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第28話 ― 三人のお出かけ

 フォレストの朝


 窓から暖かな日差しが差し込んでいた。花子はカウンターの上に置かれたメモを確認しながら、今日やるべきことを整理していた。いつもなら、店を開ける前にトリミング道具を点検したり、予約しているお客さんを確認したりする時間だったが、今日は少し違っていた。


「うーん……これで大丈夫かな」


 花子はメモに書かれたリストを確認すると、頷いた

その様子を見ていた彩香が、ソファから体を起こした。


「花ちゃん、朝から何をそんなに一生懸命書いてるの?」

「今日買わなきゃいけないものだよ。シャンプーやタオルも少し買い足したいし、家で使う日用品もいくつか必要なんだ」

「あ、買い物に行くの?」


 彩香の目が輝いた。


「私も行く!」

「ふふ、まだ一人で行くなんて言ってないのに」

「そんなの関係ないよ! 買い物ならいつでも大歓迎!」


 彩香はソファから勢いよく立ち上がった。そのとき、階段のほうから足音が聞こえてきた。


「何かあったんですか?」


 仁が階下に下りてきながら尋ねた。花子は手に持っていたメモを見せた。


「今日は必要なものを買いに行こうと思っているんですけど、仁さんも一緒に行きませんか?」

「私もですか?」

「はい。一人で持つには少し多くなりそうなので、もちろん、ご都合がよければですけど」

「そういうことでしたら、私もご一緒します」


 仁は特に迷うことなく答えた。


「やった! じゃあ今日は三人で買い物だね!」


 彩香は嬉しそうに両手を合わせた。


「あ、モチも連れていけたらいいな!」


 花子の視線が店の片隅へ向かった。そこにはモチがちょこんと座っていた。自分の名前が聞こえると、モチはぴんと耳を立てて花子を見つめた。


「モチも一緒に行く?」

「ワン!」


 モチが尻尾を振った。まるで、その言葉を待っていたかのような反応だった。


「ふふ、よし!それじゃあモチも一緒に行こうね」


 花子はモチの頭を撫でた。その様子を見ていた彩香は、ふと口元を緩めた。


(ちょっと待って……)


 頭の中で何かがひらめいた。


(これは絶好のチャンスじゃない?)


 彩香は花子と仁を交互に見た。最近、二人は一緒に働く時間が増えていたが、だからといって特別に距離が縮まったようには見えなかった。少なくとも、彩香にはそう思えた。


 花子は仁を信頼しているし、仁も花子を気遣っている。けれど、二人の関係はまだ同僚という枠から大きくはみ出していないようだった。

 もちろん、彩香は二人の間に少しずつ変化が生まれていることも、なんとなく感じ取っていた。だからこそ、今日のような機会をそのまま逃すわけにはいかなかった。


(今日は私がしっかりお手伝いしなくちゃ)


 彩香は心の中で決意した。花子と仁がもう少し親しくなれるように、自然な形で二人きりの時間を作ってあげること。そして、そんな二人の様子を観察すること。それが、今日の彩香の秘密の計画だった。


「彩香さん?」

「ん?」

「どうしてそんなに笑っているんですか?」


 仁に尋ねられ、彩香ははっと我に返った。


「あ、何でもないよ! ただ、買い物に行くのが楽しみなだけ!」

「そうですか?」


 仁は不思議そうに首を傾げたが、それ以上は尋ねなかった。彩香は心の中でほっと胸を撫で下ろした。


(よし、それじゃあ出発しよう!)

「はい」

「うん、行こう、花ちゃん」


 こうして、三人とモチのお出かけが始まった。フォレストから少し離れた場所には、いくつもの店が集まったショッピングストリートがあった。


 洋服店や雑貨店、日用品店はもちろん、軽食を楽しめる飲食店やデザートのお店もあり、普段から多くの人で賑わっている場所だった。


 三人はゆっくりと通りを歩いていた。花子は片手にモチのリードを、もう片方の手に買い物リストを書いたメモを持ち、仁は買い物かごを持っていた。彩香は二人の様子を交互に窺った。


(よし、まずは自然に二人を並んで歩かせよう)

 

 彩香は少しだけ歩く速度を落とした。すると、仁と花子が自然に前を歩く形になった。二人は必要なものについて話していた。


「タオルは少し多めに買っておいたほうがよさそうですね。最近、古くなったものをまとめて処分しましたから」

「そうですね。洗濯している間に使う予備も必要ですし」

「犬用のシャンプーも確認しておきましょう。よく使うものは、あらかじめ用意しておいたほうがよさそうです」

「仁さんが手伝ってくだされば、すぐに終わりそうですね」

「私にできることなら、お手伝いします」


 二人の会話は、あくまで仕事に関するものだった。けれど、並んで歩きながら話している姿は、なかなか自然に見えた。彩香はその様子を見て、満足そうに頷いた。


(そうそう、これだよ!)


ところが、そのときだった。モチが突然、足を止めた。


「モチ?」


 彩香が不思議そうに振り返った。モチは道端に置かれた植木鉢を見つめていた。正確には、植木鉢の下に置かれた小さな飾りに興味を示していたのだ。


「モチ、こっちに行こうね」


 花子が優しくリードを引いたが、モチはぴくりとも動かなかった。むしろ、もう少し近づこうとしていた。


「あら、モチ。それは食べ物じゃないよ」


 花子が笑いながらモチをなだめた。仁も足を止めて振り返った。


「私がお手伝いします」


 仁はモチが飾りに触れないよう、花子と一緒にゆっくりと進む方向を変えた。モチは少し名残惜しそうに飾りを見つめていたが、やがて二人について歩き始めた。彩香はその様子を見て、小さくため息をついた。


(どうしてもう三人が集まっちゃうの?)


 もちろん、モチが悪いわけではないけれど、彩香の計画は始まったばかりだというのに、早くも順調とはいかなくなっていた。彼女はもう一度、二人を先に行かせようとした。


「花ちゃん、私、あそこのお店をちょっと見てくるね! ゆっくり来て!」

「分かった。あまり遠くに行かないでね」

「はーい!」


 彩香は明るく返事をすると、近くの雑貨店へ向かった。選んだのは、ガラス越しにアクセサリーや小さな雑貨が並んでいるのが見えるお店だった。仁と花子がもう少し先へ進んでから、合流するつもりだった。


(今度こそ成功させるんだから!)


 彩香は店の前から二人の様子を窺った。仁と花子は、相変わらず並んで歩いていた。


(よしよし!)


 ところが、モチはきょろきょろと周囲を見回すと、突然進む方向を変えた。彩香の姿を見つけたモチは、嬉しそうに尻尾を振りながら近づいてきた。


「あれ?」


 彩香は目を丸くした。


「モチ? どうしてこっちに来るの?」


 モチは彩香の前まで来ると、彼女の足に体をすり寄せた。


「ああ、かわいい! よしよし、私も会えて嬉しいよ」


 彩香はモチを撫でた。その間に、花子と仁も自然に足を止めて戻ってきた。


「彩香、ここにいたんだね」

「うん……そうだね」


 彩香はぎこちなく笑った。またしても計画は失敗だった。雑貨店の中には、さまざまな商品が並んでいた。小さなお皿やカップ、インテリア雑貨から、ヘアピンやブレスレットなどのアクセサリーまで、その種類は実に豊富だった。彩香は店に入るなり、目を輝かせた。


「わあ、かわいいものがいっぱい!」

「ゆっくり見てきて。私たちはここで待ってるね」


 花子がそう言うと、彩香は嬉しそうに商品棚を見て回り始めた。


「花ちゃん、これ見て! このヘアピン、かわいくない?」


 彩香は花の形をした飾りがついたヘアピンを手に取った。


「本当だ、かわいいね。彩香に似合いそう」

「でしょ? さすが花ちゃん、見る目があるね!」


 彩香は満足そうに笑うと、ヘアピンを元の場所に戻した。そして、別の商品棚へと移動した。今度は、小さな動物の形をしたキーホルダーが目に留まった。


「これもかわいい……あっ、犬の形もある!」


 彩香は犬の形をしたキーホルダーを手に取った。

花子も隣で商品を眺めた。


「モチに似ているものもあるかな?」

「そうだね。白いワンちゃんの形だったらいいな」


 二人は商品棚を探し始めた。仁は少し離れた場所から、二人が商品を選んでいる様子を見守っていた。

しばらくすると、花子が小さなお皿を一枚手に取った。


「これはフォレストで使えそうですね。お客さんにお茶をお出しするときにもよさそうです」

「いいと思います」


 仁はお皿の大きさと形を確認した。


「ただ、こちらの商品のほうが少し丈夫そうです。頻繁に使うものなら、こちらのほうがいいと思います」


 仁は別のお皿を指さした。花子は二つの商品を見比べた。


「本当ですね。それじゃあ、こっちにします」

「フォレストで使うものを選んでいるの?」


 彩香が近づいてきて尋ねた。


「うん。待っていただくお客さんもいるから、待ち時間に使えるカップやお皿を少し買い足そうと思って」

「なるほどね。それなら、これもどう?」


 彩香は小さな犬の形をした置物を手に取った。


「カウンターの上に置いたら、かわいいと思わない?」


 花子は置物を見て微笑んだ。


「本当にかわいいね。モチにも似合いそう」

「じゃあ、買おうよ!」

「ふふ、まずは必要なものを選んでから考えようね」

「もう、花ちゃん。こういうのは見た瞬間に買わなきゃ!」


 彩香が冗談めかして言うと、花子は笑い出した。仁は二人が選んだ商品を、慎重に買い物かごへ入れた。そのとき、彩香の視線が仁に向いた。


(ちょっと待って……今がチャンスじゃない?)


 彩香は心の中で微笑んだ。花子が別の商品棚を見ている間に、仁に声をかけた。


「仁さん、花ちゃんと一緒に見てきてください。私はもう少しこっちを見ているので」

「よろしいんですか?」

「もちろんです! 私一人でも大丈夫ですから!」


 彩香は自信満々に答えた。仁は少しだけ花子を見た。


「花子さん、私も一緒に見て回ってもよろしいですか?」

「はい、もちろんです。私はもう少しこちらを見ていますね」


 仁は頷き、花子の隣へと近づいた。彩香は二人の姿を確認すると、心の中で拳を握りしめた。


(よし! ついに成功!)


 ところが、まさにその瞬間だった。モチが彩香の足元で小さく鳴いた。


「ワン!」


 彩香は下を向いた。モチは商品棚の下のほうを見つめていた。白い犬の形をした置物が気になったらしい。


「モチ、それが欲しいの?」


 彩香が笑いながら尋ねた。モチは尻尾を振った。


「だめだよ、モチ。それはおもちゃじゃないんだから」


 彩香がモチをなだめていると、花子が戻ってきた。


「彩香、モチはどうしたの?」

「ううん、ただ、あの置物が気に入ったみたいで」

「あら、本当だね」


 花子はモチを撫でた。仁も二人のそばへ戻ってきた。


「何かお手伝いしましょうか?」

「ううん、大丈夫だよ、仁さん」


 花子は笑顔で答えた。彩香は天井を見上げた。


(……モチ、あなたって本当にすごいね)


 彼女の作戦は、今回も失敗に終わった。雑貨店を出た三人は、日用品店へと向かった。花子があらかじめ書いておいたリストには、フォレストで使うタオルやシャンプー、洗濯用品などが記されていた。


「まずは必要なものから買おう」


 花子が言うと、仁はメモを確認した。


「タオルから選ぶのがよさそうですね。種類も多いですし、実際に見てみませんか?」

「はい、仁さんも一緒に見てください」


 三人はタオルが並ぶ売り場へ移動した。色も大きさもさまざまなタオルが、きれいに並べられていた。花子は何枚か手に取り、肌触りを確かめた。


「これは柔らかくていいですね。でも、トリミングのあとに使うには少し薄いでしょうか?」


 仁もタオルを確かめた。


「吸水性も確認したほうがよさそうです。頻繁に使うものですから」

「そうですね。それなら、こちらはどうでしょう?」


 花子が別のタオルを見せた。仁は手で触れて確かめると、頷いた。


「こちらのほうが適していると思います」

「いいですね。それじゃあ、これにします」


 花子はタオルを買い物かごに入れた。彩香は隣でその様子を眺めながら、小さく笑った。


「二人って、本当に息が合うね」

「はい?」


 仁が振り返った。


「な、何でもないよ!」


 彩香は慌てて視線をそらした。花子は何の話か察したように、顔を赤くした。


「彩香、余計なことを言わないで」

「あら、私、何も言ってないけど?」

「今、言ったでしょ!」

「ふふふ」


 彩香はいたずらっぽく笑った。仁は二人を交互に見たものの、結局、不思議そうに首を傾げるだけだった

その後は、洗濯用品や日用品を選んでいった。


 仁は重いものを買い物かごの下に入れ、壊れやすいものはほかの商品に押しつぶされないよう、慎重に整理した。花子が必要なものを確認している間に、彩香は棚に並んでいた小さな収納ボックスを見つけた。


「花ちゃん、これはどう? フォレストで使うのによさそうじゃない?」

「どれどれ……本当だね。トリミング道具を整理するのに使えそう」

「でしょ? こういうものを見つけるのは得意なんだから!」


 彩香は得意げな顔をした。仁はボックスの大きさを確認した。


「これくらいなら、よく使うブラシや小さな道具を整理するのにちょうどよさそうです」

「じゃあ、これも買おう!」


 花子はボックスを買い物かごに入れた。


「彩香、いいものを見つけてくれてありがとう」

「どういたしまして!」


 彩香は満面の笑みを浮かべた。今度は本当に役に立てた気がして、嬉しかった。しかし、買い物かごに商品が一つ、また一つと増えていくにつれて、仁が持つ荷物もどんどん多くなっていった。花子は申し訳なさそうに仁を見た。


「仁さん、荷物が多くなってしまいましたね。私も少し持ちます」

「大丈夫です、まだ十分持てますから」

「でも……」

「重いものは私が持ちます。花子さんはモチと一緒にいてください」


 仁は自然に答えた。花子は少しの間、仁を見つめてから、柔らかく微笑んだ。


「ありがとうございます、仁さん」

「いえ、どういたしまして」


 彩香はそのやり取りを静かに見守っていた。仁は特に恩着せがましい態度を取ることもなく、自分が大変だとも言わなかった。ただ二人が気兼ねなく買い物を楽しめるように、自然と荷物を持ってくれていた。


(……本当に優しい人だな)


 彩香は心の中で思った。最初は、仁の大きな体格と無口そうな表情に少し緊張していたのも事実だった。

けれど、一緒に過ごすうちに、その印象は少しずつ変わってきていた。

 

 仁は口数は少なくても、必要なときには自分から動き、ほかの人が困らないよう細やかに気を配っていた。そんな姿を見ていると、花子が仁を信頼し、頼りにしている理由も少し分かる気がした。


(花ちゃんも、こういうところを見て信頼するようになったんだろうな)


 彩香は花子を見つめた。花子は仁が持ってくれている買い物かごを確認しながら、必要なものが足りているかを確かめていた。その表情には、自然な安心感がにじんでいた。


 彩香は小さく微笑んだ。日用品店で必要なものをほとんど買い終えた三人は、少し休憩することにした

ショッピングストリートには、軽食やデザートを売るお店が集まっていた。その中で花子の目に留まったのは、小さなソフトクリームのお店だった。


「あそこ、ソフトクリームを売っているみたいですね」


 花子が店を指さした.彩香はすぐに振り向いた。


「本当? 私、食べたい!」

「私もいいと思います」


 仁が答えると、花子は微笑んだ。


「それじゃあ、少し休憩していきましょうか?」

「賛成!」


 彩香は誰よりも早く答えた。三人は店の前にあるメニューを眺めた。バニラやチョコレート、抹茶など、さまざまな味が用意されていた。


「うーん……何にしようかな?」


 彩香はメニューを見ながら悩み始めた。


「バニラもいいし、チョコレートもいいし……抹茶もおいしそう」

「彩香はチョコレートが好きじゃなかった?」


 花子が尋ねた。


「そうだよ! でも、バニラも食べたいんだもん!」

「ふふ、じゃあ食べたいものを選べばいいじゃない」

「それが簡単な問題じゃないんだってば!」


 彩香は真剣な表情でメニューを見つめた。仁はそんな彩香をしばらく見てから、口を開いた。


「二つの味を一緒に楽しめるメニューはないようですね」

「分かってるよ、仁くん! だから悩んでるんじゃない!」

「なるほど」


 仁は頷いた。彩香は少しの間、仁を見つめていたが、やがて吹き出した。 


「あはは! 仁くんって、本当に面白い人だね。私が悩んでいたら、普通は適当に選べばいいって言うのに」

「せっかく選択肢が多いのですから、適当に決めるのももったいないと思いまして」

「ぷっ!」


 彩香は思わず笑い出した。花子も微笑んだ。結局、彩香はチョコレートのソフトクリームを選んだ。花子はバニラ、仁は抹茶を選んだ。注文を済ませた三人は、モチと一緒に近くの屋外休憩スペースへ移動した。


 モチは人の通行の邪魔にならない場所に、おとなしく座った。花子はリードを短めに持ち、モチが落ち着いて待てるように気を配った。しばらくして、ソフトクリームが運ばれてきた。彩香はチョコレートのソフトクリームを受け取ると、目を輝かせた。


「わあ、おいしそう!」


 彼女はソフトクリームを一口食べた。冷たくて甘い味が口の中に広がった。


「んー! やっぱり買い物中はこういうのが最高だね!」


 彩香は満足そうに笑った。花子もバニラのソフトクリームを一口食べた。


「本当においしいですね。甘すぎないところがいいです」


 仁は抹茶のソフトクリームを味わった。


「抹茶の香りがいいですね」

「仁さんは抹茶が好きなんですか?」


 花子が尋ねた。


「はい、好きです」

「そうなんですね。今度、フォレストでも抹茶を用意してみましょうか?」

「いいと思います」


 二人は自然に会話を交わしていた。彩香はソフトクリームを食べながら、ちらりと二人を見た。


(よし、今だ!)


 彼女は花子と仁がもう少し話せるように、少し場所を移そうとした。ところが、彩香がお尻をほんの少し動かすよりも先に、モチが花子のほうへ近づいていった。モチは花子の足元に座り、尻尾を振った。


「あら、モチ。どうしたの?」


 花子が笑いながら尋ねた。モチは花子を見上げた

彩香は心の中でため息をついた。


(またモチなの?)


 けれど、モチは何も悪くない。ただ飼い主のそばにいたかっただけなのだから。仁はモチがソフトクリームに興味を示さないよう、自分の持っているカップを少し遠ざけた。


「モチはソフトクリームを食べられませんからね。代わりに水を少しあげましょうか?」

「あ、それはいいですね。モチも喉が渇いているかもしれませんし」


 花子が答えた。仁は持ってきていた水筒から水を少し注ぎ、モチが飲めるようにした。モチは水を何口か飲むと、満足そうに座った。その様子を見ていた彩香が笑った。


「仁さん、本当に気が利きますね」

「大したことではありません」

「そんなことないですよ。こういうことって、つい見落としがちですから」


 仁は少しだけモチを見つめた。


「喉が渇いていたら、つらいでしょうから」


 彼は当たり前のことを言うように答えた。彩香は、それ以上ふざけたように笑うことはなかった。

 仁の言葉には、特別な意味を持たせようとする様子がなかった。本当に当たり前のことをしただけだという態度だった。そんな姿こそ、仁の人柄をよく表しているように思えた。花子も仁を見つめ、柔らかく微笑んだ。


「仁さんは、いつもそういうところによく気がつきますね」

「花子さんから教えていただいたことも多いですから」

「私がですか?」

「はい。フォレストで働きながら、いろいろなことを学びました」


 花子は少し驚いた表情を浮かべたあと、すぐに微笑んだ。


「そう言ってもらえると嬉しいです」


 二人の会話には、自然な信頼関係が感じられた。彩香はその様子をじっと見つめていた。最初から二人が特別に親しかったわけではないのだろう。

 一緒に働き、互いに助け合い、小さな出来事を共有するうちに、少しずつ信頼が積み重なっていったのだ。そして今では、そんな時間が二人の間に自然と根づいているように見えた。


(……本当にいい関係だな)


 彩香はそう思いながら、ソフトクリームを一口食べた。冷たくて甘い味が口の中に広がった。彼女はちらりと花子を見た。花子は仁と話しながら笑っていた。


 その笑顔は、とても自然に見えた。彩香はようやく少し分かった気がした。花子がどうして仁を信頼しているのか。そして、仁と一緒にいるとき、どうしてあんなに安心した表情を見せるのか。

 無理に過去を尋ねる必要はなかった。その人がどんな人なのかを知るために、必ずしも過去を知る必要はないのだから。

 今、目の前にいる仁はモチを気遣い、花子の話に耳を傾け、自分にできることを黙々とこなす人だった。

彩香は小さく笑った。


(花ちゃん、本当にいい人に出会ったね)


 もちろん、これから二人の関係がどうなっていくのかは分からない。けれど、少なくとも仁が花子にとって信頼できる仲間であることだけは、確信できた。

 そして、もしかすると、それ以上の関係になる可能性もあるのかもしれない。ソフトクリームを食べ終えた三人は、再び買い物を続けることにした。

 今度は洋服店と小さな生活雑貨店を見て回ることにした。彩香は洋服店の棚を眺めていると、かわいらしいデザインのカーディガンを見つけた。


「あら、これかわいい!」


 彼女はカーディガンを手に取ると、花子を呼んだ。


「花ちゃん、これどう思う?」


 花子はカーディガンを見た。


「色もきれいだし、彩香に似合いそうだよ」

「でしょ? ちょっと試着してみようっと!」


 彩香は嬉しそうに試着室へ向かった。しばらくして、カーディガンを着て出てきた彩香は、二人の前でくるりと一回転した。


「どう?」

「よく似合っています」


 仁が先に答えた。彩香は目を丸くした。


「あら、仁くんがすぐに褒めてくれるなんて。意外だね?」

「本当によく似合っているので」


 仁は淡々と答えた。彩香は少しの間、彼を見つめていたが、やがて笑い出した。


「あはは! 仁くんって、本当に正直だね」


 花子は二人を見ながら微笑んだ。


「本当によく似合ってるよ、彩香。買ってもいいと思う」

「よし! じゃあ、これに決めた!」


 彩香は満足そうに頷いた。カーディガンを会計したあと、三人は再び通りを歩いた。花子は近くの生活雑貨店で、フォレストに必要な小物をさらにいくつか購入した。


 仁は重い荷物を持ち、彩香は気に入ったものを見つけるたびに花子へ見せた。買い物は思ったよりも長く続いた。けれど、三人とも急ぐことはなかった。

必要なものを買うだけでなく、一緒に通りを見て回り、店先に並んだ商品を眺め、気に入ったものを見つければ互いに教え合う。


 そんな時間そのものが楽しかったからだ。モチも時折、足を止めて周囲を見回していた。そのたびに花子はモチが何に興味を持っているのかを確かめ、仁は人が通る方向を見ながら、安全に移動できるよう気を配った。彩香はそんな様子を見て笑った。


「今日、一番楽しんでいるのはモチかもしれないね」

「そうかもしれませんね。家にいるだけじゃなくて、こうしてたまに外へ出るのもいいでしょうし」


 花子が答えた。仁も頷いた。


「モチも楽しそうです」


 モチはまるで自分の話を理解したかのように尻尾を振った。


「ふふ、モチも今日のお出かけが気に入ったみたいだね」


 花子はモチを撫でた。彩香はその様子を見つめてから、ふと思い出したように仁を見た。 


「仁さんも、今日は楽しかったですか?」

「はい。いい時間でした」

「いい時間、ですか?」

「みんなで買い物をするのも悪くないと思いました」


 彩香は少しの間、仁を見つめた。そして、すぐに笑顔になった。


「じゃあ、また今度も一緒に行きましょう!」

「そうですね。予定が合えば」

「約束ですよ!」


 彩香が小指を差し出すと、仁は少し戸惑ったようにそれを見つめてから、軽く頷いた。


「分かりました」

 

 花子は二人を見て笑った。今日一日、一緒に買い物をして過ごすうちに、三人の間の空気は以前よりも少し柔らかくなったように感じられた。


 最初は必要なものを買いに出かけただけだったのに、いつの間にかいろいろな話を交わし、一緒に笑う時間が自然と続いていた。

 彩香は、そんな時間が気に入っていた。日が少しずつ傾き始めた頃、三人は買い物を終えて帰る準備をした。

 仁の手には、買ったものが入った袋がいくつもあった。花子も小さな袋を持ち、彩香は新しく買ったカーディガンの袋を手にしていた。モチは花子の隣をのんびりと歩いていた。


「今日は本当にたくさん買ったね」


 彩香が袋を見ながら言った。


「必要なものをまとめて買えてよかったです」


 花子が笑顔で答えた。


「仁さんが手伝ってくださったおかげで、ずいぶん楽でした。ありがとうございます」

「いえ、私も楽しかったです」


 仁の返事はいつもどおり落ち着いていたが、花子は嬉しそうに微笑んだ。

 彩香は二人を交互に見つめた。そして今度は、わざと二人を離して歩かせようとはしなかった。その代わり、花子の隣へ移動して並んで歩いた。


「花ちゃん」

「ん?」

「今日は楽しかった?」

「うん。久しぶりにこんなにゆっくり買い物ができてよかったよ」


 花子はモチのリードを少し短く持ちながら答えた。


「仁さんも一緒に来てくれたから、すごく助かったし」

「そうだよね?」


 彩香は意味ありげな笑みを浮かべた。花子は不思議そうに首を傾げた。


「どうしてそんなに笑ってるの?」

「ううん、何でもないよ」


 彩香は少しだけ仁を見た。仁は少し前を歩きながら、人が通る方向を確認していた。花子がモチと一緒に歩きやすいように、歩く速さも自然に合わせていた

それは、特別なことでもない、ごく普通の行動だった

けれど、彩香にはそんな何気ない行動からも仁の人柄が感じられた。


 誰かによく思われようとして、わざとやっているのではない。周りの人を気遣うことが、すっかり身についている人。彩香は、そんな人が花子のそばにいることを嬉しく思った。彼女は花子に少し近づいた。


「花ちゃん」

「うん、どうしたの、彩香?」


 彩香はいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「いい人に出会ったね」

「……えっ?」


 花子の足が止まった。顔が一瞬で真っ赤になった。


「な、何を言ってるの、急に!」

「あれ、どうしてそんなに驚くの?」

「驚いてるんじゃなくて……!」


 花子は戸惑ったように視線をあちこちへ動かした。


「仁さんは、ただの仕事仲間だよ!」

「そうなの? 私、何も言ってないけど?」

「彩香!」


 花子は顔を赤くして抗議した。彩香は笑いをこらえきれなかった。


「ふふふ、分かったよ。ただ、仁くんっていい人だなって思っただけ」


「……」


 花子はそれ以上、何も言えなくなった。そのとき、仁が二人の会話を聞いて振り返った。


「何かあったんですか?」

「あ、何でもありません!」


 花子は慌てて答えた。あまりにも急いで答えたせいか、声がいつもより少し高くなっていた。仁は不思議そうに花子を見つめた。


「本当に大丈夫ですか?」

「はい! 大丈夫です!」


 花子は頷いた。仁は少しの間、彼女を見つめてから彩香へ視線を移した。


「彩香さんも大丈夫ですか?」

「うん、私は全然大丈夫!」


 彩香は満面の笑みを浮かべた。


「今日は本当に楽しかったから!」

「そうですか?」

「うん! 特に最後に花ちゃんが面白い反応を見せてくれたから、もっと楽しくなっちゃった!」

「彩香!」


 花子が慌てて叫んだ。仁は二人を交互に見た。いったい何の話をしているのか、さっぱり分からなかった。


「……私の知らない話があるようですが」

「何でもないよ、仁さん!」


 彩香が笑いながら答えた。花子は顔を赤くしたまま、そっと顔を背けた。モチはそんな二人を交互に見つめてから、尻尾を振った。まるで三人の雰囲気が気に入ったかのようだった。

 仁は相変わらず事情が分からない様子だったが、それ以上は尋ねなかった。


「それでは、帰りましょうか」

「はい……」


 花子は小さな声で答えた。彩香は二人の間で、満足そうに笑っていた。今日一日、彩香が立てた計画はモチのせいで何度も失敗した。


 仁と花子をわざと離して歩かせようとするたびに、モチが二人を再び引き合わせ、二人きりの時間を作ろうとするたびに、予想外のことが起こった。けれど、もうそんな作戦を立てる必要はないのかもしれなかった。

 一緒に買い物をし、ソフトクリームを食べ、いろいろな話を交わすうちに、三人は自然と親しくなっていた。そして彩香は、仁がどんな人なのかをもう少し知ることができた。彼が花子に信頼されている理由も理解できた。


(花ちゃんが、これからもあんなふうに笑っていられるといいな)


 彩香は前を歩く花子と仁を見つめながら、静かに微笑んだ。花子はまだ顔を赤くしていたものの、仁と並んで歩きながら、いつもどおり会話を交わしていた。

仁は今日買ったものに不足がないか、確認しているだけだった。そんな二人の姿を見ながら、彩香は小さく笑った。


「……本当にいい人に出会ったね、花ちゃん」


 今度は花子に聞こえないほど、小さな声だった。

モチが尻尾を振りながら、彩香のそばを通り過ぎた。


「モチもそう思うでしょ?」

「ワン!」


 モチが元気よく吠えた。彩香は思わず笑い出した。買い物から始まった一日は、そうして少しずつ暮れていった。特別な事件があったわけでも、驚くような出来事が起こったわけでもない


 ただ、必要なものを買い、甘いソフトクリームを食べ、一緒に歩きながら話をした、ごく普通の一日。けれど、三人にとっては、そんな何気ない時間が少しずつ積み重なっていた。フォレストへ帰る道すがら、花子はモチの頭を撫でながら笑った。


 仁は二人の歩く速さに合わせて、歩調を緩めた。

彩香はその様子を見つめながら、嬉しそうに微笑んだ。これからも、こんな日がたくさんあればいいなと思いながら


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