第6話 ― いたずらっ子のトイプードル
フォレストの午前
チリン
扉に付いたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
一人の男性が、小さな犬を抱いて入ってきた。
ふわふわの茶色い毛
小さな体
そして、ひときわ輝く瞳
トイプードルだった。
「こんにちは。今日は部分トリミングをお願いできますか?」
花子が笑顔で答えた。
「はい、大丈夫ですよ」
そう言って、花子は仁をお客様に紹介した。
仁は気が進まなかったが、花子に言われた通り挨拶をした。
「……いらっしゃいませ」
お客様は仁を見て少し驚いたが、すぐに平静を取り戻して仁に挨拶した。
「こ、こんにちは……」
そして、お客様は抱いていた犬を床に下ろした。
下ろした途端、トイプードルが走り回り始めた。
「あら、ずいぶん元気ですね」
「はい……」
飼い主は困ったような表情を浮かべた。
「家でもずっと走り回ってるんですよ」
花子が犬を見つめた。
「お名前はなんですか?」
「チョコです」
「チョコちゃん」
花子が笑いながら頭を撫でる。
するとチョコは、尻尾を勢いよく振った。
そして仁を見つめた。
「……」
仁もチョコを見つめた。
「……」
しばしの沈黙
チョコが首を傾げた。
仁も首を傾げた。
花子が二人を交互に見つめた。
「仁さん」
「はい」
その瞬間だった。
チョコの耳がピンと動いた。
仁が動く姿をしばらく見つめていたチョコが、突然仁に向かって飛びかかった。
「ワン!」
「……!」
仁は反射的に受け止めた。
小さな体が仁の腕の中に収まった。
仁はチョコを見つめた。
チョコも仁を見つめた。
そして仁の顔を舐めた。
「……」
花子が吹き出した。
「もう仲良くなったんですね」
仁は何でもないような顔で言った。
「そのようです」
チョコが再び仁の顔を舐めた。
「……」
仁の表情が少し固まった。
「しかし、かなり積極的ですね」
しばらくして
チョコはトリミングテーブルの上に乗った。
「今日は部分トリミングなので、必要な部分を整えて、足の周りもきれいにしますね」
花子がトリミング道具を準備し始めた。
仁は前回教わったように、自然な動きでシャンプーの準備をしていた。
それを見た花子が慌てて仁に声をかけた。
「仁さん、今日は部分トリミングなので、シャンプーは必要ないですよ」
仁はピタッと動きを止め、残念そうな表情と声で答えた。
「では、今日は私の出番はないんですか?」
花子は慌てて手を振った。
「いえ、いえ。仁さんはトリミング道具を準備してもらえれば大丈夫です」
それを聞いた仁の表情が再び少し明るくなり、明るい声で答えた。
「はい、すぐに準備します」
仁はトリミング道具を取りに向かった。
花子はそんな仁の後ろ姿を見ながら、小さく微笑んだ。
『仁さん、こういうところはちょっと可愛いかも』
仁はトリミング道具の準備を終え、花子に言った。
「私も隣で補助してもよろしいですか?」
「はい、そうしてもらえると助かります」
花子がチョコの毛を切り始めた。
サク
サク
ところがチョコが体を少し動かした。
「チョコちゃん、じっとしてね」
サク
また動いた。
「チョコちゃん」
また動いた。
仁が静かに言った。
「私が押さえましょう」
「大丈夫ですか?」
「はい」
仁がチョコの体を慎重に支えた。
チョコは大人しくしているようだった。
「やっぱり仁さんが押さえると大人しいですね」
花子が言った。
仁は頷いた。
「そうですか」
ところが
チョコの目が仁のポケットへ向いた。
仁のポケットには、トリミング道具を片付ける際に入れておいた小さなブラシが入っていた。
チョコがブラシを見つめた。
そして尻尾を振った。
「……?」
仁がチョコを見た、その瞬間だった。
チョコが突然飛び上がった。
「ワン!」
「……?」
チョコは仁のポケットからブラシをくわえると、そのまま逃げていった。
「……」
仁はしばらく動かなかった。
花子も動きを止めた。
チョコはブラシをくわえたまま、サロンの奥へと走っていった。
「チョコちゃん!」
花子が追いかけた。
仁もゆっくりと後を追った。
「それは私の物です」
チョコが振り返った。
そしてさらに速く走った。
「……」
仁の目つきが真剣になった。
「捕まえなければ」
花子が笑いをこらえながら言った。
「仁さん、そんなに真剣に考えなくても大丈夫ですよ」
「私は真剣です」
チョコは椅子の下へ入り込んだ。
仁は椅子の前に座った。
「チョコ、出てきなさい」
「ワン」
「それはトリミング道具です」
「ワン!」
「返してください」
チョコは尻尾を振った。
「……」
後ろから花子が言った。
「仁さん」
「はい」
「言葉で説得しても出てこないと思いますよ」
仁は少し考えた。
そして手を差し出した。
「おやつ」
チョコの耳がピンと立った。
仁は花子を見つめた。
「おやつはありますか?」
「ありますけど……」
花子がおやつを取り出し、仁が受け取った。
「チョコ」
チョコが顔を覗かせた。
「こっちへおいで」
チョコが少しずつ近づいてきた。
仁がおやつを差し出した。
チョコがおやつを食べた。
そしてブラシを床に置いた。
仁はブラシを拾った。
「……成功しました」
花子が笑った。
「仁さん」
「はい?」
「犬と交渉もできるんですね」
「一方的に奪われただけの交渉ですが」
「プッ……」
花子は笑いをこらえ、
再びトリミングを始めた。
しかし、チョコは大人しくしていなかった。
今度はタオルをくわえて逃げていった。
「……」
仁がチョコを見つめた。
「また始まりましたね」
花子が微笑みながら言った。。
「チョコちゃんはいたずらっ子ですね」
チョコはタオルをくわえたまま、サロンの中を走り回った。
仁が追いかけた。
「チョコ」
チョコが逃げた。
「……」
仁が方向を変えた。
チョコも反対方向へ走った。
仁も方向を変えた。
二人はサロンの中を一周した。
花子はついに笑いをこらえきれなくなった。
「あはははは!」
仁が立ち止まった。
チョコも立ち止まった。
二人が同時に花子を見つめた。
「なぜ笑うんですか?」
「いや……」
花子は涙を拭きながら言った。
「二人とも真剣すぎるからですよ」
仁はチョコを見つめた。
チョコも仁を見つめた。
「……」
「……」
仁がため息をついた。
「今日はなかなか大変な日ですね」
チョコが尻尾を振った。
しばらくして
ようやくトリミングが終わった。
チョコはきれいに整えられた毛並みになっていた。
しばらくして飼い主が再びサロンの中へ入ってきた。
そしてチョコを見ると、満面の笑みを浮かべた。
「おお! 本当にきれいになったね」
「よかったです」
花子が笑った。
飼い主がチョコを抱き上げた。
「チョコ、可愛くなったね」
チョコは尻尾を振った。
そして仁を見つめた。
「……」
仁もチョコを見つめた。
チョコが突然仁のところへ近づいてきた。
そして仁の足に体を擦りつけた。
仁はしばらく動かなかった。
「……」
花子が笑った。
「チョコ、仁さんのこと気に入ったみたいですよ」
仁はチョコの頭を撫でた。
「そのようですね」
チョコが尻尾を振った。
仁はほんの少しだけ微笑んだ。
「……悪くないですね」
飼い主が帰ったあと、花子が言った。
「今日はお疲れさまでした」
仁はサロンを見渡した。
「思ったより大変でした」
「でも、楽しかったでしょう?」
仁は少し考えた。
「……少しは」
花子が笑った。
「それならよかったです」
仁はチョコが遊んでいたブラシとタオルを片付けた。
そしてきれいになったサロンを見つめた。
数日前までは、何もかもが不慣れだった。
だが今は、少しずつ慣れてきている。
犬を洗って
毛を乾かして
ブラッシングして
時にはいたずらっ子の犬を追いかけたりもする。
仁は思った。
思っていたより、悪くない。
その時、仁の足元にモチが近づいてきた。
「……」
仁がモチを見下ろした。
モチは何も言わず、仁の足に体を擦りつけた。
仁はモチの頭を撫でた。
「……お前は大人しくてよかったな」
モチが仁を見上げた。
そして尻尾を小さく振った。
花子がその様子を見て笑った。
「モチも仁さんのこと、もうけっこう気に入ったみたいですよ」
仁はモチを見つめた。
「そうなんですか?」
「はい」
仁は少し考えた。
そして小さく笑った。
「……それなら、よかったです」
フォレストの一日は、そうして暮れていった。




