第4話 ― 小さな猛獣チワワ
仁がフォレストでの生活を始めてから
それほど経っていない、ある日のこと
花子は一本の電話を受けていた。
「はい、二時にトリミングのご予約ですね? 分かりました……はい?」
花子の表情が次第に固くなっていった。
「ほかのトリミングサロンでは……全部断られたんですか?」
仁は隣で静かにその様子を見ていた。
花子はしばらく相手の話を聞くと、困ったような表情で口を開いた。
「もちろん、うちでお受けすることはできますけど……」
しばらくして
「はい、それでは午後二時にお待ちしていますね」
花子は心配そうな表情で電話を切った。
仁が尋ねた。
「何かあったんですか?」
「今日の午後二時に、お客様が一人予約されているんです」
花子はそう言ったが、表情はどこか浮かない。
仁はそんな花子を見ながら、慎重に尋ねた。
「ですが、あまり嬉しそうには見えませんね」
「少し問題がありまして」
花子はしばらく迷ったあと、指を三本立てながら言った。
「三人……トリマー三人が、その子のトリミングを始めることすらできずに諦めたそうなんです」
仁の眉がわずかに上がった。
「三人もですか?」
「はい」
花子はため息をつきながら続けた。
「ずっと吠え続けて、挙げ句の果てにはトリマーに噛みつこうとするそうなんです」
「かなり気性が荒いんですね」
「だから心配なんです」
仁は頷き、心配そうな口調で言った。
「花子さんも気をつけてください」
花子は笑いながら仁に言った。
「心配してくれてありがとうございます。そういえば、仁さんにとっては
初めてのお客様ですね」
仁は少し頷きながら答えた。
「なので、少し緊張しますね」
花子は笑って仁を励ましたあと、仁に一つお願いをした。
「仁さん、おやつがなくなってしまったので
あとで犬用のおやつを買ってきてもらえますか?」
仁は大したことではないというような顔で頷いた。
「分かりました」
「ありがとうございます、仁さん」
そうして時間が流れ、午後二時になった。
二時になると、まるで待っていたかのようにドアが開いた。
カラン
「こんにちは……」
一人の女性が恐る恐る入ってきた。
「こんにちは、予約していた佐藤舞です」
そして、その腕には一匹の小さな犬が抱かれていた。
花子は犬を見た。
「チワワですね。お名前はなんていうんですか?」
「トラです」
飼い主は力なく笑いながら、心配そうな表情で言った。
「この子が……ちょっと気性が荒くて」
花子は犬を見つめた。
トラは周囲を見回し、ひどく緊張した様子だった。
「大丈夫ですよ。まずはゆっくりやってみましょう」
花子が慎重に手を伸ばした。
「こんにちは?」
トラが花子の手を見た。
そして
「ワンワンワンワン!」
「きゃっ!」
花子が驚いて手を引っ込めた。
トラは歯をむき出しにして吠えた。
「ワン! ワンワン!」
「落ち着いて! 落ち着こうね!」
花子が後ずさったが、トラは吠え続けた。
「ワンワンワン!」
舞は泣きそうな顔で頭を下げながら言った。
「すみません……」
「いえ、大丈夫ですよ」
花子はもう一度トラを見た。
しかしトラは花子を見ながら、さらに大きな声で吠えた。
「ワン! ワン!」
花子はとうとう諦めたような表情を浮かべた。
「……この状態では、トリミングは難しそうですね」
飼い主が頭を下げた。
「やっぱり、そうですか……」
「ほかのお店でも断られたとおっしゃっていましたよね?」
「はい……」
飼い主はため息をついた。
「何軒か回ってみたんですけど、全部ダメだと言われてしまって」
花子は困った表情を浮かべた。
「申し訳ありませんが、うちも……」
その瞬間
カラン
ドアが開いた。
「ただいま戻りました」
先ほど花子に頼まれて外出していた仁が帰ってきたのだった。
仁を見た舞は、驚いて一歩後ずさった。
花子は慌てて説明した。
「うちのスタッフです」
舞は納得したように頷いた。
「ワンワンワン!」
トラが突然、仁に向かって吠え始めた。
花子が驚いて仁を見る。
「仁さん!」
「はい?」
仁はトラを見つめた。
トラは小さな体で、力いっぱい吠えていた。
「ワン! ワン! ワンワンワン!」
仁はじっと立っていた。
そのとき、仁とトラの目が合った。
「クゥン……」
目が合ったトラは、仁から漂う雰囲気を本能的に感じ取ったのか、尻尾を下げて吠えるのをやめると
トラはおそるおそる仁に近づいていった。
花子と飼い主は息を潜めた。
「クンクン」
トラは仁の匂いを嗅ぐと
ゆっくりと横になり、お腹を見せた。
「……?」
仁の顔に、初めて戸惑いの表情が浮かんだ。
花子も目を大きく見開いた。
「……え?」
舞も驚いた表情を浮かべた。
「……え?」
トラは尻尾を振りながら、仁を見上げていた。
仁はトラを見下ろした。
「……どうしてこうなるんだ?」
花子が震える声で言った。
「私にも……分からないんですけど?」
飼い主が慌てて言った。
「ちょっと待ってください!」
全員の視線が飼い主に向いた。
「うちの子が……こんなに大人しいの、初めて見ました!」
仁はトラを見つめた。
トラは仁の足元に横たわり、お腹を見せたまま尻尾を振っていた。
仁がしゃがみ込んだ。
「……撫でてもいいですか?」
飼い主は戸惑いながら頷いた。
「はい……」
仁がトラのお腹をそっと撫でた。
トラは目を閉じた。
そして、とても満足そうな表情を浮かべた。
「……」
花子が呟いた。
「何なんですか、これ……」
仁が顔を上げた。
「どういう意味ですか?」
花子は仁とトラを交互に見つめた。
「仁さんが入ってきた途端、急にものすごく大人しくなったじゃないですか」
「私は何もしていません」
「それがもっとおかしいんですよ。でも、これならトリミングを始められそうですね」
そうして花子は大人しくなった
トラを抱き上げ、トリミングテーブルの上に乗せた。
「さあ、大人しくしてようね」
ついさっきまで花子に歯をむき出しにしていたトラだった。
しかし、仁が隣に立って見守っていると
トラは大人しく待っていた。
花子がハサミを持ち、トリミングを始めた。
トラは微動だにしなかった。
花子は呆れたような表情で仁を見た。
「……仁さん、ずっと隣にいてもらえますか?」
「構いません」
仁が近くに寄ると、トラは尻尾を振った。
花子は呆れたように笑いながら、トリミングを始めた。
「本当に大人しいですね」
チョキン
チョキン
毛が切り落とされていく。
トラは目を閉じたまま、大人しくしていた。
仁が言った。
「大人しいな」
トラが尻尾を振った。
花子が呟いた。
「……仁さんに褒められて嬉しいみたいですよ」
「そうですか?」
「はい」
仁はトラを見つめた。
「よくやったな」
トラが尻尾をさらに速く振った。
花子は呆れたように笑った。
「なんだか呆れちゃいますね」
数分後
トラのトリミングが終わり、きれいに
毛が整えられていた。
花子がハサミを置き、トラを見つめた。
「これで、あとはお風呂ですね」
仁はトラを見つめた。
「私がやってもいいですか?」
花子が仁を見る。
「はい。前に教えましたから、できると思いますよ。
注意点も覚えていますよね」
「分かりました」
仁はトラをそっと抱き上げ、シャンプースペースへ運んだ。
トラは仁の腕の中でも大人しくしていた。
仁はまずお湯の温度を確認し、トラの体に
ゆっくりと水をかけていった。
花子はその様子を見ながら小さく笑った。
トラは浴槽の中で大人しく座り、仁を見つめていた。
仁は慎重にシャンプーをつけ、トラの毛を洗い
始めた。
小さな体をゆっくりと洗っていくと、トラは目を閉じた。
花子はその様子を見守った。
「最初よりずっと慣れてきましたね」
「まだまだです」
仁は答えながら、トラの毛に残ったシャンプーをきれいに
洗い流した。
花子は仁の答えを聞いて、少し微笑んだ。
シャンプーをすべて洗い流した仁は、タオルで水気を拭き取ってからドライヤーを手に取った。
ブオオオオー
トラは一瞬体を震わせたが、すぐにまた大人しくなった。
仁は風の強さを調整しながら、トラの毛をゆっくりと乾かした。
ドライが終わると、今度はブラシで毛を整えた。
「……」
トラは目を閉じたまま、仁に身を任せていた。
「終わりました」
仁がブラシを置いた。
シャンプーを終えたトラは、ふわふわの毛になっていた。
花子がトラの毛を少し整えてから、小さなリボンをつけてあげた。
「これで、本当に可愛くなりましたね」
仁もトラを見つめた。
「よく似合っていますね」
舞はトラを見て、感激した表情を浮かべた。
「まあ……」
花子が微笑みながら言った。
「いかがですか?」
「本当に可愛いです」
飼い主はトラを抱き上げた。
そして仁を見ながら頭を下げて言った。
「誤解してしまって、すみませんでした。それに、本当にありがとうございます」
「いえ、私は何もしていません。全部、花子さんがやったことです」
「そんなことありません」
佐藤さんが首を横に振った。
「仁さんが入ってきた途端、大人しくなったじゃないですか」
「それは私にも理由が分かりません」
花子が笑った。
「私からもありがとうございます、仁さん」
仁は次々と感謝され、少し照れくさそうにしていた。
舞は最後にもう一度お礼を言うと
幸せそうな笑顔を浮かべながら店を出ていった。
カラン
澄んだベルの音とともに、ドアが閉まった。
仁はトラが消えていったドアを見つめた。
「……」
花子が隣に近づいてきた。
「仁さん」
「はい?」
「もしかして、トラが急に大人しくなった理由って……」
花子はしばらく仁の顔を見つめた。
確かに、どこか恐ろしげな雰囲気を漂わせている顔だった。
「……仁さんを見て、怖すぎたからじゃないですか?」
仁が真剣な声で答えた。
「そうなんですか。やはり、背が高いからかもしれませんね」
「……」
自分から漂っている雰囲気を自覚していないまま、真剣に答える仁を見て、花子は笑いを堪えきれなかった。
「ぷはははは!」
「どうして笑うんですか?」
「いえ、仁さんがあまりにも真剣だから……」
仁は理解できないという表情で花子を見つめた。
その日の夕方、花子は店のドアを閉めながら言った。
「今日は本当にお疲れ様でした」
「いえ、花子さんこそお疲れ様でした。
私はあまり何もしていません」
花子が笑った。
「それでも、仁さんのおかげでトラをトリミングできたんですから」
仁はしばらく考えた。
「……私は役に立ちましたか?」
「はい、とても」
仁は小さく微笑んだ。
「それなら、よかったです」
こうして仁は、初めてのお客様を無事に見送ったという達成感と、明日はどんな犬に出会うのだろうという胸の高鳴りを感じながら、一日を終えた。
そして、この出来事のあと、フォレストについてある小さな噂が広まった。
フォレストには、凶暴な犬さえ大人しくさせてしまう恐ろしいスタッフがいるという噂が……




