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第17話 ― 初めての給料

朝から仁は、いつもと変わらなかった

フォレストの扉を開け、掃除を始める

そして、トリミング道具を整理していった

春が始まってからしばらく経ち、フォレストの風景にもすっかり慣れてきた

仁にとって、ここで迎える朝は、もう当たり前のものになりつつあった。

「おはようございます」

花子が階段を下りてきた。

「おはようございます」

「今日も早いですね」

「いつも通りです」

花子が笑った。

「仁さんは、本当に変わらないですね」


そのとき、ソファからモチが降りてきて、仁のところへ近づいてきた。

仁は自然な動作で、モチの頭を撫でる

「おはようございます」

モチは尻尾を振った

仁はもう一度モチを撫でてから、店の片付けへ戻った

午前中のフォレストには、いつもと変わらない時間が流れていた

お客さんが来れば花子を手伝い

お客さんがいない時間には店内を整理する

仁はもう、花子に言われなくても自分がやるべきことを見つけて動けるようになっていた。


そのとき


プツッ


小さな音がした

花子の髪ゴムが切れた

「え?」

結んでいた長い髪が肩へと流れ落ちる。

花子は手に残った髪ゴムを見つめた。

「こんな……」

仁が近づいてきた

「大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫ですよ」

花子は流れ落ちた髪を手で整えた

「ただ、長く使っていたから切れちゃったみたいです」

「新しいものが必要ですね」

「はい、あとで一つ買わないと」

花子は切れた髪ゴムを見つめて、小さく笑った。

「これ、結構長く使ってたんですよ」

「長く使っていたんですか?」

「はい、フォレストで働くときは、ほとんど毎日使ってました」

花子は切れた髪ゴムを捨てると、再び仕事に戻った

仁は花子の髪をしばらく見つめた


そして、何も言わずに覚えておいた

昼休みになると、花子はいつものように簡単な食事を用意した

仁も席につく

しかし、今日はいつもと少し違っていた

今日は仁がフォレストで働き始めて一ヶ月になる日

そして、仁が初めて給料をもらう日だった

しばらくして、花子が一つの封筒を取り出した

「仁さん」

「はい」

「どうぞ」

花子が封筒を差し出した

仁はその封筒を見つめた

分厚い封筒ではなかった

それなのに、不思議と手に重みを感じた

「これが……」

「初めてのお給料です」

仁はしばらく何も言わなかった

自分が働いて稼いだ金

誰かからもらって使う金ではなく

自分自身が働いて手にした金だった

仁は慎重に封筒を開けた


そして、中身を確認する

「……」

花子が尋ねた

「どうしたんですか?」

「思っていたより……多いですね」

「多いですか?」

仁はもう一度、金を見つめた

「はい、私が思っていたより多いです」

花子が小さく笑った

「それでも少なくしてるんですよ」

「どういう意味ですか?」

「仁さん、ここで働きながら生活してるじゃないですか」

「はい」

「食費や家賃は別に払っていませんよね」

花子は封筒を指差した

「だから、お給料から生活費を引いた分を渡してるんです」


仁はしばらく花子を見つめた

「そうなんですか?」

「はい」

「それでも……もらいすぎではありませんか?」

花子は首を横に振った

「そんなことないですよ、仁さんが働いた分ですから」

「ですが、私はまだ覚えなければならないことがたくさんあります」

「それは関係ありません」

花子が笑った

「仁さんは今だって十分頑張ってますから」

仁はしばらく封筒を見下ろした

「……分かりました」

「初めてのお給料ですよ」

花子が明るい声で言った

「嬉しいでしょう?」

仁はしばらく金を見つめ、それから頷いた

「はい」

とても短い返事だった


けれど、花子にはその一言に込められた気持ちが分かるような気がした

「おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「初めてのお給料で、何かしたいことはありますか?」

仁は少し考えた

以前の自分なら、酒を買ったり、遊びに使ったりしていただろう

けれど、今は違う

「貯金するつもりです」

「全部ですか?」

「一部は使います」

「何に使うんですか?」

仁は封筒を見つめた

「まだ決めていません」

花子が笑った

「じゃあ、ゆっくり考えてみてください」

「分かりました」

仁は給料の入った封筒を丁寧に折った

そして、ポケットの中へしまった


その日の午後

仁はいつもと変わらずフォレストで仕事をした。

けれど、頭の中には朝に切れた花子の髪ゴムが浮かんでいた。

花子は何でもないように振る舞っていたが

髪を結べないせいか、何度も流れてくる髪を手で直していた。

仁はそれを見るたびに、朝のことを思い出した。

仕事が終わる時間になると、二人はフォレストの扉を閉めた。

「仁さん」

「はい?」

「今日もお疲れさまでした」

「花子さんも、お疲れさまでした」

花子が階段を上ろうとした瞬間

仁が声をかけた

「花子さん」

「はい?」

「渡したいものがあります」

「はい?」

花子は少し不思議そうな顔をした

仁は小さな封筒を持っていた

花子は仁の手にある封筒を見つめた

仁はその封筒を花子へ差し出した

「どうぞ」

「はい……ありがとうございます」

花子は封筒を受け取り、そっと開けた

中には桜の形をした飾りのついたヘアピンと、ライラック色の髪ゴムが入っていた。

花子はヘアピンを見つめてから、仁を見る。

「……髪ゴムですね」

「はい」

「仁さん、ありがとうございます」

「いえ。普段、花子さんにしてもらっていることに比べれば、この程度はささやかなものです」

「そうなんですか? でも、どうしてヘアピンまで?」

仁は少しの間、ヘアピンを見つめた

「花子さんに似合うと思って、一緒に買いました」

花子は少し驚いた顔をした

「私にですか?」

「はい」

仁は淡々と答えた

花子はしばらく何も言わなかった


そして、そっとヘアピンを手に取った。

「……綺麗ですね」

「気に入りましたか?」

「はい」

花子は小さく笑った

「すごく気に入りました」

「それならよかったです」

花子はヘアピンを右側の前髪にそっとつけた

そして、少し首を傾けて仁を見る

「どうですか?」

仁は答えなかった

左側にはいつも使っているヘアピンがあり

右側の前髪には、今自分が買ってきたヘアピンがついている

淡い茶色の髪の間から、ほんのりとしたライラック色が自然に覗き

小さな白い桜の飾りが、花子の顔の横でかすかに輝いていた。

いつもと大きく変わったわけではない


それなのに、仁の目にはどこか違って見えた

仁は自分でも気づかないうちに、しばらく花子の姿を見つめていた

「……仁さん?」

花子の声に、仁はハッと我に返った

「あ……」

「どうしたんですか?」

仁は少し言葉を選んでから、視線を少し逸らした。

「似合っています」

花子が少し笑った

「本当ですか?」

「はい」

「仁さんにそう言ってもらえると、よかったです」

仁はもう一度、花子を見つめた


そして、ほんの一瞬

自分がなぜあんなにも見入っていたのか分からなかった

いつもと同じ花子なのに

今日は少し違って見えた

「ありがとうございます、仁さん」

「たいしたものではありません」

「いいえ」

花子はヘアピンを指先でそっと触れた

「私にとっては、たいしたものじゃないとは

思えません」

仁はしばらく花子を見つめた

「そう思っていただけるなら、よかったです」

花子はもう一度ヘアピンに触れた

「じゃあ、大切にしますね」

仁はその言葉を聞いて、静かに頷いた

「大事に使っていただければ、それで十分です」

「じゃあ、これからたくさん使いますね」

「はい」

仁はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。

初めてきちんとした仕事をして、自分で買ったものだった

高価なものでもない

けれど、自分にとっては不思議なほど意味があった。

自分が稼いだ金で、初めて誰かのために買ったものだったからだ


そして、その誰かは、自分に新しい人生を始めるきっかけをくれた人だった

仁は、そのことが少し嬉しかった

その日の夕方

仁は外出の準備をしていた

「仁さん?」

花子が不思議そうな顔で見つめる

「どこか行くんですか?」

「買い物に行ってきます」

「買い物?」

「はい」

「何を買うんですか?」

仁は少し考えてから答えた。

「秘密です」

花子が瞬きをした

「秘密ですか?」

「はい」

「分かりました、何を買うのか気になりますけど、仕方ないですね」

花子が少し残念そうに言った

「それじゃあ、いってらっしゃい」

「はい」

仁はフォレストを出た

しばらくして

仁は両手に買い物袋を提げて戻ってきた

花子が袋を見つめる

「思ったよりたくさん買いましたね」

「はい」

「何を買ったんですか?」

「見れば分かると思います」

花子は仁が置いた袋の中を少し覗き込んだ。

野菜にキノコ

肉に豆腐

そのほかにも、さまざまな材料が入っていた

花子はしばらく材料を見つめた


そして顔を上げる

「……もしかして、鍋ですか?」

「はい」

仁が淡々と答えた

「初めてのお給料をもらいましたから」

花子が笑った

「仁さんが初めてのお給料のお祝いに作るんですか?」

「はい」

「いいですね」

花子が頷いた

「じゃあ、私も手伝います」

仁はしばらく花子を見つめ、それから頷いた

「それなら、お願いします」

仁は少しだけモチを見る

「モチの分も別に用意してあります」

「モチの分まで?」

「はい。味付けをする前に肉を少し取り分ければ、

大丈夫だと思います」

花子が笑った

「やっぱり仁さんらしいですね」

仁はキッチンへ向かった

花子も自然についていく


二人は並んでキッチンに立った

仁は材料を切り

花子は野菜を洗った。

モチはキッチンの下から、二人を交互に見上げていた。

「モチも待ってるみたいですね」

花子が笑った。

「もう少し待つように言わないといけませんね」

仁はモチを見る。

「もう少し待っていてください」

モチが尻尾を振った。

「分かったんでしょうか?」

「おそらく」


二人は笑った

しばらくして

鍋から温かな香りが立ち上った。

仁が汁を一口味見する。

「どうですか?」

花子が尋ねた。

「大丈夫です」

「じゃあ、食べてもいいですか?」

「はい」

花子が一口味見をした。

しばらくして、笑顔になった。

「美味しいです」

仁の表情が少し緩んだ。

「よかったです」

「初めてのお給料のお祝いに鍋だなんて」

花子が笑った。

「仁さんらしいですね」

「いいじゃないですか」

「はい」

花子は頷いた。

「いいと思います」


二人は温かな鍋を挟んで向かい合って座った

モチも隣で大人しく座っている

「それじゃあ」

花子がグラスを持ち上げた。

「初めてのお給料を祝って、乾杯!」

仁もグラスを持ち上げた

「乾杯!」


二人は同時に鍋を食べ始めた

温かな鍋を食べながら

仁はふと、今日一日のことを思い返した

初めての給料をもらった

そして、花子にヘアピンを買った

最後には、自分で稼いだ金で夕食まで用意した

以前の自分には、想像することも難しい一日だった

金は、ただ生きていくために必要なものだった

けれど、今は少し違う

自分が稼いだ金で、誰かを喜ばせることができる

それが思っていた以上に嬉しいことなのだと、仁は知った


花子が言った

「仁さん」

「はい?」

「今日は、本当にいい一日でしたね」

仁は少し考えてから頷いた。

「はい」

「初めてのお給料をもらったからですか?」

「それもありますが……」

仁は少しの間、花子とモチを見つめた。

「一緒に食べたからだと思います」

花子の表情が少し柔らかくなった。

「……そうですね」

温かな鍋の香りが、フォレストの中に広がっていた。

窓の外からは、夜風が吹いている。

特別なものではなかった。

けれど、この瞬間は、仁が自分の新しい人生が始まっているのだと感じるには十分だった


そして、その初めての給料で買った小さなヘアピンは

これからも花子の右側の前髪を飾っていくのだろう

きっと花子は、そのヘアピンをつけるたびに

今日のことを思い出すのかもしれない

仁は温かな鍋を食べながら思った

「……こういうのも、悪くないな」

新しい人生というのは

もしかすると、こういうものなのかもしれなかった

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