第34話 ― 仁、初めてのカット
朝からフォレストは、いつもと変わらず慌ただしかった。花子はトリミング道具を整理しており、仁は今日使うタオルとブラシを準備していた。モチは店の片隅に置かれたクッションの上で、体を丸めていた。
そのとき、彩香がバッグを持って二人のところへやってきた。
「花ちゃん、ちょっとショッピングモールに行ってくるね」
「ショッピングモール? 何か用事?」
「お客様に飲み物をお出しするときに使うカップを買おうと思って。今使っているカップも悪くないんだけど、もう少しかわいいものに変えたらいいかなって」
「ちょうど数も足りなくなってきていたし、じゃあお願いするね」
「任せておいて!」
彩香は自信たっぷりに笑い、店を出ていった。
チリン
ドアに取り付けられたベルが鳴った。ショッピングモールに到着した彩香は、すぐに生活用品売り場へと向かった。
仁と花子がお客様を迎えている間、自分にも店のためにできることを見つけようと思ったのだ。飲み物をお出しするときに使うカップは、お客様の目にも触れるものだった。せっかくなら、フォレストの雰囲気によく合うものを選びたかった。
「派手すぎるのはちょっと違うし、だからといって普通すぎるのも物足りないかな」
彩香は売り場に並んでいるカップを一つずつ見て回った。花柄のカップもあれば、かわいい動物の絵が描かれたカップもある。シンプルな白いカップからパステルカラーのものまで、種類もさまざまだった。カップを選びながら、彩香は子供の頃の夢を思い出した。
「子供の頃は、カフェの店長になるのが夢だったんだけどな……」
そのとき、一つのカップが彩香の目に留まった。淡い緑色の縁取りが入った白いカップだった。
「これ、いいかも?」
彩香はカップを手に取り、表と裏を確かめた。フォレストという店の名前のとおり、森を連想させる落ち着いた色合いが気に入った。花子もきっと喜んでくれるだろう。
「よし、これにしよう!」
彩香は必要な数を確認してから、カップをレジへ持っていった。会計を済ませ、店を出たところで、ショッピングモールのメインエントランス付近に設置された案内板が目に入った。
『ショッピングモール開店記念! 豪華景品抽選会!』
案内板の下には、大きな抽選機とイベントの案内が置かれていた。レシートを持っているお客様なら、誰でも参加できるイベントらしい。
彩香は自分のレシートを見つめた。
「あれ? 私も参加できるんじゃない?」
カップを購入した金額は、参加条件を満たしていた。しかも、景品一覧には商品券をはじめ、さまざまな賞品が並んでいた。その中でも彩香の目を引いたのは、特別賞だった。
『特別賞 ― 沖縄旅行券』
「沖縄?」
彩香の目が輝いた。青い海に白い砂浜、暖かな日差しが思い浮かぶ。まだ沖縄に行ったことのない彩香にとって、かなり魅力的な景品だった。もちろん、特別賞だけに当選する確率は高くないだろう。しかし、参加しなければ当たる可能性もない。
「よし、こういうのは、とりあえず挑戦してみなくちゃね!」
彩香は案内係にレシートを見せ、抽選券を受け取った。係員は抽選機を指さして笑った。
「抽選券を入れて、ハンドルを回してください」
「はい!」
彩香は抽選券を機械に入れた。そして、ハンドルを握った。
「何が出るかな?」
なぜか胸がどきどきしてきた。
彩香は勢いよくハンドルを回した。
ガラガラ、ガラガラ。
機械の中で抽選用の玉がぶつかり合う音が聞こえた。
彩香はハンドルから手を離し、玉の出口を見つめた。
いよいよ結果が出る番だった。
ドキドキ
その頃、フォレストでは新しいお客様を迎えていた。
「いらっしゃいませ!」
花子が明るい声で挨拶すると、一人の女性がリードを持って店内に入ってきた。女性の隣には、豊かな毛並みとピンと立った耳が印象的な犬がいた。首周りにはふさふさとした飾り毛があり、胴体や足にも柔らかな毛が生えていた。シェットランド・シープドッグだった。
「今日はトリミングをお願いしたくて。名前はユメです」
「ユメちゃんですね。初めまして」
花子はユメの前にしゃがみ込み、優しく手を差し出した。ユメはしばらく花子の手を見つめていたが、やがて鼻先を近づけた。花子が慎重に頭を撫でると、ユメは尻尾を振った。
「おとなしい子ですね」
「はい。普段からおとなしいほうです。ただ、トリミングのときに足の周りを触られると、少し緊張するみたいで」
「そうなんですね。ユメちゃんが嫌がらないように、ゆっくり進めますね」
花子は飼い主にトリミングのスタイルや注意すべき点を確認した。
「首周りはあまり短くしないでください。ユメのふさふさした毛並みが気に入っているので」
「はい、全体のバランスを見ながら、自然な感じに整えますね」
カウンセリングを終えた花子は、ユメをトリミング台に乗せた。仁はトリミング道具を準備しながら、ユメの様子を観察した。シェットランド・シープドッグは毛量が豊かな犬種だった。特に首周りの毛は多く、足の周りにも長く伸びた毛が目立っていた。
花子はまず、ユメの毛をブラッシングした。絡まっている部分がないか確認しながら、毛の流れに沿って少しずつ整えていく。
「仁さん、ちょっとこちらに来てもらえますか?」
「はい」
仁が近づくと、花子はトリミング台の上に置かれたハサミを指さした。
「今日は仁さんにも、実際にハサミを使ってみてほしいんです」
「自分がですか?」
「はい、これまではブラッシングやシャンプーを中心にやってきましたよね。そろそろ少しずつ、カットも経験してみるといいと思うんです」
仁はハサミを見つめた。フォレストで働き始めてから、さまざまな道具を使ってきたが、自分でハサミを使って犬の毛をカットするのは今回が初めてだった。
「初めてですが、大丈夫でしょうか?」
「最初から上手にできる必要はありませんよ。今日はほんの少しだけカットしてみるんです。私が隣で教えますから」
花子はハサミを手に取り、まずは持ち方から説明した。
「ハサミを持つときは、手に力を入れすぎないほうがいいですよ。指を自然に動かせるようにしてみてください」
「こうですか?」
仁は花子に教わったとおりにハサミを握った。
「はい。いいですよ。それから、ハサミを使うときは、犬が動かないかどうかを先に確認してくださいね」
「分かりました」
花子はユメの足元を確認した。
「ここに長く伸びている毛が見えますよね? この部分をほんの少しだけ整えてみてください。切りすぎなくても大丈夫です」
「はい」
仁はユメの動きを確認した。ユメは見慣れないハサミが気になるのか、仁の手をじっと見つめていた。仁は急がず、ユメが動かないかどうかをしばらく観察した。花子が隣で静かに声をかけた。
「大丈夫ですよ。ゆっくりやってくださいね」
仁は一度深呼吸してから、ハサミを動かした。
ちょきちょき
小さな音とともに、ユメの毛が少しだけカットされた。仁はすぐにハサミを下ろした。
「……これでいいのでしょうか?」
花子はカットした部分を確認した。
「はい、初めてなのに上手にできましたよ」
「そうですか」
仁は安堵の息を吐いた。
「初めてだから緊張しましたよね?」
「思っていた以上に緊張しました。ユメちゃんが動いたらどうしようかと」
「そういう気持ちを持つことは大切ですよ。犬が怪我をしないように気をつけることが何より重要ですから」
花子はユメの頭をそっと撫でた。
「ユメちゃんもよく頑張ったね。ありがとう」
ユメは尻尾を軽く振った。仁は自分が整えた部分をもう一度見つめた。完璧なカットとは言えなかった。まだハサミを扱う感覚にも慣れていないし、全体の形を考えるのも難しかった。それでも、つい先ほどまで長く伸びていた毛を、自分の手で直接整えたという事実は確かだった。
「少しだけ、トリマーに近づけた気がします」
仁が小さく呟くと、花子は笑った。
「そうですよ。今日は仁さんの初めてのカットですからね」
「初めてのカット……」
仁はその言葉を静かに繰り返した。まだほんの小さな経験にすぎない。それでも、自分が新しい技術を一つずつ身につけていることが嬉しかった。
「これからも少しずつ練習していきましょう。急いで覚える必要はありませんからね」
「はい、頑張ります」
仁は頷いた。花子は再びユメのトリミングを続けた。仁は隣で必要な道具を渡し、花子が作業しやすいように補助した。今回は、ほんの少しとはいえ、実際にハサミを使ってみた経験があったおかげか、花子がどの部分を整えているのか、以前よりもよく理解できた。
(こうやって一つずつ覚えていけばいいんだな)
仁はそう考えながら、シャンプーの準備を始めた。
こうしてユメのトリミングが終わりに近づいた頃、フォレストのドアが開いた。
チリン
「ただいま!」
彩香が両手にショッピングバッグを持って入ってきた。
「おかえりなさい、彩香さん」
仁が挨拶すると、彩香はショッピングバッグを持ち上げて見せた。
「じゃーん! お店で使うカップを買ってきたよ。どう?」
花子はユメのドライを終え、最後に毛並みを整えているところだった。
「わあ、かわいい、フォレストの雰囲気にもよく合ってるね」
「でしょ? 私も気に入ったから、これにしたんだ」
彩香は満足そうに笑いながら、カップを取り出して見せた。淡い緑色の縁取りが入った白いカップだった。派手すぎず、それでいてすっきりとしたデザインで、店の雰囲気によく合っていた。仁もカップを見て言った。
「いいものを選びましたね」
「ふふん。買い物なら私に任せて!」
彩香は得意げに笑った。そして、ふと思い出したように手を叩いた。
「あ、そうだ! 今日、すごいことがあったんだよ」
「すごいこと?」
花子が顔を上げた。
「うん。ショッピングモールでカップを買って出てきたら、ちょうどレシートで参加できる景品抽選会をやっていたの」
「景品抽選会?」
「それで私も参加してみたんだ!」
彩香は二人を交互に見た。仁は特に気にする様子もなく言った。
「そうなんですね。何かいい景品があったんですか?」
「それがね……」
彩香はわざとそこで言葉を切った。口元には、抑えきれない笑みが浮かんでいた。
「私、当たっちゃった!」
「えっ?」
花子が目を大きくした。仁も驚いた表情で彩香を見た。
「本当ですか?」
「本当だよ! 私も最初は信じられなかったんだから」
彩香はショッピングバッグからイベントの案内と当選確認書を取り出した。
「ほら、見て、私が当てた景品は……」
彼女は少しの間、二人の反応をうかがってから、当選確認書を大きく広げた。
「沖縄旅行券!」
「沖縄!?」
花子の声が高くなった。仁も当選確認書に書かれた内容をもう一度確認した。
『沖縄旅行パッケージ』
確かにそう書かれていた。
「本当に沖縄旅行券ですね」
「そうなの! まさかと思ったけど、本当に当たるなんて思わなかったよ!」
彩香は喜びを隠しきれない様子で、当時の状況を思い返した。彩香が抽選機のハンドルを回すと、機械の中から金色の玉が一つ転がり出てきた。彩香はその玉をそっと手に取った。
その瞬間
「あれ……?」
玉に書かれた文字を確認した彩香は、目を大きく見開いた。
「ちょっと待って。これって、まさか……」
係員が玉を確認すると、満面の笑みを浮かべた。
「おめでとうございます! 特別賞のご当選です!」
「ええっ!?」
彩香は信じられないというように、手に持った玉と係員を交互に見つめた。こうして、彩香の短い回想は終わった。花子も驚いた顔で当選確認書を見つめていた。
「すごいね、彩香。本当におめでとう!」
「ありがとう、花ちゃん!」
「でも、旅行券ってことは……何人まで行けるの?」
花子が尋ねた。彩香は待ってましたとばかりに案内を広げた。
「それがね。大人四人とペット二匹まで一緒に行けるパッケージなんだって!」
「四人と犬二匹ですか?」
「うん! 私たち以外にも、あと二人一緒に行けるんだよ!」
彩香の言葉に、花子の視線がモチへと向かった。モチは自分も旅行に行けると分かっているのか、クッションの上で顔を上げた。
「モチも一緒に行けるんだね」
花子が笑いながら言った。
「もちろん!」
彩香は弾んだ声で答えた。仁は少し考え込んだ。
『沖縄』
青い海と美しい景色で有名な場所だ。普段は仕事のことを考えて一日を過ごしているため、旅行に出かけるということ自体、ほとんど考えたことがなかった。
それなのに、こんな形で突然旅行の機会が訪れるとは思わなかった。
「本当にいい機会ですね」
仁がそう言うと、彩香は満面の笑みを浮かべた。
「でしょ? それに、私たち四人で一緒に行けるんだよ!」
「二人分空いているなら、美咲も一緒に行けるね」
「もちろん! さっそく連絡してみなくちゃ」
彩香はスマートフォンを取り出し、美咲に連絡を始めた。花子はまだ信じられないといった様子で、当選確認書を見つめていた。
「まさか、こんなことが起きるなんて思いませんでした」
「自分もです」
仁は花子を見つめながら答えた。二人の視線が一瞬だけ重なった。花子は柔らかく微笑んだ。
「仁さんは、沖縄に行ったことがありますか?」
「いえ、一度もありません」
「私もです。楽しみですね」
「はい。自分も楽しみです」
仁は頷いた。
そのとき、隣で電話を終えた彩香が二人の間にひょいと割り込んできた。
「よし! 咲ちゃんもすごく喜んでたよ。日程さえ合えば、一緒に行くって!」
「本当? よかった!」
花子は嬉しそうに言った。彩香は二人を交互に見て、にやりと笑った。
(ふふ、旅行か……)
彼女はまだ口に出していない考えを、心の中にしまっておいた。今回の旅行では、四人で楽しい時間を過ごせるだろう。そしてもしかすると、普段はなかなか表に出てこない二人の気持ちも、少しずつ姿を見せるかもしれない。彩香は仁と花子を交互に見つめた。
仁は当選確認書をもう一度確認しており、花子はモチの頭を撫でながら、旅行への期待を隠しきれない様子だった。
フォレストの一日は、そんな思いがけない知らせとともに幕を閉じた。




