第2話 ― 新しい家、新しい生活
「それじゃあ……今日からよろしくお願いしますね」
花子が笑顔で言った。
仁は頭を下げた。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。」
こうして仁は、フォレストで
新しい仕事を始めることになった。
しかし、一つ問題があった。
「ところで、仁さん。」
「はい?」
「住むところは、どこなんですか?」
「……」
仁の表情が固まった。
「実は……家賃を滞納してしまって、野宿するようになって一週間ほどになります。」
花子はしばらく言葉を失った。
「……一週間ですか?」
「はい」
「それまで、どこで過ごしていたんですか?」
「漫画喫茶とか、いろいろなところを
転々としながらです。」
仁は淡々と答えたが、
花子の表情は次第に曇っていった。
少し考えた花子が口を開いた。
「それなら……私が案内しますね」
「どこへですか?」
「仁さんがこれから暮らす場所です。」
花子はフォレストの奥にある扉へ向かった。
扉を開けると、小さな階段が現れた。
「ここを上がると二階です。」
「……二階があったんですか?」
「はい」
仁は少し意外そうな顔をしながら、
花子の後についていった。
階段を上がると、そこには一階のトリミングサロンとはまったく違う空間が広がっていた。
温かな照明が灯るリビング
小さなソファとテーブル
片隅にはキッチンがあり、窓の向こうには街の景色が見えていた。
そして、ソファの上には何か白いものが丸まっていた。
仁が足を止めた。
「……」
白い毛玉がゆっくりと顔を上げた。
仁と目が合った。
「あ……犬がいるんですね。」
花子がソファを見る。
「この子、私が飼っている犬なんです。」
ふわふわの白い毛に包まれた、小さな犬だった。
犬は仁をしばらく見つめると、何事もなかったかのように顔を背けた。
そして、再び体を丸くした。
「……」
仁はしばらく犬を見つめた。
「私には興味がないようですね。」
花子がくすりと笑った。
「いつもそうなんですよ。」
「そうなんですか?」
「はい。かなり気位が高いんです。」
花子は犬に近づき、その頭を撫でた。
「名前はモチです。」
「モチ……」
仁が静かに名前を呟いた。
その瞬間、モチが片目を少しだけ開いた。
仁と再び目が合った。
しかし、それも一瞬のこと。
モチは何事もなかったかのように目を閉じた。
「……」
「見ました?」
花子が笑った。
「私より、仁さんに興味がないみたいですね。」
仁は何も言わず、モチを見つめていた。
花子はそんな仁を見て小さく笑うと、再びリビングの奥へ歩いていった。
「それから、ここが仁さんの部屋です。」
扉を開けると、きれいに整えられた部屋が現れた。
ベッドが一つと、机、クローゼット
広くはないが、生活するには十分そうだった。
仁は部屋の中へ入った。
そして、しばらく何も言わずに部屋を見回した。
「どうですか?」
「……いいです」
「よかった。」
仁はベッドにそっと手を触れた。
こんなにいい場所で暮らすことになるとは、思ってもいなかった。
ほんの数時間前まで、新しい仕事を見つけられずに街を歩いていた。
それなのに今は、自分の部屋がある。
仁がおずおずと口を開いた。
「私……本当に、ここで暮らしてもいいんですか?」
花子が首を傾げた。
「はい」
「それでも……初対面の男を家に入れるのは、少し不安じゃないですか?」
花子が笑った。
「大丈夫ですよ、仁さんが悪い人には見えませんから。」
仁は少し戸惑ったような表情を浮かべた。
「それなら……お世話になります。」
「そんなに難しく考えなくていいですよ。」
花子が笑いながら言った。
「従業員寮だと思ってください,
求人にも住み込み可って書いてあったでしょう?」
「……そうですか。」
「それに、ちょうど空いている部屋も二つありますし。」
花子が部屋の中を指差した。
「それに仁さんが遠くから通勤する必要もありませんから。」
仁はしばらく部屋を見回した。
そして、小さく頷いた。
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。」
花子が笑った。
「これから一緒に暮らすんですから。」
「……一緒に」
仁はその言葉を聞いて、しばらく固まった。
花子はそんな仁を見て首を傾げた。
「どうしました?」
「いえ」
仁は首を横に振った。
「ただ……こういう生活に慣れていなくて。」
花子はしばらく仁を見つめた。
朝、昼、夜と静かに微笑んだ。
「それなら、ゆっくり慣れていけばいいんですよ。」
「……はい」
その日の夕方
仁は部屋で荷物を整理していた。
荷物といっても、それほど多くはない。
着替えが数着と洗面道具
それから、古い物がいくつか
仁はバッグの中に入っていた小さな物を一つ見つめると、再びそっとしまった。
「……」
そのとき、一階から美味しそうな匂いが漂ってきた。
仁は少し迷った。
そして、部屋を出た。
キッチンでは、花子がエプロン姿で料理を作っていた。
「何をしているんですか?」
花子が振り返った。
「夕飯を作っているんです。」
「夕飯……」
「はい」
花子は料理を一品ずつテーブルに並べていった。
「仁さんの分も作りましたよ。」
仁はしばらく食卓を見つめた。
温かな料理が用意されていた。
「私が食べてもいいんですか?」
「もちろんですよ。」
「……ありがとうございます」
仁はおずおずと席に着いた。
花子も向かいの席に座った。
「たくさん食べてくださいね。」
「はい」
仁は箸を手に取った。
一口、食べた。
そして、しばらく動きを止めた。
花子の表情が少し固まった。
「……どうしました?」
「いえ」
「美味しくないですか?」
「いえ」
仁はもう一口食べた。
そして言った。
「美味しいです」
花子の顔に笑みが広がった。
「よかった。」
「料理、お上手ですね」
「そんなことないですよ」
花子は笑いながら言った。
「おばあちゃんにたくさん教えてもらったんです。」
「……おばあちゃんに?」
「はい」
花子はしばらく、フォレストのある一階のほうへ視線を向けた。
「昔は、おばあちゃんと一緒にここで暮らしていたんです。」
仁は黙って聞いていた。
「お店も一緒にやっていて。」
花子は少し笑った。
「だから、ここにはおばあちゃんとの思い出が本当にたくさんあるんです。」
「……そうですか。」
しばらく静かな時間が流れた。
仁は再び食事を口に運んだ。
不思議と心が落ち着いた。
誰かと向かい合って、温かい料理を食べること。
それは、何でもないことだった。
だが、仁にとっては久しぶりのことだった。
そのときだった。
仁の足元で何かが動いた。
仁が下を見る
モチがテーブルの横に座り、仁を見上げていた。
「……」
仁とモチの目が合った。
「……何ですか?」
モチは答えなかった。
ただ、じっと仁を見つめている。
花子が笑った。
「モチが仁さんに興味を持ってますね。」
「そうみたいですね。」
仁は少し考えてから、手を伸ばした。
モチは避けなかった。
仁の指先が白い毛に触れた。
柔らかかった。
仁はそっと、その頭を一度撫でた。
するとモチは目を細め、仁の足に体を
そっと擦りつけた。
「……」
仁の手が止まった。
花子も目を大きく見開いた。
「え……?」
「どうしました?」
「いえ」
花子はモチを見つめた。
「モチが自分から人のそばに寄っていくのって、かなり珍しいんです。」
仁はもう一度モチを見た。
モチは何事もなかったかのように、仁の足元に座っていた。
「……」
仁はほんの少し笑った。
「いい奴ですね。」
花子はそんな仁の姿を見つめ、微笑んだ。
「そうですね。」
夕食を終えると、仁は自分の部屋へ戻った。
ベッドに腰を下ろし、周囲を見回した。
見慣れない部屋
見慣れない家
新しい仕事
朝、夕方、見知らぬ白い犬
「……フォレスト」
仁はその名前を静かに呟いた。
まだ、何もかもが慣れないことばかりだった。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、心の片隅が少しだけ穏やかだった。
仁はベッドに横になった。
天井を見つめながら、目を閉じた。
今日一日、いろいろなことがあった
就職面接を受けて
フォレストを見つけて
花子さんと出会った
そして今日から、新しい生活が始まった
見知らぬ場所で
見知らぬ人と一緒に
仁は天井を見つめた
そして、仁は小さく呟いた。
「……明日からか」
明日からは、新しい仕事が始まる。
初めてやるトリミング……
一度も考えたことのない仕事だった。
だが、これからは自分で選んだ道だ。
仁は目を閉じた。
そして、ほどなくして静かに眠りについた。
扉の外では、モチが仁の部屋を一度見つめると、静かにその場を離れていった。
こうして、黒沢仁の新しい生活、その初日は静かに暮れていった。




