第31話 ― 彩香のアイデア
フォレストの午前。
窓から差し込む日差しが、店内を暖かく照らしていた。仁はトリミング台の周りを片付けたあと、今日使うタオルとトリミング道具を一つずつ確認した。
ハサミとブラシが所定の位置に置かれているかを確かめ、清潔なタオルも手の届きやすい場所に用意した。花子はカウンターで予約表を確認し、彩香はきれいに洗濯したタオルを畳んで棚に整理していた。
「花ちゃん、今日は午前中から予約がいっぱいなの?」
「うん、午後にも何件か予約が入っているから、今日は少し忙しくなりそう」
「そっか、それなら私も頑張って手伝わなきゃね」
彩香は袖をまくり上げ、タオルをきれいに並べた。
フォレストの仕事を手伝い始めてから、ある程度の時間が経っていた。最初の頃は何をすればいいのかわからず、花子に一つ一つ尋ねることが多かったが、今では簡単な仕事なら一人でもできるようになっていた。
お客さんが来る前に必要なものを準備し、トリミングが終わったあとは使用したタオルを片付ける。ときには、トリミングを待っているワンちゃんと少し遊んであげたり、花子が別の仕事をしている間、代わりにカウンターを任されたりすることもあった。
彩香なりに、フォレストの日常に慣れてきていた。
けれど、慣れてきたからこそ、ときどきこんなことを考えるようになった。
今よりも、もっと役に立てることはないだろうか。
もちろん、今やっている仕事にも十分な意味があった。仁と花子の二人だけですべての仕事をこなさなければならなかったら、もっと大変だったはずだ。二人がトリミングに集中できるのも、彩香がそばで手伝っているおかげだった。
そのことは、彩香自身もよくわかっていた。
それでも、もう少し何か新しいことをしてみたかった。
花子が祖母から受け継いだフォレストを、どれほど大切に思っているのかは誰よりもよく知っていた。
仁もまた、毎日真面目に努力している。そんな二人の姿を見ていると、自分もただじっとしているわけにはいかなかった。
「私にも、何か新しいことができたらいいのにな」
彩香がもう一枚タオルを畳もうとした、そのときだった。
「彩香さん、そちらのタオルはもう十分ですよ」
仁の声に、彩香は顔を上げた。
「あれ? もう終わったの?」
「はい、必要な分はすべて準備できました」
「じゃあ、ほかのことも手伝おうか?」
「そうですね……。今は大丈夫だと思います。お客さんが来るまでは、これだけあれば十分ですから」
「そっか」
彩香は少し考えてから、手に持っていたタオルを置いた。そして、トリミング台の周りを片付けている仁を見つめた。
「仁君は、仕事がないときは何をしているの?」
「私ですか?」
「うん、トリミングの準備も終わって、掃除も終わったときとか」
「そういうときは道具をもう一度確認したり、次の予約を確認したりしています。時間が余れば、本を読むこともありますね」
「わあ……仁君らしいね」
「そうですか?」
「う、隙がないんだもん」
彩香は微笑みながら言った。仁は何と答えればいいのかわからず、しばらく口を閉じた。褒められることには、まだ慣れていないらしく、少し気まずそうな表情を浮かべていた。
「そんなに大したことではありません。まだまだ覚えなければならないことも多いですから」
「そうやって考えられるところが、もうすごいんだよ」
「彩香さんも十分頑張っていますよ」
仁が迷いなく答えると、彩香は少し驚いた表情を浮かべた。
「えっ?」
「彩香さんが手伝ってくれるようになってから、私もトリミングに集中できるようになりました。準備や片付けを手伝っていただけるのも、とても助かっています」
仁は特に恩着せがましい様子もなく、淡々とそう言った。むしろ、当たり前の事実を伝えているようだった。
「……そんなふうに言ってもらえると、ちょっと照れちゃうな」
彩香は頭をかきながら笑った。
「でも、ありがとうね、仁君」
「いえ、とんでもありません」
そのとき、カウンターで予約表を整理していた花子が二人に声をかけた。
「二人とも、準備は終わった?」
「うん、こっちは全部片付いたよ」
「私もトリミング道具の確認を終えました」
「ありがとう。それじゃあ、お客さんが来るまで少し休憩しようか」
花子は微笑んだ。彩香は頷いた。仁の言葉のおかげで、自分がやっている仕事の意味を改めて考えることができた。
今でも役に立てているという事実は嬉しかった。
けれど、心の片隅に残っている思いは、まだ消えていなかった。自分にもっとできること。
それを見つけるには、何から始めればいいのだろう。
彩香が考え込んでいると、店の入り口のベルが鳴った。
チリン
「いらっしゃいませ」
花子はお客さんを迎えるため、カウンターから立ち上がった。今日もフォレストの一日が始まった。最初のお客さんは、小さなトイプードルを連れた女性だった。
花子がワンちゃんの状態を確認し、今日行うトリミングについて説明している間、仁は道具を準備した。彩香はお客さんに軽く挨拶をしてから、カウンターの周りを片付けた。
「今日もよろしくお願いしますね」
「はい、どうぞ、ゆっくりお待ちください」
花子は笑顔で答えた。お客さんは頷き、待合用の椅子に腰を下ろした。彩香は、お客さんが快適に待てるように椅子の周りを確認した。床には目立ったほこりもなく、椅子もきれいに整えられていた。すると、ふと、お客さんの視線がカウンターの上に置かれた時計へ向かうのが見えた。
(トリミングがいつ頃終わるのか、気になっているのかな?)
ワンちゃんのトリミングが終わるまで、いったん外出するお客さんも多かったが、今回のお客さんのように店内に残って待つ人もそれなりにいた。特に予約が重なる日は、トリミングに時間がかかることもある。
彩香は待合用の椅子に座っているお客さんを、もう一度見つめた。
(待っている間に、何か飲めるものがあったらいいのにな)
彼女はカウンターに目を向けた。店内には雑誌が数冊と、犬のトリミングに関する案内資料が置かれていた。お客さんが待っている間に読めるよう、用意してあるものだった。
もちろん、今の準備が不十分だというわけではない。けれど、ここにちょっとした何かを加えれば、お客さんにもっと快適に過ごしてもらえるのではないだろうか。
待っている間、静かに座ってスマートフォンを見るのが好きな人もいれば、ワンちゃんについて話しながら待つ人もいる。待ち時間が必ずしも退屈なものとは限らなかった。それでも、待っている間に気軽に飲めるものがあったら、どうだろう。
そのとき、彩香の頭にふと一つの考えが浮かんだ。
(飲み物……)
以前、花子と店について話していたとき、お客さんに飲み物を提供する方法を考えたことがあった。あのときは、いろいろな話をする中で少し話題に上がっただけだったが、今考えてみると、なかなかいいアイデアかもしれない。
待っている間に飲めるものがあれば、お客さんももう少し快適に時間を過ごせるだろう。トリミングが終わるのを待つ時間に、小さな楽しみが加わるというわけだ。
もちろん、最初から何種類もの飲み物を用意する必要はない。カフェのようにさまざまなメニューを揃えるとなれば、材料もたくさん必要になるし、保管場所や管理方法にも気を配らなければならない。
何より、トリミングの仕事と並行して飲み物まで用意するとなると、二人の負担が大きくなってしまうかもしれなかった。けれど、その日に提供するお茶を一種類だけ用意するなら、どうだろう。
カフェの「本日の紅茶」のように、材料費が負担にならない飲み物を選び、お客さんに無料で提供するのだ。
そうすれば、用意する材料も少なくて済むし、管理方法もシンプルになりそうだった。お客さんにとっても、気軽に利用できる小さなサービスになるはずだ。
もちろん、何も考えずに始められることではない。カップや保管場所も必要だし、衛生管理にも気を配らなければならない。
ワンちゃんたちが飲み物に近づけないようにすることも大切だった。けれど、最初から大がかりに始める必要はない。本日の紅茶を一種類だけ用意してみて、実際にお客さんが快適に感じてくれるかどうか、様子を見ればいいのではないだろうか。彩香は頭の中で考えを整理しながら、小さく頷いた。
「よし、一度、花ちゃんに話してみよう」
そう考えた瞬間、トリミング台のほうから仁の声が聞こえた。
「彩香さん、すみませんが、タオルを一枚お願いできますか?」
「あっ、うん! 今持っていくね」
彩香は考えをいったん中断し、清潔なタオルを持っていった。仁はトイプードルの様子を確認しながら、慎重にシャンプーをしていた。ワンちゃんが水に驚かないようにゆっくりと動き、ときどき反応を確かめながら、細やかに気を配っていた。
彩香はタオルを渡しながら、そんな仁の姿をしばらく見つめた。仁は自分に任された仕事に集中していた。花子もお客さんの対応をしながらトリミングの仕事をこなしていて、忙しそうだった。
それなら、自分にできることを少しずつ探していくのも悪くないだろう。
彩香は二人の姿を心に留めてから、カウンターへ戻った。
今度は、ただ考えるだけで終わらせないことにした。
午前中の予約が一つ、また一つと進むにつれて、店内は徐々に慌ただしくなっていった。
新しいお客さんが続けて訪れ、トリミングを終えたワンちゃんを迎えに来るお客さんもいた。花子と仁はトリミングに集中していた。彩香も、じっとしている暇はなかった。
使用済みのタオルを片付け、清潔なタオルを用意し、お客さんが帰ったあとはその周辺を確認した。ときには、ワンちゃんを連れてきたお客さんに簡単な案内をすることもあった。
お客さんが不便を感じずに店を利用できるよう、周囲に気を配っているうちに、いつの間にかかなりの時間が経っていた。
そんな中、一人のお客さんがトリミングを任せたワンちゃんを待ちながら、カウンターの前に立った。
「あの、飲み水はありますか?」
「えっ?」
彩香は一瞬、戸惑った。お客さんは、突然の質問に驚いた彩香を見て、優しく微笑みながら続けた。
「少し喉が渇いてしまって。よろしければ、お水をいただけますか?」
「あっ、はい! もちろんです。少々お待ちください」
彩香は慌てて花子を見た。花子もお客さんの話を聞いていたらしく、頷いた。
「彩香、奥にあるお水を持っていってあげて」
「うん、わかった」
彩香は奥で水を用意し、お客さんのもとへ持っていった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
お客さんはお礼を言って、水を飲んだ。彩香は、お客さんが水を飲んだあと、少しほっとした表情で再び椅子に座るのを見つめた。
ただ、一杯の水を提供しただけだった。特別なことをしたわけでもないし、準備に時間がかかったわけでもない。それでも、お客さんがほっとした表情で笑ってくれるのを見ると、嬉しい気持ちになった。
(やっぱり、お客さんが待っている間に飲めるものがあったらいいな)
彩香は、最初に思いついたアイデアにさらに自信を持った。ただし、水を提供することと、お茶を用意して提供することは別の問題だった。店内のスペースや管理方法も考えなければならないし、何より、トリミングをしている二人の負担にならないようにする必要がある。
お客さんに快適に過ごしてもらおうとして、店で働く人たちがかえって大変になってしまうのなら、いい方法とはいえなかった。彩香はそうした点まで考えながら、頭の中で計画を整理した。
(まずは花ちゃんと話してみよう。仁君の意見も聞いてみようかな)
そう考えていると、お客さんが水の入ったカップを返しながら言った。
「ありがとうございました」
「いえいえ。何かありましたら、遠慮なくお声がけくださいね」
彩香は笑顔で答え、カップを受け取った。お客さんが帰ったあと、彼女はカップをきれいに洗って片付けた。ほんの小さなことだったが、なぜか気分がよかった。昼休みが近づいた頃、店内がしばらく静かになった。
仁は使用した道具を片付け、花子はカウンターで午後の予約を確認していた。彩香は二人のもとへ近づいた。
「ねえ、花ちゃん、仁君。ちょっといい?」
「うん? どうしたの?」
花子が顔を上げた。仁も手に持っていたブラシを置き、彩香を見た。
「どうかしましたか?」
「実は二人に話したいことがあるんだ」
彩香は少し息を整えてから、話を続けた。
「お客さんに飲み物を提供するのはどうかな?」
「飲み物?」
花子は目を瞬かせた。
「お客さんが待っている間に飲めるものを用意しようってこと?」
「そう。今日、お客さんにお水を頼まれて持っていったんだけど、そのときに考えたの。待っている間に飲めるものがあれば、もう少し快適に時間を過ごしてもらえるんじゃないかなって」
花子は少し考え込んだ。彩香の話を聞きながら、カウンターの前で待っていたお客さんの姿を思い浮かべているようだった。
「確かに、いい考えかもしれないね。トリミングを受けるワンちゃんを店内で待っているお客さんもいるし、待っている間に飲めるものがあるのも悪くないと思う」
「そうでしょ?」
彩香の顔が明るくなった。しかし、花子はすぐに結論を出すのではなく、いくつかの点について考えた。
「ただ、飲み物を用意するなら、保管場所も必要だし、カップを洗ったり片付けたりする仕事も増えるね。うちの店はそれほど広くないから、スペースについても確認したほうがよさそう」
「うん。私もそこは考えてみたの。だから、最初から何種類も用意するんじゃなくて、カフェの『本日の紅茶』みたいに、一日に一種類だけ提供するのはどうかな?」
「本日の紅茶?」
「うん。材料費があまりかからないお茶を一つ選んで、お客さんに無料で提供するの。最初から何種類も用意する必要はないし、材料の管理も少し楽になると思う」
「それなら、負担も少なくて済みそうだね」
仁も二人の話を聞いて口を開いた。
「私もいい考えだと思います」
「仁君も?」
「はい。お客さんが快適に待てるのなら、いいことだと思います。ただ、ワンちゃんたちが飲み物に近づかないよう、気をつける必要がありそうですね」
彩香は頷いた。
「そうだね。特に、ワンちゃんがカップを倒したり、飲み物を口にしたりしないように気をつけないと」
「はい、トリミング台の周りには飲み物を置かず、お客さんが座る場所でも、ワンちゃんが簡単に届かない位置に置くのがよさそうです」
「それから、カップも割れやすいものより、安全なものを使ったほうがいいね」
花子が付け加えた。
「そうだね。掃除もしやすくて、管理しやすいものを用意するといいね」
三人は自然と意見を交わし始めた。最初は、ただお客さんに飲み物を提供してみてはどうか、という簡単な話だった。けれど、実際に話し合ってみると、考えなければならないことがいくつもあった。
どんなお茶を用意するのか。どこに置くのか。誰が管理するのか。そして何より大切なのは、今までのトリミング業務に支障をきたさないことだった。
「飲み物を提供するとしても、お客さんに無理に勧める必要はないよね?」
彩香が尋ねた。
「うん、希望する方にだけ案内すればいいと思う」
花子が答えた。
「最初から特別なサービスを作ろうとするんじゃなくて、お客さんが必要なときに気軽に利用できるようにするんだね」
「いいと思います」
仁も同意した。
「それに、最初は本日の紅茶を一種類だけ用意して、お客さんの反応を見てみるのがいいと思います」
「じゃあ、決まりだね!」
彩香は手を叩いた。
「まずは小さく始めてみて、よさそうなら少しずつ発展させていこう!」
「そうだね。ただ、必要なものを確認しなければならないから、今日すぐに正式に始めるんじゃなくて、ゆっくり準備していこう」
「わかった、花ちゃん」
彩香は嬉しそうに笑った。自分の考えたアイデアを、花子と仁が真剣に聞いてくれた。それだけでも嬉しかった。それに、二人はただ「いいね」と言うだけでなく、実際にどうすればいいのか、一緒に考えてくれた。そのおかげで、漠然としていた考えが少しずつ具体的な計画へと変わっていった。
「じゃあ、お昼を食べたあとで、必要なものを一度確認してみようか」
花子が言った。
「うん! 私が必要なものをリストにまとめるね」
「私も、店にあるものを確認しておきます」
仁が答えた。彩香は二人を交互に見つめた。
(よし、少しずつだけど、前に進んでる)
彼女は心の中で、小さく拳を握った。昼休みになると、三人は仕事をいったん止めて、食事の準備を始めた。花子は簡単に食べられるものを取り出し、彩香は食器を用意した。仁は水を注いで置き、食卓の周りを片付けた。いつもと変わらない光景だった。けれど、食事をしながらも、彩香の関心は新しい計画に向いていた。
「花ちゃん、飲み物を用意するなら、何がいいかな?」
「うーん……最初は材料費があまりかからなくて、準備しやすいアイスティーがいいんじゃないかな。材料が複雑だと、管理も大変になるからね」
「やっぱりそうだよね?」
「うん。最初からたくさん用意すると、管理するものも増えるし、保管場所も必要になるでしょ?」
彩香は箸を置いて頷いた。アイスティーなら比較的簡単に準備できそうだし、お客さんに提供する際の負担も少なそうだった。もちろん、実際に始める前には、保管方法や衛生管理についても確認しなければならない。二人の会話を聞いていた仁も頷いた。
「私にできることがあれば、手伝います」
「仁さんは、もう十分手伝ってくれていますよ」
花子は仁を見ながら言った。
「トリミングをしてくださるだけでも、とても助かっていますから。あまり無理をしなくても大丈夫ですよ」
「ですが、新しいことを始めるなら、準備も必要になるでしょうから」
仁は少し考えてから、言葉を続けた。
「自分にできることは、一緒にやりたいと思っています」
彩香はそんな仁を見つめ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「あれ? 仁君、意外とこういうことには積極的なんだね?」
「そうですか?」
「うん、最初はトリミングだけを一生懸命頑張る人だと思ってたのに」
「私もフォレストで働いていますから」
仁は当然のことのように答えた。
「フォレストがもっとよくなるのなら、私にとっても嬉しいことです」
その言葉に、花子の表情が柔らかくなった。
「……ありがとうございます、仁さん」
「いえ、とんでもありません」
仁は少し照れくさそうに視線をそらした。
彩香は二人を交互に見ながら、口元に笑みを浮かべた。
(こういうところは、本当にお似合いなんだから)
もちろん、その言葉を口に出すことはなかった。うっかり言ってしまったら、二人が気まずそうにする姿を見ることになるかもしれないからだ。彩香は一人で考えたことを笑ってごまかし、再び食事を始めた。
(焦りすぎないようにしよう)
小さなことから、一つずつ進めていけばいい。昼食を終えると、三人は店にあるものを確認することにした。まず、花子がカウンターの奥にある収納棚を開けた。
「うーん……カップはいくつかあるね」
「これはお客さん用に使っているもの?」
彩香が尋ねた。
「うん。以前、お客さんにお水を出すときに使っていたものだよ。ただ、数はそれほど多くないから、もう少し用意したほうがよさそうだね」
花子は中に入っているカップを一つずつ確認した。
今あるカップでも、すぐに困ることはなさそうだった。しかし、これから飲み物を用意するなら、予備があったほうがよさそうだった。
「じゃあ、まずはカップを探せばいいんだね」
「うん。それから、飲み物を保管する場所も確認しないと」
花子は収納棚の奥を見た。
「ここにはほかのものも入っているから、飲み物をたくさん置くのは難しそうだね」
仁は周囲を見回してから、カウンターの横にある小さなスペースを指さした。
「あちらの棚はどうでしょうか?」
「棚?」
「はい。今は案内資料や予備のものを置いていますが、一部を整理すれば、小さなスペースを作れると思います」
花子は仁が指さした場所を見た。棚には案内資料や、あまり頻繁には使わないものがきちんと並べられていた。どれも必要なものではあったが、一部は別の場所に移しても問題なさそうだった。
「そうだね。あそこなら、お客さんが自分で飲み物を取り出す方式にしなくても、私たちが用意したものをすぐに持っていけそう」
「もちろん、ワンちゃんが届かないように、置く位置には気をつける必要がありますが」
「そうですね。その点も考えないといけませんね」
彩香は棚の前に近づき、周囲を見回した。
「じゃあ、この場所を整理するのは私が担当するね。案内資料は必要なものだけ残して、あとは別の場所に片付ければいいよね?」
「うん。でも、重いものは無理に運ばずに、私に言ってね」
花子が言った。
「わかった、無理はしないよ」
彩香は笑顔で答えた。三人は必要なものと、整理できそうなスペースを一つずつ確認していった。思っていたよりも、新しく買わなければならないものは多くなかった。すでに持っているものの中にも活用できそうなものがあり、少し整理するだけでスペースを確保できそうな場所もあった。
ただし、飲み物を提供するために必要なものが、すべて揃っているわけではなかった。カップを追加で用意しなければならないし、飲み物を保管する容器も必要だった。お客さんにどのような方法で案内するかも決める必要がある。
「今日はとりあえず、必要なものをリストにまとめておこう」
花子が言った。
「実際に始める前に、衛生管理の方法も確認して、お客さんが利用しやすい場所かどうか、もう一度確かめたほうがいいね」
「うん、私がリストを作るね」
彩香はメモ帳を取り出した。カップ、紅茶を保管する容器、お客さんに案内するための小さな表示。
ほかにも必要なものがないか考えながら、一つずつ書き込んでいった。メモ帳の項目が一つずつ増えていくにつれて、漠然としていた計画も少しずつ具体的な形になっていった。仁はリストに目を通しながら言った。
「カップを用意するときは、割れにくい製品を選んだほうがいいと思います。ワンちゃんが驚いて動いてしまうこともありますから」
「確かにそうだね。その点は必ず確認しないと」
彩香はメモ帳に書き加えた。
「それから、飲み物を用意するスペースは、トリミング道具を置く場所と分けたほうがいいと思います。そのほうが清潔に管理しやすいですから」
「いい意見だね、仁君」
彩香はすぐにその内容も書き加えた。花子は二人が意見を交わしている様子を見ながら、微笑んだ。
「思っていたよりも、ちゃんとした計画になってきたね」
「そうでしょ? 最初はただ飲み物を用意したらいいんじゃないかって思っただけなのに、話してみたら確認することがたくさんあったんだよ」
「それでも、一つずつ整理していけば難しくないよ」
花子は彩香のメモ帳を覗き込んだ。
「これなら、必要なことはだいたい書けていると思う、あとは実際に準備しながら確認していこう」
「うん!」
彩香はメモ帳を大切そうに胸に抱えた。そこには、まだ簡単なことしか書かれていなかった。カップを用意し、飲み物を保管する容器を準備し、お客さんへの案内方法を決める。一つ一つを考えてみれば、それほど大したことではない。けれど、彩香にとっては、ただの準備リスト以上の意味があった。
自分で考え、花子と仁に意見を求め、三人で一緒に悩みながら作った計画だった。最初は、自分にももっと役に立てることがあればいいのに、という漠然とした思いしかなかった。
けれど今は、その思いを実際の行動に移すための第一歩を踏み出していた。小さな始まりではあったが、間違いなく自分がフォレストのためにできることだった。三人の声がフォレストの店内に響いた。フォレストの小さな挑戦は、今まさに始まろうとしていた。
明日、どんなことが待っているのかは、まだわからない。けれど、少なくとも三人は一人ではなかった。
一緒に考え、一緒に学び、一緒に前へ進んでいける仲間がそばにいた。その事実だけで、新しいことを始めるには十分だった。




