第26話 ― 臆病なマルプー
フォレストの朝
窓から差し込む日差しが、店内を暖かく照らしていた。花子はトリミングテーブルの周りを片づけ、仁と彩香はトリミングに必要な道具やタオルを準備していた。
「仁くん、こっちにあるハサミは全部片づければいいの?」
彩香が棚に置かれたハサミを指さして尋ねた。
「はい、ただ、犬によって使うハサミが違うこともあるので、種類ごとに分けておくといいですよ」
「わかった、じゃあ、こっちは私が整理するね」
彩香はハサミを一つずつ確認しながら、きれいに並べていった。
フォレストで働き始めてから、彩香もしずつ店の仕事に慣れてきていた。
最初は掃除やタオルの整理といった簡単な仕事から始めたが、今ではトリミング道具の準備や、使い終わった道具の片づけも仁と一緒にこなしていた。
もちろん、まだ何もかも器用にできるわけではない。それでも、自分にできることを一つずつ覚えながら、一生懸命手伝っていた。そんな様子を見ていた花子が微笑んだ。
「二人ともありがとう。おかげで準備が早く終わりそうだよ」
「花ちゃん、私も結構役に立てるようになってきたでしょ?」
「うん、最初の頃よりずっと慣れてきたよ」
「ふふん、それじゃあ、これからも頑張らなくちゃね」
彩香は満足そうにうなずいた。
そのとき、整理したタオルを棚に置きながら、仁が口を開いた。
「花子さん、今日最初のお客さんは何時の予約でしたっけ?」
「午前十一時だよ、
もう少ししたらいらっしゃると思う」
「わかりました」
仁は時計を確認してから、最後トリミングテーブルの周りを見回した。準備はほとんど終わっていた。
花子がトリミング道具を確認し、仁と彩香が必要なものを整理しているうちに、いつの間にかお客さんを迎える時間が近づいていた。
「今日はどんな犬が来るのかな?」
彩香が期待に満ちた顔で尋ねた。
「今日の予約表にはマルプーって書いてあるよ」
花子が答えた。
「マルプー? 初めて聞いた。小さくて、ふわふわした犬なのかな?」
「うん、トイプードルとマルチーズのミックスだから、毛が柔らかくてふわふわしている子が多いよ」
「そうなんだ。楽しみだね」
彩香が笑顔でそう言った、そのときだった。
チリン
店の入り口で、小さなベルの音が鳴った。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ、フォレストへようこそ」
花子と彩香が明るい声でお客さんを迎えた。
入り口には、一人の男性が小さな犬を抱いて立っていた。犬は柔らかなクリーム色の毛に覆われており、ふわふわした毛並みの中に、マルチーズとプードルの特徴が自然に表れていた。
しかし、店に入ってきたときから、どこか不安そうな様子だった。
飼い主の胸に顔を埋めて周囲をうかがっていた犬は、花子が近づくと、さらに体を小さく丸めた。
「全身カットをお願いしたいんですが」
「はい、お名前は何というんですか?」
「ココアです」
「ココアちゃんですね。かわいい名前ですね」
花子は優しく微笑みながら、ココアに声をかけた。
「こんにちは、ココア」
しかし、ココアは花子を見るなり、飼い主の腕の中へ潜り込んでしまった。
「あら……」
花子はココアを驚かせないよう、
そっと手を引っ込めた。
飼い主は困ったように笑いながら説明した。
「すみません、この子、本当に怖がりなんです」
「家ではよくいたずらもするし、元気に走り回るんですが、知らない場所に来るとこうなってしまって」
「大丈夫ですよ、初めての場所で緊張しているんでしょうね」
「特にトリミング道具が苦手なんです」
「以前、別のお店でトリミングしてもらったときも、ハサミの音やドライヤーの音が聞こえると逃げようとして……」
「今日もちゃんと受けられるか心配で」
飼い主の声には、不安がにじんでいた。
花子はココアの様子を観察した。
飼い主の腕の中で小さな体を丸め、じっと動かずにいる姿は、ひどく緊張しているように見えた。
「そんなに心配しないでください。ココアちゃんが安心できるように、ゆっくり進めていきますね」
「ありがとうございます。それでは、よろしくお願いします」
飼い主はココアを花子に預けると、何度も振り返りながら店を出ていった。
チリン
ドアが閉まると、ココアは周囲をうかがい始めた。
花子がそっと近づくと、ココアはびくっとして体を縮めた。そして、トリミングテーブルから少し離れた隅まで小走りで移動し、そこに身を隠してしまった。
花子はそれ以上近づかず、適度な距離を保ちながら優しく声をかけた。
「ココアちゃん、大丈夫だよ。ここは怖いところじゃないからね」
しかし、ココアは顔を上げなかった。
「ゆっくり慣れていけばいいんだよ、急がなくても大丈夫だからね」
花子が優しく語りかけても、ココアは相変わらず隅で体を丸めたまま、じっとしていた。
その様子を見ていた彩香が、小さな声で言った。
「花ちゃん、ココアちゃん、まだすごく怖いみたいだね」
「うん、知らない場所に来て、かなり緊張しているみたい」
彩香は心配そうにココアを見つめた。
そのとき、仁が静かに口を開いた。
「ココアが慣れるまで、私たちはいつもどおり仕事をしてみませんか?」
「そうしましょうか?」
花子が仁を見た。
「はい、ずっとココアに近づいていたら、かえって負担になるかもしれません」
「こちらから無理に近づくより」
「ココアのほうから近づいてこられるように、待ってあげたほうがいいと思います」
花子は少し考えてから、うなずいた。
「いい考えですね。私たちの様子を見ているうちに、少しずつ慣れてくれるかもしれません」
「じゃあ、私は道具の整理を続けるね」
彩香も声を落として言った
三人はココアのことを気にかけながらも、わざと近づいたり、話しかけたりしないようにした。
仁は洗っておいたタオルを整理し始めた。
タオルを一枚ずつ取り、きれいに畳んでから棚に置いていく
ココアは相変わらず隅に隠れていた。
しかし、タオルを整理する仁の手が動くたびに、そちらへ視線を向けていた
仁はそのことに気づかないまま、作業を続けた。
すると、タオルが一枚、仁の手から滑り落ちて床に落ちた。
トンッ
小さな音がすると、ココアが顔を上げた。
床に落ちたタオルをしばらく見つめていたココアは、慎重に隅から出てきた。
そして、タオルに近づくと、前足でそっと触れた。
仁はその様子に気づき、手を止めた。どうやら、ココアはタオルに興味を持ったようだった。
仁はタオルを拾おうとしたが、少しためらった。
急に動けば、ココアを驚かせてしまうかもしれない。
仁はそのまま腰を落とし、手を引っ込めた。
ココアは一度仁を見てから、再びタオルに鼻先を近づけた。匂いを嗅ぎ、前足で何度か触っていたココアは、やがてタオルをそっとくわえた。
仁はタオルを引き寄せることもせず、その場でじっとしていた。ココアはタオルをくわえたまま数歩進み、
立ち止まった。そして、仁が自分を見ているか確かめるように顔を上げた。
仁はわざと視線を別の方向へ向けた。
ココアはしばらく迷っていたが、やがてタオルを床に置いた。
それから周囲をうかがいながら、一歩ずつ仁に近づいてきた。
仁はいつもどおり、次に使うタオルを整理していた。
ココアが近くに来ても、急に手を伸ばすことはしなかった。やがてココアは、仁の靴のそばまでやってきた。しかし、それ以上は近づかず、その場で立ち止まった。
仁はゆっくりと膝を曲げた。
ココアに手を差し出す代わりに、床に置いてあったタオルをもう一度畳み始めた。
ココアは仁の手をじっと見つめていた。
そして、そっと鼻先を伸ばし、仁の指の匂いを嗅いだ。
仁は動かなかった。
ココアはしばらく匂いを嗅いだあと、一歩後ろへ下がった。
それでも、最初のように逃げ出すことはなかった。
「ココアちゃんが自分から近づいてくるなんて、初めて見た気がします」
少し離れたところから、花子が微笑みながら言った。
「タオルが気に入ったのかな」
彩香も小さな声で同意した。
仁はココアを見つめながら、優しく声をかけた。
「大丈夫だよ。何もしないからな」
ココアは仁の声を聞いて、耳を動かした。
仁は手を伸ばさなかった。
ただ、ココアが望むだけ近づいてこられるように、じっと待っていた。
しばらくして、ココアが再び顔を上げた。
今度は仁と目が合っても、すぐに視線をそらさなかった。
「仁くん、ココアちゃんが仁くんを見てるよ」
彩香がささやいた。
「はい、そのようですね」
「少し仲良くなれたのかな?」
「まだ何とも言えませんが、最初よりは緊張がほぐれてきたように思います」
仁は静かな声で答えた。
ココアはもう一度、仁の手を見つめたあと、慎重に鼻先を近づけた。
今回も仁は動かなかった。
ココアはしばらく匂いを嗅いでいたが、再び一歩後ろへ下がった。そして、隅へ戻る代わりに、仁が整理したタオルのそばに腰を下ろした。
仁は小さく微笑んだ。
「よくできたな」
ココアはその声を聞いて顔を上げた。
花子はその様子を見つめながら、温かく微笑んだ。
「仁さん、ココアちゃん、少しずつ心を開いてくれているみたいですね」
「そうだといいんですが」
仁はゆっくりと立ち上がった。
「でも、トリミング道具を使い始めたら、また怖がるかもしれません」
「焦らないほうがいいと思います」
「そうですね、ココアちゃんの様子を見ながら進めましょう」
花子はトリミングテーブルの周りを片づけ、ココアが安心して動けるようにスペースを確保した。
仁はココアが興味を示したタオルを、トリミングテーブルの近くに置いた。
「ココアがトリミングテーブルの周りにも、少しずつ慣れてくれるといいですね」
花子はうなずいた。
「それなら、すぐにテーブルの上に乗せるより、もう少しここで過ごしてみましょうか」
三人はココアが自分から動けるように周囲を整え、そのまましばらく待った。
ココアはタオルのそばに座り、周囲を見回していた。
ときどき花子のほうを見ることもあったが、以前のように慌てて逃げ出すことはなかった。
仁がタオルをトリミングテーブルの近くに置くと、ココアはそちらを見た。
少しためらったあと、ゆっくりと立ち上がり、テーブルの近くまでやってきた
しかし、テーブルの上を見上げると、再び体を縮めた。花子はココアに近づかず、その場から
優しく声をかけた
「大丈夫だよ、ココアちゃん。ゆっくりでいいからね」
仁も低い声で語りかけた。
「怖かったら、少し休んでもいいんだぞ」
ココアは二人を交互に見つめた。
それから、しばらくテーブルの周りをうかがったあと、花子に手伝ってもらいながらトリミングテーブルに上がった。
体はまだ緊張していたが、店に入ってきたばかりの頃のように、飼い主の腕から降りようとしなかった姿とは少し違っていた。
花子はココアの毛を確認した。
「それじゃあ、カットから始めるね」
ハサミを用意すると、ココアの体が再びこわばった。
ハサミが動く音が聞こえるたびに耳が垂れ、小さな体がびくっと動いた。
花子はハサミをいったん置いた。
「ココアちゃん、大丈夫だよ」
「少しずつやっていこうね」
花子はココアが落ち着くのを待ってから、少しずつ毛を整え始めた。
ハサミが近づくたびに、ココアは不安そうな目で
花子を見つめた。
花子は無理に作業を進めなかった。
毛を整えている途中でココアが緊張すると、いったん手を止め、落ち着いてから次の部分に取りかかった。
仁は隣でココアの反応を見守りながら、必要なタオルを準備していた。
彩香もトリミング道具を手渡したり、使い終わったものを片づけたりしながら、二人を手伝った。
「花ちゃん、これ、ここに置けばいい?」
「うん、ありがとう、そっちに置いてくれる?」
彩香は花子が手を伸ばしやすい位置に道具を置いた。
それから、ココアを見つめながら静かに声をかけた。
「ココアちゃん、もう少し頑張ろうね」
ココアは彩香の声に耳を動かしたが、まだ緊張した表情を浮かべていた。
花子は焦らずにカットを続けた。
いつもより少し時間はかかったが、ココアを必要以上に不安にさせないことが何より大切だった。
ちょき
ちょき
ようやくココアのカットが終わった。
花子はハサミを置き、ココアの様子を確認した。
「ココアちゃん、カットは終わったよ。本当によく頑張ったね」
ココアは顔を上げた。
花子がゆっくりと手を引くと、ココアも少しずつ体の力を抜いた。
「仁さん、次はシャンプーをお願いします」
「はい、わかりました」
仁はココアをそっと抱き上げ、シャンプーをする場所へ移動した。ココアは再び体をこわばらせたが、仁がゆっくり動くと、激しく抵抗することはなかった。
仁はココアをシャンプー台に下ろす前に、少し立ち止まった。
「ココア、これからシャンプーするからな。ゆっくりやろう」
ココアは仁を見上げた。
仁は水の温度を確かめてから、足元から少しずつ濡らしていった。
水が触れると、ココアは驚いて足を上げた。
仁はすぐに手を止めた。
「大丈夫だよ。びっくりしたな」
ココアが周囲を見回し、落ち着くまで待ってから、仁は再びゆっくりと水をかけた。
今度もココアは足を上げたが、最初ほど大きく驚くことはなかった。
仁は水の勢いを調整しながら、少しずつ体を洗っていった。
ココアが体を縮めるたびにいったん手を止め、緊張がほぐれると再びシャンプーを続けた。
花子は隣でココアの様子を確認していた。
「仁さん、今は大丈夫そうですね」
「はい、でも、引き続き様子を見ていきます」
仁はココアの体を優しく支えながら、
慎重に洗っていった。
最初は小さな水音にも驚いていたココアだったが、時間が経つにつれて、少しずつ慣れてきた。
シャンプーが終わる頃には、仁が体を支えていれば、比較的おとなしく立っていられるようになっていた。
「ココア、シャンプーは終わったよ。よく頑張ったな」
仁がそう声をかけると、ココアは顔を上げた。
仁はタオルで水気を拭き取ってやった。
ココアはタオルが体に触れると、
少し鼻先を動かした。
そして、タオルに顔をそっとこすりつけた。
「タオルが気に入ったみたいですね」
花子が笑いながら言った。
「はい、最初もタオルに興味を示していました」
仁はココアの水気を丁寧に拭き取った。
次はドライヤーだ。
仁がドライヤーを用意すると、ココアは機械から目を離せなくなった。
電源を入れる前から、体を縮めていた。
仁はすぐにドライヤーを作動させなかった。
「ココア、ゆっくりやるからな」
仁はドライヤーをココアから離した状態で、短く作動させた。
ウィーンという音が聞こえると、ココアは体を縮めた。
仁はすぐに電源を切った。
「大丈夫だよ、まだ怖いんだな」
仁は少し待ってから、もう一度短く音を聞かせた。
ココアはまだ緊張していたが、仁が音を止めると、少しずつ落ち着きを取り戻した。
仁はその反応を確かめながら、弱い風を当て始めた。
ココアが驚けば止め、落ち着けば再び始める。
それを何度か繰り返すうちに、ココアはドライヤーの音が聞こえても、最初のように大きく体を震わせることはなくなった
「仁くん、本当にゆっくり進めてるね」
彩香が隣から声をかけた。
「ココアが怖がっていますから」
「そっか、仁くんが待ってくれてるって、ココアにも少しずつ伝わるといいね」
仁は返事をせず、ココアの毛を乾かすことに集中した。
風が当たっている間、ココアは何度も周囲を見回したが、仁が体をしっかり支えていると、少しずつ落ち着いていった。ようやくドライヤーの電源を切ると、ココアは耳を動かしながら仁を見つめた。
「終わったぞ、ココア」
仁は優しく背中を撫でた。
ココアはしばらく仁の手を見つめていた。
そして今度は、その手を避けなかった。
花子はその様子を見て微笑んだ。
「ココアちゃん、少しずつ仁さんを信頼し始めているみたいですね」
「そうだといいですね」
仁は最後にブラシを用意した。
ブラシを見ると、ココアは再び緊張したように体を縮めた。仁はすぐにブラシを毛に当てなかった。
まずはココアがブラシを確認できるよう、近くに置いた。ココアはブラシを見つめたあと、顔をそらした。
仁は急がなかった。
少し待ってから、毛が絡まっていない部分から軽くブラッシングを始めた。
ブラシが毛を通ると、ココアは体を少し動かした。
仁はブラッシングを止めた。
ココアが再び落ち着くと、ゆっくりとブラシを
動かした。一度ブラッシングして、少し休み、また
ブラッシングする。それを繰り返すうちに、ココアは次第に緊張を解いていった。
最後に耳の周りの毛を整えるときも、仁はココアの反応を注意深く見守った。
ブラッシングが終わった頃には、ココアは最初とは違い、おとなしく座っていた。
「ココア、これで全部終わりだよ」
仁はブラシを置いた。
ココアは仁を見つめた。
そして、そっと体を動かし、仁の隣に座った。
「……!」
花子と彩香は驚いたように顔を見合わせた。
店に入ってきたばかりの頃、ココアは飼い主の腕から降りようともしなかった。
花子が近づけば身を隠し、トリミング道具を見るだけでも緊張していた。そんなココアが今は、仁の隣にじっと座っている。
仁はココアを驚かせないよう、動きを止めた。
「よく頑張ったな、ココア」
ココアは仁の手に、そっと鼻先を近づけた。
仁は小さく笑った。
「今日は本当によく頑張ったな」
花子は温かな表情でココアを見つめた。
「ココアちゃん、今度は私とももう少し仲良くなろうね」
花子が慎重に手を差し出すと、ココアは少しためらった。しかし今度は、最初のように逃げ出すことはなかった。ココアは花子の手を見つめ、少しだけ首を傾げた。花子はそんな小さな反応さえ嬉しそうに、微笑んだ。しばらくすると、ココアを迎えに来た飼い主が店に入ってきた。
チリン
「ココア!」
飼い主の声を聞くと、ココアは顔を上げ、
尻尾を振った。
そして、飼い主のほうへ歩いていった。
飼い主はココアを抱き上げ、ほっと息をついた。
「うちのココア、ちゃんとトリミングできた?」
ココアは飼い主の腕の中で、安心したような表情を浮かべていた。
飼い主はココアの毛並みを確認し、驚いたように笑った。
「本当にきれいになりましたね。それに、今日は表情もずいぶん落ち着いているみたいです」
「ココアちゃんが少しずつ慣れていけるように、ゆっくり進めました」
花子が説明した。
「最初はかなり緊張していましたが、最後には仁さんの隣にじっと座っていたんですよ」
「本当ですか?」
飼い主は仁を見た。
「はい、ココアが自分から近づいてきてくれました」
仁は淡々と答えた。
飼い主はココアを見つめ、ぱっと笑顔になった。
「本当によかったです。ココアが知らない人に自分から近づくことなんて、めったにないんですよ」
「ココアが勇気を出してくれたおかげです」
仁の言葉に、飼い主は頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございました。次もぜひ、こちらに連れてきますね」
「はい、またお待ちしています」
花子は飼い主を見送った。
チリン
ドアが閉まると、店内は再び静かになった。
彩香が仁のそばにやってきた。
「仁くん、今日は本当にお疲れさま」
「彩香さんも、手伝ってくださってありがとうございました」
「もう、私は道具を準備したり片づけたりしただけだよ」
「それも必要な仕事です」
仁が淡々と答えると、彩香は笑った。
「仁くんって、褒められるのが本当に苦手だよね」
「そういうつもりではありません」
「ふふっ、はいはい」
花子も二人のところへやってきた。
「仁さん、今日は本当によく頑張ってくれましたね、最後にココアちゃんが仁さんの隣に座っているのを見て、私も嬉しかったです」
「ココアが自分から近づいてきてくれたんです。俺はただ待っていただけです」
「その『待ってあげる』ことも、大切なんですよ」
花子は優しく微笑んだ。
仁は少し考えてから、うなずいた。
「はい、次もココアが安心してトリミングを受けられるといいですね」
「きっと大丈夫ですよ」
花子が答えた。
彩香は二人を交互に見つめ、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「花ちゃん、仁くんって犬には本当に優しいよね」
「うん、仁さんはいつも犬たちを丁寧にお世話してくれるから」
「じゃあ、仁くんは花ちゃんにも同じくらい優しくしてくれるの?」
「あ、彩香!」
花子の顔がほんのり赤くなった。
彩香は思わず吹き出した。
「あら、どうして? ただ聞いただけなのに」
「そういうこと聞かないでよ」
「はーい、わかりました」
彩香は相変わらず笑いをこらえきれない様子だった。
仁は二人の会話に気づかないまま、使い終わった道具を片づけ始めた。
彩香もすぐに仁のそばへ行き、一緒に片づけを手伝った。
「仁くん、こっちは私が片づけるね」
「ありがとうございます。それじゃあ、俺はタオルを整理します」
二人はそれぞれ担当する作業を始めた。
花子はトリミングテーブルの周りを確認し、次のお客さんを迎える準備をした。
今日やってきたココアは、とても怖がりな犬だった。けれど、焦らずに待ってあげると少しずつ勇気を出し、最後には仁の隣にじっと座れるようになった。その小さな変化は、花子にとっても嬉しいことだった。
これからもフォレストには、さまざまな犬たちがやってくるだろう。活発でいたずら好きな犬もいれば、知らない人を警戒する犬もいる。そして、今日のココアのように、小さな勇気を出すまでに時間が必要な犬もいるだろう
仁は、そんな犬たちと出会うたびに、それぞれのペースに合わせて待ってあげたいと思った。
心を開く方法は、犬によって違うのだから。
窓から暖かな日差しが差し込んでいた。
仁と彩香は片づけを終え、花子は次の予約を確認した。
フォレストの一日は、そうして再び穏やかに流れていった。




