうございます」
男は頭を下げた。
年齢は三十代半ばくらい。
髪から水が滴っている。
「傘は?」
「ありません」
「ここまで歩いてきたの?」
「はい」
「ずいぶん濡れたわね」
「雨が強かったので」
「でしょうね」
山下は男を見る。
「今日はどうしました?」
男は少し考えた。
「……それが、自分でもよく分からないんです」
「体調が悪い?」
「そういうわけではありません」
「じゃあ何?」
「ここに来たかったんです」
「山下医院に?」
「はい」
「どうして?」
「分かりません」
「……」
山下は小さくため息をついた。
「今日はそういう患者の日なのかしら」
*
「名前は?」
「佐伯です」
「下の名前は?」
「直人です」
「年齢」
「三十四です」
「住所」
男は答える。
受け答えはしっかりしている。
熱もない。
血圧も正常。
身体的な異常も見当たらない。
「どこも悪くないわね」
「はい」
「じゃあ、どうして病院に来たの?」
「……」
佐伯は窓の外を見る。
「雨だからです」
「雨?」
「雨の日になると」
少し間を置いて、
「ここに来なきゃいけない気がするんです」
「毎回?」
「今年に入ってからです」
「何回?」
「今日で三回目です」
「一回目は?」
「三月」
「二回目は?」
「六月」
「そして今日」
「はい」
山下はカルテに書き込む。
「その時、何か起きた?」
「何も」
「誰かに会った?」
「いいえ」
「じゃあ、何でここに来るの?」
「……分からないんです」
*
診察が終わっても、佐伯は帰ろうとしなかった。
「どうしたの?」
「もう少し、ここにいてもいいですか?」
「別にいいけど」
「ありがとうございます」
佐伯は待合室の椅子に座った。
ミジンコがちらちらと様子を見ている。
「ミジンコ」
「はい!」
「見すぎ」
「すみません」
「何が気になるの?」
「雨の日にだけ来る患者さんですよ?」
「それが?」
「何かありそうじゃないですか」
「何もないかもしれないでしょうが」
「でも!」
「でも?」
「こういう人が来ると、だいたい何か起こります!」
「アンタが言うと不吉なのよ」
佐伯が小さく笑った。
「すみません」
「何が?」
「なんだか、懐かしくて」
「何が?」
「こういう会話」
佐伯は待合室を見回した。
「病院って、こんな感じでしたよね」
「病院だからね」
「そうですよね」
男は少しだけ笑った。
*
午後三時。
雨はさらに強くなった。
突然、
佐伯が立ち上がった。
「……あ」
「どうしたの?」
山下が聞く。
「今」
「何?」
「思い出しました」
「何を?」
佐伯は窓を見る。
「俺、ここに来た理由」
「誰かを探してるの?」
「……たぶん」
「誰?」
「分かりません」
「それじゃ思い出してないじゃない」
「顔は思い出しました」
「誰?」
「女の人です」
「家族?」
「分かりません」
「友達?」
「分かりません」
「じゃあ誰よ」
「でも」
佐伯が窓の外を見る。
「この雨の日に、ここで会う約束をしたんです」
山下は黙った。
「いつ?」
「分かりません」
「昔?」
「たぶん」
「何年前?」
「……」
佐伯は頭を押さえた。
「痛っ……」
「どうしたの?」
「頭が」
「頭痛?」
「違います」
佐伯が目を閉じる。
「思い出そうとすると、痛いんです」
山下が立ち上がる。
「無理に思い出さなくていい」
「でも」
「いいから」
山下は佐伯の肩に手を置いた。
「忘れてることには、忘れてる理由があるのよ」
「……」
「無理やり引っ張り出したって、ろくなことにならない」
佐伯は黙った。
*
しばらくして。
雨音だけが待合室に響いていた。
とこが、
窓の外を見る。
「……来ました」
「また?」
山下が聞く。
「はい」
「誰が?」
「女性です」
ミジンコが窓を見る。
「どこに?」
「道路の向こうです」
全員が見る。
雨の中。
一人の女性が立っていた。
傘も差さずに、
山下医院を見ている。
佐伯が立ち上がった。
「……あの人です」
「知ってるの?」
「分かりません」
「どっちよ」
「でも」
佐伯は玄関へ向かう。
「待って」
山下が止める。
「まだ外に出ないで」
「どうして?」
「嫌な感じがする」
佐伯は立ち止まった。
女性は道路の向こうから動かない。
そして。
ゆっくり頭を下げた。
佐伯も頭を下げる。
女性が踵を返す。
「待って!」
佐伯が叫ぶ。
だが女性は、
雨の中を歩き去っていく。
「佐伯さん!」
山下が呼ぶ。
佐伯は動かなかった。
「……違う」
「え?」
「あの人じゃない」
「……」
「俺が待ってた人じゃない」
山下は息を吐いた。
「じゃあ、誰を待ってたの?」
「……」
佐伯は考える。
しばらくして、
「分かりません」
「またそれ?」
「でも」
佐伯は少し笑った。
「もう、待たなくていい気がします」
*
夕方。
雨が止んだ。
佐伯は帰ることにした。
「ありがとうございました」
「何もしてないけどね」
「ここに来られただけで十分です」
「そう」
「また雨が降ったら来てもいいですか?」
「病院だからね。具合が悪かったら来なさい」
「はい」
佐伯は玄関へ向かう。
そこで、
ふと立ち止まった。
「先生」
「何?」
「この病院」
「うん」
「前からありましたよね?」
「あるわよ」
「……そうですか」
佐伯は何かを言いかけた。
だが、やめた。
「ありがとうございました」
今度こそ外へ出ていった。
――カラン。
*
「結局、何だったんでしょう?」
ミジンコが言う。
「さあね」
「患者さん自身にも分からなかったですね」
「そうね」
「でも、帰る時は少しスッキリしてました」
「それならいいじゃない」
山下はカルテを閉じる。
「病院って、病気だけ治す場所じゃないのよ」
「じゃあ何を治すんですか?」
「さあ」
「医院長も分からないんですか?」
「分からないわよ」
山下は笑った。
「でも、帰る時に少しだけ楽になってるなら、それでいいでしょう」
とこが静かに頷く。
「はい」
「とこちゃん」
山下が言いかけて、
一瞬だけ言葉を止めた。
「……とこ」
「はい」
「今日、最初から分かってたの?」
「何がですか?」
「佐伯さんが来ること」
「雨の匂いが違いました」
「それだけ?」
「はい」
「何よそれ」
「分かりません」
ミジンコが笑う。
「じゃあ、今日はみんな分からない日ですね!」
「何そのまとめ方」
山下が呆れる。
その時だった。
受付の引き出しが、
ほんの少しだけ開いている。
「あら?」
山下が引き出しを開ける。
あの古いノート。
ページが一枚、
濡れていた。
「……?」
雨水が付いたような跡。
しかし、
ノートを置いていた場所には水など一滴もない。
山下がページをめくる。
前に書かれていた文字の下に、
新しい文字が増えていた。
**『二つ目は、まだ帰っていない』**
「……」
山下は、
しばらくその文字を見つめた。
そしてノートを閉じる。
「……今日はもう終わり」
「はい!」
「ミジンコ」
「はい!」
「そのノート、絶対に触らないで」
「分かりました!」
「本当に?」
「はい!」
ミジンコは胸を張る。
「触りません!」
「ならいいわ」
山下は窓の外を見る。
雨上がりの空。
雲の切れ間から、
夕方の光が差していた。
「……明日は晴れるかしらね」
「晴れるといいですね」
ミジンコが答える。
とこは何も言わず、
窓の外を見ていた。
誰も気づかなかった。
受付の引き出しの奥。
あのノートのさらに下に、
もう一冊、
古いノートがあることに。
その表紙には、
誰かが昔の字で、
小さくこう書いていた。
**『忘れ物帳』**
そして、その一番最初のページには、
まだ誰にも読まれていない文字が残っていた。
**『返したものは、忘れない』**
山下医院の夜は、
静かに更けていった。
明日もまた、
誰かがここへ来る。
生きている人間なのか。
それとも――
それは、
まだ誰にも分からなかった。
第三十一話 完




