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第1話 ―仁、フォレストに入る

挿絵(By みてみん)


晴れた日街を、

一人の男が歩いていた。

その男の名は、黒沢仁

身長188センチの長身

鍛え上げられた、がっしりとした体格

少しぼさぼさの髪

そして、左眉の上に残る傷跡

そんな彼を初めて見た人間は、たいてい同じような反応を見せた。


「怖い」


ただ立っているだけで、周囲の人間がそっと距離を取ってしまうような雰囲気だった。

仁にとっては、慣れたことだった。

だが、今はそれが問題になっていた。


「申し訳ありませんが、うちでは……」

「分かりました。」

「職歴のほうも、少し……」

「はい」

「……」


仁は静かに頭を下げた。

そして、面接室を出た。

また落ちた。

今日だけで三社目だった。

建物の外へ出た仁は、長いため息を吐いた。


「……やはり、そう簡単にはいかないか。」


仁は空を見上げながら、思った。

今年で二十九歳、もうすぐ三十歳を迎える年齢だった。

大学には行っていない。

まともな職歴もなかった。

当然だった。

かつての仁は、あの世界に憧れていた。

力を持つ者たち

人々から恐れられる者たち

自分の望むものを、力で手に入れる者たち

幼い仁にとって、彼らは誰よりも格好よく見えた。

だから、大学へ進むことは考えなかった。

他の道を考えることもしなかった。


ただ、あの世界へ入るためだけに、自分を鍛えた。

そして二十歳になった年

仁はついに、自分がずっと憧れていた組織へ入った

だが……

そこで目にした現実は、仁が夢見ていたものとはあまりにもかけ離れていた。

憧れていた姿など、どこにもなかった。

仁が思っていた以上に、その世界はずっと醜く、

疲弊していて、

何よりも自分が

望んでいた人生ではなかった。


結局、仁はその世界から足を洗った。

仁は目を閉じた。

もう、あの頃のことは考えたくなかった。

力で問題を解決することも

人々から恐れられることも

もう、うんざりだった。


「……二度と戻らない。」


仁はそう呟き、再び寝床を探して歩き始めた。

家賃を滞納して部屋を追い出されてから、一週間

野宿生活にも、もう嫌気が差していた。

どれくらい歩いただろう

ふと、仁の足が止まった。

小さな店が目に入った。


店先には小さな植物がいくつか置かれていて、ガラス窓の向こうには犬たちの写真が飾られていた。

そして、柔らかな木の風合いをした看板には、こう書かれていた。

トリミングサロン〈フォレスト〉

仁は店を見つめた。

どこか温かみのある店だった。

そして、入口の横には一枚の小さな求人票が

貼られていた。


スタッフ募集週5日(月~金)10時~17時住み込み可

仕事内容:トリミング補助・店内清掃など……

仁はしばらく、その紙を見つめていた。


「……トリミング」


経験はない

犬を飼ったことなら……あった。

ずっと幼い頃のことだ。

ふと、記憶の中に小さな足が浮かんだ。

ふわふわの毛

尻尾を振っていた姿

幼い仁の手を舐めていた、温かな舌

そして、自分を見上げていた瞳

「……」

仁は目を閉じた。

ほんの短い記憶だった。

それなのに、不思議と胸の奥が痛んだ。

仁はもう一度、店を見つめた。

「……」

しばらく迷った末、仁はダメでもともとという気持ちで、店のドアを開けた。

チリン

澄んだベルの音が響いた。


「いらっしゃいませ!」


明るい声が聞こえた。

仁が顔を上げる。

若い女性が仁を見つめていた。

二十代半ばくらい

長い髪を後ろでまとめ、エプロンを身につけた女性だった。

名札には、佐藤花子と書かれていた

〈フォレスト〉の店主だった。

花子の目が大きく見開かれた。

「……」

仁も黙って彼女を見つめた。

しばしの沈黙が流れた。

仁は思った。

やはり、怖がられているな

だが、花子が先に口を開いた。


「……お客様ですか?」

「いえ」

「では……?」


仁は入口横の求人票を指差した。

「スタッフ募集と書いてあったので、来ました。」

「あ……」

花子の視線が、仁の顔から

体格へとゆっくり移っていく


「もしかして、トリミングの経験はありますか?」

「ありません。」

「犬を飼ったことは?」

仁は一瞬、言葉に詰まった。

「……あります、子供の頃に」

「今は?」

「いません」


花子は頷いた。


「動物は好きですか?」

仁は少し考えた。

「……嫌いではありません。」


花子の口元が、わずかに緩んだ。


「それ、好きって答えとはちょっと違いません?」

「……すみません。」

「あ、いえいえ!」


花子は慌てて手を振った。


「ただ聞いてみただけです。」


そして、改めて仁を見つめた。

近寄りがたい雰囲気をまとっている。

だが、その目つきは思っていたよりずっと穏やかだった。

むしろ、緊張しているようにも見えた。

花子が尋ねた。


「どうして、トリミングサロンで働きたいんですか?」


仁はしばらく答えなかった。

何と答えればいいのだろう

新しい人生を始めたいから

だが、そんなことを初対面の相手にわざわざ話す必要はない。


「……新しい仕事をしてみたいと思いまして」


花子が目を瞬かせた。


「新しい仕事?」

「はい」

「それなら、どうしてトリミングサロンなんですか?」


仁は答えられなかった。

正直なところ、自分でもはっきりとした理由は分からない。

ただ、この店の前を通りかかって求人票を見つけた

そして、なぜか足が止まった。

それだけだった。

仁は少し迷ってから、口を開いた。


「やはり……無理でしょうか?」


花子はそんな仁をしばらく見つめた。

そして言った。


「それなら……一度、やってみませんか?」

「……え?」

「正式に採用するかどうかは、すぐには決められませんけど。」


花子は店内を見回した。


「まずは、助手として働いてみるんです。」

「今日からでも大丈夫ですか?」


仁は店内を見渡した。

決して広くはない。

トリミングテーブルが二台

シャンプーをするためのスペース

犬たちが待つための小さなスペース

そして、壁の一角には古びた写真が飾られていた。

写真の中には、今よりも若い花子と一人の年配の女性が一緒に笑っている姿が写っていた。

仁が写真を見つめていると、花子が言った。


「おばあちゃんです。」

「……」

「このお店、おばあちゃんから譲り受けたんです。」


花子の表情が少し柔らかくなった。

「おばあちゃんが本当に大切にしていたお店なんです。」

写真の中の祖母は、犬を抱いて満面の笑みを浮かべていた。


「私もずっとこのお店を守っていきたくて。」

花子は小さく息を吐いた。

「でも、一人でやるのって思った以上に大変なんですよね。」


仁は頷いた。


「私で力になれるのであれば、働きます。」

「本当ですか?」

「はい」


花子が笑った。


「それじゃあ、お名前を教えてもらえますか?」

「仁、黒沢仁です」


花子が嬉しそうに笑った。


「それじゃあ、よろしくお願いしますね、黒沢さん」

「仁って呼んでください」

「はい、じゃあ私のことも花子って呼んでください」

「はい、花子さん」


そう言って、彼女は手を差し出した。

仁はしばらく、その手を見つめた。

そして、ゆっくりと手を握った。


「……よろしくお願いします。」

その日の午後


仁は〈フォレスト〉のエプロンを身につけていた。

鏡の前に立ち、自分の姿を見つめる。

一八八センチの大柄な体格に、小さなエプロン。

仁は思った。

……似合わないな

その姿を見た花子が、笑いを堪えている。


「ぷっ……」

「どうかしましたか?」

「あ、いえ」


花子は口元を押さえた。


「ただ……思ったより似合っていたので。」

「そうですか?」

「褒めてるんですよ。」

「ありがとうございます。」


花子がまた笑った。

そのときだった。

店の奥から、小さな声が聞こえてきた。

「ワン」

仁が振り返る。

小さな犬が一匹、ケージの中から仁を見つめていた。

花子がその犬を見ながら言った。


「さっきトリミングが終わった子なんです。」


そして、笑顔で付け加えた。

「可愛いでしょう?」

仁と犬の目が合った。

仁がゆっくりと近づいていく。

「……」

「……」

犬が首を傾げた。


仁もつられて首を傾げる。

花子は二人を交互に見つめた。


「仁さん」

「はい」

「最初から、あまり近づきすぎないでください。」

「どうしてですか?」


花子は少しだけ仁の顔を見つめた。

そして、言いにくそうに口を開いた。


「……犬が怖がっちゃうかもしれないので。」

仁は自分の顔に触れながら答えた。

「……そうですか。」

犬が一歩、後ろへ下がった。

「……」


仁は何も言わず、その姿を見つめた。

なぜだろう。

不思議と胸が痛んだ。

ずっと昔にも、自分を見つめていた

小さな瞳があった。

そのときの記憶が、ほんの一瞬だけ脳裏を

よぎった。

温かな毛

小さな足

尻尾を振っていた姿

仁は無意識に手を伸ばしかけて、止めた。

「……」


花子が尋ねた。

「大丈夫ですか?」

仁はしばらくしてから、手を下ろした。

「はい」


そして、小さく笑った。

「……ゆっくり近づくことにします。」


花子はその言葉を聞いて、微笑んだ。


「はい!」


仁はまだ知らなかった。

自分がこれから、この場所で出会うことになるたくさんの犬たちと人々

そして、自分の人生を変えることになる一人の女性を

そのすべての始まりが、この小さなトリミングサロンだった


元ヤクザ・黒沢仁の、新しい人生が始まった。

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