第27話 ― 眠たがりのワンちゃん
フォレストの朝
窓から差し込む暖かな日差しが、店内を優しく照らしていた。花子はトリミング台の周りを片付けました。けながら、今日予約しているお客さんを確認していた。
仁はシャンプーに必要なタオルやシャンプー剤を準備し、彩香は仁の隣でブラシやドライヤーをきれいに並べていた。
「今日の最初のお客さんはどんなワンちゃんなの、花ちゃん?」
「フレンチ・ブルドッグで、名前はブンタだよ。うちの常連さんでもあるんだ」
「フレンチ・ブルドッグか……かわいいんだろうなあ」
彩香は期待に満ちた表情で頷いた。そのときだった
チリン
店の入り口にあるベルが鳴り、お客さんが入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
花子が明るく挨拶すると、お客さんは抱きかかえていたワンちゃんを床に下ろした。
「花子さん、今日もよろしくお願いします」
「はい、お任せください」
飼い主が挨拶を済ませて店を出るとブンタは周囲を少しだけ見回した。ぺちゃんこな鼻に大きな口、そして顔のあちこちに刻まれたシワが印象的なフレンチ・ブルドッグだった。
短くがっしりとした足に、ずんぐりとした体つき、まっすぐ上に伸びた耳も目を引く。周囲を確認していたのも束の間、ブンタは慣れた様子でゆっくりと歩き出すと、トリミング台の近くでドサッと伏せた。そして、顎まで床につけてしまった
「……あれ?」
その様子を見ていた彩香が首を傾げた。花子は慣れているといった様子で微笑みながら、ワンちゃんに近づいた。
「ブンタ、久しぶり。今日もよろしくね」
花子が名前を呼んでも、ブンタはゆっくりと瞬きをするだけだった。
「ブンタ?」
もう一度呼んでみても、反応はほとんど変わらない
ブンタは花子をちらりと見つめると、再び床に顎を乗せた。
「花ちゃん、この子、寝てるんじゃないの?」
「ふふ、まだ寝てはいないと思うよ」
「まだ……?」
彩香が聞き返している間に、ブンタは大きなあくびをした。口を大きく開けてからゆっくりと閉じると、何事もなかったかのように目を閉じた。
「……本当に寝てるんじゃないの?」
「ブンタ、今日はトリミングに来たんだよ」
花子が優しく声をかけたものの、ブンタはぴくりとも動かなかった。その様子を見た彩香は、思わず吹き出した
「あはは、花ちゃん。この子、本当にすごいね。お店に入ってきた途端に寝転がるなんて」
「ブンタはもともとのんびりした子だからね」
「のんびりっていうレベルじゃない気がするけど?」
彩香はしゃがみ込んで、ブンタの顔を覗き込んだ
ところが、近くで見るブンタの顔は、想像していた以上にインパクトがあった。ぺちゃんこな鼻の周りには深いシワが刻まれ、口元には独特の太いラインが走っていた。
じっと前を見つめるその表情は、どこか深刻そうにさえ見える。彩香は思わず体をびくっと震わせた。
「……えっ?」
ブンタが少しだけ顔を上げた。そして、彩香と目が合った。
「ひゃっ!」
彩香は驚いて後ずさった。ブンタはその反応が理解できないとでもいうように一度瞬きをした。そして、再び顔を下ろした。
「は、花ちゃん……!」
「ん? どうしたの、彩香?」
「この子、怒ってないよね?」
花子は少しだけブンタを見つめてから、首を横に振った。
「全然怒ってないよ?」
「いや、今、私のことを睨んだ気がするんだけど!」
「ただ彩香のことを見ただけじゃないかな?」
「それにしては顔が怖すぎるよ!」
彩香が真剣な表情で言うと、花子は笑いをこらえきれなかった。
「ふふふ、彩香ったら」
「笑い事じゃないよ、花ちゃん!あの顔が突然目の前に現れたと思ってみてよ!」
彩香は自分の胸を軽く叩いた。その間も、ブンタは二人の会話にまったく興味を示さなかった。少し体を動かして、もっと楽な姿勢を探すと、前足の間に顎を埋めた。花子はそんなブンタの背中を優しく撫でた。
「ブンタはこう見えて、とっても魅力的な子なんだよ」
「魅力的?」
「うん、顔も個性的だし、表情も面白いし、性格もすごく穏やかなんだよ」
花子はブンタの顔を見つめながら、嬉しそうに微笑んだ。
「それに、こんなふうにのんびりしているところもかわいいでしょ?」
「うーん……花ちゃんがそう言うなら」
彩香はまだ少し距離を取ったまま、ブンタを見つめていた。ちょうどそのとき、ブンタが顔を上げて彼女を見た。
「……!」
彩香の肩が再びびくっと跳ねた。しかし、今回もブンタは何もしなかった。ただゆっくりと目を閉じてから開き、再び寝転がっただけだった
「……本当に何も考えてないんだね」
「彩香、ブンタが聞いたら傷ついちゃうよ」
「聞いても気にしなさそうだけど?」
「それは……そうかもね」
花子は小さく笑った。隣で様子を見ていた仁も、ブンタに目を向けた。ブンタはほかのワンちゃんのように慣れない場所を警戒することもなければ、人の動きに敏感に反応することもなかった。むしろ、少しでも楽そうな場所を見つけると、そこに寝転がりたくなるようだった。
(本当にのんびりしたワンちゃんだな)
仁は心の中でそう思いながら、トリミングに必要な道具を確認した。今日はワンちゃんがおとなしい分、作業も楽に進みそうだった。もちろん、仁はまだ一つの事実を知らなかったおとなしいことと、トリミングしやすいことは、まったく別の問題だという事実を。
「それじゃあブンタ、そろそろトリミングを始めようか?」
花子はブンタの前に座り、優しく声をかけた。ブンタはしばらく花子を見つめた。
「ブンタ?」
すると、ゆっくりと立ち上がった。花子がほっとしたように微笑んだ瞬間、ブンタは二歩ほど前に進むと、再び床に伏せた。
「……あれ?」
花子の笑顔が一瞬止まった。
「ブンタ、ここでトリミングするんだよ」
ブンタは尻尾を軽く一度振った。しかし、立ち上がるつもりはなさそうだった。
「あははは! 花ちゃん、この子、本当にすごいね!」
隣で見ていた彩香が吹き出した。
「さっき立ち上がったばかりじゃん! なのに、どうしてまた寝ちゃうの?」
「ブンタ、こっちにおいで」
花子が手招きすると、ブンタはゆっくりと顔を上げた。少し考えるような仕をしたあと、今度は本当に立ち上がった。そして、花子が待っている場所までのんびりと歩いてきた。
「そう、よくできたね」
花子に褒められると、ブンタは尻尾をゆらゆらと振った。しかし、トリミング台の前に着いた瞬間、再び床にドサッと座り込んだ。
「……ブンタ?」
「ぷっ!」
彩香は口元を押さえて笑った
「ごめん、花ちゃん。つい笑っちゃった」
「大丈夫だよ。ブンタは自分のペースをしっかり持っている子だからね」
花子は困ったように笑いながらも、ブンタを急かそうとはしなかった。仁も急がず、ワンちゃんの様子を見守った。無理に立たせるよりも、ブンタが安心して動けるようになるまで待つほうがよさそうだった。
しばらくすると、
ブンタは自分から立ち上がった。花子はその隙を逃さず、トリミング台の横へと誘導した。ブンタは周囲を何度か見回したあと、おとなしくその場に落ち着いた。
「よし、それじゃあ始めようか」
「フレンチ・ブルドッグは短毛種だから、毛を短くカットする必要はないよ。」
「今日は爪切りと部分的な衛生カットを中心に進めるね」
花子はそう言ってブンタの状態を確認すると、トリミングを始めた。作業中も、ブンタはほとんど動かなかった。花子が姿勢を変えてほしいときにも少しだけ協力してくれたし、見慣れない道具を怖がる様子もなかった
「あら、ブンタ。今日はおとなしいね」
花子に褒められると、ブンタは目を細めて彼女を見つめた。その様子に花子は微笑んだ
「ふふ、褒められるのは嬉しいみたいだね」
しかし、しばらくするとブンタは頭を下げた
花子が手を止めて様子を確認すると、ブンタは目を閉じて、こっくりこっくりと居眠りをしていた
「……ブンタ?」
ブンタの耳が一度ぴくりと動いた
けれど、目は開かなかった
「花ちゃん、この子、本当に寝てるよ!」
彩香が笑い出した
「トリミング中に寝ちゃうワンちゃんなんて、初めて見るかも」
「私も、ここまでリラックスしている姿を見るのは久しぶりかも」
花子は慎重にブンタの姿勢を確認してから、作業を再開した。幸い、花子が姿勢を整えてあげると、ブンタはゆっくりと目を開けた。少しだけ周囲を見回した。
あとは、おとなしく花子の手を受け入れた。おかげで、爪切りと衛生カットは大きな問題もなく終えることができた。
「よし、ここまでだよ。ブンタ、お疲れさま」
花子が声をかけると、ブンタは尻尾を一度振った
そして、トリミング台から下りた途端、床に伏せた
「……終わった途端に?」
仁が小さく呟いた
「あははは! 仁さん、ブンタって本当に自分の仕事をよく分かっているみたいですね!」
彩香はお腹を抱えて笑った
「トリミング中はおとなしくして、終わったらすぐに休むんですよ!」
「そう考えると、かなり効率的な行動ですね」
仁が真面目に答えると、彩香はさらに大きな声で笑った
「仁さんったら! そういう解釈をするんですか?」
仁は答える代わりに、床に寝転がっているブンタを見つめた。これからシャンプーとドライ、ブラッシングが残っていた。まだまだ先は長い。
「ブンタ、次はシャンプーだよ」
花子が呼びかけると、ブンタはゆっくりと立ち上がった。今度は無事にシャンプー室まで歩いてきた
仁はワンちゃんが滑らないように床を確認し、ブンタが安定して立てるように姿勢を整えた。少しずつ体を濡らしていくと、ブンタは目を細めた。
「大丈夫だよ、ブンタ。ゆっくりやるからな」
仁はいつもの落ち着いた声で話しかけた。ブンタは一度仁を見上げると、再び顔を下げた。水をかけてシャンプー剤をつけている間も、特に抵抗することはなかった。仁が体の向きを変えると、ブンタもゆっくりと動いてくれた。
(思ったより順調だな)
仁は慎重に毛を洗い流していった。 ほかのワンちゃんはシャンプー中に体を震わせたり、周囲を気にして動き回ったりすることが多い。しかし、ブンタはお湯が気持ちいいのか、目を閉じたままじっと立っていた
「ブンタ、気持ちいいか?」
仁が尋ねると、ブンタは前足を一度動かした
「……そういうことか?」
もちろん、返事はなかった。仁は小さく笑い、残ったシャンプー剤をきれいに洗い流した。シャンプーが終わると、仁はブンタの水気を取るためにタオルを持ってきた。
体を拭いている間も、ブンタはおとなしくしていた。ところが、タオルで水気を拭き取る作業が終わり、ドライヤーを準備すると、ブンタは突然体を低くした。
「ブンタ?」
仁が呼びかけると、ブンタは前足を折り曲げ、そのまま床に伏せた
「……どうしてだ?」
仁はしばらくワンちゃんを見下ろした。ついさっきまでおとなしく立っていたのに、今度はまた寝転がってしまったのだ
「ブンタ、これから毛を乾かすんだぞ」
仁が落ち着いて説明しても、ブンタは少しだけ顔を上げて、また下ろした。その様子を見た彩香が、笑いをこらえながら近づいてきた。
「ブンタ、もしかしてシャンプーが終わったから、もう休んでもいいと思ってるの?」
ブンタは返事の代わりに、ゆっくりと瞬きをした。
「……本当にそうみたいですね?」
彩香は花子を振り返りながら笑った。花子も困ったように微笑んだ
「ブンタ、もう少しだけ頑張ろうね」
花子が優しく声をかけると、ブンタはゆっくりと立ち上がった。仁はその隙に、ワンちゃんが楽に立っていられるよう姿勢を整えてあげた。
「ありがとう、ブンタ。もう少し頑張ろうな」
仁はドライヤーの風を弱めに設定し、ブンタが驚かないようにゆっくりと毛を乾かし始めた。暖かな風が体に当たると、ブンタは目を細めた。最初はおとなしく立ったまま、風を受け入れていた。
仁は体の片側から順番に、丁寧に毛を乾かしていった。ワンちゃんの様子を見ながら風の向きを調整し、ブンタが不快に感じていないか確認した。ところが、胴体の毛がある程度乾いた頃だった。
ブンタが片側に体を傾けた。
「ブンタ?」
仁が手を止めると、ブンタは前足を折り曲げて伏せた。
「……またか?」
仁の声がほんの少し低くなった。もちろん、怒っているわけではない。ただ、予想していなかった行動に少し戸惑っただけだった。
「あははは! 仁さん、ブンタはドライヤーも嫌みたいですね!」
彩香が笑いながら言った。
「嫌がっているようには見えません。ただ、楽な姿勢を探しているんだと思います」
「そのほうがすごいですよ! 今、毛を乾かしている最中なんですけど!」
仁はブンタの様子を確認した。ワンちゃんはドライヤーの音に驚いたり、不安そうにしたりしているわけではなかった。ただ床に寝転がり、気持ちよさそうに瞬きをしているだけだった。
「ブンタ、もう少しだけ立っていような」
仁が手を差し出すと、ブンタは鼻を近づけて匂いを嗅いだ。それから、ゆっくりと立ち上がった。
「そう、よくできたな」
仁はブンタが再び安定して立っていることを確認し、ドライヤーを再開した。
今度は途中で何度か休憩を挟みながら作業を進めた。ブンタが体を低くしようとすると、無理に急かすことはせず、姿勢を変えても安全かどうかを確認してから、再び毛を乾かした。
少し時間はかかったものの、そのおかげでブンタは最後までほとんど緊張することなく過ごせた。ようやく毛を十分に乾かし終えた仁は、ドライヤーの電源を切り、ほっと息をついた。
「よし、もう少しで終わりだ」
その言葉を聞いたブンタは、仁を見つめた。そして、ゆっくりと体の向きを変えた。
「……ブンタ?」
ブンタは床に伏せたまま、仁を見上げた
「まだブラッシングが残ってるぞ」
ブンタの耳が一度ぴくりと動いた。しかし、立ち上がるつもりはなさそうだった。
「ブンタ、あと少しだけ頼むな」
仁が落ち着いた声で言うと、ブンタはしばらく彼を見つめてから、のんびりと立ち上がった。
「ありがとう」
仁はブンタが安定して立てるように姿勢を整え、最後の工程であるブラッシングを始めた。
ブラッシングは、花子が爪切りと衛生カットを終えたあと、仁がシャンプーとドライを済ませてから行う、トリミングの最後の工程だった。
仁はブンタの毛の状態を確認しながら、優しくブラシを通していった。ブンタは最初、おとなしく立っていた。ブラシが毛の間を通るたびに目を細める姿は、どこか気持ちよさそうに見えた
「ブンタ、ブラッシングは気に入ったみたいだな」
仁が声をかけると、ブンタはゆっくりと尻尾を振った。その様子を見ていた花子も微笑んだ。
「よかった。あと少しで終わりだよ」
彩香はブンタの顔を見つめてから、そっと近づいた
「ブンタ、さっきはちょっとびっくりしちゃったけど……近くで見ると、かわいいところもあるね」
ブンタが顔を上げた。彩香は一瞬、体を硬くした
「……いや、かわいいっていうのは本心だからね!」
「だから、そんなに突然こっちを見ないでよ!」
「彩香、ブンタはただ、近くに来た彩香を見ているだけだよ」
花子が笑いながら言ったものの、彩香は真剣な表情で頷いた。
「分かってるよ。頭では分かってるんだけど、顔を見るとついびっくりしちゃうんだってば」
「ふふ、それでもブンタは本当に魅力的な子だよ」
花子はブンタの頭を優しく撫でた。ブンタはその手を気持ちよさそうに受け入れ、目を閉じた。
「ほら、こうやって撫でてあげると嬉しそうでしょ?」
「うーん……確かにかわいいかも」
彩香も少しずつ緊張がほぐれてきた。その間も、仁はブラッシングを続けていた。ブンタの毛を整え、体の状態を最後に確認していたときだった。ブンタが突然、体の向きを変えた。
「……ブンタ?」
仁がブラシを止めると、ブンタはゆっくりと向きを変え、そのまま横になってしまった。
「……」
仁は何も言わずにブンタを見つめた。花子もしばらく固まってしまった。そして次の瞬間、彩香の笑い声が店内に響き渡った。
「あははは! 花ちゃん、仁さん! この子、本当にすごすぎるよ!」
彩香は目尻に浮かんだ涙を拭いながら笑った
「シャンプーも終わって、ドライも終わって、ブラッシングまであと少しなのに、どうしてまた寝転がるの!」
ブンタは彩香の笑い声など気にも留めなかった。
ただ床に気持ちよさそうに寝転がり、瞬きをしているだけだった。仁は小さくため息をついた。
「ブンタ、今度こそ本当に最後だぞ」
ブンタは少しだけ顔を上げた。仁と目が合った。
しばらく沈黙が流れたあと、ブンタはゆっくりと立ち上がった。
「……ありがとう」
仁は残っている部分を慎重に整えた。最後のブラッシングまで終えて、ようやくすべてのトリミング工程が完了した。
「よし、終わりだぞ、ブンタ」
仁がブラシを置くと、花子が近づいてブンタの様子を確認した。
「お疲れさま、ブンタ、本当によく頑張ったね」
花子は満足そうに微笑んだ。ブンタは体を軽く一度震わせた。そして、床に下りた途端、再び伏せた
「……」
仁はしばらく何も言えなかった
花子も笑いをこらえようと、口元を押さえた
彩香はとうとう我慢できず、大声で笑い出した
「あはははは! トリミングが終わるのを待ってたの? 終わった途端にまた寝るの!?」
ブンタは相変わらずのんびりしていた。まるで最初から最後まで何もなかったかのように、穏やかな顔で床に顎をつけていた。
「本当に一貫してる子だね」
花子が笑いながら言った。仁はブンタを見下ろしてから、頷いた。
「はい、自分のペースがしっかりしているようです」
「仁さん、今日のトリミングはどうでした?」
彩香がいたずらっぽく尋ねると、仁は少し考えた。
「動きが少ないから楽だと思っていましたが……予想とは少し違いました」
「少しですか?」
「姿勢を変える回数が、予想より多かったです」
仁が真面目に答えると、彩香は再び笑い出した。
「あはは! つまり、おとなしいこととトリミングしやすいことは別ってことですね!」
「そういうことです」
「仁さん、真面目に答えすぎですよ!」
花子もとうとう吹き出した。普段なら、トリミングが終わったあとに道具を片付け、次のお客さんを迎える準備をしている時間だった。しかし今日はブンタのおかげで、店内には笑い声が絶えなかった。しばらくすると、ブンタの飼い主がお迎えにやってきた。
「ブンタ、トリミング頑張った?」
飼い主に呼ばれると、ブンタはゆっくりと顔を上げた。そして、のんびりと立ち上がり、飼い主のもとへ歩いていった。
「あら、毛がすっかりきれいになったわね。お疲れさま、ブンタ」
飼い主は満足そうに微笑みながら、ブンタを撫でた
花子はトリミング中の出来事を思い出し、笑った。
「ブンタは今日もとてもおとなしかったですよ。ただ、眠そうにしていることが多くて」
「ああ、そうなんです。ブンタは家でも本当によく寝るんですよ」
飼い主は慣れた様子で笑った。
「散歩から帰ってきてもすぐに寝転がりますし、おもちゃで遊んでいても、いつの間にか眠っているんです」
「ふふ、やっぱりそうだったんですね」
花子は頷いた。彩香はブンタの顔を見つめながら、小さく呟いた。
「それなら、今日はブンタにとって本当に大変な一日だったんだね。シャンプーもして、ドライもして、ブラッシングまでしたんだから」
ブンタは彩香をちらりと見た。彩香は今度こそ驚かないように頑張りながら、笑顔を見せた。
「でも、今日は本当にかっこよかったよ、ブンタ」
ブンタは尻尾を一度振った。そして、飼い主に抱き上げられると、安心しきった様子で体を預けた。
「今日は本当にありがとうございました。次回もよろしくお願いします」
「はい、またお待ちしております」
花子と仁が見送ると、飼い主はブンタと一緒にフォレストを出ていった。
チリン
扉が閉まり、店内に再び静けさが戻ってきた。彩香は扉を眺めてから、仁と花子を振り返った。
「ねえ、花ちゃん」
「ん?」
「ブンタって、家に帰ったらまた寝るのかな?」
花子は少し考えてから微笑んだ。
「たぶん、そうだと思うよ?」
「……本当にすごいね」
彩香は感心したように頷いた。
「私もあんなふうに暮らしたいな。食べたいときに食べて、寝たいときに寝るの」
「彩香は今でも結構自由に過ごしている気がするけど?」
「花ちゃん、それはちょっと違う話だよ!」
彩香が不満そうに抗議すると、花子は笑い出した。
仁は二人の会話を聞きながら、使い終わった道具を片付け始めた。彩香もすぐに隣へやってきて、タオルやブラシを整理するのを手伝った。
「仁さん、今日は本当にお疲れさまでした」
「彩香さんも手伝ってくださって、ありがとうございます」
「いえいえ。でも、仁さんもブンタみたいに、たまには休んでもいいんじゃないですか?」
「私は大丈夫です」
「またそういうこと言うんだから」
彩香はいたずらっぽく頬を膨らませた。花子はそんな二人を見つめながら、優しく微笑んだ。
今日もフォレストでは、特別な事件もなく、平和な一日が流れていた。もちろん、そんな平穏な日々の中でも、ワンちゃんたちはそれぞれ違った姿を見せてくれる。初めて会う人に心を開くまで時間が必要な子もいれば、自分らしい堂々とした姿を見せてくれる子もいる。そして、今日出会ったブンタは……
「……花ちゃん」
「ん? どうしたの、彩香?」
「私、お昼寝したい」
「ふふ、そうだね。それじゃあ、掃除を終わらせてから休もうか」
「ブンタは何もせずに寝転がってただけなのに!」
彩香の叫び声に、花子は笑い出した。仁も口元にかすかな笑みを浮かべた。フォレストの午後は、眠たがりのワンちゃんが残していった笑いとともに、ゆっくりと過ぎていった。




