第32話 ― お客様への小さな配慮
フォレストの朝。
窓から差し込む日差しが、店内を優しく照らしていた。仁はトリミング台の周りを片づけたあと、今日使う道具を一つずつ確認していた。ハサミとブラシを所定の位置に置き、清潔なタオルを用意してから、予約表に目を通す。
今日は午前中だけでなく、午後も予約がいっぱいだったため、いつもより少し念入りに準備しておく必要があった。
「仁さん、準備は終わりましたか?」
カウンターで予約表を確認していた花子が尋ねた。
「はい、トリミング道具とタオルはすべて用意しました。ほかに必要なものはありますか?」
「いいえ、これだけあれば十分ですよ」
花子は微笑みながら予約表を置いた。そのとき、階段を下りてくる足音が聞こえた。
「おはよう!」
明るい声とともに、彩香が姿を現した。
「おはようございます、彩香さん」
「仁くんもおはよう! 花ちゃんもおはよう!」
「うん、よく眠れた?」
「もちろん! 今日も元気に働かなきゃね!」
彩香は元気いっぱいに答えながら、エプロンを手に取った。そして、すぐにカウンターの周りを片づけ始めた。お客様が座る椅子を確認し、案内用の資料をきれいに並べると、昨日書いたメモ帳を取り出した。
メモ帳には、フォレストの待合スペースを改善するために確認すべきことが書かれていた。
飲み物を提供するための備品や保管場所、衛生管理の方法などだ。まだ決めなければならないことは残っていたが、何から始めればいいのかは、ある程度整理できていた。
「彩香、今日もそれを確認しているのね」
花子がメモ帳を見ながら言った。
「うん! 昨日考えてみたら、必要なものを決める前に確認しておきたいことがいくつかあったの。今日はお客様がいない時間に、まず待合スペースを見直してみようと思って」
「いい考えね。ただ、お客様がいらっしゃったらすぐに対応しないといけないから、あまり長い時間をかけすぎないようにね」
「わかった。空いた時間に少しずつ確認するね」
彩香は元気よく答えた。仁も二人の会話を聞き、うなずいた。
「自分もトリミングが終わって時間があれば、お手伝いします」
「ありがとう、仁くん。でも、トリミングが優先だから、無理はしないでね」
「はい。わかっています」
三人は顔を見合わせて笑った。いつもと変わらない朝だった。けれど、仁はふと、自分が少し変わったことに気づいた。
フォレストで働き始めたばかりの頃、彼にとって大切だったのは、新しい職場に慣れ、任された仕事をきちんとこなすことだった。ほかの人と一緒に働くことさえ慣れていなかったため、自分の役割を果たすだけでも精いっぱいだった。
しかし、今は違う、自分が働く場所が、もっといい場所になってほしいと思うようになっていた。花子や彩香が悩んでいることにも自然と関心を持つようになり、自分にできることがあれば、一緒に取り組みたいと思っていた。その変化に気づき、仁は静かに微笑んだ。
「仁くん?」
彩香の声に、仁は顔を上げた。
「はい?」
「今、笑ったでしょ?」
「……自分がですか?」
「うん、何かいいことでも考えてたの?」
仁は少し考えてから答えた。
「いえ、特に何もありません」
「えー、気になるなあ」
彩香は残念そうな顔をした。花子はそんな二人を見て笑った。
「彩香、あまりしつこく聞かないの。仁さんだって、考える時間が必要でしょう?」
「わかったよ、花ちゃん」
彩香は素直に答えたが、口元に浮かんだ笑みは消えなかった。こうして、フォレストの一日が始まった。
最初のお客様が訪れたのは、午前十時を少し過ぎた頃だった。
チリン
「いらっしゃいませ」
花子が出迎えた。ドアを開けて入ってきたのは、中年の女性だった。腕には小さなマルチーズを抱いている。ワンちゃんは初めて訪れる場所が少し珍しいのか、周囲をきょろきょろと見回していた。
「今日もよろしくお願いします」
「今日は爪切りと全体的な毛のお手入れでよろしいでしょうか?」
「はい。それと、最近、耳の周りをよく掻くんです。一度確認していただけると助かります」
「わかりました。まずは状態を確認して、トリミング中に気づいたことがあればお伝えしますね」
花子がワンちゃんの状態を確認している間、仁はトリミングに必要な道具を用意した。彩香はお客様に待合用の椅子を案内し、ワンちゃんが落ち着いて過ごせるように周囲を整えた。
「この子の名前はチョコなんです」
お客様がワンちゃんを見ながら言った。
「チョコくんですね。今日は私たちにお任せください」
彩香が微笑んだ。チョコは彼女の声を聞いて、不思議そうに首を傾げた。
「あら、人懐っこい子ですね」
「最初は少し怖がりだったんですけど、最近は知らない人にもだいぶ慣れてきたんです」
お客様は嬉しそうにチョコの頭を撫でた。仁はチョコを慎重に抱き上げ、トリミング台に乗せた。
「チョコ、今日もよろしくな」
緊張させないよう、ゆっくりと手を動かす。チョコはしばらく仁の顔を見上げていたが、やがておとなしくその場に座った。その様子を見たお客様が、驚いたように声を上げた。
「あら、チョコがおとなしくしていますね」
「今のところは大丈夫そうです。途中で嫌がるようなら、少し休憩を挟みながら進めます」
仁は落ち着いた声で答えた。
「本当に頼もしいですね。それでは、よろしくお願いします」
お客様は安心した様子で待合用の椅子に座った。花子はトリミングについての説明を終えると、カウンターに戻った。彩香はお客様にお水が必要かどうかを尋ね、希望に応じてコップを用意した。
「ありがとうございます」
「どういたしまして。どうぞ、ごゆっくりお待ちください」
彩香は微笑みながら答えた。お客様は水を一口飲んでから、トリミング台のほうに目を向けた。仁はチョコの様子を確認しながら、慎重にブラッシングをしていた。ワンちゃんが体を動かすと、無理に押さえつけるのではなく、いったん手を止めて待つ。チョコが落ち着いたことを確認してから、再びお手入れを続けていた。その様子を見ていたお客様が、花子に声をかけた。
「あの、店長さん」
「はい?」
「あちらの方は、こちらで働き始めてどれくらいになるんですか?」
花子は仁に目を向けてから答えた。
「もう四、五か月くらいですね。最初はトリミングについて覚えることがたくさんありましたけど、今ではいろいろな仕事を任せられるようになりました」
「そうなんですね」
お客様はうなずきながら、仁を見つめた。
「初めて見たときは少し怖そうな印象だったんですけど、ワンちゃんへの接し方を見ていると、本当に優しい方なんですね」
花子はその言葉に小さく笑った。
「仁さんは心の優しい方なんですよ」
「まあ、店長さんがそうおっしゃるなら、本当に信頼できる方なんですね」
「ふふ、私もそう思っています」
花子は自然に答えた。そして、自分が何を言ったのかに気づいたように、ふと口を閉じた。お客様は花子の表情を見て、意味ありげな笑みを浮かべた。
「お二人は、とても仲がよさそうですね」
「えっ?」
「あ、いえ。なんだか素敵だなと思っただけですよ」
「そ、そうですか?」
花子の顔が少し赤くなった。その様子を隣で見ていた彩香は、口元を押さえて笑いをこらえた。
(花ちゃん、今すごく動揺してたなあ)
けれど、お客様がいるため、からかうのはやめておいた。代わりに、彩香は静かにカウンターを片づけながら、花子を見つめた。
彩香がフォレストで働き始めてから、まだそれほど時間は経っていない。しかし、幼なじみである彼女は、花子がどのように変わってきたのかを誰よりもよく知っていた。
花子が祖母からフォレストを受け継いだ頃、彼女の顔にはなかなか生気が戻らなかった。笑っていてもどこかぎこちなく、つらいことがあっても一人で抱え込もうとしていた。
けれど、今は違う、花子はお客様と話すときも自然に笑うようになり、仁がトリミングを終えて戻ってくると、労いの言葉をかける。店に必要なことがあれば、一人で悩むのではなく、周りの人たちと一緒に解決策を探そうとするようになった。
もちろん、その変化のすべてが仁のおかげだと断言することはできない。それでも、仁と一緒に働くようになってから、花子が少しずつ以前の明るさを取り戻しているのは確かだった。
(まったく、二人とも、もう少し素直になればいいのに)
彩香は小さく笑った。そのとき、トリミング台のほうから仁に呼ばれた。
「彩香さん、すみませんが、タオルを一枚お願いできますか?」
「あっ、うん! 今持っていくね!」
彩香は考え事をやめ、急いでタオルを取りに行った。
今日もフォレストでは、いつもと変わらない日常が続いていた。
チョコのトリミングが終わったのは、午前十一時を少し過ぎた頃だった。仁は最後にブラッシングをして、毛が絡まっているところがないか念入りに確認した。チョコはトリミング台の上でおとなしく座っていた。
「終わったぞ。チョコ、お疲れさま」
仁が慎重にチョコを下ろすと、チョコは床に足をつけ、体をぶるぶると震わせた。それから、尻尾を振りながら飼い主のもとへ駆け寄った。
「まあ! とってもきれいになりましたね!」
お客様はチョコを抱き上げ、嬉しそうな表情を浮かべた。
「絡まっていた毛もすっきりしましたし、お顔もさらにかわいくなった気がします」
「ありがとうございます。耳の周りも確認しましたが、トリミング中に確認できる範囲では、特に目立った異常はありませんでした。ただ、掻く様子が続くようでしたら、動物病院で診てもらうことをおすすめします」
「そうなんですね、詳しく説明してくださってありがとうございます」
「いえ、とんでもありません」
仁は落ち着いた様子で頭を下げた。お客様は会計を済ませたあとも、チョコを見つめながら何度も笑顔を浮かべていた。
「次回もぜひお願いしますね」
「はい、お待ちしております」
お客様が店を出ると、花子が仁のもとへ歩み寄った。
「仁さん、今日もお疲れさまでした」
「ありがとうございます、チョコがおとなしくしてくれたので、作業も進めやすかったです」
「それでも、仁さんが最初から最後までしっかり様子を見てくださったから、お客様もとても満足されたんだと思います」
仁は少し照れくさそうに視線をそらした。
「まだまだ至らないところも多いです」
「もちろん、これからも覚えなければならないことはありますけど、今まで本当に上達しましたよ。今では安心して任せられる仕事も増えたんですから」
花子は心を込めて言った。
「……そう言っていただけて、ありがとうございます」
仁はゆっくりと頭を下げた。そのとき、二人を見ていた彩香が割って入った。
「あれ? 花ちゃん、今日はずいぶん褒めるね?」
「そ、そうかな?」
「うん。仁くんも少し顔が赤くなってるよ?」
「彩香さん……」
仁は困ったような表情を浮かべた。彩香はいたずらっぽく笑った。
「あはは! 冗談、冗談!」
「彩香、仁さんをあまりからかわないの」
花子が笑いながら言った。
「わかったよ、花ちゃん。でも、たくさん褒めるのはいいことじゃない?」
「それはそうだけど……」
花子は仁を見つめた。
「仁さん、彩香の言うことは気にしないでくださいね。私は本当にそう思っているから、そうお伝えしたんです」
「はい、わかっています」
仁は少し柔らかな表情で答えた。
「これからも、もっと頑張ります」
「私もずっと応援するからね、仁くん!」
彩香が力強く言った。花子はそんな彩香を見て笑った。
「ふふ、彩香も頼もしいわね」
「でしょ? だから、二人とも私によろしくね!」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
仁の返事に、彩香は満足そうにうなずいた。その様子を見ながら、花子はふと思った。仁はもう、ただトリミングを学んでいる従業員ではなかった。
フォレストの一員として自分の役割を見つけ始めており、花子自身も、そんな仁の成長を心から嬉しく思っていた。そして、彩香も新しい仕事を見つけ、積極的に動いてくれている。
二人と一緒なら、これから店を少しずつ、もっといい場所にしていける気がした。昼休みが近づくと、店内はしばらく静かになった。
三人は午前中に使った道具を片づけ、それぞれの作業を終わらせた。彩香はカウンターの周りを整理しながら、待合用の椅子のそばに置かれた案内資料に目を向けた。資料を一か所にまとめておけば、お客様ももう少し動きやすくなるかもしれない。彼女はメモ帳を取り出そうとして、ふと手を止めた。
(飲み物の準備も大切だけど、まずは今あるスペースをきちんと見直すことが先かな)
昨日は必要な備品や衛生管理の方法を考えるのに忙しかった。しかし、実際にお客様が利用している様子を観察すれば、今まで気づかなかった問題も見つかるかもしれない。彩香はまず、案内資料をきれいにまとめた。
「彩香、何をしているの?」
花子が尋ねた。
「待合スペースを少し見直していたの。案内資料を一か所にまとめたほうが、お客様も動きやすそうだから」
「確かに。こうしてまとめると、前よりすっきりして見えるわね」
花子も周囲を見回した。
「飲み物を用意する場所を決める前に、待合スペースを先に整理しておくのもよさそうね」
「私もそう思う。お客様がバッグを置く場所も必要だし、ワンちゃんと一緒に移動できるスペースも、もう少し確保したいな」
「いい考えね。ただ、今すぐ全部を動かそうとせずに、お客様がいない時間に何をどこに置くか考えてみましょう」
「うん。まずは必要なことから整理してみるね」
彩香はメモ帳を取り出し、待合スペースについての内容を書き込んだ。そのとき、トリミング台の周りを片づけていた仁が、二人のもとへやってきた。
「何かありましたか?」
花子は彩香の話を簡単に説明した。仁は待合スペースを確認してから、意見を述べた。
「お客様が座る場所と、ワンちゃんが移動するスペースを少し分けるとよさそうです。物を一か所にまとめておけば、移動もしやすくなると思います」
「それなら、案内資料はカウンターの片側にまとめて、バッグを置ける場所も別に用意するとよさそうね」
花子が言った。
「はい。飲み物を用意する場所も、お客様の通り道と重ならないように決めたほうがいいと思います」
「そうね。じゃあ、今日は置き場所だけ考えておいて、トリミングが終わってから一緒に確認しましょう」
三人は短く意見を交わすと、それぞれの仕事に戻った。彩香の気分は、先ほどよりも明るくなっていた。
最初はお客様に飲み物を提供することばかり考えていたが、実際に店を利用する様子を観察してみると、その前に改善できることもあるのだと気づいた。
小さな不便を見つけ、解決する方法を考えること。
それもまた、フォレストをもっといい場所にするための仕事だった。もちろん、すべてを一度に変えることはできない。
それでも、一つずつ解決していけば、お客様に今よりも快適に過ごしてもらえるはずだ。
彩香は再びカウンターへ戻り、お客様を迎える準備を整えた。
午後になると、予想以上に多くのお客様が訪れた。
予約時間に合わせてワンちゃんを連れてくる人が続き、トリミングを終えたワンちゃんを迎えに来る人も重なった。
花子はカウンターでお客様に対応し、仁はトリミングを進めた。彩香は、お客様が待っている間に不便を感じないよう、待合スペースに気を配っていた。
そんなとき、一人のお客様がワンちゃんを連れて入ってきた際、待合用の椅子のそばに置かれていたバッグに足を引っかけそうになった。
「あっ!」
彩香はすぐにバッグを移動させた。
「申し訳ありません。私がもっと気をつけていれば……」
「いいえ、大丈夫ですよ」
お客様は笑顔で答えた。
「私が椅子の横にバッグを置いたんですから、むしろ私のほうが気をつけるべきでしたね」
「それでも、次からはこういうことがないように、周りをよく確認しますね」
彩香は、お客様が使いやすい場所へバッグを移動させた。お客様が席に着いたあとも、彩香はしばらく周囲を見回した。待合スペースは、思っていたよりも広くなかった。椅子や案内資料を置くと、お客様がバッグを置いたり、ワンちゃんと一緒に移動したりするためのスペースが十分に確保できないこともある。
(飲み物を用意する前に、まずはここを整理したほうがよさそうね)
彩香はメモ帳を取り出したかったが、今はお客様を案内することが先だった。まずは周囲を片づけ、お客様が不便を感じないように案内した。しばらくして余裕ができると、彩香は花子のもとへ向かった。
「花ちゃん、ちょっと話してもいい?」
「うん、どうしたの?」
「飲み物を用意する場所も大切だけど、待合スペースをもう少し広く使う方法も考えてみたほうがいいと思うの」
彩香は先ほど起きたことを説明した。花子はうなずきながら、周囲を見回した。
「そうね。今は案内資料や小物があちこちに置かれているから、少しごちゃごちゃして見えるのかもしれないわね」
「うん。必要のない物を片づけて、必要な物を一か所にまとめれば、お客様も動きやすくなると思う」
「いい考えね。そうすれば、飲み物を用意する場所も一緒に決められそうね」
「そう! まずは待合スペースを整理して、そのあとで飲み物を用意する場所を決めるの」
彩香は考えた手順を整理するように、うなずいた。
そのとき、仁がトリミングをいったん中断し、二人のもとへやってきた。
「お二人とも、何のお話をされていたんですか?」
花子は、彩香が見つけた問題について説明した。仁は待合スペースを確認してから、少し考え、意見を付け加えた。
「よく使う物と、そうでない物を分けるといいと思います。よく使う物は手の届きやすい場所に置き、あまり使わない物は別の場所に保管するんです」
「それなら、案内資料も必要なものだけを出しておけばいいわね」
花子が言った。
「はい。そうすれば、待合スペースだけでなく、トリミングの準備も少し楽になると思います」
「いいわね。じゃあ、今日の仕事が終わったら、棚を確認してみましょう」
彩香は明るく笑った。
「私も一緒にやるね。三人で確認すれば、もっといい方法が見つかるはずだよ」
「自分もお手伝いします」
仁はそう答えると、再びトリミング台へ戻っていった。彩香は仁の後ろ姿を見つめながら微笑んだ。自分が考えたことを花子と仁が真剣に聞いてくれて、一緒に解決方法を考えてくれる。それが嬉しかった。一人では見落としてしまうことも、誰かと話し合えば見つけられる。
(これからも、こうやって少しずつ変えていけばいいんだよね)
彩香はメモ帳に「待合スペースの整理」「棚の確認」と書き込んだ。そして、再びお客様に向かって微笑んだ。
「何か必要なものがあれば、いつでもお声がけくださいね」
「はい、ありがとうございます」
お客様は安心した様子で答えた。すべてのお客様が帰ったのは、日が傾き始めた頃だった。仁は使用した道具を片づけ、花子はカウンターで売上と予約を確認していた。彩香は待合スペースに置かれた物を一つずつ整理していた。
「今日は本当に忙しかったね」
彩香は背筋を伸ばしながら言った。
「そうね、たくさんのお客様に来ていただけるのは嬉しいけど、三人とも少し疲れたでしょうね」
花子は笑顔で答えた。
「自分は大丈夫です。ただ、今日はいつもよりトリミングに時間がかかりました。ワンちゃんたちが嫌がらないように気を配っていたら、少し長くなってしまいました」
仁が言った。
「それでも、お客様は皆さん満足してくださったじゃない」
花子は仁を見つめた。
「特に今日のお客様は、仁さんに本当に感謝していらっしゃいましたよ」
「自分は、やるべきことをしただけです」
「そう思うことも大切だけど、誰かが感謝してくれたなら、その気持ちは素直に受け取ってもいいんですよ」
花子は優しく微笑んだ。仁は少し考えてから、うなずいた。
「……はい、わかりました」
彩香は二人の会話を聞きながら微笑んだ。
「花ちゃんって、仁くんには本当に優しいよね」
「えっ?」
「ううん、ただ、そう思っただけ」
彩香は何食わぬ顔で答えた。花子はその意味に気づいたのか、顔を少し赤くした。
「彩香、またからかってるの?」
「あはは! 違うよ、本当にそう思ったから言ったんだけど?」
「本当に?」
「うん! もちろん、ちょっとからかいたい気持ちもあるけどね」
「彩香!」
花子は頬を膨らませた。仁は二人を交互に見ながら、困ったような表情を浮かべた。
「あの……自分は何か悪いことをしましたか?」
「違うよ、仁くん!」
彩香はすぐに答えた。
「仁くんは何も悪くないから、今までどおり頑張ればいいんだよ!」
「そうですか……」
仁はまだよくわかっていない様子だったが、彩香はそれ以上説明しなかった。花子はため息をつきながらも、笑いをこらえきれなかった。
「まったく、彩香は相変わらずね」
「それが私の長所だから!」
彩香は堂々と胸を張った。
「おかげでフォレストはいつも明るい気がするわ」
花子が言った。彩香は少し驚いたように目を瞬かせた。
「……花ちゃん、そんなこと急に言わないでよ」
「どうして? 本当のことでしょう?」
「そ、そうだけど……」
今度は彩香が照れる番だった。仁はそんな二人を見つめ、くすりと笑った。三人の笑い声が、静かになった店内に響いた。それは、特別なことなど何もない、いつもの夕方だった。けれど、仁にはそんな時間がとても心地よく感じられた。店の片づけを終えると、三人はカウンターの周りに集まった。彩香はメモ帳を開き、今日気づいた問題を整理した。
「今日は、飲み物の準備よりも先に、待合スペースを整理したほうがいいと思ったの。お客様がバッグを置く場所も必要だし、ワンちゃんと一緒に動けるスペースも、もう少し確保したいな」
「そうね。私も今日、お客様が移動する様子を見ていて、少し狭く感じることがあったわ」
花子も同意した。
「それなら、まずは案内資料や必要のない物を整理して、そのあとで飲み物を用意する場所を決めましょう」
「うん。順番を決めておけば、もう少し進めやすくなりそうだね」
彩香はメモ帳に内容を書き加えた。仁も意見を述べた。
「物を整理するときは、よく使う物と、そうでない物を分けるといいと思います。よく使う物は手の届きやすい場所に置いて、そうでない物は別の場所に保管するんです」
「いい考えね。そうすれば、トリミングの準備もしやすくなりそう」
花子が言った。
「それじゃあ、明日は棚の整理から始めてみる?」
彩香が尋ねた。
「いいわね。ただ、お客様がいらっしゃる前に全部終わらせようとせず、時間があるときに少しずつ進めましょう」
「わかった。今回は焦らずにやるね」
彩香は笑顔で答えた。仁は二人を見つめながら言った。
「自分もトリミングの準備が終わったら、お手伝いします」
「ありがとう、仁くん」
彩香は満面の笑みを浮かべた。花子も仁を見て微笑んだ。
「仁さんも手伝ってくださるなら心強いです。ありがとうございます」
仁は少しためらってから、口を開いた。
「自分も……こういうことを一緒にできて、嬉しいです」
二人は仁を見つめた。
「以前は、自分に任された仕事をきちんとこなすことばかり考えていました。もちろん、今でも自分の仕事をしっかりやり遂げることが一番大切だと思っています」
仁はゆっくりと言葉を続けた。
「でも、フォレストで働くうちに、自分の仕事以外にも、一緒に考えられることがあるんだと気づきました。自分が少しでも役に立てるのなら、嬉しいです」
花子の表情が柔らかくなった。
「仁さん……」
「自分も、お二人にはたくさん助けていただいていますから」
仁は静かに微笑んだ。
「これからも、よろしくお願いします」
しばらく沈黙が流れた。最初に口を開いたのは彩香だった。
「……仁くん、今日はいったいどうしたの?」
「はい?」
「いつもより素敵なことを言いすぎだよ! 急にそんなことを言われたら、感動しちゃうじゃない!」
仁は困惑した表情を浮かべた。
「あ、すみません」
「いや、謝ることじゃないよ! むしろ、もっと言ってくれてもいいんだから!」
「彩香さん……」
花子は思わず吹き出した。
「ふふっ。彩香らしいわね」
「花ちゃんまで笑わないでよ!」
「ごめん、ごめん」
花子は少し笑いを落ち着かせてから、仁を見つめた。
「私もありがとうございます、仁さん。仁さんがフォレストで一緒に働いてくださって、本当によかったと思っています」
仁は何も言わず、花子を見つめた。
「最初は、自分がちゃんとお店を経営していけるのか、不安もたくさんありました。祖母が大切に守ってきた場所だから、私もきちんと受け継いでいきたかったんです」
花子は店内を見回した。
「でも、仁さんが来てくださって、彩香も手伝ってくれるようになってから、少しずつ安心できるようになりました。もちろん、まだまだ足りないところはありますけど、何もかも一人で悩まなくてもいいんだってわかったことが、どれほど心強いか……」
彩香は静かに花子の話を聞いていた。
「私も同じだよ」
彩香が口を開いた。
「最初は、自分がどれくらい役に立てるのか、よくわからなかったの。花ちゃんを助けたいって気持ちはあったけど、実際に何をすればいいのかは、よくわからなくて」
彼女はメモ帳に目を向けた。
「でも、今日みたいに一緒に考えていると、自分にできることも少しずつ見えてくる気がするんだ。だから、これからがもっと楽しみになったよ」
「彩香……」
花子は微笑んだ。彩香は二人を交互に見つめた。
「だから、これからも三人で頑張っていこうね! 飲み物の準備も、お店の整理も、それから新しいことにも!」
「はい、自分も頑張ります」
仁が答えた。
「うん、私もよろしくね」
花子が言った。三人は顔を見合わせて笑った。その日の話は、こうして締めくくられた。これからも一緒に働き、互いに助け合いながら、フォレストをもっといい場所にしていこう。
そんな気持ちを確かめ合う時間だった。帰る支度をしながら、仁は店内をぐるりと見回した。トリミング台はきれいに片づけられ、道具もすべて所定の位置に戻されていた。カウンターには明日使う予約表が用意され、その片隅には彩香のメモ帳も置かれていた。
明日になれば、またお客様がやってくる。
仁はワンちゃんたちをトリミングし、花子はお客様に対応する。彩香は店内を整理し、新しいアイデアが浮かべば、二人と一緒に話し合うかもしれない。
そうして、フォレストの一日は続いていくのだろう。
初めてここへ来たとき、仁はこれからどう生きていけばいいのか、途方に暮れていた。
今までとは違う人生を送りたいと思っていたものの、何をすればいいのかわからなかった。新しい仕事を探しても失敗ばかりで、自分が周囲の人たちからどう見られているのか、気にせずにはいられなかった。
そんなある日、フォレストを訪れた。
最初は、ただ仕事が必要だっただけだ。けれど、ここで花子と出会い、ワンちゃんたちの世話をする仕事を学び始めた。失敗もしたし、慣れない仕事に戸惑うこともあった。それでも、花子は仁が仕事を覚えられるように助けてくれた。
仁も少しずつ努力を重ね、自分の役割を見つけていった。そして、いつの間にか彩香も加わっていた。
今では、三人で一緒に働く姿が自然なものになっていた。
もちろん、これからも困難なことはあるだろう。トリミングの技術が足りないと感じることもあれば、お客様への対応で困ることもあるかもしれない。新しく始めようとしていることも、思いどおりに進まない可能性がある。それでも、以前のように何もかも一人で悩む必要はなかった。一緒に話し合い、助け合える人たちがいるのだから。仁は静かに息を吐いた。
(……いい場所だな)
そう思った。ここは、ただお金を稼ぐために通う職場ではなかった。新しいことを学び、誰かの役に立ち、ほかの人たちと一緒に一日を作り上げていく場所だった。そして、明日もまた戻ってきたいと思える場所だった。
「仁くん、何してるの? もう行こうよ」
彩香の声が聞こえた。仁が振り向くと、花子と彩香が出入り口の前で待っていた。
「あ、はい。今、行きます」
仁は最後にもう一度店内を見渡してから、二人のもとへ歩いていった。花子が微笑んだ。
「今日もお疲れさまでした、仁さん」
「花子さんもお疲れさまでした」
「明日は棚を整理するんだよね?」
彩香が尋ねた。
「はい。トリミングの準備が終わったら、お手伝いします」
「よし! それじゃあ、明日もよろしくね、仁くん!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
仁は頭を下げた。花子はそんな仁を見つめ、優しく言った。
「仁さん、あまり気負わなくても大丈夫ですよ。私たちみんなで取り組むことなんですから」
仁はしばらく花子を見つめた。そして、ゆっくりとうなずいた。
「……はい、ありがとうございます」
彩香は二人を交互に見て、明るく笑った。
「よーし! それじゃあ、明日も三人で頑張ろう!」
「うん」
「はい」
三人は一緒にフォレストを出た。夕方の空気は少しひんやりしていたが、空にはまだ温かな光が残っていた。彩香は明日用意する物について話し、花子はお客様が利用しやすい空間を作る方法を考えていた。
仁は二人の話を聞きながら、必要なことを一緒に考えた。特別な話ではなかった。棚を整理し、飲み物を用意する場所を決め、お客様がもう少し快適に待てるようにすること。そんな、小さな計画ばかりだった。けれど、仁は知っていた。これまで自分が歩んできた道も、一瞬で変わったわけではないということを。
毎日努力し、小さなことを一つずつ成し遂げながら、今の自分になったのだ。これからも同じだろう。今日より少し成長し、昨日より少し多くのことを学ぶ。そうやって、一日一日を積み重ねていけばいい。そして、その隣には一緒に歩んでくれる人たちがいる。仁は二人を見つめ、静かに微笑んだ。
「……明日も、よろしくお願いします」
「ん? どうしたの、仁くん。急に」
彩香が首を傾げた。
「いえ、ただ……これからもよろしくお願いしますと、お伝えしたくなったんです」
彩香はしばらく仁を見つめてから、満面の笑みを浮かべた。
「なーんだ、そんなこと? 当たり前じゃない! これからもずっと一緒に働くんだから!」
「そうですね。私も、これからよろしくお願いしますね、仁さん」
花子も笑顔で言った。仁はその言葉を聞き、うなずいた。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
三人は再び笑い合った。明日になれば、またフォレストの扉が開く。新しいお客様が訪れ、ワンちゃんたちが尻尾を振りながら店に入ってくる。そして三人は、それぞれの持ち場で一生懸命に働くのだろう。
ときには予想もしなかったことが起こるかもしれないし、思うように物事が進まない日もあるかもしれない。
それでも、大丈夫だった。一緒に考え、助け合いながら、少しずつ前へ進んでいけばいいのだから。
仁にとって、フォレストはもう見知らぬ場所ではなかった。自分が学べる場所であり、誰かの役に立てる場所。そして、明日もまた戻ってきて、みんなと一緒に笑える場所だった。前を歩いていた彩香が、ふと思い出したように花子を振り返った。
「あっ、そうだ! 花ちゃん、今度、飲み物を用意するためのコップも探そうよ!」
「うん。でも、あまりたくさん買わないようにしましょう、まずは必要な分だけ用意するの」
「わかった! じゃあ、かわいいコップを探してみる?」
「彩香、お客様に使っていただくものなんだから、かわいさよりも安全で管理しやすいことが大切よ」
「うう……それはそうだけど、少しくらいかわいくてもいいじゃない!」
「ふふ、そうね。あまり派手すぎないものを探してみましょう」
仁は二人の会話を聞きながら笑った。明日もきっと、いつもと変わらない一日が始まる。けれど、そんな当たり前の一日が続いていくことこそ、仁にとって何よりも大切だった。彼は二人の後を追い、歩き出した。これからも、一緒に、それが今、仁が願う小さな幸せだった。




