第5話 ― ふわふわポメラニアン
フォレストの朝
仁はサロンの床を掃いていた。
さっ
さっ
床に落ちた毛を一か所に集め、ちり取りに入れた。
「……これくらいで大丈夫ですか?」
花子がトリミング道具を片付けながら顔を上げた。
「はい、きれいですよ」
「そうですか?」
「仁さん、掃除はけっこう上手ですね」
「掃除は難しくありませんから」
「それはそうですけど……」
花子はしばらく仁を見つめた。
数日前まで、何もかもが不慣れだった人だ。
それなのに仁は、思ったよりも早くフォレストでの生活に馴染んでいた。
朝出勤すると掃除をして
トリミング道具を準備して
お客様が来れば犬を出迎えること
まだトリミングをきちんとできるわけではないが、助手としてやるべきことには少しずつ慣れてきていた。
その時
チリン
お客様だった。
「いらっしゃいませ」
花子がお客様を出迎えた。
一人の女性が、小さな犬を抱いて入ってきた。
ふわふわの毛
小さな体
そして、ふさふさの尻尾
花子がポメラニアンを受け取った。
「お名前はなんですか?」
「ココです」
「ココちゃんね」
女性は扉を開けて出ていきながら、花子に言った。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
「はい、お任せください」
仁は、お客様が前のように自分を見て驚かないよう、少し離れたところから犬を見ていた。
お客様が犬を預けて帰ったあと、仁は慎重に近づいていった。
それに気づいた花子が仁に言った。
「どうしたんですか? 隠れてたんですか?」
「お客様が私を見て驚かれるかと思って……」
花子は、前に佐藤さんが驚いていたことが仁の心に残っているのだと気づいた。
花子は仁を見つめ、優しい声で言った。
「大丈夫ですよ。みんなが仁さんを怖がるわけじゃないですから」
「そうなんですか?」
やがて仁は再び自信を取り戻し、ココを見つめた。
「……ポメラニアンですね」
花子は仁が本当に単純な人だと思いながらも、犬種を言い当てたことに驚いた表情で仁を見つめた。
「知ってるんですね?」
「以前、知人の家で見たことがあります」
「よく覚えてますね」
花子がココをそっと抱き上げた。
ココは大人しく花子の腕の中に収まっていた。
仁はその様子を見守った。
花子が仁に言った。
「私がトリミングしている間、仁さんは隣で手伝ってください」
仁は頷いた。
「分かりました」
しばらくして
ココはトリミングテーブルの上に乗っていた。
花子がブラシを手に取りながら仁に説明した。
「ポメラニアンは毛がふさふさしていて可愛く見えますけど、お手入れするときに注意しなきゃいけないことがあります」
仁は隣に立ち、花子の説明を聞いていた。
「毛が絡まりやすいので、普段からしっかりブラッシングしてあげる必要があります」
「そうなんですね」
「それから、毛を短く切りすぎないことも大切です。短くしすぎると、あとから毛がきれいに伸びなくなることもあるんです」
仁は頷いた。
「分かりました」
「仁さんは今日もシャンプーとドライをお願いしますね」
「はい」
そう言ってから、花子は丁寧かつ素早くココのトリミングを終えた。
そして花子は仁にココを抱かせた。
「次は仁さんの番ですよ」
仁はココを慎重に抱き上げた。
ココが仁を見上げた。
「……」
仁もココを見つめた。
「よろしく頼む」
ココが尻尾を小さく振った。
花子がクスッと笑った。
「仁さん」
「はい?」
「犬に挨拶するのも、まるで人に話しかけてるみたいですね」
「話せば分かるんじゃないですか?」
「そうかもしれませんね」
シャンプーが始まった。
仁は花子に教わった通り、ココの体を慎重に濡らしていった。
最初は順調だった。
だが、ココが突然体を振った。
ブルルルッ!
水滴が辺り一面に飛び散った。
「……」
仁の顔にも水が飛んできた。
花子が口元を押さえた。
「プッ……」
仁が花子を見つめた。
「……笑いましたか?」
「いいえ」
「どう見ても笑いましたよね」
「ごめんなさい」
花子が笑いをこらえながらタオルを差し出した。
「たまにそういうこともあるので、気をつけてくださいね」
仁は黙ってタオルを受け取り、顔を拭いた。
そして再びココを見つめた。
「……もう一度やる。今度は大人しくしてくれ」
花子はしばらく仁を見つめ、心の中で思った。
「優しい人なんだな……」
シャンプーが終わった。
次はドライだった。
仁がドライヤーを手に取った。
ウィィィィン――
ココが体を縮こませた。
仁は慌てた。
「……」
花子が言った。
「最初は音を怖がることもあるって言いましたよね」
「忘れていました。すみません」
仁はココを撫でながら言った。
「ごめん。もう一度やる」
仁はドライヤーの風量を弱めた。
そしてココに近づける前に、自分の手で風の温度を確かめた。
花子がその様子を見て言った。
「仁さん」
「はい?」
「よくできました」
「……ありがとうございます」
仁は慎重にココの毛を乾かし始めた。
片手では毛をブラッシングし
もう片方の手ではドライヤーを動かした。
最初は少しぎこちなかった。
ブラッシングとドライヤーの動きがうまく噛み合わない。
「仁さん、もう少しゆっくり」
「はい」
「それから、毛が絡まらないようにこっちから……」
「こうですか?」
「はい」
仁は花子の動きを真似した。
少しずつ慣れていった。
ココもいつの間にか大人しく立っていた。
花子が言った。
「いいですよ」
「……」
「もう少し慣れてきたでしょう?」
仁はココの毛を見つめた。
「確かに、最初よりはマシになりました」
「そうでしょう?」
花子が笑った。
ところが問題が起きた。
ココの前足のあたりの毛が少し絡まっていた。
仁が慎重にブラシを持っていった。
だが、ブラシが毛に引っかかった。
「……」
仁は手を止めた。
力を入れればブラシが抜けそうだったが、ココを傷つけるかもしれない。
「花子さん」
「はい?」
「ここはどうすればいいですか?」
花子が近づいてきた。
「力任せに引っ張っちゃダメですよ」
「分かりました」
「少しずつほぐしてください」
仁は頷いた。
そして、とてもゆっくりと毛をほぐし始めた。
一度
また一度
少しずつ絡まった毛がほどけていった。
ココは大人しく仁を見つめていた。
仁はわずかな動きにも気を配りながらブラッシングした。
花子はその姿を静かに見守っていた。
「……仁さん」
「はい」
「思ったより、手が本当に繊細ですね」
仁は首を傾げた。
「そうですか?」
「はい」
花子が微笑んだ。
「犬のトリミングでは、それはかなり大きな長所ですよ」
仁はココを見つめた。
「それなら、よかったです」
しばらくして
トリミングが終わった。
ココはふさふさの毛をきれいに整えた姿で、テーブルの上に立っていた。
お客様がココを見て、満面の笑みを浮かべた。
「あら、本当に可愛くなりましたね!」
「よかったです」
花子が笑った。
仁も隣で頭を下げた。
「ありがとうございます」
お客様がココを抱き上げた。
「ココ、可愛くなったね」
ココが尻尾を振った。
お客様が店を出たあと、仁はトリミングテーブルの片付けを始めた。
花子がその姿を見つめた。
「仁さん」
「はい?」
「今日はどうでした?」
「楽しかったです。途中でブラシが毛に引っかかって、少し慌てましたけど」
「まだ始めたばかりなんですから、それくらい大丈夫ですよ」
花子が笑った。
「少しずつ覚えていけばいいんです」
仁はしばらく、ココが出ていった扉を見つめた。
そして小さく頷いた。
「……そうですか」
仁は再び掃除を始めた。
まだまだ覚えなければならないことは多かった。
だが、最初はただ慣れないだけだった仕事も
少しずつ楽しくなっていた。
仁のフォレストでの新しい生活は、そうして少しずつ馴染んでいった。




