第20話 ― おばあちゃんとフォレスト
幼い花子は祖母の手を握りながら、フォレストの中を歩いていた
今よりもずっと小さかったフォレスト
古びたトリミングテーブルが一つと、小さな椅子がいくつか
壁には犬たちの写真が飾られていて、店の中からは犬たちの鳴き声が聞こえていた
今よりも小さくて古びていたけれど、花子にとっては世界で一番温かい場所だった
「花子、こっちにおいで」
祖母が笑いながら手招きした
「はい」
幼い花子が祖母のもとへ駆け寄った
祖母の前には、小さな犬が一匹おとなしく座っていた
「おばあちゃん、私がやってもいい?」
「もちろんよ」
花子は小さな手でブラシを握った
けれど、ブラッシングは思ったより簡単ではなかった
毛が何度も絡まり、ブラシがうまく動かなかった
「こうするの?」
「そう、ゆっくりやればいいのよ」
祖母が花子の手の上に自分の手を重ねた
「わんちゃんが怖がらないように、ゆっくりね」
「はい」
花子が満面の笑みを浮かべた
祖母の手は温かかった
ブラシを握った小さな手を包んでくれる手も温かかった
犬はおとなしく花子の手を受け入れていた
「おばあちゃん」
「ん?」
「この子も、私のこと好きなのかな?」
祖母が微笑んだ
「そうよ」
「どうして分かるの?」
「犬は言葉を話せないでしょう?」
祖母が犬の頭を撫でた
「その代わりに、サインを送ってくれるの」
「だから、私たちは犬が送ってくるサインをちゃんと感じ取らないといけないのよ」
「サイン?」
「そう」
祖母が犬の耳を指差した
「耳が動くのもそうだし」
今度は尻尾を指差した
「尻尾を振るのもそうね」
「じゃあ、今は?」
「一度、自分で見てごらんなさい」
花子が犬を見つめた
犬は花子を見つめると、尻尾を小さく振った
「ふふ」
花子が笑った
「私のこと好きなんだって」
「そうみたいね」
祖母も笑った
フォレストの中には、犬たちの鳴き声と二人の笑い声が一緒に響き渡っていた
その日のフォレストは穏やかだった
暖かな日差しが窓から差し込み、風が吹くたびに窓辺に飾られた小さな飾りが揺れていた
花子はその景色を眺めながら、明るく笑っていた
おばあちゃんと一緒なら、いつまでもこんな時間が続くような気がした
「花子」
「はい?」
「おばあちゃんは仕事をしないといけないから、そろそろ上に行きなさい」
「もう?」
「そうよ」
花子が名残惜しそうな顔をした
「もう少しだけいちゃダメ?」
祖母が笑った
「また明日来ればいいでしょう?」
「本当?」
「もちろんよ」
花子が満面の笑みを浮かべた
「約束だよ」
「ええ、約束しましょう」
祖母と花子は手を繋いだ
そして一緒にフォレストを出た
温かかった
祖母の手も
フォレストも
その時だった
視界が突然揺れた
フォレストの姿が消えた
いつの間にか花子は制服を着て道端に立っていた
そしてすぐ隣には祖母がいた
「おばあちゃん?」
祖母が花子の手を握った
「花子、気をつけてついてくるのよ」
「はい」
二人がゆっくりと道を渡ろうとした、その瞬間だった
「花子!!!」
祖母が叫びながら花子を突き飛ばした
ドン!
大きな音が響いた
花子の体が固まった
握っていた祖母の手が離れた
「……おばあちゃん?」
花子はゆっくりと振り返った
少し離れた場所に祖母が倒れていた
動かなかった
「おばあちゃん……?」
花子は震える足で一歩踏み出した
けれど、足が動かなかった
怖かった
何が起きたのか理解できなかった
人々のざわめきが聞こえた
誰かが慌てて電話をしていた
遠くからサイレンの音が聞こえてきた
「おばあちゃん……!」
花子の声が震えた
「おばあちゃん……!」
けれど、返事はなかった
花子はその場に立ち尽くしたまま祖母を見つめた
手を伸ばそうとしたけれど、指先すら動かなかった
「嫌……」
目の前がぼやけた
「おばあちゃん……!」
そしてついに叫んだ
「おばあちゃん!!」
その瞬間、花子は目を覚ました
「……!」
荒い息を吐いた
全身が冷や汗で濡れていた
花子はしばらく何も言えないまま、周囲を見回した
暗い部屋
自分のベッド
そして静かな夜明け
「……夢」
花子が震える声で呟いた
けれど、心臓はまだ激しく鼓動していた
花子はゆっくりとベッドから体を起こした
手が震えていた
夢だと分かっているのに、指先にはまだあの日の感覚が残っているような気がした
花子は両手を強く握った
そしてゆっくりと息を吐いた
すると机の上に置かれた写真が月明かりに照らされて見えた
写真の中には、満面の笑みを浮かべている祖母がいた
フォレストの前で撮った写真だった
花子はしばらく写真を見つめた
写真の中のフォレストは今よりもずっと小さく、古びて見えた
けれど、そこに立っている祖母の表情は誰よりも幸せそうだった
「……おばあちゃん」
声が震えた
手を伸ばして写真を手に取った
写真の中の祖母は、今も笑っていた
まるで今も生きている人のように
花子は写真を指先でそっと撫でた
その写真を撮った日のことも覚えていた
祖母がトリミングを終えて花子の隣に座っていて、花子はカメラを見ながら満面の笑みを浮かべていた
あの時は、その時間が永遠に続くと思っていた
「会いたい……」
一粒の涙が頬を伝って落ちた
そして、その後を追うようにもう一粒
花子は写真を胸に強く抱きしめた
我慢しようとした
けれど、一度溢れ出した涙は簡単には止まらなかった
その夜
花子は長い間泣いた
朝になった
フォレストのドアが開いた
仁が入ってきた
仁はドアを開けて換気をしたあと、床を掃いた
トリミングテーブルを拭き、必要な道具を一つずつ確認した
すると階段から足音が聞こえてきた
「仁さん……おはようございます」
花子が降りてきた
仁は頭を下げた
「おはようございます、花子さん」
けれど、仁の視線が花子の顔で一瞬止まった
いつもと違っていた
目が赤くなっていた
目元も少し腫れていた
何より、普段は生気に満ちている瞳が、今日は不思議なほど力を失っていた
花子はいつもよりゆっくり歩いてきて、モチが近づいて足に体を擦りつけても、しばらくぼんやりと見つめているだけだった
そして遅れてモチの頭を撫でた
「……花子さん」
「はい?」
「大丈夫ですか?」
花子が一瞬、びくっとした
「大丈夫です」
「目が腫れています」
「あ……」
花子が手で目元に触れた
「昨日、少し寝不足で」
仁はしばらく花子を見つめた
「そうですか?」
「はい」
花子は無理に笑った
「本当に大丈夫です」
仁はそれ以上聞かなかった
「分かりました」
けれど、仁の心の片隅には小さな疑問が残っていた
今日の花子は、いつもと違った
そうして時間が流れ、午後になった
チリン
フォレストのドアが開き、客が訪れた
小さなマルチーズが飼い主に抱かれていた
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
花子がいつものように客を迎えた
けれど、その笑顔はどこかぎこちなかった
「今日はうちの子、よろしくお願いします」
「はい、お任せください」
花子が犬をトリミングテーブルに乗せた
「お名前はなんですか?」
「ユキです」
「ユキちゃんね」
花子が犬の毛を確認した
「毛の状態は問題なさそうですね」
「はい、家でもよくブラッシングしています」
「ちゃんとお手入れされていますね」
花子が笑った
いつもと変わらない会話だった
仁も隣でトリミング道具を準備した
「仁さん、ハサミをお願い」
「こちらです」
「ありがとう」
花子がハサミを受け取った
そしてユキの毛をゆっくりと切り始めた
サク
サク
静かな音が続いた
ハサミが毛を切る音を聞きながら、花子はふと幼い頃の記憶を思い出した
祖母の手
ブラシを握っていた自分の小さな手
そして、ゆっくりやるように言ってくれた声
「……」
花子の手が一瞬止まった
ユキはじっと花子を見つめていた
「花子さん?」
仁の声が聞こえた
「……はい?」
花子が顔を上げた
「大丈夫ですか?」
「あ……はい」
花子はしばらくぼんやりとした表情を浮かべていたが、再びハサミを動かした
「すみません。少し別のことを考えていました」
「大丈夫です」
仁はそう言ったが、そのまま花子を見守っていた
トリミングをしている間も、花子の様子がいつもとは違うことは明らかだった
犬に話しかける回数も減り、何度もぼんやりと一点を見つめていた
ユキが体を動かした時も、いつもならすぐに気づくはずの花子の反応が、半拍遅れた
そしてその瞬間
「あ……!」
花子の手が止まった
ハサミが指に軽く触れたのだ
花子はハサミを置いて、自分の指を見つめた
指に赤い血が滲んでいた
「花子さん!」
仁がすぐに駆け寄った
「大丈夫です」
花子が慌てて手を隠した
「大丈夫ではありません」
仁は花子の手を注意深く確認した
幸い大きな傷ではなかったが、血が流れていた
「血が出ています」
「これくらい大丈夫です」
「それでも手当てをしないといけません」
仁は急いで救急箱を持ってきた
そして消毒液と絆創膏を取り出した
「私がやります、仁さん」
「いえ、私がやります。応急処置には慣れています」
「ありがとうございます」
仁は花子の指を慎重に消毒してから絆創膏を貼った
そして花子を見つめながら静かに言った
「今日、何かあったんですか?」
「……」
「何もありません」
いつもと同じ答えだった
けれど、いつもとは違っていた
いつもの花子なら、笑いながら大丈夫だと言ったはずだ
今の花子は笑っていなかった
仁はしばらく彼女を見つめた
そして、それ以上は聞かなかった
「では、とりあえずユキのトリミングは終わったんですか?」
「はい、幸い、全部切り終わってから手を怪我しました」
花子が指を見つめた
「お風呂は仁さん一人でできますよね?」
「はい、お任せください」
仁は頷いた
花子が薄く微笑んだ
「ありがとうございます、仁さん」
「いえ」
「花子さんはもう休んでください。今日はこれ以上、お客さんを受けないほうがいいと思います」
花子はしばらく仁を見つめてから頷いた
「……はい、そうします」
仁はトリミングテーブルの前に立ってユキを見つめた
そして再び花子を見た
花子の瞳は、いつものように生気に満ちてはいなかった
一日中、何かを失ってしまった人のように静かに沈んでいた
仁はその姿を見て確信した
今日、花子には何かあったのだ
ユキを無事に送り届け、フォレストのドアを閉めた
フォレストの中が静かになった
仁はトリミング道具を片付けた
花子もいつものように片付けをしていたが、動きは遅かった
「花子さん」
「はい?」
「今日は私が夕食を作ります」
花子が首を傾げた
「仁さんが?」
「はい」
「急に?」
「怪我をしたのに、料理をしてもらうわけにはいきませんから」
花子はしばらく仁を見つめ、それから小さく笑った
「……じゃあ、お願いします」
仁はキッチンへ向かった
冷蔵庫を開け、材料を一つずつ取り出した
花子はソファに座って、その姿を静かに見つめていた
仁は鍋に水を入れて火にかけ、材料を切った
包丁がまな板に当たる音が静かにフォレストの中に響いた
花子はその音を聞きながら、少しずつ心が落ち着いていくのを感じた
今日一日、頭から離れなかった記憶も、少しだけ遠ざかっていくような気がした
仁はスープの味を確かめた
そして少し考えてから、もう少し味を整えた
「……」
花子はそんな仁の姿をじっと見つめていた
普段は無口で怖そうに見える人だった
けれど今は、キッチンで黙々と夕食を作っていた
不思議と、その姿が心地よく感じられた
しばらくすると、温かなスープの香りがフォレストの中に広がった
花子はソファに座ったまま、その香りを嗅いだ
不思議と心が少し楽になった
仁が器を持って出てきた
「どうぞ」
「ありがとうございます」
花子は器を見つめた
「……うどんですね」
「はい」
仁は花子の前にうどんを置いた
「温かいものがいいと思って作りました」
「ありがとうございます」
花子は箸を持った
そして、そっと何口か食べた
「……」
花子の手が止まった
目が少し大きくなった
「どうしました?」
仁が尋ねた
花子はうどんを見つめ、それから再び仁を見た
「この味……」
「口に合いませんか?」
「いえ」
花子は首を横に振った
「そうじゃなくて……」
花子はもう一度うどんを一口食べた
温かなつゆ
懐かしい味
幼い頃から覚えていた味だった
ふと、遠い昔の記憶が蘇った
幼い花子が祖母と向かい合ってうどんを食べていた
「熱いから、ゆっくり食べなさい」
「はい」
花子が箸で麺をつまんだ
けれど、あまりにも熱かったのか、口を開けて息を吐いた
「ふーっ……」
その姿を見た祖母が笑った
「だからゆっくり食べなさいって言ったでしょう?」
「おいしい」
幼い花子が笑った
祖母はそんな花子を見ながら、うどんを少し冷ましてあげた
「ゆっくり食べなさい」
あの時の温かな声が、今も耳元に残っているようだった
「おばあちゃんが作ってくれたうどんと……同じ味です」
仁が一瞬、目を瞬かせた
「そうですか?」
「はい……」
花子は驚いた表情で仁を見つめた
「仁さん、これ、どこで覚えたんですか?」
「子供の頃に覚えました」
「誰から?」
「身近な人からです」
仁はしばらくうどんを見つめた
「昔、よく作って食べていました」
花子は何も言えなかった
その瞬間、目の前の仁と記憶の中の祖母の姿が重なって見えた
温かいうどんを出してくれた祖母
「ゆっくり食べなさい」
その声が聞こえるようだった
花子の目に涙が浮かんだ
「……」
一粒の涙が落ちた
仁が戸惑った表情で花子を見つめた
「花子さん?」
「……ごめんなさい」
花子は涙を拭った
「ただ……おばあちゃんを思い出して」
仁はしばらく彼女を見つめた
そして何も言わずに待った
花子は涙を拭ってから、うどんを見つめた
「本当に……おばあちゃんが作ってくれた味と同じです」
仁は静かに頷いた
「美味しいですか?」
花子が涙を浮かべたまま、小さく笑った
「はい」
「それはよかったです」
二人の間にしばらく静かな時間が流れた
花子はゆっくりとうどんを食べた
温かかった
まるで長い間忘れていた何かに、もう一度出会ったように心が少しずつほぐれていった
仁は向かいに座り、花子を見つめていた
そして静かに口を開いた
「花子さん」
「はい」
「今日、何があったんですか?」
花子の手が止まった
「……」
「朝から、いつもと違いました」
「大丈夫です」
「本当に大丈夫な人は、そんな目をしていません」
花子は俯いた
「……」
仁は急かさなかった
ただ静かに待った
しばらくして、花子が小さな声で言った
「夢を見たんです」
「夢ですか?」
「はい」
花子はつゆを見つめた
「おばあちゃんの夢を見ました」
仁は何も言わなかった
「子供の頃……私は両親が離婚して、おばあちゃんと一緒に暮らしていたんです」
花子の声が少しずつ震え始めた
「おばあちゃんが私を育ててくれました」
「……」
「フォレストもおばあちゃんが経営していたんです」
花子は周囲を見回した
「私は子供の頃からここで過ごしていました」
「だから、フォレストが好きだったんですね」
「はい」
花子が小さく笑った
けれど、その笑顔はすぐに消えた
「おばあちゃんは本当に優しい人でした」
花子は両手を強く握った
「犬も好きで……人も好きで……」
声が少しずつ震えた
「私にも本当に優しくしてくれました」
仁は静かに彼女の話を聞いていた
「でも……」
花子の目に涙が浮かんだ
「私が高校生の時……おばあちゃんが事故に遭いました」
仁の表情が固まった
「ひき逃げでした」
花子は俯いた
「私は……あの日を直接見ました」
涙が落ちた
「突然、大きな音がして……」
花子が震える手で涙を拭った
「おばあちゃんが倒れていました」
仁は何も言わなかった
「私はおばあちゃんのところへ駆け寄ろうとしたんですけど……」
花子の声が震えた
「怖くて……体が動きませんでした」
一粒
また一粒
涙が次々とこぼれた
「あの時、何もできませんでした」
「……」
「今でも覚えています」
花子はついに顔を両手で覆った
「時々、夢の中でまたあの日に戻るんです」
仁は静かに席を立った
花子の隣へ近づいた
「その後……フォレストを私が引き継ぎました」
花子が言った
「最初は、私もおばあちゃんみたいにできると思っていました」
花子が少し息を整えた
「でも……」
花子が泣きそうな声を出した
「私がちゃんとできているのか分からないんです」
仁は花子を見つめた
「おばあちゃんがやっていたくらい、ちゃんとできているのか……」
花子は俯いた
「フォレストをちゃんと守れているのかも分からなくて……」
花子は震える声で言葉を続けた
「それでも……おばあちゃんが残してくれた場所だから」
「……」
「私が守らなきゃって思いました」
花子は涙を拭った
「だからずっと頑張りました」
「……」
「トリミングも勉強して……」
花子はフォレストの中を見回した
「いつかおばあちゃんみたいに、犬たちを大切にできる人になりたかったんです」
「だからトリマーになったんですか?」
「はい」
花子が頷いた
「フォレストを守りたかったんです」
しばらく言葉を止めた花子の目から、再び涙が流れた
「でも……」
ついに我慢できず、涙がこぼれた
「私……ちゃんとできているのかな……?」
仁はしばらく花子を見つめた
そして静かに彼女の隣に座った
「花子さん」
「……はい」
「ちゃんとできています」
花子が涙に濡れた顔で仁を見つめた
「……本当ですか?」
「はい」
仁は確信のこもった声で言った
「私がフォレストで働き始めて、まだそれほど長くはありません」
「……」
「でも、花子さんがここをどれだけ大切に思っているのかは分かります」
花子の目から再び涙が流れた
「毎日店を開けて」
仁はゆっくりと言葉を続けた
「犬たちの世話をして」
「……」
「お客さんを笑顔で迎えて」
「……」
「フォレストを守っているじゃありませんか」
仁は花子を見つめた
「それだけでも、十分にちゃんとできています」
花子は唇を噛んだ
「でも……」
「おばあちゃんと同じようにする必要はありません」
花子の目が大きくなった
「花子さんは、花子さんですから」
仁の声は静かだったが、確かなものだった
「そして、今のフォレストは花子さんが
作っているんです」
花子はもう何も言えなかった
涙が流れ続けた
「……ありがとうございます」
小さな声だった
仁は少し迷った
そしてそっと花子の肩を抱いた
花子の体が一瞬、固まった
けれど、すぐに力が抜けた
仁は何も言わなかった
ただ、花子が泣けるように静かに抱きしめた
花子は仁の胸に顔を埋めた
長い間、一人で我慢していた感情が一気に押し寄せた
堪えていた涙を、止めどなく流した
仁は何も言わず、花子の背中をゆっくりと叩いた
「……大丈夫です」
その一言に、花子は祖母を思い出した
「大丈夫よ、花子。このおばあちゃんの前では泣いてもいいのよ」
「おばあちゃん……」
そうしてしばらく泣いたあと、花子は仁に尋ねた
「仁さん……」
「はい」
「私……本当にちゃんとできているんですよね?」
仁はしばらく答えなかった
そしてもう一度、はっきりと言った
「はい、誰よりもちゃんとできています」
花子は目を閉じた
そして仁の胸に静かに寄り添った
しばらくして
花子はゆっくりと体を起こした
「……すみません」
「どうして謝るんですか?」
「わざわざ仁さんにこんな話まで……」
「大丈夫です」
仁は静かに答えた
「むしろ、話してくれてありがとうございます」
花子が微笑んだ
目は少し赤く、涙の跡も残っていたが、誰よりも美しい笑顔だった
「仁さんって、本当に変な人ですね」
「そうですか?」
「はい」
花子が小さく笑った
「最初は怖い人だと思っていたのに……」
「……」
「こんなに優しい人だなんて思いませんでした」
仁はしばらく何も言わなかった
「そんなことを言われると、少し恥ずかしいですね」
花子がくすりと笑った
「仁さんも恥ずかしがるんですね」
「私も人間です」
「ふふ」
二人の間に小さな笑い声が流れた
しばらくして花子はフォレストの中を見つめた
古びた壁
古い家具
犬たちの写真
そしてトリミングテーブル
幼い頃から見てきた風景だった
けれど、今日は少し違って見えた
自分が一人で守っている場所だと思っていたフォレスト
そこには今、仁もいた
花子はゆっくりとフォレストの中を見回した
幼い頃、祖母の手を握って歩いた場所
祖母にブラッシングを教えてもらった場所
祖母と一緒に笑った場所
そして祖母がいなくなったあと、一人で守ろうとしてきた場所
そのすべての時間が、今のフォレストの中に
残っていた
けれど、もう一人ではなかった
花子は隣にいる仁を見つめた
最初はただ仕事を探しに来た人だった
けれど、いつの間にかフォレストの一員になっていた
犬たちの世話をして
店を一緒に片付けて
辛い時には何も言わずにそばにいてくれる人
花子は小さく微笑んだ
「……おばあちゃん」
写真の中の祖母が浮かんだ
「私……ちゃんとできているみたいです」
そして心の中で静かに言葉を続けた
これからもフォレストをちゃんと守っていくね
でも、もう一人じゃないよ
花子はもう一度、フォレストを見つめた
祖母が残してくれたフォレスト
花子が守ってきたフォレスト
そしてこれから仁と一緒に新しい時間を積み重ねていくフォレスト
そこはもう、過去に留まり続ける場所ではなかった
これからも新しい人たちが訪れ
新しい犬たちが訪れ
新しい思い出が一つずつ積み重なっていく場所だった
花子はそのことを少しずつ受け入れていた
その夜
フォレストの中には温かなうどんの香りと、静かな笑い声が残っていた
そして花子は久しぶりに、少し穏やかな気持ちで目を閉じることができた
祖母が残してくれたフォレストで
花子の物語が始まっていた




