第一章 第一節
オーストラリア、メルボルンにある多国籍軍基地、その一室にあるトレーニングルーム。一面フローリングで覆われており、トレーニング器機は部屋の壁際にベンチプレスとダンベル、あとはサンドバッグが置いてあるだけの寂しい部屋。そこでは二人の男女が激しいスパーリングをしていた。
男は左肩を女の方へ向けながら一歩踏み込むとそのまま左ジャブ、そして本命の左手での裏拳打ちを繰り出す。
女は左ジャブを右へのステップで避けた後、恐ろしいスピードで迫りくる裏拳打ちに、脱力による下半身の崩れを使って紙一重で避ける。
男の拳が頭上を通るころには完全にしゃがんでいる。そのまま右足で男の左足を外側から払いのけると男は簡単にしりもちをついた。
「……っ!」
それでももがこうとする男の額に手をかざすとそのままデコピンをした。
「痛って!」
「はい、おしまい」
「~~~~~~~っ!!」
男は痛みで顔をしかめ、手で額を押さえながら床を転げまわっている。
女が腕を組みながらその動きをじーっと見てると、男はやがて手で枕を作って仰向けに寝転がった。
「あ~……、なんでいつも師匠には勝てないんだろ。」
「たった一年で私に勝とうってのが無謀。こっちはもうかれこれ5年以上やってんだよ?」
「でもさ、男と女じゃん?体格だって筋肉だって俺の方がすげーはずなのになんで……」
「……もっと技術を磨きな。まだまだ伸びしろがあるんだ、腐るんじゃないよ」
「は~い」
男が返事すると上半身を持ち上げてあぐらをかく。そして女は男の肩に手を置いた。
「じゃあとっととシャワー浴びて朝飯にしよっか。またあとでね、雪」
女はそういうと扉の方に足を進めた。
「うん、」
男は覇気のない返事をすると腰を持ち上げ女の隣へとかけていった。
シャワーを浴びてすっきりした少年兵、秋道雪は黒いタイツのような素材の半袖に、砂漠使用の迷彩柄のパンツの出で立ちで、食堂入り口でイヤホンを耳にさし、スマホをいじりながらソフィアを待っていた。
食堂内や廊下のあたりにいる人全員とは言わないが、雪の見知っている顔がいくつか見える。だが誰も雪には近寄ろうとせず、また雪も誰と話しかけようとしない。そのせいか、雪の周囲には哀愁が漂っていた。
その顔には困惑や気まずさ、悲しさなどは一切見えず、耳にさしているイヤホンから流れるラウドミュージックをBGMに自分に世界に浸っていた。
だが、その世界をぶち壊す者が廊下の向こう側から雪の元へと歩いてきた。
「雪、おまたせ~」
長身でスレンダー、それに金髪のショートカットが恐ろしく似合っているソフィア・ラッセルは手を振りながらで雪の元へきた。だが、イヤホンに遮られソフィアの声は雪には届かなかった。
「ん~」
わざとではないのはもちろんスフィアには分かっている。ソフィアはどうしたら雪をびっくりさせられるかを少し考えると何か思いついたのかニヤッとする。
ソフィアは雪の横に立ち、顔を雪に近づける。
「ふーっ」
「うおっ!」
突然耳に来た吐息に雪は両肩が上がり、右手に握られていたスマホは雪の手を離れ乾いた音と共に地面に落ちた。
「はあ……ソフィアはちょっと雪君をからかうのやめてあげなよ。耳まで真っ赤になってるじゃない」
ソフィアの後ろを歩いていた長い黒髪の似合う女性は優しい笑顔でソフィアを戒めた。
ソフィアはニヤニヤしながら雪の顔を眺めた。
「やー、でも耳真っ赤にしてかわいくない?」
「かわいいとかかわいくないじゃなくて雪君がかわいそうでしょ?そんなにからかっているとそのうち嫌われちゃうわよ?」
そういわれてもソフィアのにやけ顔は変えず、雪の脇腹を肘でつつく。
「え―……雪、22歳でこんな美人の吐息をタダで堪能できるなんて弟子の役得じゃない?」
「……うるっさいなぁ、セクハラで上に訴えるぞ」
言いながら雪はソフィアの肘を鬱陶しそうに払うと一人食堂内へと向かう。
「ちょっ……!待ってよ雪!」
ソフィアは慌てて雪に追いつき二人は歩みをそろえカウンターへと向かう。雪は追いついたソフィアにトレーを渡すと二人は食事を取りに行く。
時々ソフィアは雪の方を向き口を開き、雪もソフィアの方に顔を向ける。ソフィアには満面の、雪の顔には静かな笑顔が浮かぶ。二人のやり取りは先ほどの女性、ディアナの耳には届かないがそれでもディアナの目には二人は仲良さげに映る。
(あんなに仲良しで、なんか嫉妬しちゃうなあ)
そう思っちゃうくらいに二人は仲良さげに見える。ここが軍の基地ですぐそばにはこれから戦場になろう場所がある。そんな事など忘れてしまうほどに。
「きっついなあ、全然打ち合わせ通りにならなかったね。あ、でもお姉さんと洞穴で二人っきりで雪的には予定通りかな?」
「はぁ……そのジョークが出るならメンタルは平気そうだね。。でもこれからどうしよ、」
雪とソフィアは名前もないような小さい山にあった洞穴の中で焚火を囲んでいる。外はすっかり陽が落ち夜になっている。
雪は洞穴の入り口に立った。
「撤退するにしろ、作戦を続行するにしろ、あのでか物をどうにかしなきゃ始まらねえぞ。どうすんだよマジで」
そう言って雪はある一点を指さした。
指の先、はるか遠くには街の廃墟があったがその中に巨大なダンゴムシのような生き物がいた。
街からこの洞穴までかなりの距離があるはずだが、それでも黒く光沢のある体はこの暗闇の中でも認識できる。そして、廃墟と相まってその異様さは際立っていた。
「まあ、そもそも雪が突っ走らなければ撤退はできてたんだけどね。……でも事前に色々聞いといてよかった。どちらにしろ対策を立てることはできる。それにこんなとこで諦めるようなら、この先雪のしたいことなんて到底できないよ?」
ソフィアは顔こそ笑っていたが、言葉の最後には何とも言えぬ重みと迫力があった。雪もソフィアの言葉を聞くと目つきを変え、焚火のそばへと戻り腰を折りした。
「よし、あのでか物、コードネーム・ピルバグについて整理しよう。あいつの全長は約50メートル、無数に生えている足での移動はかなり早く推定時速50キロは越えている。あと、縄張り意識があるのかマーキングをしていて、縄張りに近づくと迎撃しようとする習性がある」
「……でも、なんで近づいたかどうかわかるんだろうね」
不思議そうな顔でソフィアは呟く。
「ん―、やっぱ目で見るとか音とかじゃないの?」
「……どうだろ。あれが仮にダンゴムシならさ、視力ってほとんどないはずなんだよね。普通のダンゴムシなら明るさくらいしかわからないはずだし」
ソフィアの言葉に今度は雪が首をかしげる。
「え?でもそれならダンゴムシってどうやって普段移動すんの?」
「んー、確か長い触角と短い触角のうち長い方でものに触って、移動する、はず……」
雪は自分の目の前に置かれていたステンレスのコップの中に入っている残り少ない白湯を飲み干した。そして、コップにはもう何も残ってないはずなのにうつろな目で底を見つめている。
「……俺は、あいつを殺したい。こんな状況に師匠を巻き込んじまった責任くらいは取りたいんだ」
雪の消えそうな小さな声にソフィアは優しく微笑むと自分のコップを持って雪の隣へと移動した。
「……、師匠?」
「大丈夫だよ雪、案外この時間も悪いもんじゃないよ。でも、私たちの装備的には撤退が一番現実的だし、撤退だよ」
ソフィアの言葉に雪は驚きと困惑で満ちた顔をあげた。
「でもっ……!俺はこの時のために……!」
「雪」
ソフィアは優しく、でも雪を戒めるように言った。
もちろん雪にもわかっている。撤退だけでも精一杯のこの状況で討伐だなんてとても出来ないことくらい。17歳で、初めての討伐任務だとしても。それでも雪の中には消えない葛藤がまだ残っていた。
ソフィアは雪の肩にそっと手を置いた。
「次がある。今回生き残れたら次があるんだから。それにさ……」
だが雪は見逃さなかった。ソフィアが意地悪な笑みを浮かべる瞬間を。
雪は知っていた。その笑みは雪をからかうときに必ず出るものだと。
そしてソフィアは思いっきり雪の肩をバンバンと何回も叩く。
「童貞のままじゃ死ねないだろ~?女を知らずに死ぬなんてもったいない人生なんてダメだぞ~!」
雪はソフィアの言葉にポカンと口を開けた。最初はなにを言っているのかわからなかったが体の内側から次第に笑みが込み上げてきた。
「フフフフフッ……、ハッハッハッハッハッハ!!」
「えっ!?」
雪の笑いにソフィアはびっくりしたが雪の笑いは次第に収束していく。そして、目に浮かんだ涙を指先で拭う。
「ふーっ、そうだね。童貞のままじゃ死ねないし撤退でいこっか」
ソフィアは笑みをこぼし、お互いからのコップをカチンっと鳴らす。
「じゃあ、おやすみ。最終確認は起きたときにしようね」
「おっけー、おやすみ師匠」




