第18話 ― 美しい蝶、パピヨン
初めて給料をもらった翌日
仁はいつもと変わらず、フォレストへと降りてきた。
朝の日差しが店の中へ差し込んでいた。
仁は店の扉を開け、床を掃き、トリミングテーブルを拭いたあと、道具を一つずつ確認した。
タオルの状態を確認し、トリミング道具が元の場所にあるかも確認する。
そのとき、階段を降りてくる音が聞こえた。
「仁さん、おはようございます」
花子が姿を見せた。
「おはようございます」
「今日も早いですね」
「いつも通りです」
「もうその言葉にも慣れましたね」
花子が笑った。
仁は何気なく花子の髪へ視線を移した。
右の前髪には、薄紫色のヘアピンが留められていた。
小さな白い桜の飾りもそのままだった。
昨日、自分が渡したプレゼントだった。
(……美しい)
ふと、そんなことを思った。
普段と大きく変わらない姿なのに、自分が贈ったヘアピンをつけているというだけで、なぜか目が離せなかった。
「仁さん?」
花子が首を傾げた。
仁はそこでようやく視線を戻した。
「……はい?」
「どうしてそんなに見てるんですか?」
「いえ」
「いえ、じゃないですよ。さっきからずっと見てましたよね?」
少し迷ったあと、仁は仕方なく口を開いた。
「ただ……花子さんがいつもより綺麗に見えたので、見ていました」
「……」
花子の顔が少し赤くなった。
「あ……いえ、謝らなくても大丈夫ですよ」
「その……ありがとうございます」
花子がヘアピンにそっと触れた。
こうして二人の間に、
気まずくもどこか微妙な沈黙が生まれた。
その沈黙を先に破ったのは花子だった。
「じゃあ……仕事の続きをしましょうか?」
「はい、そのほうがよさそうですね」
二人が気まずそうに仕事を再開しようとした、
そのとき、フォレストの扉が開いた。
チリン
「花子!」
明るい声とともに、一人の女性が入ってきた。
その腕には、小さなパピヨンが抱かれていた。
長い毛と大きな耳が目を引く犬だった。
「美咲、来たの?」
花子が嬉しそうに迎えた。
「うん、久しぶり。花子」
美咲が抱いていたパピヨンが花子へ近づくと、花子はルルの頭を撫でた。
「ルル、毛が少し絡まってるみたいだけど?」
「うん、最近ちょっと仕事が忙しくて、
ちゃんとブラッシングしてあげられなかったの」
仁は少し離れたところから、静かに花子と美咲を
見ていた。
美咲は仁の視線に気づき、花子に尋ねた。
「花子、あの人は誰?」
「ああ、仁さんのこと? うちの店の従業員だよ」
花子が仁に声をかけた。
「仁さん、こちらは私の友達の美咲です。フォレストにもよく来てくれるお客さんなんですよ」
仁は花子と美咲のところへ近づき、挨拶した。
「初めまして」
「黒沢仁と申します、気軽に仁と呼んでください」
仁が頭を下げた。
美咲も軽く頭を下げた。
「初めまして、私は石川美咲です」
「私も気軽に美咲って呼んでください、仁さん」
美咲が笑いながら言った。
「分かりました」
簡単な自己紹介を終えると
仁はルルを見た。
ルルも仁を見ていた。
しばらく目が合った。
仁がゆっくりと手を差し出す。
ルルは仁の手の匂いを嗅ぐと、警戒する様子もなく、そっと近づいて体を擦りつけてきた。
「警戒心があまりないんですね」
「うん、ルルは人がけっこう好きなの」
美咲が笑いながら答えた。
そのとき、ルルがフォレストに置いてあったおもちゃをくわえて、仁のところへ持ってきた。
ルルはおもちゃを仁の前に置いた。
「……一緒に遊んでほしいということですか?」
「ワン」
ルルが尻尾を振った。
「そうみたいですね、仁さん」
花子が笑いながら言った。
仁はルルとおもちゃを交互に見た。
「それなら、トリミングを始める前に少しだけ遊んであげましょう」
「ワン!」
ルルが嬉しそうに鳴いた。
こうして仁とルルは、おもちゃで遊び始めた。
その様子を見ていた美咲は、しばらく仁と花子を交互に見ていた。
そして妙な表情を浮かべながら、花子へ近づいていった。
「ねえ、花子」
「ん? どうしたの?」
美咲は花子の耳元で小さく囁いた。
「もしかして……私に黙って結婚した?」
「……」
花子の顔が一瞬固まった。
「え?」
「いや、だって……花子が男の人を従業員にするなんて珍しいなって思ったし」
美咲は仁と花子を交互に見ながら笑った。
「それに二人で話してるとき、目からハートが飛び出してるみたいで、完全に夫婦に見えたから」
花子の顔が一気に赤くなった。
「ち、違うよ!」
「私と仁さんは何でもないから」
「ただの同僚だよ、同僚」
「えー? 嘘だぁ」
「嘘じゃないって。本当に何でもないんだから!」
花子がいつもより大きな声で言った。
ルルと遊んでいた仁は、その声に顔を上げた。
花子に何かあったのかと思い、仁が近づいてくる。
「花子さん、何かあったんですか?」
その瞬間、花子がいつもよりさらに大きな声で言った。
「仁さんは知らなくていいです!」
仁の手がそのまま止まった。
「……」
花子も自分が大声を出したことに気づき、慌てて仁を見た。
「あ……ごめんなさい、仁さん」
「大丈夫です」
「怒ったわけじゃないんです」
「はい、分かっています」
それでも仁は少し驚いた表情を浮かべていた。
花子が自分にこんな大きな声を出したのは初めてだった。
仁はいつもと違う花子の様子に、少し戸惑っていた。
美咲は口元を押さえながら笑っていた。
「美咲」
「ん?」
「笑わないで」
「ごめん、ごめん」
そう言いながらも、美咲の顔には笑みが浮かんでいた。
仁は二人をしばらく見つめていたが、ルルが再びおもちゃをくわえて戻ってきたのを見て視線を戻した。
「……では、続きをしてあげましょう」
「ワン!」
ルルが再び尻尾を振った。
花子はそんな仁の姿を見ながら、小さく呟いた。
「仁さんが鈍感でよかった……」
「何?」
美咲がすぐに反応した。
「何でもない」
「やっぱり二人、少なくとも恋人同士でしょ」
「違うってば」
花子は再び顔を赤くした。
「本当に違うんだから!」
そのとき、美咲の視線が花子の前髪へ向いた。
「ところで、花子」
「ん?」
「それ、何?」
美咲が花子の前髪についたヘアピンを指差した。
「見たことないけど?」
花子は自分のヘアピンに触れた。
「これ?」
「うん、可愛いね」
花子は一瞬、仁を見た。
そして先ほどのことを思い出したのか、再び顔を赤くした。
「これは……」
「まさか、仁さんが買ってくれたの?」
「……」
美咲の目が輝いた。
「花子、本当に仁さんと付き合ってるんじゃない?」
「違うよ!」
花子が慌てて手を振った。
「私たちは何の関係もないから!」
「でも、仁さんがヘアピンをくれたんでしょ?」
「それは……そうだけど」
「ほら、やっぱり付き合ってるんじゃん」
「違うって!」
花子は再び顔を赤くした。
美咲は面白そうに笑った。
「はいはい、分かりました」
「もう……」
美咲は笑いをこらえながらルルの頭を撫でた。
「じゃあ、うちのルルをよろしくね」
「分かった」
「あとでまた迎えに来るね」
「うん」
美咲がフォレストを出ると、花子はため息をついた。
「本当にもう……美咲ったら。何度も違うって言ったのに」
「何かあったんですか?」
仁が尋ねた。
花子は一瞬、動きを止めた。
「それが……」
先ほどのことを思い出し、何も考えずに口にした。
「美咲がずっと私たちを見て、夫婦だとか恋人だとか……そんなことを言ってきたんです」
「私たちが夫婦ですか?」
仁が首を傾げた。
花子は自分の口から出た言葉がおかしいことに、
今さら気づいた。
「その……私がちゃんと否定したので、気にしなくても大丈夫ですよ」
「はい、分かりました」
二人の間に再び気まずい空気が流れた。
花子は意味もなくヘアピンをいじりながら、恐る恐る口を開いた。
「それじゃあ……トリミングを始めましょう」
「はい」
花子もなんとか平静を取り戻した。
「ルル、今日は綺麗にして帰ろうね」
「ワン」
ルルは尻尾を振った。
花子がまずルルの毛の状態を確認した。
「毛の状態は悪くないね。それじゃあ、トリミング始めるよ、ルル」
仁は隣でトリミング道具とタオルを準備した。
花子がカットを始めると、仁は必要な道具を渡し、周囲を片付けた。
ルルは最初こそ少し緊張しているように体を動かしていたが、すぐに慣れていった。
花子が慎重に毛を整えている間、仁はルルの表情を確認していた。
「ルルは大人しいですね」
「はい、ルルはもともとトリミング中は大人しいほうなんです」
花子が笑った。
「それでも、いつも注意しないといけませんけどね」
「はい」
カットが終わると、仁はルルをシャンプーする準備をした。
お湯を張り、温度を確認してからルルを慎重に抱き上げる。
「これからシャンプーします」
ルルは仁を見上げると、大人しく体を預けた。
温かいお湯が毛を濡らし始めると、長く垂れていた耳も自然と下へ垂れた。
仁はルルの耳を見つめた。
「花子さん……」
「何ですか? 仁さん」
「ルルの耳が小さくなりました」
花子が吹き出した。
「ふふっ」
「どうして笑うんですか?」
「いえ、仁さんがそんな反応をするなんて思わなくて」
「変ですか?」
「いいえ」
仁は再びルルを見た。
「普段はかなり大きく見えたのですが」
「もちろん元々大きいんですけど、普段は毛が長いから、もっと大きく見えるんですよ」
「そうなんですか」
仁は慎重にルルの体を洗った。
小さな体なので、力を入れすぎないように手加減しながら洗っていく。
ルルが少し動くたびに、仁は手を止めて待った。
「ゆっくりやったほうがいいですよ」
花子が言った。
「はい」
仁は再びゆっくりと手を動かした。
シャンプーが終わると、仁はタオルでルルの体を包み、水分を拭き取った。
そしてドライヤーを準備する。
ドライヤーの風が強くなりすぎないように調整した。
「大丈夫ですか?」
「ワン」
ルルが少しだけ顔を動かした。
仁はすぐに風を止めた。
少し待ってから、再び弱い風を当てる
ルルが大人しくしているのを確認してから、
少しずつ乾かし始めた。
長い耳が風に揺れていた。
仁は耳の周りを乾かすときは特に慎重になった。
「仁さん、耳のあたりはあまり近づけないほうがいいですよ」
「分かりました」
仁はドライヤーを少し離した。
ルルは再び落ち着いた様子になった。
その様子を見た花子が小さく笑った。
「もう仁さんが自分で調整できるようになりましたね」
「まだまだ学ぶことは多いです」
「それでも最初よりずっと自然になりましたよ」
ドライが終わると、仁はブラシを手に取った。
まず手で毛の絡まっている部分を確認する。
特に耳の後ろは毛が絡まっていたため、手で少しずつほぐしてからブラシを使った。
「……ここは少し絡まっていますね」
「はい、だから気をつけないといけません」
仁はゆっくりとブラッシングを続けた。
ルルが体を動かすと手を止め、待つ。
再び大人しくなれば、ブラッシングを続ける。
長い尻尾もゆっくりと整えていく。
そして最後に、耳の周りの毛を慎重にブラッシングした。
毛の手入れが終わったルルは、最初よりもずっと綺麗になっていた。
長い毛は柔らかく整えられ、大きな耳も再び蝶のように広がっている
仁はルルを見つめた。
「……確かに綺麗ですね」
花子が笑った。
「そうでしょう?」
仁はルルの毛をもう一度確認した。
「今日も一つ、勉強になりました」
「それなら次はもっと上手にできますね」
「はい、そうします」
花子が微笑んだ。
そのとき、フォレストの扉が開いた。
チリン
美咲が再び姿を見せた。
「ルル、終わった?」
「うん、終わったよ」
ルルは美咲を見ると尻尾を振った。
「ルル!」
美咲がルルを抱き上げた。
「わあ、毛、すごくふわふわになってる」
「耳の後ろが少し絡まってたよ」
「ごめんね、私がちゃんと手入れしてあげられてなかったね」
「大丈夫。家で少しずつブラッシングしてあげればいいから」
美咲はルルの頭を撫でた。
「やっぱり花子が一番だね」
花子が満足そうな表情を浮かべながら言った。
「仁さんも一緒にやってくれたよ」
「そうなの?」
美咲はしばらくルルを見てから、仁へ視線を向けた。
「仁さんも本当にありがとうございます」
「いえ、大したことではありません」
「ルルはトリミングが終わると神経質になることが多いんですけど、今日は大丈夫そうでよかったです」
「ルルが大人しくしていてくれました」
「それでも仁さんが上手にやってくれたからですよ」
美咲が笑った。
そして再び花子と仁を交互に見た。
「でも、本当に二人ってお似合いだよね」
「またその話ですか?」
花子の顔が再び赤くなった。
「仁さんはただの従業員なんだから」
「はいはい、分かりました」
美咲は笑いをこらえながら言った。
「でも花子、そういう割には、さっきからずっと顔が赤いけど?」
「……美咲」
「ん?」
「本当にもうやめて」
「分かった、分かった」
仁は二人を交互に見た。
「私と花子さんがお似合いというのは、どういう意味ですか?」
「仁さんは知らなくていいです!」
「……またですか?」
仁の表情が固まった。
花子はそこで、また同じことを言ってしまったことに気づいた。
「あ……その、そういう意味じゃなくて……」
美咲はとうとう笑いをこらえきれなくなった。
「わはは」
「美咲!」
「分かった、もう言わないから」
花子は顔を赤くしたまま、ため息をついた。
「本当にもう……」
仁は相変わらず、何のことなのか分からないという表情を浮かべていた。
美咲はルルを抱いたまま、玄関へ向かって歩いていった。
「じゃあ、また来るね」
「うん、次は忙しくても、家でブラッシングも少し気をつけてあげてね」
「分かった」
美咲は扉を開ける前に、ふと振り返った。
「花子」
「何?」
「次もよろしくね」
花子が微笑んだ。
「もちろん」
美咲は仁を見た。
「仁さんもね」
「はい」
美咲は笑いながらフォレストを出ていった。
扉が閉まると、店の中は再び静かになった。
花子はしばらく扉を見つめたあと、小さくため息をついた。
「美咲はいい友達なんですけど……たまにすごくからかってくるんですよね」
「そうなんですか?」
「はい」
仁は少し考えてから言った。
「それでも、美咲さんはルルをとても大切にしている方のようですね」
「うん、美咲はルルのことが本当に大好きなんです」
花子が笑った。
仁は先ほどのルルの姿を思い出した。
小さな体
柔らかな長い毛
蝶のように広がった大きな耳
そしてトリミングが終わったあと、自分の手を舐めてくれた姿
仁は静かにブラシを片付けた。
最初は、ただ犬の毛を整える仕事だと思っていた。
しかし今は少し違っていた。
犬が緊張しているのか
どの部分を嫌がっているのか
いつ手を止めるべきなのか
そして、いつ再び始めるべきなのか
それを知っていくことも、トリミングの一部だった。
仁は綺麗に整えられたルルの毛を、もう一度思い浮かべた。
そして先ほど花子と美咲が交わしていた会話も思い出した。
「……結婚、か」
仁は少し考えたあと、首を横に振った。
今はわざわざ考える必要のないことだった。
仁は再びトリミング道具を片付けた。
「……今日もお疲れ様でした、花子さん」
花子が隣で微笑んだ。
「はい、お疲れ様でした、仁さん」
フォレストの中へ、暖かな日差しが差し込んでいた。
仁は片付けを終えると、トリミングテーブルを一度見つめた。
今日はとても明るい美咲さんと、蝶のように美しい耳を持つパピヨンのルルに出会い、少し戸惑うこともあった。
それでも、やりがいがあって楽しい一日だったと、仁は思った。




