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第21話 ― 舞い散る桜の中で

桜の香りが漂う、穏やかな春の朝

仁はフォレストの中を片付けていた

床を掃き、トリミングテーブルを拭いたあと、トリミング道具を一つずつ確認した


ハサミの状態を確認し、ブラシをきれいに並べた

タオルも種類ごとに畳んで、元の場所に置いた

シャンプースペースの水気を確認し、ドライヤーの位置も確認した

初めてここに来た頃は、何もかもが

慣れないものだった


どの道具を使えばいいのかも分からず、

犬がどんな行動をするのかもよく分からなかった

犬が動いたらどうすればいいのかも分からなかった

ただ力で大人しく押さえればいいのだと、何度か思ったこともあった

だが、今は少し違った

犬が緊張しているのか

どの部分を触られるのを嫌がっているのか


今は止めるべきなのか

少しずつ分かるようになってきた

犬が耳を動かすだけでも、その状態を見られるようになり

体に力が入っているかどうかも、ある程度分かるようになった


以前なら見過ごしていたような小さな仕草も、今では目に入るようになった

まだ完璧ではない

失敗することもあったし、花子に聞かなければならないことも多かった

それでも、以前とは明らかに違っていた


仁は最後にシャンプースペースを確認したあと、タオルをきれいに整えた

「仁さん」

後ろから花子の声が聞こえた


「はい」

「今日も準備が早いですね」

「もう慣れました」

「最初は私がずっと教えないといけなかったのに」

花子が笑った

「最近は私が言わなくても自分でやってくれるから助かります」

「それならよかったです」


仁は店内を見回した

暖かな日差しが窓から差し込んでいた

窓の外に見える木々にも、いつの間にか淡い緑が少しずつ増えていた

数日前までは少し肌寒かった空気も、いつの間にか柔らかくなっていた

フォレストの中に差し込む日差しも、少し暖かくなったように感じられた


花子も窓の外を眺めた

「そういえば、もう春ですね」

「そうですね」

「時間が経つのって本当に早いですよね?」

「はい」


仁はしばらく窓の外を眺めた

フォレストで過ごす一日一日が、いつの間にか自然なものになっていた

朝に店の扉を開け

犬たちを迎え

花子と一緒にトリミングをして

一日が終われば店を片付ける

最初は慣れなかった日常だった


だが、いつの間にかそれが自分の一日になっていた

そして、そのことが不思議と嫌ではなかった

むしろ心地よかった

しばらくして花子が仁を見た

「仁さん」

「はい?」

「今週末、時間ありますか?」

「特に予定はありません」

「それなら……」


花子が少し迷ってから笑った

「モチを連れて、一緒にお花見に行きませんか?」

「お花見ですか?」

「はい」


仁は少し考えた

お花見

そんなことをした記憶はなかった

花を見るためにわざわざ外へ出るなんて、考えたこともなかった

以前は季節が変わることさえ、あまり気にしていなかった

冬が終われば春が来て

春が終われば夏が来る


その程度のことしか知らなかった

「桜がきれいに咲いているらしいですよ」

仁は窓の外を見た

「いいですね」

「本当ですか?」

「はい」


花子の顔が明るくなった

「じゃあ決まりですね」

花子が笑った

「今週末は三人で一緒にお花見に行きましょう」

仁は頷いた

「分かりました」

その隣でモチが尻尾を振った

まるで自分も一緒に行くことが分かっているかの

ようだった


花子が笑った

「モチも賛成だそうですよ」

「そうですか」

仁はモチの頭を撫でた

「では、楽しんできましょう」


モチはもう一度尻尾を振った

そして仁の手に頭をそっと擦りつけた

「お花見が好きなようですね」

「モチはもともと花道を散歩するのが好きなんですよ」


花子がモチの首輪をそっと触った

「週末はいつもより長く歩いても大丈夫そうですね」

「それなら、準備をしておいたほうがよさそうです」

「仁さんが?」

「モチが疲れてはいけませんから」


花子はしばらく仁を見つめてから笑った

「やっぱり仁さんって細かいところまで気がつきますね」

「何がですか?」

「モチの心配をしてるところですよ」

仁はしばらくモチを見た

「一緒に行くことになったので」

花子は小さく笑った

「はい」


そうして、いつもの一日が過ぎていった

そして桜が咲いた週末がやってきた

フォレストの営業が休みの日だった

仁はいつもより少し遅く起きた

目を覚ました仁は、しばらく天井を見つめた


今日は出勤する必要がなかった

普段なら週末でも朝からフォレストを片付けていたが、今日は少し違った

花子さんとモチと一緒に、お花見に行く日だった

仁は起き上がって服を着替え、台所へ降りていった

台所では花子がお弁当を準備していた

「仁さん、起きたんですか?」

「はい」


仁はテーブルの上に置かれた弁当を見た

「何を準備しているんですか?」

「簡単なお弁当ですよ」

「手作りですか?」

「はい」

花子は弁当を一つずつ整えていった

ご飯とおかずを詰め、小さな果物も用意した

「お花見に行くのに、手ぶらで行くわけにはいかないじゃないですか」

「そうですか」


仁は頷いた

「私に手伝えることはありませんか?」

花子は少し考えた

「それじゃあ、そこにある水筒を持ってくれる?」

「分かりました」


仁は水筒を持って鞄に入れた

そしてティッシュとウェットティッシュも準備した

「ティッシュとウェットティッシュまで準備したんですね」

「必要だと思いました」

「やっぱり仁さんですね」


花子が笑った

「準備が本当に細かいですね」

「必要になりそうなものがあれば、あらかじめ準備しておいたほうがいいですから」

「お花見なのに、ちょっと真面目すぎる気がしますけど」

「そうですか?」

「はい」

「でも、仁さんらしいですね」


その隣にはモチが座っていた

モチは仁を見ると尻尾を振った

「モチも楽しみにしているようですね」

「たぶん早くお花見に行きたいんじゃないですか?」

「そうかもしれませんね」

花子が笑った


モチは尻尾を振りながら玄関のほうを見た

「もう少し待っててね」

花子がモチの頭を撫でた

「すぐに行くから」

モチは花子を見たあと、また玄関のほうを見た

仁はそんなモチを見て、小さく笑った

「待つのが大変なようですね」

「早く行かないといけませんね」

「仁さん、準備できました?」

「はい」


しばらくして、三人はフォレストを出た

春風が吹いてきた

道沿いには桜が咲いていて、風が吹くたびに花びらが一枚、また一枚と落ちていた


モチは地面に落ちた花びらを不思議そうに見つめた

すると花びらが一枚、風に乗って動き、モチがそちらへ走っていった

「モチ!」

花子が笑いながら追いかけた


仁もゆっくりと後をついていった

モチは花びらを追いかけたあと、また立ち止まって周囲の匂いを嗅いだ

そして別の花びらが風に舞うと、またそちらへ走っていった

「モチ、花びらが気に入ったみたいですね」

「こんな姿を見るのも久しぶりです」

「好奇心が強いようですね」

「仁さんがそう言うと、なんだか少し面白いですね」

「なぜですか?」

「昔の仁さんだったら、モチが走っていったらすぐに捕まえに行きそうだったから」


仁は少し考えた

「そうかもしれません」

花子が笑った

「でも今は待ってあげるんですね」


仁は前で花びらを追いかけているモチを見た

「モチがどこへ行くのか、まず見ています」

「やっぱりずいぶん変わりましたね」

「そうですか?」

「はい」


花子は仁を見ながら微笑んだ

「初めて会った時とは、本当にずいぶん変わりましたよ」

仁は答えなかった

その言葉が嫌ではなかった

むしろ少し嬉しかった

昔の自分と今の自分が変わったということを認めるのも、悪くなかった


二人はゆっくり歩いた

普段は仕事で忙しく通り過ぎていた道も、今日は少し違って見えた

店の前を通り過ぎる人たち

春を迎えて散歩に出てきた家族

犬を連れて歩いている人たち

そして風に揺れる桜まで

すべてがゆっくりと流れていた


仁はしばらく歩いたところで足を止め、周囲を見た

「どうしたんですか?」

花子が尋ねた

「人が多いですね」

「週末だからでしょうね」

「みんな花を見に来ているようです」

「そうでしょうね」

花子が笑った

「仁さんもその一人ですけどね」

「そうですね」

「気分はどうですか?」


仁は少し考えた

「まだよく分かりません」

「少し経てば分かるようになりますよ」

花子が笑った

「ゆっくり見て回りましょう」

「分かりました」

「仁さん」

「はい?」

「お花見は初めてなんですよね?」

「はい」

「じゃあ今日はゆっくり見て回りましょう」

「分かりました」

花子は笑顔になった

「時間もたくさんありますから」

しばらくして、二人は桜がたくさん咲いている公園に到着した


公園のあちこちには家族や恋人たちがレジャーシートを広げて座っていた

子供たちが走り回っていて、犬を連れて散歩している人たちも多かった

公園の一角には大きな桜の木が並んでいた

風が吹くたびに、ピンク色の花びらが雪のように舞い散っていた


モチはその光景を不思議そうに見つめたあと、また花びらを追いかけ始めた

「モチ、今日は本当に楽しそうですね」

花子が笑った


仁はモチを見て頷いた

「いつもよりたくさん動いています」

「家に帰ったらすぐ寝そうですね」

「そうだと思います」

花子はちょうどいい場所を探した

「ここがいいですね」


花子はレジャーシートを広げて座った

そして自分の隣を指差して仁に言った

「仁さんもこっちに来て座ってください」

「では、お邪魔します」

モチは周囲を一周見回したあと、仁の隣に座った

「モチもここが気に入ったみたいですね」

「そうみたいですね」

仁はモチの頭を撫でた

その時、桜の花びらが一枚、仁の肩に落ちた

「仁さん、ちょっと待ってください」

「はい?」

花子が手を伸ばした


仁はしばらく動かなかった

花子の手が近づいてきた

「ここです」

花子は仁の肩についていた花びらを取った

「取れました」

「ありがとうございます」

「これくらい別にいいですよ」


仁はしばらく花子を見た

その言葉がなぜか聞き覚えのあるものに感じられた

オムライスを食べた日にも、花子は似たようなことを言っていた


その時、仁は言った

自分にとっては、別にどうでもいいことではないと

そして今も、その考えは変わっていなかった

「花子さん」

「はい?」

「ありがとうございます」

花子が目を瞬かせた

「急にどうしたんですか?」

「ただ……言いたくなりました」

花子はしばらく仁を見つめてから笑った

「私も仁さんに感謝してますよ」

「私にですか?」

「はい」


花子はしばらく桜を見つめた

「仁さんがフォレストに来てくれたおかげで、前よりお店が明るくなりました」

「そうですか?」

「はい」

花子が笑った

「それに、一人で働いていた時より楽しくなりましたし」

仁はしばらく何も言わなかった


風が吹き、二人の間を何枚かの花びらが通り過ぎた

仁はその花びらを見つめているうちに、自然と笑っていた

「私もフォレストが好きです」

花子が仁を見た

「本当ですか?」

「はい」

仁はゆっくりと言葉を続けた

「最初はお金を稼ぐために仕事を始めました」

「はい」

「ただ、働く場所が必要でした」


仁はしばらく自分の手を見つめた

最初は、この手で何をすればいいのかさえ分からなかった

ただ生きていくために仕事を探した

だが今は違った

「ですが、今は少し違います」

花子は何も言わず、仁の言葉を待った

「犬のトリミングをして」

「はい」

「花子さんと話をして」

「はい」

「モチと一緒に時間を過ごすことも……」


仁はしばらく言葉を止めた

「私の日常になりました」

花子の表情が柔らかくなった

「そう思ってくれてよかったです」

「私のほうこそ、よかったと思っています」

「どうしてですか?」

仁は少し考えた

「ここに来なければ、こういうことも知らなかったでしょうから」

「こういうこと?」


仁は桜を見つめた

「花を見に出かけることです」

花子が小さく笑った

「仁さんって、本当にこういうことしたことないんですね?」

「はい」

「じゃあ、今日が初めてのお花見ですね」

「そうですね」

「どうですか?」


仁はしばらく周囲を見た

人々の笑い声

風に揺れる桜

そして隣で静かに座っているモチ

「悪くありません」

花子が笑った

「それって、仁さんなりに良いってことですよね?」

「……そうかもしれません」

「ふふ」

花子が笑った

その時、モチが仁の膝に前足を乗せた

「モチ」

仁が見下ろした


モチは仁を見上げながら尻尾を振った

仁はモチの頭を撫でた

「お前も楽しいようだな」

「モチも仁さんと一緒に来られて嬉しいみたいですね」

「それならよかったです」

花子が弁当を開いた

「じゃあ、食べましょうか?」

「はい」


弁当を開くと、暖かな春の日差しの下で丁寧に用意された料理が姿を現した

「思ったよりたくさん準備したんですね」

「たくさん食べそうだったので」

「私のことですか?」

「仁さんもそうですし、モチもですよ」

「モチがお弁当を食べられるんですか?」

「もちろん、モチ用のおやつも用意しましたよ」

花子が小さな袋を取り出した

モチはそれを見ると、尻尾を素早く振った


仁はモチを見て小さく笑った

「やはり分かるようですね」

「食べ物のことだけは、本当にすぐ気づくんですよ」

花子が笑った

二人は並んで座り、弁当を食べた

特別な料理ではなかった

だが、不思議と美味しかった


仁はふと思った

以前は、食事もただ腹を満たすためのものだった

一人で食べることにも慣れていたし

何を食べるのかも、あまり気にしていなかった

だが今は違った

誰かと一緒に食事をする時間があるということ

それだけでも少し違っていた

「美味しいですね」

仁が言った

花子が仁を見た

「本当ですか?」

「はい」

「よかった」

花子が笑った

「仁さんが美味しいって言ってくれるのは、今でも少し不思議ですね」

「私、そんなに言っていませんでしたか?」

「たまには言ってましたけど」

花子が笑った

「最初の頃は美味しくても、ただ黙って食べてたじゃないですか」


仁は少し考えた

「そうでしたか?」

「はい」

「よく覚えていません」

「私は覚えてますよ」

花子が笑った

仁はしばらく花子を見たあと、再び弁当を見た

「それなら、これからはもう少し言うようにします」

「はい」


食事を終えたあとも、二人はすぐには立ち上がらなかった

花子は残った弁当を片付け、仁は隣で空いた容器を受け取って整理した


モチはお腹がいっぱいになったのか、レジャーシートの上で体を長く伸ばしていた

「モチ、完全に伸びちゃいましたね」

「たくさん走ったからでしょう」

花子が笑った

「さっきからずっと走り回ってたじゃないですか」

「普段より運動量が多かったです」

「家に帰ったらよく眠れそうですね」

「私もそう思います」


花子がモチを見ながら笑った

「じゃあ仁さんも少し休んでください」

「私は大丈夫です」

「でも今日は仕事の日じゃないんですよ」


仁は少し考えた

「そうでしたね」

「はい」

花子が笑った

「今日はただの休日です」

仁はレジャーシートに座ったまま、周囲を見た

働かなくてもいい一日


何かをしなければならないと思わずに過ごす一日

そんな時間も悪くなかった

そうして座って時間を過ごしていると、モチもいつ疲れていたのかと思うほど元気に立ち上がって歩き始めた

「仁さん」

「はい?」

「ちょっとあっちに行ってみませんか?」

花子が公園の奥を指差した

そこには桜が一面に咲いた散歩道があった

「散歩道ですか?」

「はい」

「モチも喜びそうですね」

「そうですよね」


二人はモチを連れて、ゆっくりと散歩道を歩いた

花びらが頭上から落ちてきた

モチは地面の匂いを嗅ぎながら先を歩き、花子はリードを持ったままゆっくりとついていった


仁はその姿を後ろから見つめた

不思議と心地よかった

もしかすると、自分はこういう平凡な時間を求めていたのかもしれない

組織に身を置いていた頃は、考えたこともなかった

毎日緊張しなければならず、誰かを警戒していた

いつ何が起こるか分からなかったし

誰かを信じるということにも慣れていなかった

だが今は違った

犬が前を歩き

隣では花子が笑っている


仁はふと花子に尋ねた

「花子さんは、以前にもここに来たことがあるんですか?」

「はい」

花子が頷いた

「子供の頃、おばあちゃんと一緒に来たことがあります」

「そうですか」

「それから……美咲と、もう一人の友達とも一緒に来ました」

花子は桜を見つめながら微笑んだ

「その時も今みたいに桜がきれいでした」

「そうですか?」

「はい」


花子は少し歩く速度を落とした

「あの頃は、本当に何の心配もありませんでした」

仁は何も言わずに花子の話を聞いた

「ただ友達と走り回って、おばあちゃんに怒られたりして……」

花子が小さく笑った

「今考えれば本当に大したことじゃないことだったのに、その時はそれが一番楽しかったんです」


仁は桜を見つめた

花子の顔には、ほんの一瞬だけ幼い頃の姿が重なったように見えた

「いい思い出ですね」

「はい」

花子が頷いた

「だから春になると、たまに思い出します」

「おばあさんとの思い出もですか?」

「はい」

花子が小さく答えた

「それから、友達と一緒にいた時のことも」

仁はそれ以上聞かなかった

花子が話したいと思う分だけ聞いていたかった


二人は再びゆっくりと歩いた

しばらくすると、モチが足を止めた

そして道端に落ちた花びらを見つめた

「モチ」

仁が呼んだ

モチが仁を振り返った

「どうした?」


モチはしばらく仁を見つめたあと、再び花びらを見た

花子が笑った

「たぶん花びらを見てるんだと思います」

「まだ不思議なようですね」

「モチにとっては、今日初めて見るものが多いですから」

仁はモチの隣にしゃがみ込んだ

「これは桜だ」

モチが仁を見た

「分からないだろうが」

花子が吹き出した

「仁さん、今モチに花の説明してるんですか?」

「教えておいたほうがいいでしょう?」

「モチに分かるんでしょうか?」

「いつか分かるかもしれません」

「ふふ」

花子が笑った

仁はモチの頭を撫でた

「また次も見ることになるだろうからな」

花子はその言葉を聞いて、しばらく仁を見た

「また一緒に来るつもりですか?」

「はい」

「仁さんから先に言うから、ちょっと驚きました」

「なぜですか?」

「なんとなくです」

花子が笑った

「仁さんが先に次のことを話すのが、少し不思議で」

仁は少し考えた

「次があるというのも、悪くないですから」

花子はしばらく何も言わなかった

そして小さく笑った

「そうですね」

散歩道の先には小さな池があった

水面には落ちた花びらが何枚か浮かんでいた

モチは池を見つめながら首を傾げた

「入るなよ」

仁が言った

花子が吹き出した

「モチが水に入ると思います?」

「念のためです」

「仁さん、本当にモチのことを心配してますね」

「一緒に来たので」

花子はしばらく仁を見つめた

そして優しく笑った

「そうですか」

「何ですか?」

「なんでもありません」

花子は首を横に振った

「ただ、嬉しくて」

仁はしばらく花子を見た

だが花子はすでに池のほうを見ていた

しばらくして、二人は再びレジャーシートのところへ戻った

日が少しずつ傾いていた

暖かかった日差しも、いつの間にか少し柔らかくなっていた


モチは仁の隣に横になり、目を閉じた

「モチ、また寝てますね」

「かなり疲れたようです」

「今日は本当に楽しかったんでしょうね」

花子がモチを見ながら微笑んだ

「仁さんも疲れてないですか?」

「大丈夫です」

「本当ですか?」

「はい」

仁はしばらく桜を見つめた

「むしろ、落ち着きます」

花子は仁を見た

「落ち着くんですか?」

「はい」

「私もです」


花子が小さく笑った

「今日は何も考えずに、ただ桜を見ていたかったんです」

仁は何も言わずに頷いた

「今日は本当に楽しいですね」

「はい」

「また来たいです」

仁は少し考えた

「また一緒に来ればいいのではないですか?」

花子が仁を見た

「……はい」


花子は少し笑った

「じゃあ、また一緒に来ましょう」

「分かりました」


そうして二人はしばらく何も言わずに桜を眺めていた

モチはその間で気持ちよさそうに眠っていた

風が吹くたびに桜の花びらが落ちてきた


仁はその光景を見つめた

以前は、こんな景色が美しいなどと思ったことさえなかった

だが今は違った

この瞬間が好きだった

特別なことが起きたわけでもなかった

ただ桜を見て

弁当を食べて

犬と散歩して

隣にいる人と話をしただけだった


それなのに、仁には不思議なくらい大切に感じられた

ふと仁は自分の手を見つめた

以前は、この手で誰かを傷つけることのほうが慣れていた

だが今は違った

犬の毛を梳かし

モチの頭を撫で

弁当を片付け

誰かの手助けをするために使っていた


仁はゆっくりと手を握り、それから再び開いた

そして静かに桜を見つめた

こういう変化も悪くなかった

むしろ自分には必要な変化だったのかもしれない

フォレストに戻ったのは、日が少し傾いた頃だった

モチは疲れたのか、仁の腕の中で大人しく眠っていた

花子が扉を開けた

「今日は楽しかったですね」

「はい」


仁はモチをそっとソファの上に降ろした

モチは眠ったまま一度だけ体を動かし、それから再び丸くなった

花子はそんなモチを見て笑った

「本当に疲れたみたいですね」

「たくさん走りましたから」


仁は店内をゆっくりと見回した

朝に出た時と同じフォレストだった

古い家具も

トリミングテーブルも

壁に飾られた犬の写真も

そのままだった

だが、仁には少し違って感じられた

初めてここに来た時は、ただ働く場所だった


だが、今は違った

ここには一緒に時間を過ごす人がいて

自分を待っている犬がいて

自分が帰ってくる場所があった

「仁さん」

花子が呼んだ

「はい?」

「今日のお花見……よかったですよね?」

仁は少し考えた

「はい」

「よかった」

花子が笑った

仁はフォレストの中を見つめた

初めてここに来た時、自分には何もなかった

何をすればいいのかも

どうやって生きていけばいいのかも

これからどこへ向かえばいいのかも分からなかった

だが今は少し違った

やるべきことがあり

学びたいことがあり


一緒に時間を過ごしたい人たちがいた

そして、自分が帰ってくる場所もあった

仁は静かにフォレストを見つめた

「……ありがとうございます」

花子が振り返った

「何がですか?」

仁は少し迷った

そしてフォレストを見つめながら言った

「ただ……全部です」

花子はしばらく仁を見つめてから微笑んだ

「私もありがとうございます」

「何がですか?」

「仁さんがフォレストに来てくれたこと」

仁はしばらく花子を見つめた


花子は笑っていた

「私一人だったら、今みたいに笑うことも多くなかったと思います」

「そうですか?」

「はい」

花子がソファで眠っているモチを見た

「モチも仁さんのことが好きですし」

仁はモチを見た

「私もモチが好きです」

「ふふ」

花子が笑った

「じゃあ、それでいいですね」


仁はそれ以上何も言わなかった

花子もそれ以上尋ねなかった

ただ二人は静かにフォレストの中に立っていた

窓の外から夕日の光が差し込んでいた

壁に飾られた犬の写真の上に、暖かな光が降り注いでいた

ソファではモチが気持ちよさそうに眠っていた

そして仁は思った

自分にも、こんな場所ができるのだと

帰りたいと思える場所

待っていてくれる人がいる場所

一緒に笑える場所

そこがフォレストだった

かつては何の意味も持たなかった名前だった

だが今は違った

仁にとってフォレストは、ただ働く場所ではなかった

花子にとって大切な場所であり

おばあさんが残した場所であり


そして今は、仁自身の時間も積み重なっていく場所だった

「仁さん」

「はい?」

「どうしてそんなに笑ってるんですか?」

仁は自分が笑っていることに、その時初めて気づいた

「そうですか?」

「はい」


花子もつられて笑った

「いい一日だったみたいですね」

仁は少し考えてから頷いた

「はい」

短い答えだった


だが、その中にはこれまで仁が感じてきた多くの感情が込められていた

最初はただ生きていくために始めた仕事だった

だがいつの間にか、そこで新しい人たちと出会い

新しいことを学び

平凡な一日を過ごしていた

そして、そんな一日が嫌ではなかった

むしろ、ずっと続いてほしいと思っていた


窓の外では、桜の花びらが最後に何枚か落ちていた

仁はその姿を見つめてから、ゆっくりと振り返った

フォレストの中には花子がいて

ソファにはモチがいた

そして仁はそこにいた


その日のお花見は、特別な出来事ではなかった

だが仁にとっては、忘れられない一日になった

誰かと一緒に笑い

誰かと一緒に食事をして

犬と一緒に散歩をして

帰る場所があることを知った一日


仁は静かに思った

こんな一日がずっと続くのなら

これからもここにいたいと

それだけで十分だった

そうして春の日の一日が暮れていった

おばあさんが残したフォレスト

花子が守ってきたフォレスト

そして今は仁も一緒に時間を積み重ねているフォレスト

そこで三人の日常は、これからも続いていく

まだ平凡な一日だった


だが仁は知らなかった

この平凡な日々が、これから自分にとってどれほど大切な思い出になっていくのかを

そしてフォレストから始まった新しい縁が

これからどんな物語を作っていくことになるのかも

ただ今この瞬間だけは

この穏やかな一日を楽しみたかった

それだけで十分だった


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