第二十三話 黄泉の山下医院
『死んだら、うちに来なさい』
第二十三話 黄泉の山下医院
霧の中を、山下たちは歩いていた。
どれくらい歩いたのか。
十分なのか。
一時間なのか。
そもそも時間が流れているのか。
誰にも分からない。
「……医院長」
「何?」
「同じ場所を三回通っています」
ミジンコが言った。
「本当?」
「はい」
「目印は?」
「私が置きました」
道端を見る。
そこには小さな石が三つ並べられている。
「アンタ、いつの間に」
「迷子対策です」
「そういうところだけ優秀ね」
とこが周囲を見渡す。
「院長」
「何?」
「前方に建物があります」
「……」
霧の向こう。
ぼんやりと、
見慣れた形が浮かんでいた。
白い壁。
赤い屋根。
玄関。
そして――
看板。
山下医院。
「……」
山下は足を止めた。
「何よ、これ」
ミジンコが目を見開く。
「医院長の病院です」
「見れば分かるわよ」
「では、医院長の病院です」
「だから分かってる!」
アルちゃんが首を傾げる。
「でも、山下医院ですよ?」
「そうね」
「じゃあ、帰ってきたんじゃないですか?」
「……」
山下は建物を見る。
確かに山下医院だ。
しかし。
何かがおかしい。
玄関の看板には、
今の山下医院にはない文字が書かれている。
――
**山下医院 黄泉分院**
「……黄泉分院?」
山下が呟く。
とこが答える。
「はい」
「そんなもの、アタシ知らないわよ」
「私も知りません」
「ミジンコちゃん」
「はい」
「知ってる?」
「知りません!」
「でしょうね」
山下は玄関へ向かう。
扉の前に立つ。
そして、
手を伸ばす。
――ガチャ。
鍵は掛かっていなかった。
*
中は、
山下医院とほとんど同じだった。
受付。
待合室。
診察室。
薬品棚。
壁時計。
ただ一つ違う。
待合室にいる患者が、
全員――
死者だった。
「……」
誰も喋らない。
誰も動かない。
ただ、
山下たちを見ている。
ミジンコが小声で言う。
「医院長」
「何?」
「視線が集中しています」
「分かってる」
「敵でしょうか」
「違うと思う」
「なぜです?」
「患者の目をしてる」
「患者の目?」
「助けてほしい目よ」
山下が受付へ向かう。
受付には、
一冊の名簿が置いてあった。
山下が開く。
患者名。
死亡日。
死因。
そして、
担当医。
そこに並んでいる名前を見て、
山下の顔が固まった。
「……」
「どうしました?」
とこが覗き込む。
「これ」
名簿には、
何百人もの患者の名前が並んでいる。
その担当医欄。
すべて、
同じ名前だった。
**山下光圀。**
「……また」
山下は額を押さえる。
「何なのよ、昔のアタシ」
アルちゃんが名簿を覗く。
「院長さん、人気のお医者さんだったんですねぇ」
「そういう問題じゃないのよ」
ミジンコがページをめくる。
「あれ?」
「何?」
「一番古い患者の記録があります」
「いつ?」
「……」
ミジンコの顔から笑いが消える。
「紀元前です」
「……」
「日本の歴史としておかしくありませんか?」
「そこなの?」
「重要では?」
「重要よ」
山下は名簿を閉じる。
その時。
奥の診察室から、
誰かが出てきた。
「次の患者さん」
白衣の男だった。
顔は、
山下とよく似ている。
だが、
山下ではない。
「……誰?」
男は山下を見る。
「おや」
「何よ」
「あなたが来ましたか」
「アタシを知ってるの?」
「もちろん」
男は笑う。
「こちらでは、有名ですよ」
「名前は?」
「山下光圀」
「……」
「ただし」
男は胸元の名札を見せる。
そこには、
**山下光圀 二代目**
と書かれていた。
「……二代目?」
「はい」
「初代は?」
「あなたです」
「……」
山下は絶句した。
「ちょっと待ちなさい」
「はい」
「アタシが初代?」
「そうです」
「じゃあ、今ここにいるアタシは?」
「初代の生まれ変わりでしょう」
「……」
ミジンコが小声で言う。
「医院長」
「何?」
「ご本人から説明された方が早いのでは?」
「アンタ、最近たまに正論言うわね」
*
黄泉分院の診察室。
二代目・山下光圀は、
古いカルテを机に並べていた。
「ここが、あなたの始まりです」
「アタシの始まり?」
「はい」
一冊のカルテ。
表紙には、
**第一号患者**
とだけ書かれている。
「開けていい?」
「どうぞ」
山下が開く。
最初のページ。
患者名は――
空欄。
年齢も空欄。
死因も空欄。
ただ一つだけ、
担当医の名前がある。
**山下光圀。**
「……患者の名前がない」
「はい」
「誰なの?」
「それは、まだ分かっていません」
「まだ?」
「この患者だけは、ずっと名前がない」
山下はページをめくる。
最後のページ。
そこには、
一文だけ書かれていた。
**『死者には、帰る場所が必要である。』**
「……」
「あなたは、この医院を作りました」
「アタシが?」
「はい」
「何のために?」
二代目は答えない。
代わりに、
窓の外を見る。
そこには、
巨大な川が流れていた。
川の向こう側には、
無数の灯り。
「死んだ人間が、最後に行く場所です」
「黄泉の国?」
「そう呼ぶ人もいます」
「じゃあ、ここは?」
「その手前です」
「……」
「死者が、自分の死を受け入れるための場所」
山下は黙った。
「だから患者は、みんなここに来る」
「はい」
「そして、アタシが診る?」
「そうです」
「でも」
山下は、
カルテを指差す。
「どうしてアタシは現世にいるの?」
二代目は、
初めて表情を曇らせた。
「それが――」
その時。
診察室の扉が開いた。
「先生!」
一人の少年が飛び込んでくる。
「どうした?」
「川の向こうに、誰かいます!」
「誰だ?」
「分かりません!」
少年は、
山下を見る。
「でも」
「何?」
「先生と同じ顔をしています」
山下の背筋が凍る。
*
全員で窓へ向かう。
川の向こう。
霧の中。
一人の男が立っている。
白衣。
長い髪。
顔は見えない。
だが、
その姿は――
山下と同じだった。
「……」
山下が呟く。
「アタシ?」
二代目が首を振る。
「違います」
「じゃあ誰?」
「初代の――」
言葉を止める。
「……いえ」
「何よ」
「まだ、言えません」
山下は苛立つ。
「ここまで来てそれ?」
「申し訳ありません」
「何で言えないのよ!」
「理由があります」
「何?」
二代目は、
山下の背後を見る。
「あなたの隣にいる人には」
「……?」
全員が振り返る。
アルちゃんが、
不思議そうな顔で立っていた。
「私ですか?」
「はい」
二代目は頷く。
「その方には、まだ何も知られてはいけません」
「……」
山下はアルちゃんを見る。
アルちゃんは、
ただ困ったように笑っている。
「私、何かしました?」
「いや」
山下は首を振る。
「何もしてないわ」
「そうですかぁ」
「……何もね」
その時。
川の向こうの男が、
ゆっくりとこちらへ手を上げた。
そして、
声が届いた。
『――返命を使うな』
山下が目を見開く。
『もう一度、死ぬことになる』
「……!」
男の姿が、
霧の中へ消えていく。
「待ちなさい!」
山下が叫ぶ。
だが、
もう何も見えない。
*
その夜。
黄泉分院の一室。
アルちゃんは、
一人で窓の外を眺めていた。
「綺麗ですねぇ」
黄泉の川。
無数の灯り。
静かな水面。
その景色を、
なぜか懐かしく感じる。
「……」
アルちゃんは胸元に手を当てる。
「なんでしょう」
自分でも分からない。
ただ、
川を見ていると、
昔から知っている場所のような気がする。
その時。
「アルちゃん」
山下の声。
「はい?」
「こんなところで何してるの?」
「景色を見てました」
「そう」
山下は隣に立つ。
「怖くない?」
「ちょっとだけ」
「帰りたい?」
「はい」
「じゃあ帰りましょう」
「……」
アルちゃんが笑う。
「はい」
二人は窓から離れる。
誰も知らない。
アルちゃんが去ったあと。
窓ガラスに、
一瞬だけ文字が浮かんだことを。
――
**『黄泉は、帰る場所ではない。』**
そしてその下に、
誰かが指で書いたような、
もう一つの文字。
**『うち。』**
文字はすぐに消えた。
*
翌朝。
山下は、
現世へ戻る方法を探していた。
「医院長」
ミジンコが言う。
「何?」
「重大な問題があります」
「何よ」
「帰り道がありません」
「……」
「完全に迷子です」
「……」
「本官、遭難を認定します」
「誰が本官よ」
「私です」
「そう」
山下はため息をつく。
「じゃあ――」
その時、
診察室の電話が鳴った。
この黄泉分院には、
電話なんてなかったはずなのに。
山下が受話器を取る。
「もしもし?」
『医院長』
「……」
聞き覚えのある声。
『帰りたいですか?』
「誰?」
『あなたが一番よく知っている人ですよ』
「名前を言いなさい」
少しの沈黙。
そして、
『死んだら――』
声が笑う。
『うちに来なさい』
――ブツッ。
電話が切れた。
山下は、
受話器を握ったまま動かなかった。
「医院長?」
ミジンコが尋ねる。
「……」
山下は、
ゆっくり受話器を置いた。
「帰るわよ」
「どうやって?」
「知らない」
「えっ」
「でも」
山下は笑った。
「アタシの医院でしょう?」
そして、
黄泉分院の奥へ歩き出す。
「だったら、出口くらい自分で作るわよ」
その先に、
一枚の古い扉があった。
扉には、
見覚えのある文字。
**山下医院**
山下は、
その取っ手に手を掛ける。
――カチャ。
扉の向こうから、
現世の風が吹いた。
**第二十三話 完**




