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第二十話 ミジンコ、休暇を失う

『死んだら、うちに来なさい』


第二十話 ミジンコ、休暇を失う


 朝。


 山下医院の裏庭に、ミジンコがいた。


 白衣ではない。


 私服。


 首には双眼鏡。


 手にはノート。


 そして頭には――


 なぜか軍用帽。


「……」


 山下は窓からその姿を見ていた。


「何してんの、あいつ」


 とこが隣に立つ。


「ミーくんは休日です」


「休日なのは分かるわよ」


「本人曰く、趣味だそうです」


「趣味?」


「バードウォッチング」


「……ああ」


 山下は双眼鏡を見る。


「嫌な予感しかしないわね」


 その瞬間。


「いました!」


 ミジンコの声が響いた。


「どこ!?」


 山下が反射的に身構える。


「三時方向! 樹上!」


「鳥?」


「はい!」


 ミジンコが双眼鏡を覗き込む。


「スズメです!」


「普通ね」


「幼鳥です!」


「へぇ」


「非常に愛らしい!」


「……」


「羽毛もまだ完全ではありません!」


「……」


「巣立ち前の貴重な個体です!」


 山下が窓を開ける。


「ミジンコちゃん」


「はい!」


「それ以上、変な方向に行ったら――」


「承知しております!」


「本当に?」


「私は鳥を見ています!」


「ならいいわ」


「はい!」


 ミジンコは双眼鏡を構え直す。


「……尊い」


「アンタ、本当に鳥だけ見てるでしょうね?」


「もちろんです!」


 その背後から、とこが現れた。


「ミーくん」


「はい」


「双眼鏡」


「はい」


「私に貸して」


「どうぞ!」


 とこが覗く。


「……スズメ」


「はい」


「可愛い」


「ですよね!」


「でも」


「はい」


「その軍用帽は何?」


「観察任務です!」


「……」


「……」


「ミーくん」


「はい」


「今日は鳥だけ見て」


「はい」


 ミジンコは敬礼した。


「了解!」


 とこが双眼鏡を返す。


「では、私は仕事に戻ります」


「はい!」


 とこが去る。


 ミジンコは小さく呟いた。


「任務継続……」


 山下が窓を閉めた。


「平和ねぇ」


 アルちゃんが朝食を運んでくる。


「今日はミジンコちゃん、楽しそうですねぇ」


「そうね」


「お休みですから」


「……」


 山下は少し考える。


「アタシも今日は休もうかしら」


「いいと思いますよぉ」


「最近、色々ありすぎたしね」


 アルちゃんが笑う。


「じゃあ今日は、みんなでお休みですね」


「そうしましょう」


 ――その三分後。


 玄関のチャイムが鳴った。


 ピンポーン。


 山下は天井を見る。


「……」


 もう一度。


 ピンポーン。


「誰よ」


 とこが受付へ向かう。


 扉を開ける。


「こんにちは」


 立っていたのは、


 一人の若い女性だった。


「ここ、山下医院ですよね?」


「はい」


「診てもらいたいんですけど……」


「どうしました?」


「私……」


 女性は困ったように笑う。


「死んでるんです」


「……」


 とこは一切表情を変えない。


「受付はこちらです」


「えっ」


「死者の方も診察券が必要です」


「診察券あるんですか?」


「作ります」


 女性が恐る恐る中へ入る。


 山下が出てくる。


「今日は休診――」


 女性を見る。


「……」


「どうしました?」


「いや」


 山下は頭を掻いた。


「もういいわ」


「はい?」


「今日は休診やめる」


 アルちゃんが台所から顔を出す。


「お休み、終わりですかぁ?」


「終わりね」


「残念ですぅ」


「アタシもよ」


     *


 女性の名前は、


 水野澪。


 死亡してから――


 まだ十二時間しか経っていない。


「死因は?」


「自殺です」


 山下の手が止まる。


「……そう」


「でも」


 澪は困ったように笑った。


「死んだこと自体は、そんなに嫌じゃないんです」


「じゃあ、何が問題なの?」


「帰れないんです」


「どこに?」


「家に」


「どうして?」


「玄関の前までは行けるんです」


「うん」


「でも、ドアを開けようとすると――」


 澪は自分の手を見る。


「手が透けるんです」


 山下は黙る。


「それで、家の中に入れない」


「家族は?」


「母がいます」


「生きてる?」


「はい」


「何を伝えたいの?」


 澪は俯いた。


「謝りたいんです」


「何を?」


「最後に、ひどいことを言いました」


「……」


「だから」


 澪は顔を上げる。


「一度だけ、母に会いたいんです」


 山下は腕を組んだ。


「それなら、会いに行けばいいじゃない」


「できないんです」


「だったら――」


 山下は立ち上がる。


「連れていくわ」


     *


 午後。


 山下医院の玄関前。


「本当に来るんですか?」


 澪が尋ねる。


「来るわよ」


「でも、私……」


「死んでるから?」


「はい」


「死んでても、母親の娘でしょうが」


「……」


「そこは変わらないわ」


 山下が歩き出す。


 澪もついていく。


 その後ろからアルちゃんがついてくる。


「アルちゃん、何で来たの?」


「お手伝いですぅ」


「何するの?」


「応援です」


「……まあいいわ」


 さらに後ろ。


 ミジンコが双眼鏡を持っている。


「アンタは何で来てんのよ」


「警護です!」


「鳥は?」


「当然、持ってきました!」


「鳥は持ってくるな」


「双眼鏡です!」


「知ってるわよ!」


 とこがミジンコの肩を掴む。


「ミーくん」


「はい」


「今日は鳥を見る日じゃない」


「……はい」


「人を助ける日」


「了解しました」


 ミジンコは双眼鏡をしまった。


「本官、任務に復帰します」


「その言い方やめなさい」


     *


 水野家。


 山下たちは少し離れた場所に立っていた。


 澪の母親が玄関から出てくる。


 その顔は、


 泣き腫らしていた。


「……お母さん」


 澪が呟く。


 母親は誰もいない場所を見る。


「澪……」


 山下が驚く。


「見えるの?」


「分かりません」


 母親は、


 ゆっくりと前へ進む。


「いるんでしょう?」


 澪の目から涙が落ちる。


「……お母さん」


「いるなら」


 母親が胸元を押さえる。


「何も言わなくていいから」


 澪は一歩近づく。


「ごめんなさい」


 母親の頬を涙が伝う。


「……」


「最後にひどいこと言って、ごめんなさい」


 母親は何もない空間を見つめる。


 そして、


 小さく笑った。


「謝らなくていいよ」


 澪が顔を上げる。


「お母さん?」


「私も、ごめんね」


「……」


「もっと話を聞いてあげればよかった」


 澪は泣きながら笑った。


「……ありがとう」


 その瞬間。


 澪の身体が、


 少しずつ透け始めた。


「先生」


「うん」


「もう、大丈夫です」


「そう」


「私、帰れます」


 山下は何も言わず、


 澪を見送る。


 澪は最後に母親を見る。


「お母さん」


 母親は空を見上げる。


「大好き」


 風が吹いた。


 澪の姿が消える。


 母親は、


 涙を拭いた。


「……ありがとう」


     *


 帰り道。


 ミジンコが珍しく黙って歩いている。


「どうしたの?」


 山下が尋ねる。


「いえ」


「何よ」


「返命しなくても、救えるんですね」


 山下は少し考える。


「そうね」


「では」


 ミジンコが真面目な顔をする。


「返命とは何なのでしょう」


「……」


 山下は空を見る。


「分からない」


「またですか」


「うるさいわね」


 少し笑う。


「でも」


 山下は歩きながら言った。


「今日のあの子は、生き返る必要がなかった」


「はい」


「死んだことを受け入れて、前に進めた」


「はい」


「だから」


 山下は自分の手を見る。


「返命しないことも、医者の仕事なのかもしれないわね」


 その言葉を聞いて、


 ミジンコは頷いた。


「了解しました」


「何を?」


「本日の教訓を記録します」


「何て?」


 ミジンコはノートを開く。


「『死者、必ずしも生還を希望せず』」


「……」


「『生者、必ずしも死者を忘れず』」


「……」


「『休診日に仕事をすると疲れる』」


「最後だけ私情でしょ」


「重要事項です!」


「アンタは本当に……」


 その時。


 ミジンコが突然立ち止まった。


「……!」


「何?」


「鳥です!」


「まだ言ってんの?」


「違います!」


 ミジンコが空を指差す。


 一羽の鳥が、


 山下たちの頭上を旋回している。


「……綺麗ですねぇ」


 アルちゃんが見上げる。


「そうね」


 山下も空を見る。


 鳥はしばらく旋回すると、


 どこか遠くへ飛んでいった。


「……」


 ミジンコが呟く。


「巣立ち、ですな」


「急にまともなこと言うじゃない」


「鳥も、人間も」


 ミジンコは空を見る。


「いつかは自分の場所へ帰るものです」


 山下がミジンコを見る。


「……アンタ、たまには良いこと言うわね」


「はい!」


「でも」


「?」


「その双眼鏡、今日はもうしまいなさい」


「了解!」


 ミジンコが双眼鏡をしまう。


 ――その時。


 山下の携帯が鳴った。


「もしもし?」


 相手は、


 昨日の高橋誠だった。


『先生』


「何?」


『今、家の前にいます』


「……」


『妻と娘がいます』


「うん」


『でも』


 高橋の声が震える。


『私のことを、誰も覚えていません』


 山下の足が止まった。


「……どういうこと?」


『娘が』


 一拍。


『私を見ても、知らない人を見るような顔をするんです』


 山下は黙った。


『先生』


「何?」


『私は本当に――』


 電話の向こうで、


 高橋が息を呑む。


『生き返ったんでしょうか?』


 通話が切れた。


 山下は携帯を握りしめる。


「……」


 とこが尋ねる。


「院長」


「ええ」


「戻りましょうか」


「そうね」


 山下は医院の方を見る。


「どうやら――」


 その顔から、


 休みの日の緩さが消えていた。


「返命した患者を、もう一度診察しなきゃいけないみたいね」


 そして誰も気づいていなかった。


 高橋誠の家の玄関に、


 昨夜と同じ赤い文字が刻まれていることを。


 ――**返せ。**


 その文字の下に、


 新しい一文が増えている。


 **『今度は、記憶を。』**


**第二十話 完**

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