第十七話 死者のカルテ
『死んだら、うちに来なさい』
第十七話 死者のカルテ
翌朝。
山下医院の診察室には、妙なものが置かれていた。
古いカルテ。
昨日の夜、壁に浮かんだ「返せ」という文字。
そして――
「医院長」
「何よ、ミジンコちゃん」
「こちらを」
ミジンコが一枚の紙を差し出した。
「何?」
「昨夜、地下診療室の監視記録を確認しました」
「何か映ってた?」
「はい」
「何が?」
「医院長が返命を行っている最中、地下室の隅に――」
ミジンコが一瞬言葉を止める。
「人影が映っています」
「……人影?」
「はい」
「誰?」
「分かりません」
「また分からないのね」
「申し訳ありません」
山下は紙を見る。
そこには監視カメラの映像が印刷されている。
ぼやけた地下室。
診察台に横たわる高橋誠。
その横に立つ山下。
とこ。
ミジンコ。
アルちゃん。
そして――
部屋の隅。
誰もいないはずの場所に、
黒い人影が立っている。
「……これ、誰?」
「分かりません」
「撮影時間は?」
「返命開始から終了まで、約三分間です」
「じゃあ、この人影はずっといたの?」
「はい」
山下は写真を見つめる。
「顔は?」
「映っていません」
「身体は?」
「輪郭だけです」
「変ね」
「はい」
「とこちゃんは?」
「受付にいました」
「じゃあ――」
山下が写真を見る。
「誰なのよ」
その時。
「医院長」
とこが診察室に入ってきた。
「何?」
「昨夜の件ですが」
「うん」
「もう一つ、分かりました」
「何?」
とこは一冊の古いファイルを置いた。
「この人影、昨日だけではありません」
「……」
山下がファイルを開く。
過去の監視記録。
一年前。
二年前。
半年前。
すべての画像の片隅に、
同じ黒い人影。
「……いつからいるのよ」
「記録上では、最初の映像からです」
「最初?」
「はい」
「この医院の監視カメラが設置された日から」
山下の顔から、
笑みが消えた。
「つまり――」
ミジンコが呟く。
「最初から、この医院にいた?」
誰も答えなかった。
*
昼。
山下は古い資料を全部引っ張り出していた。
机の上が紙だらけになる。
「何してるんですかぁ?」
アルちゃんが覗き込む。
「調べもの」
「大変そうですねぇ」
「そうなのよ」
「お手伝いしましょうか?」
「じゃあ、この箱の中から昭和四十三年の記録を探して」
「分かりましたぁ」
アルちゃんは箱を開ける。
古い紙を一枚ずつ確認していく。
「これですか?」
「違う」
「これは?」
「違う」
「これは?」
「……それ」
「はい?」
「それよ」
アルちゃんが渡す。
「ありましたぁ」
「ありがと」
「どういたしまして」
アルちゃんは嬉しそうに笑う。
山下は資料を開く。
古い患者記録。
昭和四十三年。
そこには、
何十人もの名前が並んでいた。
だが――
奇妙なことに、
死亡した患者の名前だけ、
赤い線で消されている。
「……何これ」
「院長?」
とこが横から覗く。
「見て」
「はい」
「死亡者だけ、名前が消されてる」
「……」
「普通、逆でしょう?」
「はい」
ミジンコも覗き込む。
「これは異常です」
「アンタでも分かるのね」
「私は正常です」
「それはどうでもいい」
ミジンコがページをめくる。
「医院長」
「何?」
「こちら」
最後のページ。
一人の患者だけ、
名前が消されていない。
その名前は――
**高橋誠。**
「……」
山下の手が止まる。
「高橋さん?」
「はい」
ミジンコが頷く。
「昨日、返命した方です」
「おかしい」
山下が呟く。
「この記録、昭和四十三年よ」
「はい」
「なのに、どうして昨日の患者がここにいるの?」
誰も答えられない。
その時。
診察室の電話が鳴った。
ジリリリリ。
山下が受話器を取る。
「はい、山下医院です」
『……』
「もしもし?」
『先生』
男の声。
「誰?」
『昨日、返命した者です』
「高橋さん?」
『はい』
「どうしたの?」
『娘には言わないでください』
山下の表情が変わる。
「何を?」
『私は――』
電話の向こうで、
高橋が息を呑む。
『昨日、死んだんじゃありません』
「……」
『私は――』
そこで電話が切れた。
「もしもし?」
ツーツーツー。
「……」
山下は受話器を置く。
「医院長」
「うん」
「何と言っていました?」
山下は答えない。
その代わり、
古いカルテを見る。
高橋誠。
昭和四十三年。
そして、
昨日。
二度目の死。
二度目の返命。
「……高橋さんは」
山下が呟く。
「一回、死んでるんじゃない」
ミジンコが顔を上げる。
「では?」
「昔にも一度、死んでる」
とこが静かに言う。
「院長」
「何?」
「それなら――」
とこはカルテを指差した。
「なぜ今まで生きていたのでしょう」
山下は、
答えられなかった。
*
夕方。
高橋誠は山下医院に戻ってきた。
「先生」
「どうしたの?」
「話したいことがあります」
「昨日の電話?」
「……はい」
高橋は椅子に座る。
「私は、三日前に死んだんじゃありません」
「じゃあ、いつ?」
「覚えていません」
「また?」
「いえ」
高橋は首を振る。
「今度は覚えています」
山下が身を乗り出す。
「話して」
「私は以前、この医院に来ました」
「いつ?」
「分かりません」
「何年前?」
「……何十年も前です」
山下の目が細くなる。
「何のために?」
「死んだからです」
部屋が静まる。
「私は一度、ここで死にました」
「……」
「そして」
高橋は山下を見る。
「誰かに生き返らせてもらいました」
「誰に?」
高橋は答えない。
「誰?」
「……」
「高橋さん」
山下の声が低くなる。
「誰に返命されたの?」
高橋は、
震える手で自分の胸を押さえた。
「先生」
「何?」
「あなたではありません」
「……」
「でも」
高橋の顔が青ざめる。
「あなたと同じ力を持った人です」
山下は立ち上がった。
「そんな人間、他にいるの?」
「分かりません」
「顔は?」
「覚えていません」
「名前は?」
「……」
「高橋さん」
「名前だけは」
高橋が呟く。
「覚えています」
「誰?」
高橋は、
ゆっくりと答えた。
「――山下光圀」
空気が凍った。
*
夜。
誰もいない地下診療室。
山下は一人、
古いカルテを眺めていた。
昭和四十三年。
高橋誠。
死亡。
そして――
返命。
記録には、
たった一言だけ残されている。
**『医院長による返命、成功』**
「……」
山下はカルテを閉じる。
「アタシが……?」
その時。
地下室の照明が、
一つずつ消えていく。
パチ。
パチ。
パチ。
「……何よ」
最後の照明が消える。
完全な暗闇。
そして、
背後から声。
『返して』
山下は振り返る。
「……誰?」
『返して』
「何をよ」
『命を』
山下の目が鋭くなる。
「誰の?」
返事はない。
ただ、
暗闇の中に、
昨日と同じ黒い人影が立っている。
山下は一歩前へ出る。
「アンタが何者か知らないけど――」
拳を握る。
「アタシの患者に手ぇ出すなら、覚悟しなさい」
黒い人影は、
ゆっくりと顔を上げた。
だが――
そこには、
顔がなかった。
山下は息を呑む。
次の瞬間。
人影が消えた。
床には、
一枚の古いカルテだけが残されていた。
山下が拾い上げる。
表紙には、
こう書かれていた。
**『山下光圀 死亡記録』**
その下に、
赤い文字で一行。
**『返命、未完了』**
「……」
山下はカルテを握りしめた。
「未完了って……何よ」
地下診療室に、
誰も答える者はいなかった。
ただ遠くで、
時計の秒針だけが鳴っていた。
カチ。
カチ。
カチ。
まるで――
誰かの心臓が、
もう一度動き始めるように。
**第十七話 完**




