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第33話 ― 心に残る笑顔

挿絵(By みてみん)

 フォレストの朝

 窓から差し込む日差しが、店内を柔らかく照らしていた。仁はトリミング台の周りを片づけたあと、今日使う道具とタオルを準備していた。ブラシとバリカンを確認し、清潔なタオルをきれいに並べる。それから、使用済みの道具を置くスペースまで確認した。


 フォレストで働き始めてから、仁はこうした準備作業にもすっかり慣れてきた。最初の頃は、何をどこに置けばいいのかも分からず、花子に一つ一つ尋ねなければならなかった。しかし今では、次に必要になるものをあらかじめ用意できるほどになっていた。


 もちろん、まだまだ覚えることは多い。犬によって毛の特徴も性格も違う。トリミングに必要な道具もさまざまで、それぞれの用途や使い方を覚えるのも簡単ではなかった。それでも、仁は焦らないことにしていた。

 花子に教えてもらったことを一つずつ身につけていけば、いつか自分も一人前のトリマーになれるはずだと思っていた。


「仁さん、準備はもう終わりましたか?」


 店の奥から花子がやってきた。


「はい、今日使う道具とタオルは、すべて準備できました」

「ありがとうございます。仁さんのおかげで、準備が早く終わりました」

「いえ、これくらい当然です。自分にできることはやらないといけませんから」


 仁が淡々と答えると、花子は柔らかく微笑んだ。


「それでは、今日もよろしくお願いしますね」

「はい、よろしくお願いします」


 二人が挨拶を交わして間もなく、店の入り口にあるベルが鳴った。


チリン


「いらっしゃいませ」


 花子が明るい声でお客様を迎えた。店に入ってきたのは、イングリッシュ・コッカー・スパニエルとその飼い主だった。犬は艶のある毛並みと、長く垂れた耳が印象的だった。飼い主の隣でおとなしく立っていた犬は、店内を見回したあと、花子を見つけると嬉しそうに尻尾を振った。


「今日予約していたムギです。よろしくお願いします」

「はい、ムギちゃん。今日もよろしくね」


 花子は腰をかがめ、ムギの頭を優しく撫でた。ムギは慣れた様子で、花子の手に顔を擦り寄せた。


「ムギちゃんは花子さんのことが好きみたいですね」


 仁がそう言うと、飼い主は笑いながら答えた。


「そうなんです。ここに来る日になると、家でもいつもより浮かれているんですよ。花子さんに会えるのが嬉しいみたいです」

「あら、本当ですか? ありがとう、ムギちゃん」


 花子は嬉しそうに笑いながら、ムギの耳の周りをそっと撫でた。その様子を見ていた仁も、自然と笑顔になった。犬に好かれるというのは、簡単なことではないはずだ。人それぞれ性格が違うように、犬にもそれぞれ個性があり、知らない人を警戒する犬もいる。


 そんな犬たちが安心して身を任せられるようにすることは、トリマーに必要な大切な能力なのだろう。花子はムギの毛並みや皮膚の状態を確認したあと、今日行うトリミングについて飼い主に説明した。


「全体的に毛を整えて、耳と足の周りもカットするとよさそうですね。長さはあまり短くしすぎないようにして、毛玉ができているところがないかも確認しながら進めますね」

「はい、それでお願いします」

「トリミング中に嫌がる様子があれば、無理をせずゆっくり進めますので、ご安心ください」

「ありがとうございます。ムギ、今日もよろしくね」


 飼い主はムギの頭を撫でてから花子に挨拶し、店を出ていった。花子はムギをトリミング台へと案内した。


「それじゃあ、ムギちゃん。今日も頑張ろうね」


 ムギは少しの間、花子の顔を見上げていたが、おとなしくトリミング台に上がった。


「本当におとなしいですね」


 仁が感心すると、花子は笑って答えた。


「ムギちゃんは何度もトリミングを受けているから、比較的慣れているんだと思います。でも、犬の気分はいつ変わるか分からないので、常に様子を見てあげないといけません」

「なるほど」

「どんなにおとなしい犬でも、突然驚いたり、不快に感じたりすることがありますからね。だから、トリミング中は犬の反応をよく確認することが大切なんです」


 花子はムギの背中を優しく撫でた。


「ムギちゃん、今日もゆっくりやっていこうね」


 ムギは尻尾を振った。仁はその様子を見て頷いた。

まだ自分でトリミングをした経験が少ない仁にとって、花子の説明はどれも新しい学びだった。いつか自分も、犬のちょっとした反応を見逃さずに気づけるようになりたいと思った。


 そのとき、花子が仁を振り返った。


「仁さん、今日は私がムギちゃんのトリミングをしている間、少し休んでもらっても大丈夫ですよ」

「え? よろしいんですか?」

「はい、今日はお客様も少なくて余裕がありますから。ムギちゃんのシャンプーを始めるまでは、私一人でも進められそうです」


 花子は仁の顔色をうかがうようにして、さらに付け加えた。


「いつも忙しく動き回っていますからね。こういうときくらい、少し休んでください」

「ありがとうございます。それでは、少し休ませていただきます」


 仁は頭を下げ、店の片隅に置かれた椅子に座った。

普段はお客様が途切れず、休む暇もなく動き回る日が多かった。花子がトリミングをしている間も、仁は次の作業の準備をしたり、使い終わったタオルを片づけたり、必要な道具を持ってきたりと、さまざまな仕事を手伝っていた。

 しかし、今日は違った。ムギのシャンプーを始めるまで、仁がやるべきことはほとんどなかった。仁は椅子の背もたれに寄りかかり、しばらく息をついた。こうして座って休むのも久しぶりだと思った。しばらく目を閉じていた仁だったが、やがて店の奥から聞こえてきた音に顔を上げた。


さく

さく


 

 花子がムギの毛をブラッシングしていた。仁は自然とそちらに視線を向けた。毛が絡まったままになっていると、トリミング中に犬が怪我をする恐れがある。そのため花子は、ムギの毛をゆっくりとブラッシングしながら、絡まっている部分がないか確認していた。


 イングリッシュ・コッカー・スパニエルは、耳や足の周りに長い毛が生える犬種だ。毛が柔らかいぶん手入れが必要で、絡まった部分を無理に引っ張ると、犬が不快に感じてしまうこともある。花子は毛の流れを確かめながら、慎重にブラッシングを続けていた。


「ムギちゃん、もう少しだけ頑張ってね」


 ムギがぴくりと動くと、花子は手を止めてムギの顔を確認した。


「痛かった? ごめんね。もう少しゆっくりやるね」


 彼女はムギの反応を確かめてから、再び優しくブラッシングを始めた。仁はその様子をじっと見つめていた。花子の手つきは、とても細やかだった。ただ毛を整えているだけではない。犬がどんな気持ちなのか、嫌がっていないかを確認しながら作業を進めていた。

 そうした細やかな気遣いが、花子のトリミングを特別なものにしているのかもしれない。仁はふと、自分が初めてフォレストに来た日のことを思い出した。あの頃の自分は、トリミングについてほとんど何も知らなかった。犬が好きという気持ちはあったが、自分が実際にトリミングをするなど、考えたこともなかった。

 元ヤクザだった自分がトリマーとして働くことになるなんて、想像すらしていなかった。そんな自分に、花子は新しい仕事を始める機会を与えてくれた。最初は慣れないことや難しいことばかりだった。犬にどう接すればいいのかというところから、トリミング道具の名前や用途を覚えることまで、一つ一つ学ばなければならなかった。それでも花子は、仁を急かすことはなかった。

 分からないことを尋ねれば親切に説明してくれたし、失敗しても頭ごなしに叱るのではなく、何がいけなかったのかを教えてくれた。

そのおかげで、仁は少しずつ自信を持てるようになった。そして今、花子がトリミングをしている姿を見ながら、単に技術を学ぶ以上の何かを感じていた。

花子はブラッシングを終えると、トリミング道具を準備した。

 仁は彼女がどんな道具を使うのか、作業を始める前に何を確認するのかを注意深く観察した。

花子はムギの毛をもう一度確認してから、ハサミを手に取った。


ちょき

ちょき


 ハサミが動くたびに、長く伸びた毛が少しずつ整えられていく。仁はハサミの動きをじっと見つめた。自分はまだ、ハサミを使って犬の毛をカットしたことがなかった。ハサミを準備したり片づけたりすることには慣れてきたが、実際に毛を整えるとなると話は別だった。

 どの方向にハサミを動かせばいいのか。どれくらいカットすればいいのか。全体の形をどう整えればいいのか。見た目には簡単そうでも、実際にやるとなれば、かなりの練習が必要だろう。

 それなのに、花子には少しの迷いもなかった。毛の長さを確認し、左右のバランスを見ながら、必要な部分を一つずつ整えていく。ムギが少しでも動けば手を止めて様子を確認し、再びおとなしくなると作業を再開した。仁は思わず身を乗り出していた。


「すごい」


 それが仁の率直な感想だった。花子はただハサミを器用に扱っているだけではない。犬の動きや毛の状態を確認しながら、全体の仕上がりまで考えていた。

そうした判断を自然にできるようになるまで、どれほどの経験が必要だったのだろう。

 仁は花子のトリミングを眺めながら考えた。自分もいつか、あんなふうになりたい。花子にすべてを頼るのではなく、自分もお客様の犬を責任を持ってトリミングできる人間になりたい。そしていつか、花子が忙しいときには、自分から進んで手伝えるようになれたらいいと思った。


 それは単に仕事ができるようになりたいという気持ちだけではなかった。花子の役に立ちたかった。自分に新しい仕事を教え、ここで働く機会を与えてくれた人に恩返しがしたかった。仁は再び花子を見つめた。彼女はムギの前足の周りを慎重に整えていた。


 トリミングに集中している花子の表情は、普段とは少し違っていた。普段はお客様と会話をしながら明るく笑ったり、仁に優しく説明してくれたりするが、今は作業に集中しているためか、口数が少なくなっていた。それでも、ムギがおとなしくしていると小さく微笑み、少しでも不快そうな様子を見せると、すぐに手を止めていた。


 仁はその姿を眺めているうちに、ふと花子の笑顔に目を奪われた。犬に接する優しい手つきも、仕事に集中する真剣な表情も目に入ったが、ムギがおとなしくしてくれたときに浮かべる柔らかな笑顔が、なぜかひときわ心に残った。


「綺麗だ」


 そんな考えが浮かび、仁は一瞬ぼんやりとした。花子が綺麗だと思ったことは、以前にもあった。しかし、今はいつもとは少し違う感覚だった。ただ外見が綺麗だという意味ではない。自分の好きなことに取り組み、集中している姿がいいと思った。犬を気遣う手つきが優しく感じられ、ムギに向けて微笑む顔を、もう少し眺めていたいと思った。


 仁は、なぜそんなことを考えるのか深く追及しなかった。ただ、今目の前にいる花子の姿が、とても好きだと思っただけだった。もう少し見ていたかった。花子がトリミングを終えて満足そうな表情を浮かべる姿も見てみたかったし、犬を撫でながら優しく話しかける声も聞いていたかった。


 いつもどおり忙しい日だったなら、こんなことを考える余裕もなかっただろう。けれど、今日は違った。

少し休むことができたからこそ、花子が働く姿を落ち着いて眺めることができた。仁は知らず知らずのうちに微笑んでいた。


 そのときだった。


「……仁くん」


 誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。しかし、仁はすぐには反応できなかった。視線は相変わらずトリミング台に向けられていた。


「仁くん?」


 今度は少し近くから声が聞こえた。


「はい?」


 仁はようやく我に返り、顔を向けた。目の前には彩香が立っていた。


「……彩香さん? いついらっしゃったんですか?」

「今来たところだけど」


 彩香は仁を見つめ、目を細めた。


「それより仁くん、さっきから何をそんなに熱心に見ていたの?」

「あ、それは……」


 仁は思わずトリミング台のほうを振り返った。花子はまだムギの毛を整えていた。


「花子さんがトリミングをしているところを見ていました」

「花ちゃんを?」

「はい、本当にお上手なので、自分もいつか、あんなふうにトリミングできるようになりたいと思いました」


 仁はいつもと変わらない声で答えようとした。しかし、彩香は彼の反応に微妙なぎこちなさを感じ取った。仁の顔は先ほどより少し強張っていた。視線をどこに向ければいいのか分からない人のように目が泳ぎ、話す速度もいつもより少し速くなっていた。


 何より、彩香が近づいてきたとき、仁は明らかにぼんやりしていた。その視線の先には花子がいた。彩香は仁とトリミング台を交互に見た。そして、口元にいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「ふーん……」

「どうかしましたか?」

「ううん、何でもないよ」


 彩香はわざと何でもないような声で答えた。しかし、仁を見つめる目には好奇心が満ちていた。


「仁くんは、花ちゃんのことを本当に熱心に見ていたんだね」

「トリミングの腕が素晴らしかったので、見ていたんです」


 仁は慌てて説明した。


「花子さんは犬への接し方もお上手ですし、トリミングをするときもとても細やかです。自分も教わる立場ですから、よく観察しておいたほうがいいと思いました」

「そうなんだ」


 彩香は素直に頷いた。


「じゃあ、仁くん」

「はい」

「花ちゃんって綺麗だよね?」

「……え?」

 

 仁の動きが止まった。彩香は何でもないような顔で彼を見つめていた。


「さっき花ちゃんを見ていたとき、何を考えていたの?」

「それは……」


 仁は答えようとして、口を閉じた。先ほど自分が何を考えていたのかを思い出した。


(綺麗だ)


 確かに、そう思った。しかし、その言葉をそのまま彩香に伝えるわけにはいかなかった。自分でも、その考えが少しおかしいと感じていたからだ。トリミングの腕が素晴らしいという感想とは違う。

 花子の手つきが上手だという事実だけでは説明できない感情だった。かといって、ほかに理由があるのかと尋ねられても、仁はすぐには答えられなかった。


「……トリミングが本当にお上手だと思いました」


 結局、仁はそう答えた。彩香はしばらく彼を見つめた。そして、心の中で小さく笑った。仁は嘘をつこうとしているようには見えなかった。本当に花子のトリミング技術に感心していたのだろう。


 しかし、それだけではないように思えた。先ほど花子を見つめていた仁の表情は、単にトリミング技術を観察している人のものとは違っていた。彩香は、仁はまだ自分の気持ちを正確に理解できていないのかもしれないと思った。


「彩香さんは、何か用事があったんですか?」


 仁が話題を変えるように尋ねると、彩香は店内を見回した。


「ああ、今日はお客様があまりいないなって思って」

「はい、ですので、花子さんがムギちゃんのトリミングをしている間、少し休んでいました」

「そうなんだ」


 彩香は頷き、再びトリミング台のほうを見た。花子は最後にムギの毛を整えていた。ハサミで細かな毛をカットしたあと、全体の形を確認し、乱れているところがないか丁寧にチェックしていた。作業を終えた花子は、ムギの頭を優しく撫でた。


「ムギちゃん、終わったよ。よく頑張ったね」


 ムギは気持ちよさそうに尻尾を振った。


「お疲れさま」


 花子が笑った。仁の視線が再びそちらに向かった。

彩香はその様子を見逃さなかった。仁は、自分が見つめていることにすら気づいていないようだった。彩香は心の中で思った。


(やっぱり、そういうことね)


 花子は子供の頃から、感情を隠すのがあまり得意ではなかった。特に誰かを意識すると、普段よりも言葉や行動が少しずつ変わる。最近の花子が仁に接する様子を思い返せば、彩香が気づかないはずもなかった。


 仁が優しく話しかけると、花子はいつもより柔らかく笑う。仁が近くに来ると、ときどき視線を逸らすこともあった。もちろん、花子は仁のことを大切な仕事仲間だと思っているだけかもしれない。


 しかし、彩香は長い付き合いの幼なじみだ。だからこそ、小さな変化にも気づきやすかった。そして今は、仁の反応まで確かめることができた。もしかすると、花子だけが仁を意識しているわけではないのかもしれない。

 仁もまた、花子を見つめる目がいつもとは少し違って見えたからだ。彩香は心の中で小さく笑った。


(まったく、二人ともじれったいんだから)


 もちろん、今すぐ二人を捕まえて、お互いのことが好きなんじゃないのかと尋ねるつもりはなかった。そんなことをすれば、二人とも慌てるに決まっている。

特に仁は、花子の話題になると普段より反応が素直になる傾向があった。つい先ほどもそうだった。彩香はその様子を思い出し、笑いをこらえた。


(もう少し様子を見ているのも面白そうね)


 そのとき、トリミング台の周りを片づけていた花子が二人に気づいた。


「彩香、何してたの?」

「仁くんとお話ししてたんだよ、花ちゃん」

「そうだったんだ」


 花子は仁を見た。


「はい、彩香さんと少しお話ししていました」

「そうなんだ」


 花子は頷き、ムギをトリミング台から降ろした。


「ムギちゃん、次はシャンプーしようね」


 ムギは嬉しそうに尻尾を振った。


「仁さん、シャンプーをお願いしますね」

「はい、分かりました」


 仁は立ち上がり、シャンプーの準備を始めた。花子はそんな仁を見つめ、微笑んだ。仁はその笑顔をしばらく見つめた。先ほど感じた気持ちが、まだ心の中に残っていた。花子がムギに向けていた笑顔が、何度も頭に浮かんでくる。


 仁には、その理由が分からなかった。ただ、花子が笑っている姿を見ると、自分まで嬉しくなるということだけは確かだった。仁は小さく頷き、ムギをシャンプーするために向かった。その様子を隣で見ていた彩香は、小さくため息をついた。


(本当に、二人ともいつになったら素直になるのかしら)


 けれど、彩香は分かっていた。気持ちというものは、誰かに背中を押されたからといって、すぐに整理できるものではないということを。


 今はただ、二人が少しずつお互いに近づいていく姿を見守っていればいいのだろう。彩香は二人の姿を眺めながら、小さく微笑んだ。フォレストの穏やかな日常は、今日も変わらず続いていた。

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