第29話 ― ハートのおけつ
フォレストの午前、窓から暖かな日差しが差し込んでいた。仁はトリミング道具を整理しながら、今日の予約表を確認した。今日最初のお客さんは、ウェルシュ・コーギーだった。
「ウェルシュ・コーギーか……」
仁は少し考え込んだ。これまで仁がトリミングを手伝ってきた犬は、どれも小型犬だった。しかし、ウェルシュ・コーギーはそれよりも体が大きい中型犬だ。
「仁さん、何を考えているんですか?」
カウンターで予約表を整理していた花子が尋ねた。
「今日、初めて中型犬を担当するので、少し緊張していまして」
「大丈夫ですよ。コタロはおとなしい子ですから」
花子は微笑みながら予約表を置いた。
「もちろん、小型犬とはトリミングのときに気をつけるところが少し違いますけど、基本は同じです」
「ワンちゃんが不快に感じていないか気を配りながら、ゆっくり進めればいいんですよ」
「肝に銘じます」
仁が頷くと、隣でタオルを整理していた彩香が顔を出した。
「そういえば、ウェルシュ・コーギーって、おけつがかわいいことで有名じゃない?」
「そうですね。短い足とぷりぷりのお尻が魅力的な犬種ですね」
花子が答えると、彩香は何かを思いついたように手を叩いた。
「あっ、それだ! ハートのおけつ!」
「ハートのおけつですか?」
仁が聞き返すと、彩香は楽しそうな声で説明した。
「お尻の周りの毛をハートの形に整えるトリミングだよ」「コーギーのぷりぷりしたおけつが、もっとかわいく見えるんだって」
「そんなトリミングもあるんですね」
「うん! 今日来るコタロも、そうやって整えたらすごくかわいくなりそうじゃない?」
彩香は、もうコタロのハートのおけつを想像しているようだった。
「もちろん、ワンちゃんに負担がかからない範囲でやるんですよ」
花子が笑いながら付け加えた。
「毛を整えるのは、あくまでトリミングですから。ワンちゃんが嫌がったり、皮膚や毛に負担がかかったりするなら、無理にする必要はありません」
「そうだね。ワンちゃんが嫌がるなら、やらないほうがいいよね」
彩香は素直に頷いた。
そのときだった。
チリン
店の入り口に取り付けられたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
花子が挨拶すると、中年の女性が一匹のウェルシュ・コーギーを連れて入ってきた。犬は短い足でちょこちょこと歩きながら、店内を見回していた。胴はかなり長く、茶色と白が混じった毛並みには艶があった。
「こんにちは、予約していたコタロです」
飼い主が笑顔で言うと、コタロは尻尾を振りながら花子に近づいた。
「コタロ、久しぶりだね」
花子が身をかがめて挨拶すると、コタロは嬉しそうに鼻を近づけた。その様子を見ていた仁も、ゆっくりと近づいた。コタロは仁の大きな体格にも怖がらなかった。それどころか、仁の手に鼻を近づけて匂いを嗅いだ。
「こんにちは、コタロ」
仁がそっと頭を撫でると、コタロは気持ちよさそう に体を寄せてきた。
「あら、コタロが初めて会う人にもこんなに懐くなんて」
飼い主は驚いた様子で言った。
「仁さんは、ワンちゃんたちに好かれるんですよ」
花子が笑顔で答えた。仁は照れくさそうに視線をそらした。
「それじゃあ、コタロをよろしくお願いしますね」
飼い主はコタロの頭を一度撫でてから、店を出てい
った。
「はい、お任せください」
花子が見送ると、彩香はコタロに近づき、いたずらっぽく手を差し出した。
「コタロ、おいで」
コタロは彩香の手の匂いを嗅ぐと、嬉しそうに近づいてきた。彩香は笑いながらコタロの頭を撫でてあげた。ところが、ふとコタロの後ろ姿に目を向けた彩香が首を傾げた。
「あれ? でも、コタロって尻尾が短いね?」
花子もコタロの後ろ姿を確認した。
「うん、コタロは断尾をしている子なんだ」
「断尾?」
仁が聞き返すと、花子が説明した。
「尻尾の一部を切って短くすることを断尾っていうんです」
彩香はコタロの短い尻尾を見つめた。
「じちゃあ、コタロも小さい頃に尻尾を切ったの?」
「うん、子犬の頃に引き取ったそうなんだけど、そのときにはもう断尾されていたって聞いたよ」
花子が答えた。仁は黙ってコタロを見つめた。短い尻尾の下には、ぷっくりとしたお尻が続いていた。見た目には特におかしなところはないように思えたが、もし尻尾が切られていなかったらどんな姿だったのか、今となっては知ることができない。
「尻尾を切ると……犬にも何か不便なことがあるんですか?」
仁が尋ねた。
「尻尾は体のバランスを取るのに役立つこともありますし、ほかの犬や人に自分の気持ちを伝えるときにも使うんです」
花子は落ち着いた口調で説明した。
「それなら、気持ちを伝える手段が減ってしまうこともあるんですね」
「そうですね。もちろん、耳や表情、体の動きでも気持ちを表現できます」
「でも、特別な理由もなく尻尾を切ることについては、慎重に考える必要があると思います」
仁はゆっくりと頷いた。かつての仁は、体で相手を威圧したり、力で問題を解決したりする人々と付き合っていた。あの頃は、誰かの体に傷を残すことがどれほど重い意味を持つのか、深く考えていなかったこともあった。
しかし、今は違う。小さな犬だって、自分なりの感情と意思を持っている。言葉を話せないからといって、その心まで存在しないわけではない。
仁はコタロが短い尻尾を動かす様子をじっと見つめた。人間の目には些細な変化に見えても、犬にとっては自分の気持ちを表現する大切な手段なのかもしれない。
「ところで、仁くん」
彩香が仁のほうを向いた。
「ヤクザって、どうして指を詰めるの? まさか、美的感覚のためじゃないよね?」
「……はい?」
予想もしなかった質問に、仁の肩がわずかにぴくりと動いた。花子も不思議そうな顔で彩香を見た。
「急にどうしてそんなことを聞くの?」
「いや、尻尾を切るのは人間の好みが理由の場合もあるっていうじゃない? それで、ふと思ったんだ。ヤクザも指を詰めるでしょ?」
「それは……組で犯した過ちに対する責任や、謝罪を示す意味があります」
仁は思わず答えてしまった。短い沈黙が流れた。
「……仁くん、ずいぶん詳しいね?」
彩香は目を細めて仁を見た。花子も首を傾げながら仁に尋ねた。
「仁さん、どうしてそんなことをよく知っているんですか?」
「そ、それは……」
仁の視線が忙しなく揺れた。
「ゲームで覚えました」
「ゲーム?」
「はい。ヤクザが出てくるゲームがあるので」
仁はできるだけ平静を装った。
「そうなんだ」
花子は納得したように頷いた。しかし、彩香は相変わらず疑わしそうな目で仁を見つめていた。
「ふーん……ヤクザのゲームね」
「……はい」
「じゃあ、仁くんはそういうゲームも得意なんだ?」
「それほど得意ではありません」
仁はそれ以上、何も付け加えなかった彩香はさらに何かを尋ねようと口を開きかけたが、やがてくすりと笑って顔をそらした。
「まあ、いいや。仁くんって、意外とゲームが好きなんだね」
「……そうですね」
仁は心の中で、ほっと安堵の息をついた。過去の経験が思わず口をついて出たせいで、危うく面倒なことになるところだった。その様子を見た花子は、まだ少し不思議そうな顔をしていたが、それ以上は尋ねなかった。
「それじゃあ、コタロのトリミングを始めましょうか」
花子が雰囲気を変えるように明るく言った。
「はい、よろしくお願いします」
仁も気を取り直して答えた。花子はまず、コタロの体調や皮膚、毛の状態を確認した。普段、皮膚に問題がないか、トリミングの際に特に気をつけるべきことはないかも確認する。
それから、コタロが不快に感じていないか様子を見ながら、トリミングを始めた。仁は花子が毛を整える様子を注意深く観察した。ウェルシュ・コーギーはダブルコートの犬種なので、毛を極端に短く切るのではなく、毛の状態を見ながら必要な部分だけを整えることが大切だった。
花子はコタロの反応を確かめながら、お尻の周りの毛を丁寧に整えていった。
「コタロ、もう少しで終わるよ。あとちょっとだけ頑張ろうね」
花子が優しく声をかけると、コタロはおとなしく立っていた。彩香は少し離れた場所から、その様子を見守っていた。
「本当にハートの形になってるね」
「毛の長さや形を調整すると、お尻のハート形がもっとはっきり見えるようになるんだよ」
花子が説明した。
「不思議だね。でも、コタロが嫌がっていなくてよかった」
「そうだね」
花子は最後に周りの毛を整え、コタロの様子を確認した。
「コタロ、よく頑張ったね。次はシャンプーだよ」
「では、次は私の番ですね」
仁が言った。花子はコタロを仁に任せた。仁はまず水温を確かめ、コタロが驚かないようにゆっくりと体を濡らしていった。いきなり水をかけるのではなく、足元から始めて胴体へと移りながら、コタロの反応を確かめた。コタロは最初こそ周囲を見回していたが、やがておとなしく立ち、仁の手に身を任せた。
「よく頑張ってるな、コタロ」
仁は優しく声をかけた。シャンプーをするときも、指先で皮膚を強くこすらないように注意した。毛の間にシャンプーが残らないよう十分にすすいだあと、タオルで水気を取った。シャンプーが終わると、コタロは体を大きく震わせた。
ぶるぶる!
周囲に水滴が飛び散った。
「きゃっ!」
近くにいた彩香は慌てて後ろに下がった。
「コタロ、いきなり何するの!」
彩香がたしなめるように言ったが、コタロは何もわかっていない様子で、無邪気な顔をして仁を見つめていた。仁は笑いながら、もう一度タオルでコタロの体を拭いた。
「彩香さんも、もう少し離れていたほうがいいと思います」
「仁くん、その言葉、もうちょっと早く言ってほしかったんだけど!」
彩香が不満そうに言うと、花子は笑いをこらえきれなかった。続いて、仁はドライヤーを用意した。強い風にコタロが驚かないよう風量を調整し、熱風が一か所に長く当たらないよう、適度な距離を保った。
コタロは最初、ドライヤーの音に耳を動かしていたが、仁が落ち着いた声で話しかけると、やがて緊張を解いた。
「大丈夫だ、ゆっくり乾かそうな」
仁は毛の内側まで十分に乾いているか確認しながら、ドライヤーを動かした。ウェルシュ・コーギーの毛は、表面が乾けばそれで終わりというわけではない。内側の毛に湿気が残らないよう、丁寧に乾かす必要があった。
仁は急がず、毛の状態を一つずつ確認していった。
ドライヤーが終わると、次はブラッシングだ。ブラシを動かすたびに、絡まっていた毛が少しずつほぐれていく。
仁は無理にブラシを引っ張らず、毛が絡まっている部分を見つけると、手で毛を分けながら慎重に整えた。コタロは時折、仁の手を舐めたり、顔を向けて仁を見つめたりした。
「コタロは仁さんのことが、かなり好きみたいですね」
花子が微笑んだ。
「そうなんですか?」
「はい。緊張していないし、リラックスしているように見えます」
仁はコタロの背中をそっと撫でた。そのとき、コタロがお尻を揺らしながら体の向きを変えた。短い尻尾が動き、お尻の周りの毛も一緒に揺れた。
仁はその様子をしばらく見つめた。尻尾の動きは大きくなかったが、コタロが嬉しそうに体を動かしていることは十分に伝わってきた。
「尻尾が短くても、体全体で気持ちを表現するんだな……」
仁が小さくつぶやいた。
「そうなんです」
花子が頷いた。
「尻尾だけじゃなくて、耳の動きや表情、姿勢も気持ちを表す方法なんです。ワンちゃんをよく観察していると、言葉がなくても、どんな気持ちなのか少しずつわかるようになりますよ」
「……これからは、もっとよく観察しなければいけませんね」
仁は改めてコタロの反応を確かめた。これまで仁は、犬を洗い、毛を乾かし、ブラッシングする方法を覚えることに集中していた。トリミングを上手にこなすことが大切だと思っていたからだ。しかし、それだけでは十分ではなかった。
犬がどんな表情をしているのか、体をどのように動かしているのか、どんなときに緊張し、どんなときに安心するのか。それを察することも、トリマーの大切な役割だった。毛をきれいに整えることだけが、トリミングのすべてではない。
犬が健康で快適に過ごせるように手助けすること。そして、犬の感情と体を尊重すること。仁は今日、コタロを担当したことで、そのことを少し深く理解できた気がした。
「仁くん、終わった?」
彩香が近づいてきた。
「はい。ブラッシングまで終わりました」
仁が一歩下がると、コタロの姿が一目で見渡せた。
体の毛はきれいに整えられ、お尻の周りの毛は自然なハートの形になっていた。
「わあ! 本当にかわいい!」
彩香が感嘆の声を上げた。
「コタロ、おけつがハートになってるね!」
コタロは彩香の声に反応して体の向きを変えた。
「尻尾まで振ってくれたら、もっとかわいかったのに」
彩香は何気なくそう口にしてから、ふと黙り込んだ。そして、すぐにコタロの頭を優しく撫でた。
「あ、ごめんね。今の姿だって十分かわいいよ」
仁はその様子を静かに見守っていた。コタロの短い尻尾が、また動いていた。もし断尾されていなかったら、どんな姿だったのだろう。仁は、もうその姿を確かめることができないのだと思った。
過ぎてしまったことを元に戻すことはできない。しかし、だからといって、これからも同じことが何の疑問もなく繰り返されていいというわけではない。
犬の見た目をどう整えるかは、人間の選択なのかもしれない。けれど、その選択が犬の体にどのような影響を与えるのか、本当に必要なことなのか、一度は考えてみるべきではないだろうか。仁はコタロの頭をそっと撫でた。
「コタロは、今の姿のままでも十分かわいいですよ」
「そうでしょ?」
彩香が満面の笑みを浮かべた。
「ハートのおけつもかわいいし、短い足もかわいいし、全部かわいい!」
「彩香さんは、かわいい以外の感想はないんですか?」
「じゃあ、仁くんはコタロを見て、どんな感想を言うの?」
「……おとなしくて、人懐っこくて、トリミングもよく我慢してくれる、いい子だと思います」
「ほら! 結局、かわいいってことじゃん!」
「そういう意味ではありません」
仁が真剣に反論すると、花子が吹き出した。ひとしきり笑い合ったあと、花子はトリミングを終えたコタロを飼い主に引き渡すため、カウンターへ向かった。しばらくすると、店の入り口でベルが鳴った。
チリン
「いらっしゃいませ」
花子が挨拶すると、コタロの飼い主が店内に入ってきた。
「こんにちは。コタロのトリミングは終わりましたか?」
「はい。一度、名前を呼んでみてください」
花子に促され、飼い主はコタロの名前を呼んだ。
「コタロ!」
名前を呼ばれると、コタロは尻尾を振りながら駆け寄っていった。
「はい、今日もおとなしく頑張ってくれましたよ」
花子が笑顔で答えた。飼い主はコタロの姿を見て、目を丸くした。
「あら、きれいになったわね」
「コタロが協力してくれたおかげです」
花子が答えた。飼い主はコタロの頭を撫で、リードを手に取ると、店を出る準備をした。
「それじゃあ、また来ますね」
「はい。お気をつけてお帰りください」
花子が見送ると、コタロも振り返った。仁は軽く手を振って見送った。
チリン
店の扉が閉まり、ベルの音が静かに消えていった。
「今日もお疲れさまでした、仁さん」
花子が言った。
「いえ。むしろ、たくさん勉強になりました」
「初めて担当した中型犬なのに、よくできていましたよ」
花子は仁の肩を軽く叩きながら言った。
「仁さん、これで小型犬だけじゃなくて、中型犬も担当できるようになりましたね」
「まだまだ学ぶことはたくさんあります」
仁は謙虚に答えた。
「それでも、今日はいい経験になりました。トリミングの技術だけでなく、ワンちゃんを観察する方法も、もっと学べた気がします」
花子は嬉しそうに微笑んだ。
「そう思ってもらえて、私も嬉しいです。トリミングの技術は練習すれば身につきますけど、ワンちゃんを理解しようとする気持ちも、それと同じくらい大切なんです」
仁は頷いた。彩香は二人を交互に見てから、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ところで、仁くん。今度はヤクザのゲームじゃなくて、犬のゲームもやってみたら?」
「……わざわざやる必要はないと思います」
「えー、ワンちゃんを理解するのに役立つかもしれないじゃん!」
「実際に犬の世話をするほうが、ずっと役に立ちます」
仁が真剣に答えると、花子は再び笑い声を上げた。
フォレストの中に、三人の笑い声が広がった。仁はトリミング道具を片づけながら、先ほどのコタロの姿を思い出した。
人の手を気持ちよさそうに受け入れていた姿と、嬉しそうに体を動かしていた姿。そして、もう知ることのできない、コタロの本来の尻尾の姿。
仁は、犬の見た目を整えることと、犬の体を変えることは同じではないのだと学んだ。これからもトリミングの技術を身につけ、さまざまな犬種と出会っていかなければならない。ときには、予想もしなかった状況に戸惑うこともあるだろう。それでも、一つだけ忘れないようにしたいことがあった。
自分が世話をする犬が何を嫌がり、何を好み、そしてどんなふうに生きていきたいのか。できる限り理解しようと努力すること。仁は片づけたブラシを元の場所に戻した。今日もまた、仁は一歩成長した。




