第30話 ― 三人の夕食
フォレストの午後、窓から差し込む日差しが、少しずつ傾いていた。いつもなら、そろそろ閉店の準備を始める時間だったが、今日のフォレストはいつもと違っていた。
午後になると予約のお客さんが次々と訪れ、予約なしで来店したお客さんまで重なり、店内はいつも以上に忙しくなっていた。
「申し訳ありませんが、本日は少しお待ちいただくことになりそうです」
花子は次のお客さんに事情を説明しながら、予約表を確認した。
「大丈夫ですよ。時間には余裕がありますから、ゆっくりやってください」
飼い主が笑顔で答えると、花子はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます。できるだけ早くご案内できるようにしますね」
その間、仁はトリミングを終えた犬の様子を確認していた。
「ココ、終わったぞ。お疲れさま」
仁が優しく声をかけると、小さな犬が尻尾を振った。しばらくして、飼い主がココを迎えに来ると、仁は今日の仕上がりや、家でお手入れをするときに気をつけることを簡単に説明した。
「毛がまた絡まないように、ご自宅でも軽くブラッシングしてあげてください」
「はい、ありがとうございます。ココ、今日は本当におとなしかったですね」
飼い主は犬を抱き上げて笑った。
「次回もよろしくお願いしますね」
「はい。お気をつけてお帰りください」
飼い主が店を出ると、仁は使ったタオルを片づけ、トリミング道具を元の場所に戻した。しかし、一息つく間もなく、次のお客さんがやってきた。
チリン。
「いらっしゃいませ!」
花子が明るく挨拶した。仁はちらりと時計を見た。
今日はいつもより閉店時間が遅くなりそうだった。だからといって、急ぐわけにはいかない。
犬のトリミングでは、決められた時間に合わせることよりも、犬が安心して施術を受けられるようにすることのほうが大切だからだ。仁はもう一度エプロンを整えた。
「花子さん、次のお客さんの準備をします」
「はい、お願いします」
二人は自然にそれぞれの持ち場へと向かった。その様子を隣で見ていた彩香は、小さく笑った。
「二人とも本当に忙しそうだね」
彩香は手に持っていたタオルを整理しながら、仁に目を向けた。フォレストに来てから仁の様子を見ているうちに、彩香は彼が犬だけでなく、人に対しても優しいことに気づいていた。
口数が少なく、少し無愛想なところはあるものの、周囲への気遣いを忘れない人だった。花子も仁と話しているときは、いつもより明るい表情を見せていた。
(花ちゃん、幸せそうだな)
そんなことを考えていたときだった。
「彩香さん、すみませんが、そちらにあるタオルを取っていただけますか?」
仁に声をかけられた。
「ん? あ、わかった!」
彩香はすぐにタオルを手に取った。
「はい、仁くん」
「ありがとうございます」
「どういたしまして。それにしても、今日は本当にお客さんが多いね」
「そうですね。予想以上に忙しくなりました」
仁はタオルを受け取り、次の作業に向かった。彩香はそんな仁の姿をしばらく見つめた。仁は口数が多いほうではない。それでも謙虚で、何かしてもらえば必ずお礼を言うし、誰に対しても優しかった。
「本当にいい人だな」
彩香はそう思い、口元に笑みを浮かべた。そのとき、花子が近づいてきた。
「彩香、何をそんなに考えてるの?」
「何でもないよ。ただ、仁くんがかっこいいなって思って」
「えっ?」
花子の手が止まった。彩香はその反応を見逃さなかった。
「あら、花ちゃん。もしかして、私が仁くんのことを好きになったと思ったの?」
「ち、違うわよ!」
「心配しないで。花ちゃんの彼氏は取らないから」
「か、彼氏って! 変なこと言ってないで仕事して!」
花子は顔を赤くしながら、彩香を押しやった。
「はいはい、わかりました」
彩香はいたずらっぽく笑いながら、再び仕事に戻った。
「もう、彩香ったら……」
花子は小さくつぶやきながら、仁に目を向けた。仁は犬に声をかけながら、落ち着いた様子でトリミングを進めていた。犬が体を動かすと無理に押さえつけず、しばらく待つ。そして、犬が再び落ち着くと、慎重に手を動かしていた。花子はそんな仁を見つめ、少しだけ首を傾げた。
(言われてみれば、かっこいい……かも?)
ふと浮かんだ考えに、花子は慌てて首を横に振った。
(私、何を考えてるのよ)
少し離れた場所からその様子を見ていた彩香は、口元を押さえて笑った。そのときだった
チリン
「いらっしゃいませ!」
花子は先ほどまで考えていたことを頭の隅に追いやり、お客さんを迎えた。そうして忙しい時間が続き、やがてフォレストの店内は落ち着きを取り戻した。
最後のお客さんの犬までトリミングを終えると、仁は毛の状態を確認し、飼い主に家でのお手入れ方法を説明した。
「今日は本当にありがとうございました。次回もぜひこちらにお願いしたいです」
飼い主は満足そうな表情で犬を抱き上げた。
「ありがとうございます。お気をつけてお帰りください」
花子が挨拶を終えると、飼い主は店のドアを開けて外へ出ていった。
チリン
ドアに取りつけられたベルの音が、静かな店内に響いた。仁は壁に掛けられた時計を見た。いつもよりかなり遅い時間だった。
「今日は本当に忙しかったですね」
仁が言うと、花子はうなずいた。
「そうですね、こんなに遅くまでお客さんが続くとは思いませんでした
彩香は椅子にどさっと座り、肩を回した。
「うう、疲れたぁ」
「彩香さんもお疲れさまでした」
仁に声をかけられ、彩香は顔を上げた。
「あら、仁くんが私を労ってくれるの?」
「今日はたくさん手伝っていただきましたから」
「ふふ、ありがとう。やっぱり仁くんは優しいね」
彩香はいたずらっぽく笑った。仁は特に反応することなく、使った道具を片づけていた。
「ですが、まだ片づけが残っています」
「あ、そうだった……」
彩香の肩が再び落ちた。
「最後まで油断できないね」
「彩香、もう少しだけ頑張ろう」
花子が笑いながら言った。
「わかった。その代わり、片づけが終わったらおいしいものを食べようね」
「いいね!」
「私も賛成です」
仁が自然に答えると、彩香は目を丸くした。
「あれ? 仁くんも賛成してくれるの?」
「夕食を食べなければいけませんから」
「それはそうだけど……」
彩香は仁を見つめてから、くすっと笑った。
「本当に、仁くんもずいぶん自然に馴染んできたね」
「どういう意味でしょうか?」
「何でもないよ!」
彩香は椅子から立ち上がった。
「さあ、早く片づけて夕食にしよう!」
三人は一緒に閉店作業を始めた。仁はトリミング道具を確認し、使ったタオルを集めた。花子はトリミング台とその周辺を掃除し、彩香は片づけられた道具を収納棚にしまったあと、床に残った毛を掃き集めた。
誰が先に何をするのか、いちいち決めなくても、三人はそれぞれ自分のやるべきことをわかっていた。
仁が重いものを運べば花子が周囲を片づけ、彩香が掃除を終えると、仁が最後に床の状態を確認した。
互いの動きを見ながら、自然に仕事を分担していた。
「こちらは終わりました」
仁が言うと、花子が顔を上げた。
「ありがとうございます、仁さん。それじゃあ、私はトリミング台をもう一度確認しますね」
「私が確認します」
「大丈夫です。仁さんはあちらを片づけてください」
「わかりました」
二人の会話を聞いていた彩香が笑った。
「本当に息がぴったりだね」
「そうですか?」
仁が尋ねた。
「うん。わざわざ長く説明しなくても、お互いに何をすればいいのかわかってるじゃない」
花子は少し照れくさそうに笑った。
「一緒に働く時間が長くなりましたから」
「それだけじゃ説明できないよ。お互いのことをよくわかってるってことでしょ?」
彩香は意味ありげな表情で花子を見つめた。
「そうでしょ、花ちゃん?」
「彩香!」
花子が顔を赤くすると、彩香は声を上げて笑った。
仁は二人を交互に見た。
「何の話ですか?」
「何でもありません!」
花子が慌てて答えた。
「そうそう、何でもないよ。仁くんは気にしないで」
彩香は笑いをこらえながらうなずいた。
「わかりました」
仁は特に疑問を抱くことなく、再び片づけを始めた。
そのあまりにも落ち着いた返事に、彩香はとうとうまた笑ってしまった。花子はそんな彩香を見てため息をついた。けれど、その口元には笑みが残っていた。
ようやくすべての片づけが終わった。花子は店内を見回して言った。
「これで全部終わりましたね」
「今日もお疲れさま、花ちゃん」
彩香は大きく伸びをした。
「仁くんもお疲れさま」
「彩香さんもお疲れさまでした」
彩香は満面の笑みを浮かべた。
「よし! それじゃあ、夕食にしよう!」
フォレストのトリミングスペースを片づけた三人は、二階へと移動した。もう遅い時間だったため、外で食事をするには少し都合が悪かったし、一日中忙しく働いたあとに、また出かけるのも大変だった。
「今日は簡単なものにしましょう」
花子が言った。
「賛成、私もお腹が空いたよ」
彩香はお腹を軽くさすった。仁もうなずいた。
「では、私も何か手伝います」
「仁さんも料理をするんですか?」
花子が尋ねた。
「はい、一人では大変でしょうから」
「それじゃあ、お願いします」
その言葉を聞いた彩香が仁を見た。
「ちょっと待って。仁くん、料理もできるの?」
「はい、どうしてですか?」
彩香の目が大きくなった。
「いや、仁くんが料理してる姿って、あんまり想像できなくて」
彩香は仁の顔と体格を交互に見た。
「なんとなく、料理が苦手そうなイメージだったんだよね」
「そうですか?」
「うん」
「ふふ。仁さんは前に私にも料理を作ってくれたことがあるんですよ」
「えっ?」
彩香は花子を振り返った。
「花ちゃん、今なんて言ったの?」
「仁さんが前に料理を作ってくださったって……」
「ちょっと、ちょっと! それ、私も初めて聞いたんだけど?」
彩香は仁に目を向けた。
「仁くんが花ちゃんのために、わざわざ料理を作ってくれたの?」
「はい」
仁は何でもないことのように答えた。
「それが何かおかしいのでしょうか?」
「おかしいわけじゃないけど……」
彩香の口元にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。
「花ちゃん、そんな話を私にしたことなかったじゃない」
「わざわざ話すようなことでもなかったので」
花子が小さな声で答えた。
「あら、どうして? 私にも教えてくれればよかったのに」
「彩香に話したら、からかわれると思ったから」
「まあ!」
彩香は両手で口元を覆った。
「花ちゃん、私のことをそんなふうに思ってたの?」
「今の行動を見れば、間違ってないでしょ」
花子が言い返すと、彩香は声を上げて笑った。
「それはそうだけど!」
仁は二人の会話を聞きながら、エプロンを手に取った。
「では、料理を始めます」
「待って、仁くん!」
彩香が再び仁を呼び止めた。
「その前に、もう一つだけ聞いてもいい?」
「何でしょうか?」
「花ちゃんに料理を作ってあげたのはわかったけど、いつ作ったの?」
彩香の視線が花子に向いた。
「花ちゃん、いつだったの?」
花子は少しだけためらった。別に隠すようなことではない。けれど、彩香がどんな反応をするのかはすでに予想できていたため、すぐには答えられなかった。
「それは……」
「それは?」
「前に私が体調を崩したときよ」
花子は慎重に答えた。彩香の表情が一瞬で変わった。
「……あら?」
花子はその顔を見た瞬間、後悔した。
「彩香、変なことを考えないでよ」
「えー、まだ何も言ってないのに?」
「顔に全部出てるの!」
彩香は両手で口元を覆いながら、花子を見つめた。
「ちょっと待って。花ちゃんが具合を悪くしたとき、仁くんが料理を作ってくれたの?」
「うん」
「自分で?」
「そうだってば」
「花ちゃんのために?」
「彩香!」
花子の顔が赤くなった。彩香はとうとう我慢できず、声を上げて笑った。
「あはは! ごめん、ごめん! でも、本当に優しいじゃない!」
「仁さんは、私が具合を悪くして食事の用意が難しかったから、手伝ってくださっただけよ」
花子は慌てて説明した。
「私が無理をしないように気遣ってくださったの」
「あら、具合が悪いときに食事まで用意してくれて、無理をしないように心配してくれたの?」
彩香はわざと感心したような声を出した。
「本当にいい人ね、花ちゃん」
「だから、そういう意味じゃなくて……」
「じゃあ、どういう意味なの?」
「それは……」
花子は言葉に詰まった。彩香のいたずらっぽい笑みが、ますます深くなった。
「ふふ、花ちゃんったら。そんな話を私に隠してたなんて」
「隠してたわけじゃないわ!」
「はいはい、そういうことにしておこうね」
「彩香!」
花子が抗議しても、彩香は笑うばかりだった。そんな二人を見ていた仁が口を開いた。
「花子さんが体調を崩されたときは、食事をきちんと取るのも難しい状態でした。私にできることをしただけです」
仁の声はいつもどおり落ち着いていた。
「あのときは、花子さんが休むことを優先したほうがいいと思いました」
彩香は仁を見つめ、それからゆっくりと花子を振り返った。
「……花ちゃん」
「何?」
「仁くん、ここまで言ってくれてるけど?」
「だから、仁さんはもともと優しい人だって言ったでしょ」
花子は赤くなった顔を隠すように、そっと視線をそらした。彩香はしばらく二人を交互に見つめてから、口元を押さえた。
「ふふふ……」
「彩香、笑わないで!」
「まだ何も言ってないよ!」
「笑ってるじゃない!」
二人が言い合っている間に、仁は静かに食材を取り出した。
「夕食の準備を始めます」
「あ、そうね。私も手伝うわ」
花子が慌てて近づいた。彩香はそんな二人を見ながら、肩を揺らした。
「本当に面白いなあ」
「彩香さんも手伝っていただけると助かります」
仁に言われると、彩香はすぐに姿勢を正した。
「わかった! 私にできることなら何でも任せて!」
「では、食器を用意していただけますか?」
「任せて!」
彩香は元気よく答え、食器を取り出し始めた。それでも、花子に向けるいたずらっぽい笑みだけは忘れなかった。ようやく彩香のからかいから解放された花子は、仁と並んでキッチンに立った。
今夜のメニューは、手軽に食べられるチャーハンと温かいスープに決まった。花子が食材を切っている間に、仁はご飯と調味料を用意した。二人は必要なものを確認しながら、自然に動いていた。
「仁さん、このくらいの大きさに切ればいいですか?」
花子が切った野菜を見せた。
「はい、十分です」
「それじゃあ、残りも用意しますね」
「ありがとうございます」
仁はフライパンを取り出して火をつけた。油がほどよく温まると、用意していた食材を入れて炒め始めた。
じゅうじゅう
香ばしい匂いが広がっていく。食器を並べていた彩香が顔を上げた。
「おっ、いい匂い!」
「もう少しお待ちください」
仁が答えた。
「仁くん、思ったより料理する姿が自然だね」
「そうですか?」
「うん、なんだか慣れてる感じがする」
「ときどき料理をするので」
仁はヘラで具材を均等に混ぜた。花子は隣でその様子を眺めていた。
「仁さん、手際がいいですね」
「それほど複雑な料理ではありませんから」
「それでも、食材の準備から仕上げまで慣れているように見えます」
花子が笑いながら言うと、仁は少し照れくさそうに視線をそらした。
「必要なときに自分で作っていたら、慣れただけです」
「そうなんですね」
花子はそれ以上、詳しく尋ねなかった。その代わり、仁が料理をしている間に必要な皿を用意し、スープを温めながら夕食の準備を手伝った。
二人の間に気まずい沈黙はなかった。仁が食材を探せば花子が必要なものを渡し、花子が調味料を探せば、仁が先に気づいて差し出した。一緒に働くうちに積み重なった息の合い方が、キッチンでも自然に表れていた。彩香は二人を眺めていた。
「本当に息がぴったりなんだから」
「先ほども似たようなことをおっしゃっていましたね」
仁が答えた。
「あら、そうだった?」
「はい」
「じゃあ、今回も同じことを言うね。二人は息がぴったり!」
彩香はいたずらっぽく笑った。花子は首を横に振ったが、その口元には笑みが浮かんでいた。しばらくして、チャーハンが完成した。
仁はフライパンを傾け、チャーハンを皿に盛りつけた。花子は温めたスープを器に分け、彩香は食卓に箸と水の入ったコップを並べた。
「完成!」
彩香が手を叩いた。
「これで、あとは食べるだけだね」
「はい。皆さん、お疲れさまでした」
仁はエプロンを脱いで片づけた。三人は食卓を囲んだ。いつもはお客さんを迎え、犬たちの世話をするためにそれぞれ忙しく動いていたが、今だけはやることが一つしかなかった。夕食をおいしく食べることだ。
「それじゃあ、いただきます」
花子が挨拶した。
「いただきます!」
彩香も明るく答えた。仁は軽く頭を下げてから、チャーハンを一口食べた。彩香はチャーハンを眺めてから、そっと一口食べた。
「んー、おいしそうだと思ったけど、本当においしい!」
彩香は少し目を見開いた。
「仁くん、料理上手じゃない!」
「普通のチャーハンです」
「普通のチャーハンだって、おいしく作るのは簡単じゃないんだからね?」
彩香はもう一口食べた。
「花ちゃんも食べてみて。仁くん、なかなかの腕前だよ?」
「ふふ、だからさっき言ったでしょう。仁さんの料理はおいしいって」
花子は笑いながらチャーハンを口に運んだ。
「うん。本当においしいです、仁さん」
「お口に合ったようでよかったです」
仁は短く答えた。
彩香は二人を交互に見てから、花子に身を寄せた。
「ところで、花ちゃん」
「今度は何?」
「前に具合が悪かったときも、こんなおいしい料理を食べたの?」
「彩香……」
「気になるじゃない。どんな料理を作ってくれたのか教えてよ」
花子は少し考えた。
「あのときは、おかゆを作ってくださったの。熱があって、まともに食べるのも難しかったから」
「おかゆまで?」
彩香は目を大きくした。
「仁くん、おかゆも作れるの?」
「簡単なおかゆなら作れます」
仁が答えた。
「わあ。本当に何でもできるんだね」
彩香は感心したあと、すぐにいたずらっぽい顔になった。
「花ちゃん、そのとき仁くんがおかゆを持ってきてくれたとき、どうだった?」
「どうって?」
「ドキドキした?」
「彩香!」
花子は思わず箸を落としそうになった。
「どうしてそんなことを聞くのよ?」
「ただ気になっただけだよ」
「そういう意味じゃないんだから」
「あら、まだ何も言ってないのに?」
彩香は涼しい顔で笑った。
「花ちゃんって、本当に反応が面白いんだから」
「もう……」
花子は顔を赤くして彩香をにらんだ。仁はスープを一口飲んでから、二人を見た。
「おかゆは食べやすいように、味つけを薄めにしました。体調が悪いときは、薄味のほうがいいですから」
「そうそう、そうだよね」
彩香はうなずいた。
「仁くんって、本当に優しいね」
「彩香さんも体調が悪いときは、食事を抜かないでくださいね」
仁が真剣な表情で言うと、彩香は一瞬動きを止めた。
「……えっ?」
「きちんと食べて、休むのがいいと思います」
「あ、うん。わかった」
彩香は少し照れくさそうに笑った。しかし、すぐにまたいたずらっぽい表情を浮かべた。
「でも仁くん、そんなことを言ったら、花ちゃんがドキドキしちゃうかもよ?」
「彩香!」
花子の声が高くなった。彩香は声を上げて笑った。
仁は不思議そうに首を傾げた。
「何か変なことを言いましたか?」
「いいえ!」
花子が慌てて答えた。
「何でもありません。仁さんは気にしなくて大丈夫です」
「わかりました」
仁は特に疑問を抱くことなく、再び食事を続けた。
その様子を見た彩香は、笑いをこらえようと肩を震わせていた。花子はそんな彩香を見て、とうとうため息をついた。けれど、嫌がっているわけではなかった。
彩香が一緒に暮らし始めてから、食事の時間は以前よりもずっと賑やかになった。仁と花子の二人だけで食事をすると、互いに気を遣うあまり会話が途切れることもあったが、彩香はそんな隙間を自然に埋めてくれた。おかげで花子も、以前より気軽に仁に話しかけられるようになっていた。
花子は向かいに座る仁を見つめた。仁は彩香の話を聞きながら、ときどき短く返事をしていた。フォレストで一緒に働く時間が積み重なるにつれて、仁の表情も少しずつ柔らかくなってきた気がする。
(仁さんも、フォレストに馴染んできたのかな)
花子は静かに微笑んだ。そのとき、仁が彼女を見た。
「花子さん、どうかしましたか?」
「あ、いえ」
花子は驚いて首を横に振った。
「今日は少し忙しかったな、と思っただけです」
「そうだね。お客さん、本当に多かったもんね」
彩香が話に加わった。
「私も、こんなに遅くまで働くことになるとは思わなかったよ」
「彩香さんも、かなり疲れたのではありませんか?」
仁が尋ねると、彩香は笑った。
「少し疲れたけど、大丈夫。今日は楽しかったからね」
「楽しかったんですか?」
「うん。お客さんが多くて大変だったけど、三人で一緒に働いていたら、あっという間に時間が過ぎた気がするんだ」
彩香は食卓を見回した。
「一人で全部やらなきゃいけなかったら、もっと大変だったと思うよ」
花子がうなずいた。
「そうね。二人が手伝ってくれて、本当に助かったわ」
「私も同じです」
仁が言った。二人の視線が仁に向いた。
「私一人では、まだ足りないところもあります。お二人が助けてくださるので、学べることも多いです」
仁は少し言葉を切った。
「感謝しています」
花子は優しく微笑んだ。
「私こそ、仁さんが一緒に働いてくださって感謝しています」
彩香も笑顔を浮かべた。
「私もありがとう、仁くん。おかげで私も安心して過ごせるようになったから」
仁は二人を見つめ、軽く頭を下げた。
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ!」
彩香が元気よく答えた。花子もうなずいた。
「よろしくお願いしますね、仁さん」
しばらく、温かな沈黙が流れた。しかし、その沈黙を最初に破ったのは、やはり彩香だった。
「ところで、仁くん」
「はい?」
「明日もこんなおいしい夕食を作ってくれる?」
「明日は、お客さんがどのくらい来るかによりますね」
「あら、条件つきなんだ?」
「今日のように遅くまでかかると、簡単な料理しか作れませんから」
仁は落ち着いた口調で答えた。彩香は声を上げて笑った。
「あはは! わかった、わかった。それじゃあ、次は私がお菓子でも用意してくるよ」
「お菓子ですか?」
花子が尋ねた。
「うん。今日みたいに忙しい日は、途中で食べるものも必要でしょ? 簡単なものなら私が作ってくるよ」
「彩香が自分で?」
花子は少し驚いた顔をした。
「うん、どうしてそんなに驚くの?」
「いや、彩香が料理するところは見たことがあるけど……」
「私だって、できることはたくさんあるんだから!」
彩香は頬を膨らませた。
「ちょっと私のことを見くびりすぎじゃない?」
「見くびってなんかいないわよ」
花子は笑いながら答えた。
「それならいいけど!」
彩香は満足そうにうなずいた。仁は二人の会話を聞きながら、食卓の上の皿を見た。
「食事はほとんど終わりましたね。おかわりはいかがですか?」
「ううん、私はもう十分」
彩香が答えた。
「私も大丈夫です」
花子も箸を置いた。三人は残った料理を片づけ、水を飲んだ。一日中忙しく動いていたせいか、温かい食事を終えると、少しずつ緊張がほぐれていくようだった。
昼間は犬たちの足音やトリミング道具の動く音、お客さんの声が絶えなかったフォレスト。けれど今は、食卓で食器が触れ合う音と、三人の会話だけが静かに響いていた。
花子はこの時間が好きだった。特別なことがなくても、一緒に食事をして、今日あったことを話しながら笑い合える時間。そのとき、彩香が突然立ち上がった。
「あ、そうだ!」
「どうかしましたか?」
仁が尋ねた。
「ちょっと待ってて!」
彩香はキッチンのほうへ向かった。花子は不思議そうに彩香の後ろ姿を見つめた。
「どうしたのかしら?」
「さあ……」
仁も首を傾げた。しばらくして、彩香が両手に小さな皿を持って戻ってきた。皿の上には、表面がなめらかなプリンがのっていた。プリンの上にはキャラメルソースが薄く広がり、横には飾りとして小さな果物が添えられていた。
「じゃーん! デザートの時間!」
花子の目が輝いた。
「あら、プリンね?」
「うん、朝のうちに作っておいたんだ。夕食のあとに食べようと思ってね」
彩香は得意げに笑った。仁はプリンを見つめた。
「彩香さんが作ったんですか?」
「もちろん! 私が作ったんだよ」
彩香は少し自慢げな表情を浮かべた。
「どう? おいしそうでしょ?」
「はい、おいしそうです」
仁が答えると、彩香は満足そうにうなずいた。
「よし。それじゃあ、二人とも食べてみて」
花子はスプーンを手に取った。
「いただきます」
小さく一口すくって、口に運んだ。なめらかなプリンが舌の上でとろけた。最初に甘さが広がり、そのあとからキャラメルのほろ苦い風味がほのかに感じられた。花子の表情が明るくなった。
「わあ……おいしい!」
「本当?」
彩香の目が輝いた。
「うん。食感もなめらかだし、甘さもちょうどいい。キャラメルとの相性もいいね」
花子はもう一口食べた。
「これなら、本当にお店で売れるくらいの出来じゃない?」
彩香の顔が少し赤くなった。
「もう、大げさだよ」
「そんなことないわ。本当においしいもの」
花子は真剣に褒めた。仁もプリンを一口食べた。
なめらかな食感とほどよい甘さが口の中に広がった。
仁はしばらく味わってから、うなずいた。
「本当においしいです」
「仁くんも?」
彩香が期待するような目で尋ねた。
「はい。甘すぎず、キャラメルの風味もいいですね。食感もなめらかです」
仁は真剣に評価した。
「これなら、本当に販売してもいいと思います」
予想以上に真剣な褒め言葉に、彩香はしばらく言葉を失った。
「えっ……そこまで言われると、ちょっと照れるな」
「どうしてですか? 本当においしいですよ」
仁は淡々と答えた。花子もうなずいた。
「そうよ。彩香の作ったプリン、本当においしいもの、私、もう一つ食べたいくらい」
「花ちゃん、食べすぎちゃだめだよ」
彩香はいたずらっぽく言った。
「明日の分も残しておかなきゃ」
「あら、自分で作っておいてそんなことを言うの?」
「ふふ、冗談だよ。もっと食べてもいいからね」
彩香は笑いながら、自分のプリンを一口食べた。仁は皿を見つめてから、彩香に尋ねた。
「普段から、よくデザートを作るんですか?」
「ときどきね。特別な理由があるわけじゃなくて、ただ作るのが楽しいんだ」
彩香はスプーンを動かしながら答えた。
「材料を用意して、完成したものを食べると気分がよくなるんだよね。特に、自分が作ったものを誰かがおいしそうに食べてくれると、もっと嬉しくなるの」
花子は微笑んだ。
「だから、前にもときどきお菓子を作ってくれたのね」
「うん。でも、今日はいつもより少し気合いを入れてみたんだ」
「どうして?」
「二人とも今日は頑張ったでしょ。遅くまで働いたんだから、甘いものを食べたらいいかなって」
彩香は何でもないことのように答えた。花子はしばらく彩香を見つめてから、優しく笑った。
「ありがとう、彩香。おかげで元気が出たわ」
「そんな、大したことじゃないよ。私も一緒に食べようと思って作ったんだから」
彩香は照れくさそうに視線をそらした。仁も頭を下げた。
「ありがとうございます。本当においしくいただきました」
「まだ全部食べてないじゃない!」
彩香が笑った。
「ゆっくり食べてね。まだあるから」
仁は再びプリンを一口食べた。
「では、遠慮なくいただきます」
「あら、仁くん。気に入ったみたいだね?」
「はい、本当においしいです」
仁がためらいなく答えると、彩香は満足そうに笑った。
「ふふ、そこまで褒めてくれるなら、また作ってこなくちゃね」
花子も冗談めかして言った。
「本当にお店で売れるくらいだから、いつかもっとたくさん作ってみるのもいいかもしれないわね」
彩香はスプーンを止めた。
「お店で売るの?」
「うん、こんなにおいしいんだもの、ほかの人も喜んでくれると思うわ」
花子は心からそう言った。仁もうなずいた。
「私もそう思います。十分に商品として通用するデザートだと思います」
彩香は二人を交互に見つめた。そして、少し照れくさそうに笑った。
「もう、趣味で作ってるだけなのに。そんな大したものじゃないよ」
「でも、本当においしいんだもの」
花子が言った。
「ありがとう。でも、私はただ楽しんで作ってるだけだから」
彩香はもう一口プリンを食べた。
「料理やデザートを作るのは好きだけど、それで何かしようって考えたことまではないんだ。今はとりあえず、自分の好きなことを楽しみたいな」
それは本心だった。彩香にとってデザート作りは、特別な目標を達成するための手段ではなかった。時間があるときに楽しむ趣味であり、完成したものを誰かと分け合う、ささやかな喜びだった。
おいしいと言ってもらえれば嬉しかったし、また作ってほしいと言われれば、少し誇らしい気持ちになった。花子はそんな彩香を見て微笑んだ。
「それでも、好きなことをずっと続けられるといいね」
「うん。私もそのつもりだよ」
彩香は明るく答えた。
「上手にやらなきゃって思いすぎたら、楽しくなくなっちゃうでしょ?」
「それも一理ありますね」
仁が言った。
「楽しむためにやっていることなら、楽しみながらやるのが一番でしょうね」
「そうでしょ?」
彩香は仁を指さして笑った。
「仁くんも私の味方だね!」
「味方をしたつもりはありませんが」
「まあ、ひどい!」
花子は思わず吹き出した。彩香もつられて笑った。三人は残ったプリンをゆっくりと食べた。プリンは思っていたよりも早く減っていった。仁は最後の一口を食べ、スプーンを置いた。
「ごちそうさまでした。本当においしかったです」
「私もごちそうさま」
花子が微笑んだ。
「ありがとう、彩香」
彩香は少し照れくさそうに笑った。
「また作ってくるね」
「楽しみにしてるわ」
仁もうなずいた。
「私も楽しみにしています」
彩香は二人を見つめ、いたずらっぽく笑った。
「それじゃあ、次はもっとおいしく作らなくちゃね。二人がこんなに褒めてくれるんだもの」
「今のままでも十分おいしいですよ」
仁が言った。
「はいはい。仁くんって、本当に褒めるときも真面目なんだから」
彩香は笑いながら皿を片づけ始めた。花子も立ち上がって手伝った。仁も自然に手を伸ばした。三人は空になった皿とスプーンを集め、キッチンへ運んだ。誰かが先にやろうと言わなくても、自然と手が動いていた。皿を洗いながら、彩香はふと思い出したように笑った。
「今日の夕食、思っていた以上によかったなあ」
「そうですね」
花子が答えた。
「忙しかったけど、最後にはこうしてゆっくり食事ができましたから」
「仁くんが料理を作ってくれて、私が作ったプリンも食べて」
彩香はいたずらっぽく仁を見た。
「今日は仁くんの料理の腕前もわかったね」
「大したものではありません」
「またそうやって言うんだから」
彩香は笑った。
「今度は別の料理もお願いできそうだね」
「状況によって考えてみます」
仁は落ち着いて答えた。
「あら、ずいぶん堅い返事だね?」
「必ず約束できるわけではありませんから」
「ははは! わかったよ。じゃあ、機会があったらお願いするね」
彩香は声を上げて笑った。花子も微笑んだ。今では、こんな会話も自然なものになっていた。最初の頃は、仁が短く返事をするだけで、気まずい沈黙が生まれることもあった。けれど今では、彼の無愛想な返事さえ、三人の間ではちょっとした笑いの種になっていた。
仁自身も、そのことに少しずつ気づき始めていた。
誰かと一緒に食事をすることが、こんなにも気楽なものだということ。一日の疲れを癒やしながら、何気ない話をするだけでも、気持ちが明るくなるということ。以前は、あまり考えたことのないことだった。仁は最後の皿を片づけ、手を拭いた。
「これで片づけは終わりました」
「お疲れさま、仁くん」
彩香が言った。
「花ちゃんもお疲れさま」
「彩香もお疲れさま」
花子は笑顔で答えた。三人は再び食卓に戻った。遅い夕食を一緒に楽しんだあとだからか、フォレストの中はいつも以上に静かに感じられた。窓の外には夜の帳が下りていた。
「今日は本当に長い一日でしたね」
花子が窓の外を眺めながら言った。
「そうですね。お客さんが多かったですから」
仁が答えた。
「でも、おかげで時間があっという間に過ぎたよ」
彩香は椅子に座り、軽く足を揺らした。
「一人で一日中働いていたら、もっと疲れていたと思うけど、三人で一緒だったから、なんとか乗り切れたよ」
花子はうなずいた。
「私もそう思うわ。二人がいてくれると心強いもの」
仁は二人を見つめた。
「私も同じです」
彼は少し考えてから、言葉を続けた。
「フォレストで働き始めた頃は、ここでうまくやっていけるのか不安でした」
花子と彩香の視線が仁に向いた。
「犬のトリミングも一から覚えなければなりませんでしたし、新しい環境にも慣れる必要がありました。自分にきちんとできるのか、自信もありませんでした」
花子は静かに仁の話を聞いていた。
「ですが、花子さんがたくさん教えてくださいましたし、彩香さんにも助けていただきました。おかげで、ここまでやってこられました」
仁はそう言った。花子は優しく微笑んだ。
「私も、仁さんが一生懸命頑張ってくださるので感謝しています。慣れないことも多かったはずなのに、いつも真面目に覚えようとしていましたから」
「そうだよ、仁くんは犬たちにも本当に優しいしね」
彩香が言葉を添えた。
「最初に会ったときはちょっと緊張したけど、今は仁くんがどんな人なのか、よくわかったよ」
仁は彩香を見た。
「緊張されていたんですか?」
「うん。仁くんは体も大きいし、口数も少ないでしょ、最初はちょっと近寄りがたい人なのかなって思ったんだ」
彩香は肩をすくめた。
「でも、一緒に過ごしてみたら全然そんなことなかった。犬に優しいし、料理も上手だし、頼めば真面目に手伝ってくれるし」
「最後のものは褒め言葉ですか?」
仁が尋ねた。彩香は少し考えた。
「うーん……」
そして、満面の笑みを浮かべた。
「褒め言葉だよ!」
「それならよかったです」
仁が真面目に答えると、花子は声を上げて笑った。彩香も一緒に笑った。しばらくして、花子が静かに口を開いた。
「仁さんも、フォレストで働くのが最初より楽になりましたか?」
「はい、今は最初の頃よりずっと落ち着いて過ごせています」
仁は素直に答えた。
「お二人と一緒に働くことも、こうして食事をすることも、すっかり馴染んできました」
仁は少し言葉を切った。
「これからも、ここで一生懸命働いていきたいと思っています」
花子の顔に笑みが広がった。
「ありがとうございます、仁さん」
彩香は二人を見つめ、嬉しそうな表情を浮かべた。
そして突然、手を叩いた。
「よし! それじゃあ、これからも三人でおいしいものをたくさん食べよう!」
仁はうなずいた。
「いいですね」
花子も笑顔で答えた。
「うん。これからもよろしくね、彩香」
「こちらこそ!」
彩香は明るく笑った。三人はしばらく互いを見つめ、それから自然に笑い合った。特別な約束をしたわけではなかった。壮大な未来について語り合ったわけでもない。
ただ、明日も一緒に働き、時間があれば一緒に食事をして、ときどき他愛もない話をしようという、ごく普通の気持ちだった。けれど、仁にとっては、その当たり前のことが少しずつ大切なものになり始めていた。以前は、一日が終われば一人で静かに時間を過ごすのが当たり前だった。
誰かと食事をしながら今日あったことを話すのも、自分の作った料理をおいしいと褒められるのも、特別なことだとは思っていなかった。けれど、今は違う。
一緒に働く人たちがいて、一日の終わりを分かち合える人たちがいる。
仁は静かに食卓を見つめた。少し前まで三人の料理が並んでいた場所には、空になった皿とコップだけが残っていた。それなのに、不思議とその光景が気に入っていた。一緒に食べて、笑って、話をした。その名残がそこにあるように感じられたからだ。
「仁くん?」
彩香が彼を呼んだ。
「はい?」
「何をそんなに考えてるの?」
「特に何も考えていません」
仁は首を横に振った。
「ただ、今日の夕食はよかったなと思っていました」
彩香はしばらく仁を見つめてから、微笑んだ。
「そうでしょ? 私もそう思うよ」
花子も静かに笑った。
「私もです」
フォレストの中に、温かな静けさが広がった。三人はすぐに席を立とうとはしなかった。一日でたまった疲れを少しだけ忘れ、静かな店内でゆっくりとした時間を楽しんでいた。窓の外では、夜風が吹いていた。
昼間はたくさんの犬やお客さんで賑わっていたフォレスト。
今は静かな空間になっていたが、三人の会話や笑い声の余韻は、まだそこに残っていた。
仁はふと思った。ここに初めて来たときは、自分がこんなにも自然に人と打ち解けられるようになるとは思っていなかった。
けれど今では、一緒に食事をすることも気まずくなくなり、自分から話しかけることにも少しずつ慣れてきた。その変化がいつから始まったのか、正確にはわからなかった。
ただ、一つだけ確かなことがあった。フォレストで過ごす毎日が、自分にとって少しずつ大切な時間になっているということだ。
「さて、そろそろ片づけて休みましょうか」
花子が言った。
「そうだね。今日は本当に疲れたよ」
彩香は大きく伸びをした。
「仁くんもお疲れさま」
「彩香さんもお疲れさまでした」
仁は立ち上がり、食卓をもう一度確認した。そして、静かに微笑んだ。
「明日もよろしくお願いします」
「うん!」
彩香が明るく答えた。
「明日もよろしくね、仁くん」
花子もその様子を見ながら、静かに微笑んだ。三人はそれぞれの場所を片づけ、.準備を始めた。フォレストの明かりが一つ、また一つと消えていった。
今日はいつもより遅い夕食だった。けれど、その遅い時間のおかげで、三人はいつもより少し多くの話をすることができた。
仁にとっては、一緒に過ごす夕食の温かさを改めて知った一日。花子にとっては、二人が自然に会話する様子を見て嬉しくなった一日。
彩香にとっては、自分の作ったプリンをおいしそうに食べてくれる人たちと、笑い合えた一日だった。そして、フォレストは明日も変わらず扉を開く。
犬たちを迎え、三人は一緒に日常を続けていく。
そうして、三人の何気なくも温かな一日が終わろうとしていた。




