第19話 ― 小さなひげっ子
チリン
フォレストのドアが開いた
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
仁も隣で頭を下げた
「いらっしゃいませ」
お客さんが抱いていた犬は、ミニチュア・シュナウザーだった
灰色がかった毛の間から黒い鼻が見え、口の周りには小さなひげのような毛がふさふさと生えている
眉毛のように見える毛のせいか、表情もどこか厳めしく見えた
だが、飼い主に抱かれている姿は意外なほどおとなしかった
「今日は全身カットでお願いします」
「はい、かしこまりました」
花子が犬を受け取り、トリミングテーブルに乗せた
「名前はモカです」
「モカ……」
仁が静かに名前を繰り返す
モカは仁を見つめたあと、少しだけ顔を背けた
知らない人を警戒しているようだった
仁は無理に手を伸ばさず、しばらくモカを見つめた
モカの耳が少し動いた
そしてゆっくりと仁のほうへ顔を向けた
「仁さん、私はカットから始めますね」
「はい、お風呂の準備をします」
花子がハサミを持ってカットを始めた
仁は隣で必要な道具とタオルを用意する
サッ
サッ
ハサミが毛を切る音が静かに続いた
モカは最初こそ少し緊張していたが、花子の手が続くにつれて少しずつ落ち着き始めた
仁はそんなモカの様子を見ながら、必要な道具を手渡していく
「仁さん、タオルを一枚お願いします」
「こちらです」
「ありがとうございます」
仁は再びモカを見つめた
最初よりも表情が少し穏やかになっていた
以前の仁なら、ただおとなしくしているかどうかだけを確認していただろう
だが、今は違った
耳が動いているか
体に力が入っているか
目を逸らしているか
小さな変化一つ一つを見るようになっていた
しばらくして、花子がハサミを置いた
「カットはこれくらいで大丈夫です」
花子がモカの毛を確認する
「仁さん、お願いします」
「はい」
仁はモカをシャンプースペースへ移した
「モカ」
仁が静かに声をかける
「これからお風呂に入ります」
モカは仁を見つめた
仁はいきなり水を出さなかった
少し待ってから、ゆっくりと手を差し出した
モカが仁の手の匂いを嗅ぐ
仁は手を動かさず、そのまま待った
「大丈夫です」
モカは一度匂いを嗅いだあと、仁を見つめた
仁は小さく頷いた
「ゆっくりやります」
しばらくしてモカが落ち着くと、仁は水の温度を確認した
そしてゆっくりと毛を濡らしていく
温かいお湯が灰色がかった毛の間へと染み込んでいった
毛が水に濡れて体に張り付くにつれ、モカの姿が少しずつ変わっていく
特に口の周りにふさふさと生えていたひげが濡れて、しおれていった
ついさっきまで厳めしく見えていた顔が、一瞬でどこかコミカルな姿に変わった
仁はしばらくモカの顔を見つめた
『……ちょっと面白いな』
だが、口には出さなかった
シャンプーをしている間も、仁はモカの反応をずっと見ていた
体を動かせば手を止め
またおとなしくなれば、ゆっくりと手を動かす
モカが少し体を後ろへ引くと、仁はすぐに手を止めた
「大丈夫です」
しばらく待つと、モカが再び仁のほうへ体を向けた
仁はそこで、またゆっくりと手を動かし始めた
以前なら、早く終わらせようとしていたかもしれない
だが今は、急がないほうがかえって楽なのだと分かっていた
モカの緊張が少しずつ解けていくのも感じられた
「……少し慣れてきたようですね」
仁が小さく呟く
モカが尻尾を少し振った
仁はその姿を見て、小さく頷いた
「いいでしょう」
シャンプーを終えると、仁はタオルで水気を拭き取った
濡れた毛を乱暴に擦るのではなく、タオルで押さえるようにして水分を取っていく
口の周りのひげは特に丁寧に拭いた
「ひげは少し気をつけたほうがよさそうですね」
仁がひげを見ながら言った
花子が隣で笑う
「モカの自慢ですからね」
「そうなんですか?」
「はい、飼い主さんも、ひげがあってこそモカらしいって言ってましたから」
「なるほど」
仁は再びひげを見つめた
「確かに印象的です」
ひげが絡まないように指で軽く整えてから、ドライヤーを用意する
ブォォォン
ドライヤーの音がすると、モカの耳が動いた
仁はすぐに風の強さを弱めた
「大丈夫ですよ」
モカが仁を見つめる
仁は急がなかった
少し待ってから、再びゆっくりと毛を乾かし始める
風を一か所に当て続けず、少しずつ動かしていく
モカが体を動かすたびに、仁はドライヤーを止めて様子を確認した
すると最初は緊張していたモカも、少しずつおとなしくしているようになった
仁はモカの目を一度確認してから、小さく声をかける
「もう少しです」
モカは返事の代わりに、尻尾をほんの少し振った
仁はそれを見て、ドライヤーを続けた
「仁さん」
花子が隣から声をかける
「もうすっかり自然にできるようになりましたね」
「何がですか?」
「犬が動いたら、すぐに止めるところです」
仁はしばらくドライヤーを見つめた
「動くのには、何か理由があるのでしょうから」
「そうですね」
「以前は、ただ動かないようにすることが先だと思っていました」
花子が微笑む
「ずいぶん変わりましたね」
仁は少し考えた
「そうでしょうか?」
「はい」
花子がモカを見る
「モカも今は楽そうですし」
仁は再びモカを見つめた
確かに最初とは違っていた
緊張でこわばっていた体も、いつの間にか力が抜けている
ドライヤーが終わると、仁はブラシを手に取った
濡れた毛を整え、絡まっている部分は先に手でほぐす
特に顔周りの毛は、さらに慎重にブラッシングした
ひげのように伸びた毛がブラシに沿ってきれいに整っていくと、モカの顔も少しずつ元の姿に戻っていった
仁は片側から確認したあと、反対側の毛も確認する
「こちらも少し絡まっていますね」
先に手でほぐしてから、ゆっくりとブラッシングを続けた
モカはもう最初よりずっとリラックスしているようだった
仁の手が顔の近くまで来ても、避けようとしない
「……よくできています」
仁が低い声で呟く
その言葉が分かったかのように、モカが瞬きをした
仁は最後にひげの周りを整えた
そして、しばらくモカの顔を見つめた
水に濡れて垂れ下がっていたひげは、再びふさふさと立ち上がっている
最初に見たときのような厳めしい顔だった
「……やはりこちらのほうがいいですね」
花子が笑った
「モカ、ひげがかっこいいでしょう?」
「はい」
仁は頷いた
「厳めしく見えます」
「そうでしょう?」
花子がモカの顔を見ながら笑う
「でも、お風呂に入ると急に可愛くなるんですよ」
仁は水に濡れていたモカの姿を思い出した
垂れ下がったひげと、どこかしょんぼりした表情
確かに今とは違っていた
「……そうですね」
花子は思わず笑いをこらえきれなくなった
「仁さんもそう思いますよね?」
「はい」
仁は素直に答えた
「少し意外でした」
「私も最初はそうでした」
花子がモカの頭を軽く撫でる
「シュナウザーはひげがあるから、余計に怖く見えることもあるんですよ」
「ですが、モカはおとなしいです」
「そうなんですよ。顔と性格がちょっと違うんですよね」
仁はモカを見つめた
小さな体にふさふさのひげ
そして眉毛のように見える毛
最初に見たときはどこか怖そうに見えたが、よく見ると可愛らしいところもあった
ブラッシングを終えて毛を整えると、モカが仁の手を舐めた
仁は一瞬動きを止めた
「……」
花子が笑う
「モカも仁さんのこと、気に入ったみたいですね」
仁はモカの頭を軽く撫でた
「私も気に入りました」
モカが尻尾を少し振った
「ふふ」
花子が笑う
「仁さんが犬にそんなことを言うのも、もう自然になりましたね」
「そうでしょうか?」
「はい」
仁は少し考えた
「犬によって性格が違うということは、少し分かってきた気がします」
「それが分かるようになっただけでも大きな変化ですよ」
花子が微笑む
「すべての犬が同じ方法で安心するわけじゃないですからね」
「はい」
仁は頷いた
「まず様子を見ることが大切なのですね」
「そうです」
花子が笑った
「仁さんが今日モカにしたように」
仁はモカを見下ろした
少し前まで緊張していた犬が、今では仁の手を安心して受け入れている
その姿を見ていると、仁はなぜか心が落ち着いた
仁はトリミングテーブルを片付け始めた
花子も隣でタオルを畳んだ
「今日は本当に上手でしたよ」
「ありがとうございます」
「特にモカが緊張したとき、すぐに待ってあげたのがよかったです」
仁は頷いた
「急ぐと、もっと不安になるようでした」
「そうですね」
花子が微笑む
「犬によって落ち着く方法は違いますから」
「これからも、まず様子を見るようにします」
「はい。それで十分です」
しばらくすると、フォレストのドアが開いた
チリン
モカの飼い主が戻ってきた
「あら、モカ!すごくきれいになったわね」
花子が笑いながらモカを見せる
「ひげもきれいに整えましたよ」
飼い主がモカの顔を見る
「やっぱり、ひげがあってこそモカらしいですね」
仁はその言葉を聞いて頷いた
「私もそう思います」
飼い主が笑う
「モカ、知らない人を少し警戒するんですけど、今日は大丈夫だったみたいですね」
花子が仁を見る
「仁さんがゆっくりやってくれたんです」
「ああ、そうだったんですね」
飼い主が仁に頭を下げる
「ありがとうございます」
「いえ、モカがよくついてきてくれました」
仁がモカを見る
モカは飼い主に抱かれたまま、仁を見つめていた
そして、尻尾を少し振った
仁も自然に頷いた
「またよろしくお願いします」
「はい」
飼い主はモカを抱いたまま、フォレストを出ていった
チリン
ドアが閉まった
仁はしばらくその姿を見つめてから、再びトリミングテーブルを片付けた
花子も隣で使った道具を片付ける
「仁さん」
「はい」
「モカ、可愛かったですよね?」
「はい」
「最初に見たとき、少し怖そうに見えませんでした?」
仁は少し考えた
「少し、そう思いました」
「やっぱり」
花子が笑う
「私も最初に見たときはそうでした」
仁はモカがいた場所を見つめた
「ですが、近くで見ると違いました」
「そうですよね」
「見た目だけで判断してはいけないということも、改めて分かりました」
花子がしばらく仁を見る
「そんなことも考えたんですか?」
「はい」
仁は少し言葉を止めた
そして静かに付け加える
「人も同じなのかもしれません」
花子の表情が少し変わった
だが、すぐに優しく微笑んだ
「そうかもしれませんね」
仁はそれ以上何も言わなかった
花子もあえて尋ねなかった
しばらく静かな時間が流れた
すると、花子が突然笑った
「でも、モカはお風呂に入ったとき、本当に可愛かったですよね?」
仁はしばらく黙った
「……その話、まだ続けるんですか」
「だって、面白いじゃないですか」
「私はもう認めました」
「何をですか?」
仁は花子を見る
「可愛かったと」
花子が吹き出した
「ふふ……仁さんが自分から認めましたね」
「なぜ笑うんですか?」
「なんとなくです」
花子は笑いをこらえながら言った
「仁さんが初めてフォレストに来たときは、犬に可愛いって言うこともなかったじゃないですか」
仁は少し考えた
「そうでしたか?」
「はい」
「……覚えていません」
「私は覚えていますよ」
花子が微笑む
「最初は犬が近づいてくるだけで固まってたじゃないですか」
仁はフォレストに初めて来た日のことを思い出した
見慣れない場所
慣れない仕事
そして自分を見つめる小さな犬たち
あの頃の自分は、何をすればいいのか分からなかった
今は違う
犬が不安そうなら待つことができる
怖がっているなら、ゆっくり近づくことができる
そして安心したことにも気づける
「……少し変わったのかもしれません」
仁が言った
「はい」
花子が笑った
「私もそう思います」
仁はトリミング道具を一つずつ元の場所に戻した
ハサミ
ブラシ
タオル
ドライヤー
最初は使い方を覚えるだけでも精一杯だった道具たちだった
だが今では、どんな状況で何が必要なのか、少しずつ分かるようになってきていた
もちろん、まだまだ足りない
失敗することもあるし、花子に助けてもらわなければならないことも多い
だが、それでもいい
「花子さん」
「はい?」
「明日もよろしくお願いします」
花子は一瞬目を瞬かせた
そして、優しく微笑んだ
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします」
ソファでは、モッチが体を丸めて昼寝をしていた
仁はモッチを一度見たあと、店内をゆっくりと見渡した
暖かな春の日差し
片付けられたトリミング道具
そして、すっかり見慣れたフォレストの風景
最初は見慣れなかった場所だった
だが、いつの間にかここで過ごす時間が自然なものになっていた
仁は静かに思った
まだ覚えなければならないことは多い
だが、焦る必要はない
花子が言っていたように
ゆっくり覚えていけばいい
今日もまた、一つ学んだ
そうして一日を終えた仁は、部屋へ上がった
一日中フォレストで働いていたせいか、体が少し疲れていた
仁はベッドに腰を下ろし、しばらく周りを見渡した
静かな部屋
窓から差し込む淡い月明かり
そして、下の階から聞こえていた小さな物音も、いつの間にか消えていた
仁はベッドに横になった
ふかふかの布団に体を包まれると、自然と力が
抜けていく
そのときだった
タタタタッ
小さな足音が聞こえてきた
仁が顔を向けると、モッチが部屋の中へ入ってきていた
モッチは仁を見つめると、ゆっくりとベッドのそばへ近づいてきた
「モッチ?」
仁が少し体を起こした
モッチはしばらく仁を見上げていた
そして、ベッドの上へ飛び乗ると、仁のそばに場所を取った
「モッチ、一緒に寝たいのか?」
モッチは仁をじっと見つめ、それから
体を丸めて横になった
仁はしばらくモッチを見つめてから、小さく笑った
「分かった、モッチ。一緒に寝よう」
仁はモッチの頭を軽く撫でた
柔らかな毛の感触が指先に伝わってくる
モッチは仁の手をじっと受け入れたあと、目を閉じた
仁も再び枕に頭を預けた
今日一日もいろいろなことがあった
犬の気持ちを考え
慎重に仕事をし
花子といろいろな話もした
フォレストに入る前までは、想像もしなかった一日だった
だが今は、こんな平凡な一日が嫌いではなかった
むしろ、こういう時間が少しずつ好きになっていた
仁は隣で静かに眠るモッチを見つめた
「おやすみ」
モッチは返事の代わりに、尻尾をほんの少し動かした
仁はその姿を見て、再び微笑んだ
そしてゆっくりと目を閉じた
部屋の中には、穏やかな寝息だけが静かに響いていた
その夜
モッチと一緒に眠ったせいか、仁はいつもより穏やかな眠りについた
そして久しぶりに、何の心配もない良い夢を見た




