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第16話 ― 雨の日

雨の朝


朝から雨音が聞こえていた。

窓を叩く雨粒の音が、一定の間隔で続いている

仁はベッドから身体を起こした

いつもより暗い部屋をしばらく眺めたあと、窓のほうへ近づいた

外では雨が降っていた

春の雨だった

仁は窓を少し開けてみた

冷たい空気と一緒に、雨の匂いが入ってくる

「今日は雨か」

独り言のように呟いた仁は、窓を閉めた


そして、いつも通り身支度を整えてから

階下へ降りていった

リビングでは、モチがソファの上で横になっていた。

仁が近づくと、モチがゆっくりと目を開ける。

「おはようございます」

モチは尻尾を少しだけ振った。

「今日は散歩は難しそうですね」

モチは何も分からないとでもいうように、

再び目を閉じた。

仁はその姿を見て、小さく笑った。

すると、15話で花子が言っていた言葉を思い出した。

笑いたいときに笑えばいいという言葉。

仁は自分でも気づかないうちに、口元に笑みを浮かべていた。


そのとき、階段から足音が聞こえてきた。

「仁さん、おはようございます」

花子が階段を下りてきた

「おはようございます」

花子は窓の外を見た

「雨、かなり降ってますね」

「はい」

「今日はお客さんが来るのは大変そうですね」

花子はしばらく外を眺めた

雨脚は思っていたよりも強かった

「予約もいくつか入ってたんですけど……」

仁は静かに窓の外を見つめた。

「今日は休みにするのはいかがですか?」

花子が仁を見る。

「仁さんもそう思います?」

「はい」

「私も同じことを考えてました」

花子は予約表を確認した

しばらく考えたあと、スマートフォンを取り出した

予約している客たちに連絡を送り、キャンセルになった予約を整理していく


しばらくして、花子がスマートフォンを置いた。

「終わりました」

「お客さんへの連絡は、すべて済みましたか?」

「はい。みなさん雨だと、トリミングしてもすぐ汚れてしまうからって」

花子がほっとしたように息を吐く。

「理解してもらえてよかったです」

「では、今日はフォレストを休みにしましょう」

仁は少しだけ動きを止めた。

「休みですか?」

「はい」

「そうですか」

花子が笑った。

「どうしました? 休みは嫌ですか?」

「いえ」

仁は窓の外を見た。

「ただ……こうやって休むことは、あまりなかったので」

「まだ慣れてないんですね」

「そうですね」

「じゃあ、今日一度やってみればいいじゃないですか」

花子は笑いながらソファに座った。

「今日は仕事のことを考えないで、ゆっくりしましょう」

仁はしばらく花子を見つめ、それから頷いた。

「分かりました」


二人はいつもと違って、急ぐ必要がなかった。

フォレストの扉は閉まっていて

予約表を確認する必要もない。

窓の外では、雨音だけが静かに続いていた。

ゆっくりとした午前

花子はソファに座り、温かいお茶を飲んでいた。

仁は向かいに座り、窓の外を眺めている。

モチはいつの間にか仁の隣へやってきて、身体を丸めて横になっていた。

仁はモチの背中をゆっくりと撫でる。

「今日は本当に静かですね」

「そうですよね」

花子がカップを置いた。

「普段なら、この時間にはお客さんが来ますから」

「そうですね」

「たまには、こうやって休むのもいいですね」

仁は頷いた。

「はい」


しばらく沈黙が流れた。

雨音がリビングを満たしている。

花子が仁を見る。

「仁さん」

「はい?」

「退屈じゃないですか?」

「少し、そうですね」

「じゃあ、テレビでも見ます?」

「テレビですか?」

「はい」

花子がリモコンを手に取った

「雨の日は家でテレビを見るのが一番楽じゃないですか」

仁は少し考えた。

「何を見るんですか?」

「うーん……」

花子がチャンネルを回していく

バラエティ番組が映ったり、ニュースが映ったりした


そして、ある番組で手が止まった。

「これ、見ませんか?」

仁は画面を見つめた

犬が出てくる番組だった

仁は少し考えてから頷いた

「いいですね」

「仁さん、犬が出てくる番組好きですもんね」

「そうみたいです」

花子が笑った


二人は並んでソファに座り、テレビを眺めた。

モチもその間に入り込むようにして、場所を取った。

テレビに映った犬が可愛らしい仕草をすると、花子が吹き出す

「ふふっ」

仁は花子を見てから、再びテレビ画面に目を向けた。

犬が飼い主のところへゴロゴロと転がっていく場面だった

仁の口元にも笑みが浮かんだ。

「可愛いですね」

花子が仁を見る。

「仁さんも笑いましたね」

「そうですか?」

「はい」

「最近、よく言われる気がします」

「それだけたくさん笑ってるってことですよ」

仁は少し考えた

「悪くはないですね」

「私もそう思います」

花子が笑った


そんなふうに笑ったり話したりしているうちに、いつの間にか昼になっていた。

花子が自分のお腹にそっと手を当てる

「ちょっとお腹空きましたね」

仁が立ち上がる。

「昼食は私が用意します」

「本当ですか?」

「はい」

「何を作るんですか?」

仁は冷蔵庫を開けてみた

卵とご飯、玉ねぎとハムがあった

「チャーハンを作ります」

「私も手伝いましょうか?」

「大丈夫です」

「本当に?」

「はい」

花子はしばらく仁を見つめてから笑った

「じゃあ、今回で二回目ですね。お願いします」

仁はキッチンへ向かい、エプロンを身につけた

材料を切り、フライパンに油を引いて、一つずつ炒めていく

香ばしい匂いがキッチンに広がった


しばらくして、チャーハンが完成した

仁は皿に料理を盛り付け、花子の前に置いた

「食べてみてください」

花子はスプーンを手に取った。

一口食べると、目を大きく見開いた。

「美味しいです」

「本当ですか?」

「はい」

花子が笑う

「仁さん、料理上手ですね」

「自分で食べるものを作る程度です」

「それでも美味しいですよ?」

仁も自分の分を口に運んだ。

「悪くないですね」

花子が笑った

「またその言い方ですね」

「何ですか?」

「美味しいなら、美味しいって言っていいんですよ」

仁は少し考えた。

「美味しいです」

「そうでしょう?」

花子が満足そうな顔をした


二人は窓の外から聞こえてくる雨音を聞きながら、ゆっくり昼食を食べた

普段なら、お客さんを迎えてトリミングの準備をしている時間だった

けれど今日は、何も急ぐ必要がなかった。

昼食を終えると、花子が食器を洗い始めた。

仁が隣へ近づく

「私がやります」

「大丈夫ですよ」

「私が料理を作ったので、片付けは私がします」

「本当に大丈夫なんですけど……」

「私がやります」

花子はしばらく仁を見つめ、それから食器洗いを任せた

「じゃあ、お願いします」

「はい」

仁が食器を洗っている間、花子は隣でその姿を眺めていた。

「仁さん」

「はい?」

「今日、休みなのに仕事してますね」

「これは仕事ではありません」

「じゃあ、何ですか?」

「ただの食器洗いです」

花子が笑った。

「それが仕事をする人の言い方なんですよ」

仁は少し考えた。

「そうなんですか?」

「はい」

食器を洗い終えると、二人は再びリビングへ戻った


今度は花子が一冊の本を持ってきた

「私は少し本を読みますね」

「分かりました」

仁はソファに座った

しばらくすると、花子は本を読み始め、仁は窓の外を眺めていた

モチは仁の隣で昼寝をしている

誰も何も話さなかった

それでも、気まずくはなかった

雨音だけが静かに響いていた

仁はふと、そんなことを考えた

昔は何もしない時間が苦手だった

何かをしなければならなかった

どこかにいなければならなかった


けれど、今は違う

ただこうして座っているだけでも、悪くない

仁は窓の外を眺めた

「雨の日も悪くないですね」

花子が本から目を離さずに言った。

「何か言いました?」

「いえ」

「今、言いましたよね?」

「独り言です」

花子がくすっと笑う。

「最近、仁さん独り言が増えましたね」

「そうみたいです」

「いい変化だと思いますよ」

仁は花子を見る。

「そうですか?」

「はい」

花子は再び本に目を落とした。

「一人でいるときに、いろいろ考え込むよりはいいじゃないですか」

仁は少し考えた。

「そうですね」


そうして、静かな休息の時間が終わり、夕方になった

それでも雨はまだ降り続いていた

花子が窓の外を見る。

「今日は一日中雨ですね」

「はい」

「夕食は何にしましょうか?」

仁は少し考えた。

すると、花子が冷蔵庫を開けた。

「あった!」

「何がですか?」

「よかった、材料があります」

花子が冷蔵庫から材料を取り出した。

大根

こんにゃく

ゆで卵

ちくわ


そして、いろいろな具材

仁はそれらを見つめた

「今日は、おでんにしませんか?」

花子の目が輝いた

「いいですね」

「やっぱり、雨の日は温かいおでんですよね、仁さん」

「そうですね。こういう日は、おでんですね」

そうして、花子と仁は一緒におでんを作り始めた。

「仁さん、大根を切ってもらえますか?」

「分かりました」

「こんにゃくは私がやりますね」


二人は並んでキッチンに立った

仁は大根をちょうどいい大きさに切り、花子はこんにゃくを下ごしらえする

ちくわと卵も用意した

鍋に具材を一つずつ入れ、出汁を注ぐ

やがて鍋から温かな香りが立ち上ってきた

モチが再びキッチンへやってきた

仁はモチを見る。

「今日は駄目ですよ」

モチが仁を見上げる。

花子が笑った。

「モチはおでん食べられませんからね」

「分かっています」

「それでも、もしかしたらって思って来たんでしょうね」

「そうみたいですね」

花子はモチのご飯を別に用意してやった


おでんが十分に煮込まれると、二人は食卓についた

温かな出汁の入った器から湯気が立ち上っている

花子が箸で大根を取った

「美味しそう」

仁も大根を取って食べる

「……美味しいです」

「でしょう?」

「はい」

花子は冷蔵庫からビールを二缶取り出した


そして、そのうちの一本を仁に差し出した。

「仁さんも飲みます?」

仁は缶を見る。

「ビールですか?」

「はい」

「久しぶりですね」

「嫌ですか?」

「いえ」

仁はビールを受け取った。

二人は缶を軽くぶつけた。

「乾杯!」

「乾杯」

仁はビールを一口飲んだ。


そして、温かいおでんを口にする。

しばらくして、仁が言った。

「……よく合いますね」

花子が笑った。

「おでんとビールですか?」

「はい」

「雨の日は、特にそうですよね」

仁は頷いた。

「そうみたいです」

二人はゆっくりとおでんを食べた。

外では、相変わらず雨音が聞こえている。

けれど、家の中は暖かかった。

花子がビールを一口飲んで言った。

「今日一日、どうでした?」

仁は少し考えた。

「最初は、休みというのが少し変な感じでした」

「そうだと思いました」

「ですが、悪くありませんでした」

「本当ですか?」

「はい」

仁は食卓を見つめた。

温かいおでん

ビール

向かいに座っている花子


そして、ソファで気持ちよさそうに休んでいるモチ

こんな穏やかな日常のおかげなのか

仁は身体も心も温かくなるような気がした

「……こういう日常も、いいですね」

花子が微笑む

「私もです」

しばらく沈黙が流れた

けれど、今度は気まずくなかった

雨音とともに、静かな時間が流れていった

そうして時間が過ぎ

仁と花子が夕食を終え、片付けまで済ませた頃

雨が少しずつ弱くなり始めた

花子が窓を開ける

冷たい空気がゆっくりと入ってきた

「雨、ほとんど止みましたね」

仁も窓の外を見る


濡れたアスファルトが、街灯の明かりを受けて輝いていた。

「明日は晴れるかもしれませんね」

「そうだといいですね」

花子が窓を閉めた。

「今日は本当に何もしませんでしたね」

仁は少し考えた。

「そんなことはありません」

「え?」

「たくさんしました」

花子が首を傾げる。

「何をしたんですか?」

「一緒にテレビを見ました」

「はい」

「昼食も食べました」

「はい」

「おでんも食べました」

仁は少しモチを見る。

「それに、モチとも楽しい時間を過ごしました」

「ふふ」

花子が笑った。

「そうですね。言われてみると、今日は結構いろんなことをしましたね」

「はい」


二人はソファに並んで座った

モチが二人の間に入り込み、身体を丸めた

仁はモチの背中をゆっくりと撫でる

「今日は、いい一日でした」

花子が仁を見る

「私もです」

仁は窓の外を眺めた

雨が止んだあとの夜は静かだった。

昔なら、雨が降ればただ面倒な日だと

思っていただろう

けれど、今は違う。

雨の日にも一緒に笑える人がいて

温かい料理を一緒に食べられる人がいて

何もしなくても、心穏やかに過ごせる場所がある。

仁は自分の口元に、かすかな笑みが浮かぶのを感じた。

「……心が落ち着きますね」

「また独り言ですか?」

花子が笑った

仁は花子を見る

「はい」

「ようやく少し素直になってきましたね」

「そうですか?」

「はい」

仁と花子は、同時に笑った

二人の笑い声が、静かな夜のフォレストに

広がっていく

雨が降った一日が終わろうとしていた


そして仁は、新しいことを知った

平凡な一日が、どれほど素晴らしいものなのかを

誰かと一緒に食べて

一緒に笑って

同じ場所で静かに時間を過ごすだけでも

一日は十分に温かくなるのだということを

その日のフォレストには、いつもより少し心が温かくなるような時間が流れていた。

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