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第24話 ―短い脚の犬

フォレストの朝は、今日もいつもと変わらなかった。

店のドアを開けると、暖かな日差しが差し込み、窓を開けておくと、涼しい風が店内をゆっくりと通り抜けていった。

花子はカウンターに置かれた予約表を確認していた。


その隣には彩香が立っていた。

いつもと違う点が一つあるとすれば、彩香がフォレストのエプロンを着けていることだった。


エプロンは花子が新しく用意してくれたものだ。

彩香はエプロンのポケットを指でいじりながら、鏡に映る自分の姿を眺めていた。

「どう?」

花子が顔を上げた。

「ん?」

「これ」

彩香がエプロンを指さした。

「似合ってる?」

花子はしばらく彩香を見つめた。


そして、微笑んだ。

「うん、かわいいよ」

「本当?」

「うん」

「えへへ」


彩香はエプロンをいじりながら言った。

「これを着ると、本当にここで働いてる人みたいだね」

「今日から彩香もフォレストのスタッフだからね」

花子が笑った。

彩香もつられて笑った。


昨日までの彩香は、フォレストに滞在しているお客さんと変わらなかった。

けれど、今日からは違う。

彩香は、フォレストにお世話になっている間だけでも、花ちゃんの役に立ちたいと思っていた。


そのことを花子に話すと、

「それなら、フォレストのお仕事を手伝ってみるのはどう?」

と提案してくれたのだ。

もちろん、彩香がいきなりトリミングをできるわけではない。

そのため花子は、彩香にもできる簡単な仕事を任せることにした。

店内の掃除

タオルの整理

トリミング道具の周りの片付け。

そして、ワンちゃんたちと遊ぶことまで。

それくらいなら自分にも十分できそうだと、彩香は思った。


何より、フォレストで暮らしている間、何もせずに花子のお世話になり続けるよりも、自分にも何かできることがしたかった。

「でも、本当にいいの?」

花子が尋ねた。

「うん」


彩香は頷いた。

「私だって、ずっとお世 になりっぱなしってわけにはいかないでしょ?」

「そんなふうに思わなくてもいいのに」

「それでも、私にできることはしたいんだ」


彩香は笑った。

「それに、ワンちゃんたちと遊べるんでしょ?」

「それって、お仕事じゃなくて、彩香が好きでやってるだけじゃない?」

「それも立派なお仕事だよ」


彩香は真剣な顔で言った。

「ワンちゃんたちの幸せを守る、大切なお仕事なんだから」

「ふふっ」

花子が笑った。


「それじゃあ、今日からよろしくね」

「うん、こちらこそよろしく」


彩香はエプロンを軽く引っ張った。

「頑張ってみるね」


こうして、彩香のフォレストでの初勤務が始まった。

花子はカウンターに置かれた予約表を確認していた。

その隣では、彩香が床を掃いていた。

「今日はいい天気だね」

花子が窓の外を眺めながら言った。

「本当だね」

彩香もほうきを止め、窓の外を眺めた。

「こんな日は、ワンちゃんたちも気分がよさそう」

「そうかもしれないね」

そのとき、店の奥から小さな足音が聞こえてきた。


二人が振り返ると、モチがゆっくりと歩いてきていた。

モチは花子の足元までやってくると、その場にちょこんと座った。

「モチもおはよう」

花子は笑いながら、モチの頭を撫でてあげた。


「ワン!」


モチは嬉しそうに、しっぽをふりふりと振った。

彩香もほうきを脇に立てかけ、モチに近づいた。


「モチちゃん!」


彩香がしゃがむと、モチは首をかしげた。

「今日もかわいいね」

頭を何度か撫でてあげると、モチはそのまま彩香の手に顔をすり寄せた。

「私と遊びたいの?」

「ワン!」

「ふふっ、あとで遊んであげるね」

彩香はもう一度、モチの頭を撫でた。

「おはようございます」

準備を終えた仁が、店の奥から歩いてきた。


彩香は仁を見ると、何かを思いついたように笑みを浮かべ、近づいていった。

「仁くん」

「はい?」

仁が足を止めると、彩香はその場でくるりと一回転した。

「私、どう?」


仁は彩香を見つめた。

彩香はいつもと違い、フォレストのエプロンを着けていた。


仁はしばらく彩香を眺めてから、頷いて言った。

「似合っています」

「本当?」

「はい」


彩香の顔がぱっと明るくなった。

「じゃあ……かわいい?」

「……え?」


仁の動きが止まった。

彩香はいたずらっぽく微笑み、もう一度尋ねた。

「かわいいかって聞いてるの」

「それは……」


仁は突然、視線をそらした。

そんな仁の反応を見て、彩香は面白そうに笑った。

「どうして答えられないの?」

「いえ、その……」


仁はしばらく考え込んだ。

そして、結局小さな声で答えた。

「……かわいいです」

「ふふっ」

彩香は満足そうな顔をした。

「でしょ?」

その様子を隣で見ていた花子の表情が、わずかに曇った。


「……」


彩香が花子を見た。

「花ちゃん?」

「えっ?」

「どうしたの?」

「な、何でもないよ?」


花子は無理に笑顔を作った。

けれど、いつもより少しぎこちない笑顔だった。

彩香は花子の顔をしばらく眺めてから、口元をつり上げた。


「もしかして、嫉妬してるの?」

「えっ?」


花子の顔が一瞬で赤くなった。


「そ、そんなわけないでしょ!」

「本当に?」

「本当です!」

「でも、顔が赤くなってるよ?」

「赤くなってない!」

花子は慌てて顔をそらした。


仁は二人を交互に見つめながら、何が起きているのか分からないといった表情で立ち尽くしていた。


そのとき、彩香が仁に近づき、こっそり耳打ちした。

「早く花ちゃんのほうがもっとかわいいって言って

あげて」

「そうしないと、花ちゃんが泣いちゃうかもよ?」

「はい!?」


仁は慌てたものの、花子のところへ歩み寄った。

「花子さん」

「……何ですか、仁さん」

花子の声は、いつもより少し鋭かった。

「花子さんが一番かわいいです」

「……えっ!?」

花子のこわばっていた表情が、一瞬でほころんだ。

「本当ですか?」

「はい」


花子はしばらく仁を見つめてから、小さく笑った。

彩香は二人を交互に眺めた。

そして、いたずらっぽい笑みを浮かべながら、花子に耳打ちした。

「やっぱり花ちゃんは仁くんのことが好きなんだね」


花子は顔を赤くして慌てた。

「そ、そんなことないよ、彩香!」

「ふふっ」

彩香は笑いをこらえながら、自分のエプロンを見下ろした。

「でも、かわいいって言ってもらえたから、これで満足しなきゃね」

「……」


花子は頬をぷくっと膨らませた。

「私だってかわいいのに」

「花ちゃん?」

「な、何でもないよ」


花子はそう言って顔をそらした。

彩香はとうとう我慢できなくなり、笑い声を上げた。

「あははは!」

「どうして笑うの!」

「だって、花ちゃんがかわいいんだもん」

「もう……」


フォレストの朝は、そんなふうに少し賑やかに始まっていた。

そのときだった。


チリン


店のドアに取り付けられたベルが鳴った。

「いらっしゃいませ」

花子が立ち上がった。

ドアを開けて入ってきたのは、一人のお客さんと小さなワンちゃんだった。

お客さんが抱いているワンちゃんは、ほかの犬たちとは少し違った姿をしていた。

細長い胴体。

そして、体に比べてやけに短く見える足。

茶色い毛並みには、黒い毛も混じっていた。


「こんにちは」

お客さんが挨拶した。

「今日、予約していたんですけど」


花子は予約表を確認してから、微笑んだ。

「ワンちゃんのお名前は、ソラちゃんで合っていますか?」

「はい」


花子はソラを見つめた。

「ソラちゃん、こんにちは」

ソラは花子を見た。

けれど、すぐに顔をそらし、飼い主の腕の中に顔をうずめてしまった。

「あら」


花子は少し驚いた顔をした。

「人見知りする子なんですね」

「はい、知らない人がすごく苦手なんです」

飼い主は笑いながら答えた。

「初めて行く場所では、いつもこうなっちゃうんです」

「大丈夫ですよ」


花子は無理に手を伸ばそうとはしなかった。

「ゆっくり慣れてもらえばいいですから」

その様子を隣で見ていた彩香は、ソラをじっと眺めていた。


そして、しばらくしてから、とても真剣な顔で言った。

「それにしても……」

「ん?」

花子が彩香を見た。

「足、本当に短いね」

「あ……」

花子も改めてソラを見た。

「確かに」

「かわいい!」

彩香の目がきらきらと輝いた。

「体はすっごく長いのに、足はこんなに短いんだね」


彩香は、自分の手でソラの胴体と足の長さを比べるように眺めた。

「こういう子、初めて見たかも」

「ダックスフンドだからね」

花子が笑った。

「でも、実際に見ると不思議な感じがするでしょ?」

「うん!」


彩香はソラを見ながら言った。

「あの短い足で、本当に速く走れるの?」

「すごく速いですよ」

飼い主が笑いながら答えた。

「家では本当にすごい勢いで走り回っているんです」

「本当?」

彩香は驚いた顔をした。

「そんなに短いのに?」

「はい」

「見てみたいなあ」

「彩香」


花子が笑った。

「今すぐ走らせちゃ駄目だよ」

「分かってるよ」

彩香は唇を尖らせた。

「ただ気になっただけだもん」

ソラはそんな彩香を見つめたあと、再び飼い主の腕の中に顔を隠した。

「まだ私と仲良くする気はないみたいだね」

彩香は笑った。

「大丈夫、そのうち仲良くなればいいんだから」

無理に近づこうとしない彩香の姿を見て、花子は微笑んだ。


そのとき、店の奥から足音が聞こえてきた。

「花子さん」

仁だった。


エプロンを着けた仁が、店の奥から歩いてきた。

「どうしました?」

「あ、仁さん」

花子はお客さんとワンちゃんを指さした。

「今日最初のお客さんです。ソラちゃんですよ」

仁はソラを見つめた。

ソラも仁を見た。


その瞬間、ソラの体がわずかにこわばった。

彩香はその様子を見て、くすっと笑った。

「ソラちゃん、大丈夫だよ」

けれど、ソラは仁の大きな体を見て、少し緊張しているようだった。


仁はそんなソラを見つめると、ゆっくりと腰を落とした。

大きな体をできるだけ低くし、ソラと目線を合わせた。

そして、手を伸ばすことなく、じっとその場にとどまった。

「……こんにちは」

短い挨拶だった。

ソラは動かなかった。


仁も動かなかった。

しばらく時間が過ぎた。

ソラが少しだけ鼻先を出した。


くんくん


仁の匂いを確かめるように、慎重に鼻を動かしている。

「仁くん」

彩香が小さな声で呼んだ。

「はい」

「ただ待ってるの?」

「はい」

「どうして手を出さないの?」

「怖がっているようなので」


仁はソラから目を離さずに答えた。

「自分から近づいてくるまで待ったほうがいいと思います」

彩香はしばらく仁を見つめてから、頷いた。

「そっか」


花子も微笑んだ。

やがて、ソラが一歩前に出た。

そして、もう一歩

仁はそのまま動かなかった。

ソラは仁の指先の近くまでやってきた。

くんくん


仁はとてもゆっくりと手を下ろした。

ソラが逃げないことを確かめてから、指先で頭をそっと撫でた。


一度

そして、もう一度

ソラはじっとしていた。

「あれ?」

彩香が目を丸くした。

「仁さんには大人しいんだね」

「そうみたいですね」


仁はソラの頭を優しく撫でた。

「それじゃあ、始めましょうか。トリミングテーブルまで運んでもらえますか?」

花子が言った。

仁は頷いた。

「はい」


仁はソラを抱き上げ、トリミングテーブルの上にそっと下ろした。

「仁さん、ありがとうございます」

「いえ、ここからは花子さんの出番ですね」

「はい、ソラちゃん、これから始めるね」


花子がソラのトリミングを始めた。

ソラは最初、緊張しているのか体をこわばらせていた。

けれど、花子が少しずつ毛をカットしながら優しく声をかけていくと、ソラの緊張も徐々にほぐれていった。


こうしてソラは、少しずつ、少しずつ、落ち着いた気持ちで毛をカットしてもらった。

彩香は、ソラをトリミングしている花子を眺めていた。

(やっぱり花ちゃんは、何かに集中しているときが一番きれいだな)


そんなことを考えていたときだった。


サク

サク


「はい、ソラちゃん。終わったよ。よく頑張ったね」

「ワン!」


ソラのカットが終わった。

「もう終わりなの?」

花子は首を横に振った。

「ううん、これからシャンプーだよ」

「仁さん、お願いします」


隣で待っていた仁が、ソラをそっと抱き上げながら言った。

「お任せください」

「おお! 頼もしいね、仁くん」

「そうでしょ、花ちゃん?」


彩香は花子の脇腹をつつきながら言った。

「うん、仁さんは頼りになる人だよ」

「えっ? 何の話をしていたんですか?」


花子は少し慌てた様子で、

「何でもないですよ。頑張ってくださいって言っただけです」

と答えた。

「はい!」


こうして仁が店の奥へ向かうと、花子は考えた。

(普通に言えばよかっただけなのに、どうして恥ずかしがっちゃったんだろう?)


理由は分からなかったけれど、なぜか胸がどきどきする気がした。

彩香はそんな花子の様子を見て、そっと微笑んだ。

(やっぱり、ここで働くことにしてよかったなあ)

(花ちゃんの新しい一面が、たくさん見られるんだもん)


彩香は心の中でそう思った。


一方、シャンプーのために店の奥へ移動したソラは、再び緊張していた。


仁がソラを下ろし、浴槽に入るように促した。

ソラは少しずつ浴槽に近づいていったが、緊張しているのか、近づくにつれて足取りが遅くなっていった。


そのとき、いつの間に来たのか、彩香がソラを見ながら笑った。

「ソラちゃん」

ソラが彩香を見た。

「もう少しだけ頑張ってね」


ソラは答えなかった。

「終わったら、私が遊んであげるから」

その言葉が伝わったのかどうかは分からない。

それでも、ソラは少しずつ前へ進んだ。


仁はソラをそっと抱き上げた。

そして、浴室の中へ入った。


シャンプーは、思ったよりも順調に始まった。

最初は水の音に驚いたソラが体を縮こまらせたものの、仁は決して急がなかった。

手で水温をゆっくりと確かめてから、少しずつソラの体を濡らしていった。

「大丈夫だ」

仁が言った。

「ゆっくりやるからな」

ソラは仁を見つめた。


仁は片手でソラの体を支えながら、もう片方の手で慎重に洗っていった。

最初は緊張していたソラも、少しずつ体の力を抜き始めた。


浴室の外では、花子がその様子を見守っていた。

彩香も隣に立っていた。

「仁さん、すごく手慣れてるね」

彩香が言った。

「うん」


花子は頷いた。

「最初はシャンプーするのも、けっこう大変そうだったのにね」

「今はすごく自然にやってるね」

「それだけ頑張ってきたからね」


花子は笑った。

「仁さんも、たくさん努力してきたんだよ」

彩香は、仁がソラを洗っている様子を眺めた。

そして、自分が着けているエプロンを一度見下ろした。


今日、初めてフォレストで働き始めたばかりなのに、思っていた以上に自然とこの場所に溶け込めている気がした。


犬をトリミングする仁

予約表を確認し、お客さんを迎える花子。

そして自分は、その隣で掃除をしたり、ワンちゃんたちと遊んだりしている。


彩香は口元に小さな笑みを浮かべた。

シャンプーが終わると、仁はソラの体をきれいに拭いてあげた。

そして次に、ドライヤーを用意した。

ドライヤーのスイッチを入れると、ウィーンという音が浴室に響いた。

ソラはびっくりして、体を縮こまらせた。

仁はすぐにドライヤーを近づけなかった。


「大丈夫だ」


少し離れたところから風を当て、ソラの反応を

確かめた。

ソラが少し落ち着くと、

ゆっくりと距離を縮めていった。


「よく頑張ってるな」


仁の声は低く、落ち着いていた。

彩香はドアの外から、その様子を見ていた。

「仁さんって、ワンちゃんに話しかけるときは声が変わるね」

「そう?」

花子が尋ねた。

「うん」


彩香は笑った。

「普段は無口なのに、ワンちゃんにはすごく優しい声で話しかけるんだね」

「ふふっ」

花子が笑った。

「仁さんはワンちゃんが好きだからね」

「それは私も知ってるよ」

彩香は頷いた。

「でも、やっぱり不思議だなあ」


ドライヤーを使い終える頃には、ソラもかなり落ち着いていた。

仁はドライヤーを置いた。

「よし、終わりだ」


今度はソラも逃げなかった。

仁は最後にソラの様子を確認した。

そして、ブラシを手に取った。

「次はブラッシングだね」

彩香が言った。

「うん」

花子が答えた。


仁はソラの毛をゆっくりとブラッシングし始めた。


一度

そして、もう一度

絡まった毛を無理に引っ張ることなく、少しずつほぐしていった。

ソラはじっと立っていた。

やがて、そっと目を閉じた。

「眠くなっちゃったのかな」


彩香が笑った。

「さっきまで怖がってたのにね」

「仁さんが安心させてくれたからかな」

花子が言った。


仁は何も言わず、ブラッシングを続けた。

ブラシがソラの長い胴体に沿って動いていく。

そして、ブラッシングが終わると、仁はブラシを置いた。

「終わりました」

ソラは体を一度ぶるぶると振った。

それから、仁の足元へ近づいていった。

そして、仁の足にそっと体をすり寄せた。


「……」


仁はソラを見下ろした。

彩香が思わず笑い声を上げた。

「すっかり仲良くなったね!」

「そうみたいですね」

「ソラちゃん、仁さんのことが好きなんだね」


仁はしばらくソラを見つめてから、頭を撫でた。

「私もソラのことが好きになったみたいです」

「ふふっ」

花子が笑った。

「仁さんらしいですね」


ソラの飼い主は、仁に何度もお礼を言った。

ソラは最後まで仁から離れようとしなかった。

飼い主がソラを抱き上げたあとも、ソラはしばらく仁を見つめていた。

そして、お客さんが店の外へ出ていくと、彩香は手を振った。


「また来てね、ソラちゃん!」


ソラは飼い主の腕の中から、ひょこっと顔を出した。

その姿を見て、彩香は笑った。

お客さんが帰ったあとも、彩香はしばらくドアのほうを眺めていた。


「かわいかったなあ」

「そうだね」


花子が言った。

「特に足がね」

「うん!」

彩香は頷いた。

「短い足が本当にかわいかった!」

「そんなに気に入ったの?」

「うん!」


彩香は笑った。

「また来てくれるといいな」

「それなら、今度は彩香が仲良くなればいいんじゃない?」

「次はちゃんと仲良くなれそうな気がする!」

彩香は自信満々に言った。


そのとき、モチが彩香の足元へやってきた。

「モチ、どうしたの?」

「ワン!」

「あなたも遊んでほしいの?」


モチはしっぽを振った。

彩香は笑いながら、モチを抱き上げた。

「分かった。今日はモチと遊んであげるね」

彩香がモチを抱いて店の奥へ歩いていくと、モチは嬉しそうにしっぽを振った。


花子はその様子を眺めながら、小さく笑った。

彩香がフォレストで働き始めた初日だったが、彩香はよく頑張ってくれていた。

休憩時間になると、店内はしばらく静かになった。

花子はカウンターに座って予約表を整理し、仁は少し休んでいた。

彩香はしばらくモチと遊んでいたが、やがて立ち上がった。

「花ちゃん、仁くん、ちょっと待っててね」

花子が顔を上げた。

「ん?」

「飲み物でも作ってあげるよ」

「飲み物?」

「うん」


彩香は笑った。

「急にどうしたんですか?」

「なんとなく。暇だったから」

彩香はキッチンのほうへ入っていった。


仁はその姿を眺めた。

「彩香さんは飲み物を作れるんですか?」

「私も知らなかったよ」


花子が笑った。

「前に、ときどき自分で作って飲むって言ってた気はするけど」

しばらくすると、香ばしいコーヒーの香りがフォレストの中に広がった。

仁が顔を上げた。

「コーヒーの香りがしますね」

「うん」


奥から彩香の声が聞こえた。

「もう少し待っててね」

ほどなくして、彩香がカップを三つ持って戻ってきた。

「じゃーん!」

花子の前に一杯

仁の前に一杯

そして、自分の前にも一杯

「カフェラテだよ」


花子はカップを覗き込んだ。

「かわいい!」

カップの上には、ふわふわのミルクフォームで肉球の形が描かれていた。

「こんなこともできたんだね」

「そんなに難しくないよ」

彩香は椅子に座った。

「でも、味は保証できないけどね」

「それじゃあ、まずは飲んでみないとね」


花子は笑いながらカップを持ち上げた。

一口

そして、目を大きく見開いた。

「……おいしい!」

「本当?」

彩香の顔がぱっと明るくなった。

「うん。本当においしいよ!」

「よかったあ」


彩香はほっと息をついた。

「仁さんも飲んでみて」

仁は静かにカップを持ち上げた。

一口

少し考えるような様子を見せてから、頷いた。

「おいしいです」

「本当?」

「はい」


仁はもう一口飲んだ。

「ほどよい甘さで、おいしいですね」

「でしょ?」

彩香は笑った。

「これでも、けっこう練習したんだよ」


花子は仁を見た。

「仁さんが二回もおいしいって言うんだから、本当においしいんだね」

「それなら、今度はお客さんにも出せるかもしれないね」

花子が冗談っぽく言った。


彩香は目を丸くした。

「お客さんに?」

「うん」

「ワンちゃんを預けて待っている間に、こういう飲み物が一杯あったらいいと思わない?」

花子は少し考えた。

「いいかもしれないね」


仁もカップを置いた。

「私もいいと思います」

「仁さんまで賛成なの?」

花子が笑った。

「はい」

「じゃあ、本当にやってみようかな?」

「ゆっくり考えてみましょう」


仁が答えた。

花子はその言葉を聞いて笑った。

「そうだね。まだ考えてみるだけだけど」

彩香はカップを持ち上げながら言った。

「でも、フォレストでこういうのを出したら楽しそうだね」

「でしょ?」

「うん!」


彩香は店内を見回した。

「ワンちゃんがトリミングを受けている間、ここでコーヒーを飲みながら待って……」

「小さなカフェみたいだね」

花子が言った。

「うん!」


彩香は笑った。

「そしたら、私が飲み物担当ね!」

「本当に?」

「うん!」

「じゃあ、仁さんは?」

花子が仁を見た。


仁は少し考えた。

「私は……ワンちゃんたちを洗います」

彩香は吹き出した。

「あははっ! やっぱり仁さんらしいね!」

花子も笑った。

「本当だね」


フォレストの中に笑い声が広がった。

仁は二人を眺めながら、小さく微笑んだ。

そして、窓の外に目を向けた。

暖かな日差しが降り注いでいた。

店内にはコーヒーの香りがほのかに漂っている。

少し前までソラがいた場所には、小さな毛が何本か残っていた。

彩香は立ち上がり、ほうきを手に取った。

「あっ」

「どうしたの?」

花子が尋ねた。


彩香は時計を指さして答えた。

「もうすぐ次の予約の時間だよ、花ちゃん」

「本当だ、もうそんな時間なんだね」

彩香は笑いながら片付けを始めた。


仁も席から立ち上がった。

「私も手伝います」

「大丈夫だよ、仁くん」

彩香は首を横に振った。

「これくらいなら私にもできるから」

「そうですか?」

「うん!」


彩香はほうきを動かしながら言った。

「今度、また飲み物を作ってあげるね」


仁は頷いた。

「楽しみにしています」

「ふふっ」


花子は二人を眺めながら微笑んだ。

しばらくして、店内の片付けが終わった。

彩香はほうきを隅に立てかけ、エプロンについたほこりを払った。

そして、椅子に腰を下ろした。

朝からずっと動き回っていたせいか、顔には少し疲れが浮かんでいた。


花子はそんな彩香を見つめ、静かに声をかけた。

「彩香」

「ん?」

「今日一日働いてみて、どうだった?」

彩香は少し考えた。

そして、自分のエプロンを見下ろした。

「うーん……」

最初は、大したことのない仕事だと思っていた。

掃除をして、タオルを整理して、ワンちゃんたちと遊んでいればいい。


けれど、実際に一日を過ごしてみると、思っていた以上にやることが多かった。

ワンちゃんが来たら、笑顔で迎えてあげる。

トリミングが終わったら、周りを片付ける。

タオルが足りているか確認する。

ワンちゃんが退屈そうにしていたら、少し遊んであげることもある。

そんなふうに一日を過ごしてみると、確かに疲れはした。


けれど、嫌ではなかった。

むしろ、不思議と心が落ち着いた。

「思っていたより、よかったよ」

彩香は笑った。

「ううん」


少し言葉を切ってから、もう一度口を開いた。

「よかったどころか……すごく楽しかった」

花子が微笑んだ。

「本当?」

「うん」


彩香は頷いた。

「最初は、私にちゃんとできるかなって思ってたんだけど」


彩香は周囲を見回した。

「思っていたより、私にもできることがたくさんあったんだね」

「そうでしょ?」

「それに、ワンちゃんたちと遊ぶのも楽しいし」


彩香は笑った。

「ソラちゃんもかわいかったし、モチもかわいいし」

「やっぱりワンちゃんの話なんだね」

花子が笑った。

「それも理由の一つだからね」

彩香も笑った


けれど、やがて表情が少し落ち着いたものに変わった。

「それに……」

「うん?」

「ここにいると、自分が役立たずみたいに感じなくて済む気がするんだ」


花子の表情が、少し柔らかくなった。

彩香は努めて明るい顔をした。

「会社を辞めることになってから、何をすればいいのかも分からなくなっちゃったし、これからどうすればいいのかも分からなくて、不安だったでしょ?」

「うん」

「でも、ここには私にできる仕事がある」


彩香は自分のエプロンを軽くつまんだ。

「こうしてエプロンまで着けていると……」

小さく笑った。

「本当にフォレストの一員になれた気がして、嬉しいんだ」


花子はしばらく何も言わなかった。

そして、優しく微笑んだ。

「それなら、これからもここで働いてみる?」

彩香は花子を見つめた。

「うん」


今度は迷いがなかった。

「これからも働きたい」

「本当に?」

「うん!」

彩香は笑った。

「私も、これからはフォレストでちゃんと働いてみたい」

花子は頷いた。

「それじゃあ、これからもよろしくね」

「うん!」


彩香は手を差し出した。

「こちらこそよろしくね、花ちゃん」

花子は笑顔でその手を握った。

その様子を見ていた仁も、静かに口を開いた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。彩香さん」

彩香は仁を見た。

「仁くんもよろしくね」

「はい」


彩香は笑った。

そして、花子と仁を交互に見つめた。

「こうして考えてみると、悪くないね」

「何が?」

花子が尋ねた。

「こうやって三人で働くこと」

「そうだね」

三人の笑い声がフォレストの中に広がった。


今日もフォレストでは、特別なことは何も起こらなかった。

ワンちゃんをトリミングして、一緒に飲み物を飲み、あれこれと話をした。

ただ、それだけの平凡な一日だった。

けれど、花子はそんな何気ない一日が嫌いではなかった。

むしろ、好きだった。


仁がフォレストに来てから、店の中には少しずつ新しい風景が生まれていた。

ワンちゃんたちと一緒に笑う時間も増えた。

以前なら思いもしなかった新しいことも、一つ、また一つと浮かぶようになった。

そして今では、彩香もその風景の中に加わっていた。

花子はカウンターの上に置かれた自分のカフェラテを眺めた。


そして、ごく小さく笑った。

「……いつか、本当にカフェもやってみようかな」

「花子さん?」

仁が顔を向けた。

「何でもないですよ」


花子は笑って首を横に振った。

「ただ……今日もいい一日だったなって思っただけです」

仁はしばらく花子を見つめた。

そして、静かに頷いた。

「はい、私もそう思います」

「私も!」

彩香が言った。


三人は笑い合った。

フォレストの一日は、そうして過ぎていった。

暖かな日差しの下で。

ワンちゃんたちの足音とともに。

そして、三人の小さな笑い声とともに。

フォレストには、新しい風が吹き始めていた。


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