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第十六話 返命

『死んだら、うちに来なさい』


第十六話 返命


 午前六時。


 山下医院の玄関が開いた。


「先生!」


 昨日の少女が、父親を乗せた車椅子を押して入ってくる。


「来たわね」


「はい!」


 少女の顔には、ほとんど眠っていない跡があった。


「お父さんは?」


「こちらです」


 白い布を掛けられた身体。


 眠っているように見える。


 だが――


 もう三日間、心臓は動いていない。


 山下は男の手首に触れた。


「……冷たい」


「はい」


 少女が唇を噛む。


「本当に……大丈夫なんでしょうか」


「分からないわ」


「え……」


「アタシは神様じゃないもの」


 山下は淡々と言った。


「返命できるかどうかは、実際に見てみないと分からない」


「返命……?」


「アタシの異能の名前よ」


 少女は息を呑んだ。


「それで……父を?」


「ええ」


 山下は白衣の袖をまくる。


「やるわよ」


     *


 地下診療室。


 男の身体が診察台に横たえられている。


 周囲には、とこ、ミジンコ、アルちゃん。


「医院長」


 ミジンコが珍しく真剣な声で言う。


「準備完了です」


「ありがとう」


「血圧測定器、心電計、除細動器」


「うん」


「あと、私」


「それは何?」


「精神的支援要員です!」


「帰っていいわよ」


「なぜです!」


「邪魔だから」


「ひどい!」


 とこがミジンコを見る。


「ミーくん」


「はい」


「静かに」


「はい……」


 ミジンコが口を閉じた。


 山下は男の胸元に手を置く。


「高橋誠」


 返事はない。


「三日前に死亡」


 山下が目を閉じる。


「死因、外傷性心停止」


 周囲の空気が変わる。


「生命活動、完全停止」


 山下の指先が淡く光る。


「でも――」


 その光が男の胸へ沈んでいく。


「命は、まだ終わってない」


 少女が息を呑む。


「先生……?」


 山下は目を開けた。


「これから返命する」


     *


 山下の世界から、


 音が消えた。


 目の前にあるのは、


 暗闇。


 何もない。


 ただ遠くに、


 一つの小さな光が浮かんでいる。


「……見つけた」


 山下が手を伸ばす。


 光が逃げる。


「待ちなさい」


 追いかける。


 光は遠ざかる。


 さらに遠ざかる。


「もう死んだんだから、戻りたくないって?」


 光は答えない。


「そういうの、本人に聞かなきゃ分からないでしょうが」


 山下が手を伸ばす。


 光に触れる。


 その瞬間――


 無数の光景が流れ込んできた。


 幼い娘。


 妻。


 仕事。


 病院。


 事故。


 そして――


 少女との約束。


『成人式、一緒に写真撮ろうね』


『約束だよ』


 高橋誠は、


 その約束を思い出していた。


「……」


 山下は光を掴む。


「戻る?」


 光が、


 小さく揺れた。


「娘が待ってるわよ」


 もう一度。


 光が揺れる。


「じゃあ――」


 山下は笑った。


「帰りなさい」


 光を、


 強く引いた。


「返命!」


     *


 地下診療室。


 心電計が、


 突然鳴った。


 ピッ。


 全員が振り返る。


 ピッ。


 ピッ。


 ピッ。


「心拍!」


 ミジンコが叫ぶ。


「戻っています!」


「血圧!」


「上昇!」


「呼吸!」


「……!」


 男の胸が、


 大きく動いた。


「――っ!」


 少女が口元を押さえる。


「お父さん……?」


 男の指が動く。


 そして――


 目が開いた。


「……ここは」


 少女が泣き出す。


「お父さん!」


「……お前」


 男は娘を見る。


「どうして泣いてるんだ?」


「だって……!」


「……?」


 男は困ったように笑う。


「変な子だな」


 少女が父親に抱きつく。


「お父さん……!」


「痛い痛い!」


「ごめん!」


「何で泣いてるんだ?」


「……」


「俺、何かあったのか?」


 山下は少し離れた場所から、その様子を見ていた。


 とこが隣に立つ。


「成功ですね」


「……ええ」


「院長」


「何?」


「顔色が悪いです」


「ちょっと疲れただけ」


 山下は笑う。


「三日死んでた人間を引っ張り戻したのよ?」


「はい」


「そりゃ疲れるわよ」


 その場にいた全員が、


 安堵していた。


 ただ一人を除いて。


 アルちゃんだけが、


 山下を見ていた。


「院長」


「何?」


「お疲れ様です」


「……ありがと」


「はい」


 アルちゃんはそれ以上何も言わなかった。


     *


 数時間後。


 高橋誠は普通に歩けるまで回復していた。


「本当にありがとうございました」


 少女が何度も頭を下げる。


「いいのよ」


「先生がいなかったら……」


「もういいって」


 山下は手を振る。


「約束、守れそうでよかったじゃない」


「はい」


 少女が笑う。


「成人式、一緒に写真を撮ります」


「楽しみね」


「はい!」


 二人が帰っていく。


 扉が閉まる。


 静かになる。


「……」


 山下は椅子に座った。


「疲れた」


「お疲れ様です、医院長」


 ミジンコが紅茶を置く。


「ありがとう、ミジンコちゃん」


「いえ!」


「今日はまともね」


「私はいつでもまともです!」


「はいはい」


 とこがカルテを整理する。


「院長」


「何?」


「一つ確認があります」


「何よ」


「返命の後」


「うん」


「高橋さんに、記憶の欠落はありませんでした」


「そうね」


「なぜですか?」


 山下は黙った。


「……分からない」


「院長でも?」


「ええ」


 山下は自分の手を見る。


「返命って、毎回同じじゃないのよ」


「……」


「死者によって、戻り方が違う」


「理由は?」


「分からない」


「またですか」


「そうよ」


 山下は苦笑する。


「アタシだって、まだこの力の全部を理解してるわけじゃないの」


 その言葉を聞いて、


 ミジンコが静かに尋ねる。


「では、医院長」


「何?」


「いつから、その力を?」


 山下は答えなかった。


「……昔から」


「昔?」


「昔よ」


「どのくらい?」


「忘れたわ」


 ミジンコはそれ以上聞かなかった。


 ただ、


 少しだけ不思議そうな顔をした。


     *


 夜。


 山下医院の廊下。


 高橋誠が使っていた病室は、


 もう空になっている。


 ベッドだけが残っている。


 とこがシーツを整える。


「院長」


「何?」


「今日の返命」


「うん」


「患者が戻ってきた瞬間、何か聞こえませんでしたか?」


「何かって?」


「声です」


「声?」


「はい」


 とこは少し考える。


「『帰れ』と」


「……」


 山下の表情が変わる。


「誰が?」


「分かりません」


「どこから?」


「分かりません」


「どんな声?」


「男です」


 山下は廊下を見る。


 誰もいない。


「……気のせいじゃない?」


「そうかもしれません」


 とこはシーツを整え終える。


「では、おやすみなさい」


「おやすみ、とこちゃん」


 とこが去っていく。


 山下は一人残る。


 そして――


 病室の壁を見る。


 そこに、


 いつの間にか文字が浮かんでいた。


 赤黒い文字。


 たった三文字。


 ――**返せ。**


「……」


 山下の目が細くなる。


「何をよ」


 返事はない。


 ただ、


 文字だけが残っている。


 山下はゆっくり手を伸ばした。


 触れた瞬間、


 文字が消えた。


「……面倒くさいわねぇ」


 山下はため息をついた。


 そして、


 誰もいない廊下へ向かって言う。


「返命は、アタシの患者を返すための力よ」


 一拍。


「アンタたちのために使うつもりはないから」


 廊下は静まり返っている。


 だが――


 遠くの暗闇で、


 誰かが笑った。


 その声を、


 山下だけが聞いていた。


**第十六話 完**

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