第十三話 患者じゃないなら、何なのよ
『死んだら、うちに来なさい』
第十三話 患者じゃないなら、何なのよ
朝。
山下医院の食堂には、妙な緊張感が漂っていた。
「……」
「……」
「……」
山下は味噌汁を飲んでいる。
とこは黙々と朝食を食べている。
アルちゃんは卵焼きを頬張っている。
そして――
「医院長」
ミジンコが真剣な顔で口を開いた。
「何よ」
「昨夜の件について、私から提案があります」
「聞くわ」
「この医院を――」
ミジンコが立ち上がった。
「要塞化しましょう!」
「却下」
「早い!」
「病院よ、ここ」
「しかし敵の侵入を許しました!」
「アンタ、昨日まで普通に玄関から入ってきたじゃない」
「私は味方です!」
「自称でしょ」
「では敵味方識別装置を!」
「そんなものないわよ」
「作りましょう!」
「誰が?」
「私が!」
「余計怖いわ」
とこが味噌汁を置いた。
「ミーくん」
「はい」
「座って」
「はい」
「食べて」
「はい」
ミジンコは素直に座った。
「……」
山下はその様子を見ながら、ため息をつく。
「ミジンコちゃん」
「はい、医院長」
「アンタ、昨日の男について何か知ってるんでしょう?」
「……」
ミジンコの箸が止まった。
「知りません」
「嘘ね」
「……」
「アンタ、嘘つくときだけ敬礼する癖あるわよ」
ミジンコの手が、
ゆっくりと額へ上がった。
「してません」
「今してるでしょうが」
「これは……」
「何?」
「反射です」
「軍人か!」
「はい!」
「認めるな!」
アルちゃんがクスクス笑う。
「ミジンコちゃん、面白いですねぇ」
「アルちゃんさん!」
ミジンコが振り返る。
「笑い事ではありません!」
「ごめんなさい〜」
「しかし!」
ミジンコが胸を張る。
「私は医院長を守る義務があります!」
山下は少しだけ目を細めた。
「……ありがと」
「はい!」
「でも、まず味噌汁飲みなさい」
「了解!」
ミジンコは味噌汁を一気に飲んだ。
「熱っ!」
「何やってんのよ……」
とこが無言で水を差し出した。
「ありがとうございます、とこ姐さん……」
「はい」
いつもの朝だった。
昨日までなら。
だが――
山下医院の奥には、
昨日現れた「前任者」がいる。
そして、昨夜届いた一枚の紙。
『前任者を返せ』
その意味だけが、
誰にも分からないままだった。
*
午前十時。
「先生」
男が診察室へ入ってきた。
「どうしたの?」
「少し相談が」
「座りなさい」
男が椅子に座る。
山下はカルテを開いた。
「体調は?」
「問題ありません」
「記憶は?」
「ありません」
「昨日と同じね」
「はい」
「じゃあ今日は、別のことを聞くわ」
「何でしょう」
「あなたは、何がしたい?」
「……」
男が黙る。
「名前もない」
「はい」
「住所もない」
「はい」
「過去もない」
「はい」
「でも、ここに来た」
「……」
「何のため?」
男はしばらく考えた。
「分かりません」
「またそれ?」
「ですが」
男が山下を見る。
「ここに来た時だけ、少し安心するんです」
「……」
「理由は分かりません」
山下は何も言わなかった。
その言葉だけは、
妙に胸に引っかかった。
「じゃあ、しばらくここにいればいいわ」
「いいんですか?」
「行く場所ないんでしょう?」
「はい」
「なら、うちにいなさい」
男が小さく笑う。
「ありがとうございます」
「ただし」
「はい」
「働いてもらうわよ」
「え?」
「食費くらい稼いで」
「何をすれば?」
「掃除」
「分かりました」
「あと庭の草むしり」
「はい」
「ミジンコちゃんの相手」
「……」
男の顔が引きつった。
山下は笑った。
「それが一番大変だから」
*
昼。
「では、本日の作業を開始します!」
ミジンコが軍手を装着した。
「まず庭園整備!」
男が困惑する。
「庭園……?」
「草むしりです」
「それを庭園整備って言うんですか?」
「我々の世界では言います」
「どんな世界ですか……」
「さあ、配置につけ!」
ミジンコが指示を飛ばす。
男が黙って草を抜く。
ミジンコも抜く。
とこは黙々と作業する。
アルちゃんは縁側でお茶を飲んでいる。
山下はそれを眺めていた。
「……なんか、普通ね」
「そうですねぇ」
アルちゃんが笑う。
「いいことじゃないですかぁ」
「まあね」
その瞬間。
「医院長!」
ミジンコが叫んだ。
「何よ!」
「草むしり完了!」
「早いじゃない」
「はい!」
「じゃあ次」
「はい!」
「落ち葉拾って」
「了解!」
「その前に――」
とこがミジンコを見る。
「ミーくん」
「はい?」
「そこ」
とこが指差す。
ミジンコが見る。
庭の真ん中に、
抜き忘れた雑草が一本。
「……」
「……」
「……」
「ミーくん」
「はい」
「いくよ」
「待ってください!」
ミジンコが逃げる。
とこが追う。
「本官は任務を――」
「いくよ」
「これは不可抗力です!」
「いくよ」
「医院長!」
山下は手を振った。
「頑張ってねぇ」
「裏切り者ぉぉぉ!」
ミジンコの叫び声が庭に響いた。
*
その日の午後。
男は一人で倉庫の整理をしていた。
古い箱を一つ持ち上げる。
中から、
一冊の古い帳簿が落ちた。
「……?」
男が拾い上げる。
表紙には、
『山下医院 患者記録』
と書かれている。
ページを開く。
古い名前が並んでいる。
日付。
症状。
処置。
そして――
死亡。
死亡。
死亡。
死亡。
男の手が止まる。
「……」
何かを思い出しそうになる。
頭が痛い。
視界が揺れる。
「う……」
その時。
「何してるの?」
山下だった。
「先生……」
「それ、どこにあったの?」
「ここに」
男が帳簿を渡す。
山下がページをめくる。
古い記録。
数十年前のもの。
だが――
一つだけ妙な記録があった。
患者名。
**『山下光圀』**
山下の手が止まる。
「……」
「先生?」
「これ……」
記録の日付は、
昭和四十三年。
山下が生まれるより前。
なのに、
確かに書いてある。
山下光圀。
そして診断欄には、
こう記されていた。
――『死亡』
「……何これ」
山下の背筋に、
冷たいものが走る。
「私が生まれる前に、アタシが死んでる?」
「先生……」
男も帳簿を覗く。
その瞬間。
「――あ」
男の顔が変わった。
「何?」
「思い出しました」
「何を?」
男は帳簿を見つめた。
「この名前を……」
「誰?」
「私が、この人を――」
男の声が震える。
「診ました」
「……」
「この医院で」
山下は男を見る。
「いつ?」
「昭和四十三年です」
「……」
「私は――」
男が自分の胸を押さえる。
「この医院の医者でした」
沈黙。
山下は帳簿を閉じた。
「……やっぱり、前任者なのね」
「はい」
男は頷く。
「でも、分からない」
「何が?」
「なぜ私は……」
男が自分の手を見る。
「今も生きているんですか?」
山下は答えられなかった。
*
夜。
山下医院の屋上。
山下は一人で夜空を見ていた。
「……昭和四十三年」
自分の名前が、
自分の生まれる前の記録にある。
意味が分からない。
そして――
昨日届いた、
『前任者を返せ』
という手紙。
誰が。
何のために。
何より――
この医院は、
一体何なのか。
「考えても分かんないわねぇ……」
山下が空を見上げる。
その時。
「医院長」
ミジンコが屋上へ上がってきた。
「何よ」
「お話があります」
「今度は何?」
「例の男についてです」
「何か分かった?」
「はい」
ミジンコが珍しく真剣な顔をする。
「政府の古い資料に、一件だけ該当する人物がいました」
「誰?」
「昭和四十三年」
ミジンコが答える。
「山下医院に勤務していた医師」
「名前は?」
「記録上は――」
ミジンコが資料を差し出す。
山下は読む。
そこには、
**『医師 山下光圀』**
と記されていた。
「……またアタシ?」
「はい」
「何なのよ、これ」
「分かりません」
「でしょうね」
ミジンコは資料を閉じる。
「ただ、一つだけ」
「何?」
「この記録には、続きがあります」
「読んで」
ミジンコが一枚めくる。
「昭和四十三年、山下光圀医師――」
そこで言葉を止めた。
「何よ」
「……死亡」
「また?」
「はい」
山下は空を見上げる。
「アタシ、何回死んでんのよ」
その瞬間。
屋上の扉が開いた。
「医院長」
とこだった。
「何?」
「夕食です」
「……」
「冷めます」
「分かったわ」
山下は立ち上がる。
そして三人で階段を降りていく。
誰も気づかなかった。
屋上に置かれた資料の一番下。
古い紙の端に、
小さな文字でこう書かれていたことに。
――**『死亡者、現世復帰』**
その文字の意味を、
まだ誰も知らない。
ただ一つだけ確かなことがある。
山下医院では、
死んだ人間が来る。
そして時々――
死んだはずの人間が、
院長になる。
**第十三話 完**




