第3話 ― 初出勤と初めてのシャンプー
翌朝
フォレストの前に、一人の男が立っていた。
黒沢仁
昨日と同じようにきちんと整えた髪と、きっちりとした服装。
そして手には、昨日新しくもらったエプロンが握られていた。
仁はしばらく店を眺めた。
「……」
今日から新しい仕事が始まる。
いざ初出勤だと思うと、昨日とは少し違った緊張感があった。
仁は軽く息を吸い込んでから、ドアを開けた。
カラン
「まだ営業時間前ですよ」
店の奥から花子の声が聞こえてきた。
しかし、花子は仁の姿を見るなり目を丸くした。
「……仁さん?」
「はい」
「もう来たんですか?」
「初出勤ですから。遅れるよりは早いほうがいいと思いまして」
花子は壁に掛かった時計を見た。
営業開始まで、まだ三十分も残っていた。
「……早すぎません?」
「そうですか?」
「はい」
花子が小さく笑った。
「でも、真面目なのはいいことですから。どうせすぐ上が家ですしね」
仁は花子に頭を下げて挨拶した。
「それでは、よろしくお願いします」
花子も頭を下げて返した。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
仁は店の中へ入った。
そしてエプロンを取り出し、身につけた。
花子がその姿を見ながら言った。
「まだお客さんも来てないですよ?」
「今日から働くわけですから」
「……仁さんって、本当に真面目ですね」
「それが何か問題でしょうか?」
「いいえ」
花子が笑った。
「むしろ頼もしいです」
仁はしばらく花子を見つめた。
「そうですか?」
「はい」
花子は頷いた。
「それじゃあ、今日からちゃんと教えますね」
「お願いします」
しばらくして
花子は二階へ上がると、白い毛をした小さな犬を抱いて降りてきた。
モチだった。
モチは花子の腕の中で周囲を見回していたが、仁を見つけた。
「ワン」
仁とモチの目が合った。
「……」
「……」
モチが首を少しかしげた。
仁もつられるように首をかしげた。
その様子を見た花子が笑った。
「二人とも、もう仲良くなったみたいですね?」
「そうですか?」
「はい」
花子がモチを床に下ろした。
モチはしばらく仁の周りをぐるぐると回ると、仁の足元に座った。
仁は下を見下ろした。
「……」
「仁さん」
「はい」
「今日はモチで練習してみましょうか?」
仁がモチを見た。
「私がやっても大丈夫ですか?」
「はい」
花子が笑った。
「ちょうどお風呂の時間ですし、モチはお風呂が嫌いじゃないので、初めて練習するにはちょうどいいですよ」
仁はモチを見つめた。
「……頼む」
モチは何も言わず仁を見つめたあと、顔を背けた。
「ワン」
「返事したみたいですね?」
「……そうだな」
花子が笑った。
「それじゃあ、まずはシャンプーからやってみましょうか?」
「はい」
花子は浴槽にちょうどいい温度のお湯を張った。
「お湯は熱すぎないようにしてくださいね」
「分かりました」
「それと、いきなり水をかけるとびっくりするので、ゆっくりお願いします」
「はい」
仁はモチをそっと抱き上げ、浴槽の中へ下ろした。
モチはしばらく周囲を見回した。
「ワン」
「大丈夫だ」
仁が静かに声をかけた。
花子はその様子を見て微笑んだ。
「仁さん」
「はい?」
「話し方が少し優しくなりましたね」
「……そうですか?」
「はい」
仁はモチの体をゆっくりと濡らしていった。
モチは最初こそ少し体を震わせたものの、すぐに大人しくなった。
仁は丁寧に毛を濡らしたあと、花子に教えてもらった通り、犬用のシャンプーを使った。
「こうするんですか?」
「はい。あまり強くこすらず、優しくしてあげてください」
仁は大きな手で、白い毛をそっとマッサージした。
花子はその様子を見ながら小さく笑った。
「仁さん、手が大きいのに本当に優しく触るんですね」
「小さいからな」
「モチが?」
「はい」
仁はモチの背中を見つめた。
「力加減を間違えたら、怪我をするかもしれないでしょう?」
花子はしばらく仁を見つめた。
「……やっぱり仁さんって、繊細なんですね」
仁は答えなかった。
ただ、モチをきれいに洗うことだけに集中していた。
やがて、シャンプーが終わった。
モチの白い毛からは、水滴がぽたぽたと落ちていた。
花子がタオルを差し出した。
「次は、ある程度水気を拭き取りますね」
「はい」
仁はタオルでモチの毛をそっと押さえ、水気を拭き取っていった。
「強くこすったら駄目なんですか?」
「はい。肌への刺激になっちゃうので、軽く押さえるように拭いてあげるといいですよ」
「分かりました」
仁は花子に教えられた通り、ゆっくりと水気を拭き取った。
モチは大人しく仁に身を任せていた。
「思ったより大人しいな」
「モチはもともとお風呂が嫌いじゃないんですよ」
花子が言った。
「だから、初めて練習するにはちょうどいいんです」
ある程度水気を拭き取ったところで、今度はドライヤーを使う番だった。
花子がドライヤーを手渡した。
「最初は風を弱くしてみてください」
「分かりました」
仁がドライヤーのスイッチを入れた。
ブオオオオー
モチの耳がぴくっと動いた。
仁はすぐにドライヤーを止めた。
「……驚いたか」
モチが仁を見つめた。
「急に大きな音がすると、びっくりしちゃうんですよ」
花子が説明した。
「少し距離を取って、ゆっくり慣らしてあげてください」
仁は頷いた。
そしてドライヤーを少し離してから、もう一度動かした。
ブオオオオー
今度はモチも大きく反応しなかった。
仁は片手でモチの毛を優しく整えながら、もう片方の手でドライヤーを動かした。
温かな風が白い毛の間を通り抜けていく。
「……」
花子は仁を見つめていた。
最初は、犬にどう触れればいいのかすら分からなかった人。
それなのに今は、モチが嫌がる瞬間を見ながら、ゆっくりと行動している。
「仁さん」
「はい?」
「上手ですよ」
仁はしばらく花子を見つめた。
「……ありがとうございます」
しばらくして
モチの毛はふわふわに乾いていた。
白い毛が、さらにふっくらとしている。
仁はモチを見つめた。
「……きれいになったな」
「そうでしょう?」
花子が笑った。
「最後にブラッシングもしてみましょうか?」
「はい」
花子がブラシを手渡した。
「最初は毛を無理に引っ張らないことが大事です」
「分かりました」
「特に毛が絡まっているところは、もっと気をつけてくださいね」
仁はモチの毛をよく見た。
白くて、ふわふわした毛だった。
仁は慎重にブラシを動かした。
サッ
サッ
モチは大人しく座っていた。
仁は力加減を調整しながら、ゆっくりとブラッシングしていった。
花子が隣で見守っている。
「思ったより上手ですね?」
「そうですか?」
「はい。初めてにしては、手つきが優しいです」
仁はモチを見つめた。
「モチが大人しいおかげです」
「それもありますね」
花子が笑った。
「でも、仁さんも上手ですよ」
仁は答える代わりに、そのままブラッシングを続けた。
モチは目を細めると、仁の足に体を預けてきた。
「……」
仁の手が止まった。
「どうしたんでしょう?」
「気持ちいいんじゃないですか?」
花子が言った。
「仁さんに任せても大丈夫だって思ってるのかもしれませんね」
仁はモチを見下ろした。
「……そうですか」
口元がほんの少し上がった。
「気に入ったみたいですね」
花子が笑った。
「そうですね」
ブラッシングまで終えると、モチはさらにふわふわになった。
仁はモチの姿をしばらく見つめた。
「……最初よりずっときれいになったな」
「はい」
花子が頷いた。
「今日はここまでで十分ですよ」
仁は頷いた。
「分かりました」
仁がモチを床に下ろすと、モチは床に降りた途端、体をぶるぶると震わせた。
ブルルルル!
そしてそのまま仁の足元へ走ってきた。
仁が見下ろした。
「……」
モチが尻尾を振った。
「……ありがとうって意味か?」
花子が笑った。
「そうみたいですね」
仁はモチの頭を撫でた。
「それならよかった」
しばらくして
花子が小さなおやつの袋を取り出した。
「仁さん」
「はい?」
「今日は頑張りましたから、モチにおやつを一つあげてみませんか?」
仁がおやつを受け取った。
小さなおやつが仁の手のひらに乗った。
仁はモチを見つめた。
「モチ」
「ワン!」
モチが尻尾を振りながら近づいてきた。
仁はおやつを指で挟んだ。
「待て」
モチが大人しく座った。
仁は少し驚いた顔をした。
「……よく言うことを聞くな」
「モチはおやつの前だと特にいい子なんですよ」
花子が笑った。
仁はモチの目を見つめた。
小さな体
ふわふわの白い毛
そして自分を見つめる、きらきらとした瞳。
「ほら」
仁がおやつを差し出した。
モチはおやつを受け取った。
ぱくっ
そして仁の指を一度ぺろりと舐めた。
「……」
仁はしばらく自分の指を見つめた。
花子はその様子を見て微笑んだ。
「美味しいって言ってますよ」
仁はモチを見つめた。
「そうか」
そしてほんの少し笑った。
「次もよろしく頼む」
「ワン!」
花子が吹き出した。
「ふふ、もう次の約束までしちゃいましたね」
「……そういう意味ではありません」
花子がさらに大きな声で笑った。
「はい、はい。そういうことにしておきますね」
初出勤の最後の時間
仁はフォレストの片隅に座り、モチを眺めていた。
今日覚えたことは、まだ多くない。
シャンプー
ドライヤー
ブラッシング
まだハサミすら握っていない。
けれど仁にとっては、それだけでも十分に新しい経験だった。
最初は、ただの新しい仕事だと思っていた。
だが、実際に犬を洗い、毛を乾かし、ブラッシングまでしてみると、不思議と心が落ち着いた。
そして自分の手からおやつを食べる姿を見ていると、小さな喜びまで感じた。
仁は隣に座っているモチを見下ろした。
「……思ったより悪くないな」
モチが仁の足に体を預けてきた。
仁は少し迷ったあと、モチの頭をゆっくりと撫でた。
花子はそんな二人を見つめながら微笑んだ。
「モチ、仁さんのことをかなり気に入ったみたいですね」
「そうですか?」
「はい」
「……私も、好きです」
花子が小さく笑った。
「それならよかったです」
練習だけだったが、仁の初出勤はこうして終わった。
仁はまだ何もまともにできない。
それでも少しずつ学んでいた。
そしてその始まりには、
花子さんとモチが一緒だった。
モチと過ごした、初めての練習
その日は、仁にとって長く記憶に残る一日となった。




