↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/32

第15話 ― 小さな犬、小さな笑顔

フォレストの朝


花子が体調を崩した日から、数日が経った。

フォレストには、またいつもと変わらない朝が訪れていた。

窓から暖かな日差しが差し込んでいる。

仁は店の扉を開け、掃除をしていた。

床を掃き、トリミングテーブルを拭き、前日に使った道具を片付ける。


そのとき、階段から足音が聞こえてきた。

「仁さん、おはようございます」

「おはようございます」

花子が階段を下りてきた。

髪を後ろでまとめ、エプロンを身につけた、いつもと変わらない姿だった。

仁は花子をしばらく見つめた。

「花子さん」

「はい?」

「もう、体調は大丈夫ですか?」

花子が目を瞬かせる。

「え?」

「数日前、具合が悪そうでしたから」

「あ……」

花子は一瞬立ち止まった。


そして、あの日のことを思い出した。

熱が出て、まともに身体を動かせなかったこと。

仁に抱えられて部屋まで運ばれたこと。


そして、仁が自分を看病して、お粥まで作ってくれたこと

何より、あの夜に自分が仁に感じた気持ちまで思い出してしまった。

花子の顔が少しずつ赤くなっていく。

「わ、私はもう大丈夫です」

「本当ですか?」

「はい, もうすっかり元気です」

花子が頷く


しかし、顔はまだ赤いままだった。

仁は花子の顔を見つめた。

「……ですが、まだ顔が赤いようですが」

「え?」

「もしかして、まだ熱があるのでは?」

「あ、違います!」

花子が慌てて手を振った。

「本当に大丈夫です」

「そうですか?」

「はい」

花子は両手で自分の顔をそっと隠した。

「ただ……別の理由です」

「別の理由?」

「それは……」

花子はそれ以上答えられず、顔をそむけた。

仁はしばらく花子を見つめたが、それ以上は聞かなかった。

「体調が大丈夫なら、よかったです」

「……はい」

花子が小さく答えた。

しばらくして、フォレストの扉が開いた。


チリン


「いらっしゃいませ」

「こんにちは」

花子が客を出迎える。

一人の女性が、小さな犬を抱いて入ってきた。

「本日ご予約のお客様ですね?」

「はい。よろしくお願いします」

女性の腕には、小さなヨークシャー・テリアが抱かれていた。

小さな身体に比べて長い毛がかなり伸びており、小さな耳が毛の間から少しだけ覗いている。

犬は慣れない場所が緊張するのか、飼い主の胸元にぴったりと身体を寄せていた。

「この子、ちょっと怖がりでして」

飼い主が心配そうに言った。

「特に初めて会う人を少し怖がるんです」

仁は犬を見つめた。

小さな身体だからか、飼い主の両腕の中にすっぽりと収まっている。

「……本当に小さいですね」

仁が思わず呟いた。

花子が笑う。

「ヨークシャー・テリアは、もともと小さな犬種ですからね」

仁は頷いた。

「そうなんですね」

飼い主が笑いながら言った。

「名前はリリです」

「リリ……」

仁が静かに名前を口にする。

リリが仁を見つめた。


しかし、すぐに飼い主の胸元へ顔を埋めた。

仁は手を伸ばさなかった。

代わりに、少し離れたところでリリが自分を見られるように待った。

花子はその様子を見て、そっと微笑んだ。

「仁さん、もう先に触らなくなりましたね」

「驚かせたくありませんから」

「そうですね」

リリは飼い主の腕の中から顔だけを出して、仁を見つめている。

仁は動かなかった。

しばらくすると、リリが鼻をクンクンと動かし始めた。


そして、飼い主の腕の中から

少しだけ身体を乗り出した。


仁はそのとき、ゆっくりと手を伸ばした。

リリが恐る恐る指先の匂いを嗅ぐ。

仁はそのまま待った。

しばらくして、リリが指先にそっと鼻をつけた。

「……」

仁は静かにリリを見つめた。

リリの尻尾がほんの少しだけ揺れた。

花子が微笑む。

「仁さんが待ってあげたからだと思います」

仁は答えず、リリを見つめていた。

リリはいつの間にか、少し緊張が解けたように見えた。

飼い主が犬を床に下ろした。

リリは周囲を見回しながら、ゆっくりと仁の足元まで近づいてくる。

仁は動かなかった。

リリが仁のズボンの裾の匂いを嗅ぐ


すると、小さな身体を仁の足にそっと寄せた。

仁がゆっくりと手を下ろす。

リリは逃げなかった。

仁はそっと頭を撫でた。

「いい子ですね」

リリが尻尾を振った。

飼い主が驚いたように言った。

「あら。リリがこんなに早く心を開くの、初めてです」

「そうなんですか?」

「はい。普段は知らない人には近づこうともしないんです」

花子が笑う。

「仁さんが待ってあげたからだと思います」

仁はリリを見つめた。

小さな頭が、自分の手のひらの下にある。

「小さい分、より気をつけたほうがよさそうですね」

「そうですね」

花子が頷く。

「身体が小さいから、少し力を入れただけでも負担になることがありますから」

仁はリリを見つめながら頷いた。

「分かりました」

「では、トリミングを始めましょうか」

花子がトリミングテーブルを準備した。

リリをテーブルの上に乗せると、リリはまた少し身体を強張らせた。


仁は隣でリリの様子を見守る。

花子がリリの毛をゆっくりと整え始めた。

「リリ、もう少しだけ頑張ろうね」

リリの耳が少し動いた。

仁は隣で必要な道具を渡し、落ちた毛を片付ける。

花子がカットをしている間、仁はリリの表情をずっと見ていた。

リリは最初こそ何度か身体を動かしていたが、花子がゆっくり声をかけ続けると、少しずつ落ち着きを取り戻していった。

カットが終わると、仁はリリをそっと抱き上げ、シャンプー台へ移した。

「これからシャンプーしますね」

リリが仁を見上げた。

仁はお湯の温度を確認してから、ゆっくりと身体を濡らしていく


リリは最初、驚いたように身体をビクッとさせた。

仁はすぐには動かなかった。

「大丈夫です」

リリが仁を見つめる。

「ゆっくりやりますから」

仁は再び、ゆっくりと毛を洗い始めた。

小さな身体が濡れると、リリの毛が身体に張り付き、さらに小さく見えた。

仁はしばらくリリを見つめた。

「……さらに小さくなりましたね」

花子が笑う。

「そうですね」

「ここまで小さくなるとは思いませんでした」

「だから、もっと気をつけないといけませんね」

「肝に銘じます」

仁はリリの身体を支えながら、ゆっくりとシャンプーを続けた。


さっきまで緊張していたリリも、次第に身体の力を抜いていく。

仁はリリの表情を確認しながら、慎重に毛を洗っていった。

すると、リリが仁の手をペロッと舐めた。

「……」

仁の手が一瞬止まった。

リリは何事もなかったかのように、また尻尾を振っている。

仁の口元がほんの少しだけ上がった。

花子がその様子に気づいた。

「仁さん」

「はい?」

「今、笑いましたよね?」

仁が花子を見る。

「そうでしたか?」

「はい」

「よく分かりません」

「私、見ましたよ?」

花子が笑う。

「ちゃんと笑ってました」

仁は再びリリを見る。

「この子が可愛かったからだと思います」

「それが笑った理由ですよ」

「そうなんですか?」

「はい」

仁は少し考えた。


そして、もう一度リリを見つめる。

「それなら、納得できます」

シャンプーを終えると、仁はリリをタオルで包み、ドライを始めた。

温かな風が濡れた毛の間を通り抜けていく。

リリは先ほどよりもずっと落ち着いた様子だった。

仁は片手で小さな身体を支え、もう片方の手でゆっくりと毛を乾かしていく。

「もう少しだけ我慢してください」

リリが仁を見つめる。


そして、尻尾を振った。

花子が隣から声をかける。

「仁さんがずっと話しかけてくれるからかもしれませんね」

「言葉が分かるんですか?」

「全部は分からなくても、声は分かりますから」

仁は少し考えた。

「そうなんですね」

ドライが終わると、仁はブラシを手に取った。

毛をゆっくりと梳かしていくと、柔らかな毛が少しずつ整っていく


一度


二度


仁は急がず、ゆっくりとブラッシングを続けた。

すると、リリが目を閉じた。

「……」

仁はその姿を見つめた。

気持ちよさそうに目を閉じている小さな顔。

自分の手を信じて、じっとしている姿。

仁の口元がまたほんの少しだけ上がった。


今回は花子も何も言わなかった。

ただ静かに微笑みながら、その様子を見つめていた。

しばらくして、ブラッシングまで終わった。

リリは先ほどよりもずっと綺麗な姿になっていた。

仁がリリを床に下ろすと、リリは数歩歩いたあと、再び仁のところへ戻ってきた。


そして、仁の足に身体を擦り寄せた。

「また来ましたか?」

仁がしゃがみ込み、リリの頭を撫でる。

リリは尻尾を振った。

飼い主が戻ってきたのは、そのときだった。

「あら」

飼い主は綺麗になったリリを見ると、ぱっと笑顔になった。

「本当に可愛くなりましたね」

花子が笑いながら言った。

「とてもお利口に受けてくれましたよ」

「よかった」

飼い主がリリを抱き上げる。


すると、リリが飼い主の腕の中から仁を見つめた。

仁は手を軽く振った。

「またお会いしましょう」

リリが尻尾を振った。

飼い主が笑いながら言った。

「仁さん、ワンちゃんの扱いが本当にお上手ですね」

「まだ勉強中です」

「それでも、リリは仁さんのことが好きみたいです」

「それなら、よかったです」

飼い主が帰り、フォレストの扉が閉まった。

花子が仁を見る。

「仁さん」

「はい?」

「さっき、笑ってましたよ」

「またですか?」

「はい」

「何回くらい笑っていたんですか?」

花子が少し考える。

「今日だけでも、結構たくさんですよ」

仁はトリミングテーブルを片付けながら言った。

「私はよく分かりません」

「いいんですよ」

花子が笑う。

「笑うのに、必ず自覚する必要なんてないじゃないですか」

仁の手が一瞬止まった。

「……そうなんですか?」

「はい」

花子はトリミング道具を片付けながら言った。

「ただ嬉しくて笑うことだってありますから」

仁はしばらく考えた。

笑うということ

昔の自分にとっては、あまり馴染みのないことだった。

けれど、フォレストでは少し違った。

犬が自分を信頼してくれた瞬間

モチが自分から近づいてくる瞬間

花子と他愛のない話をする瞬間

そんな小さな瞬間が、不思議と嫌ではなかった。


そして、さっきはリリが自分の手を舐めてきた。

それが少し面白かった。

仁はふと花子を見る。

「花子さん」

「はい?」

「一つ聞いてもいいですか?」

「何ですか?」

「笑うというのは……必ず理由が必要なんでしょうか?」

花子はしばらく仁を見つめ、それから微笑んだ。

「必ず理由がある必要はないと思いますよ」

「そうなんですか?」

「ただ嬉しくて笑うこともあるし、誰かが面白いことを言ったから笑うこともあるし……」

花子は少し考えてから言った。

「好きな人と一緒にいるから笑うことだってありますし」

仁はしばらく言葉を失った。

花子は自分の言葉に気づいたのか、少し慌てる。

「あ、いえ、つまり……」

「分かりました」

仁はいつもと変わらない表情で答えた。

花子は気まずそうに笑った。

「とにかく、そういうことです」

「はい」

しばらく沈黙が流れた。


そのとき、ソファの上にいたモチが身体を起こした。

そして仁のところへ近づいてくる。

仁は自然に手を伸ばした。

モチが手に顔を擦り寄せる。

仁はモチの頭を撫でた。

「今日も来ましたか」

花子が笑った。

「モチは毎日来るじゃないですか」

「そうでしたね」

仁の顔に、ほんのかすかな笑みが浮かんだ。

花子はその姿を見つめた。

今度は何も言わなかった。


ただ、一緒に笑っていた。

夕方が近づく頃

最後の客まで帰り、フォレストは静かになった。

仁は床を掃き、トリミングテーブルを片付ける。

花子はカウンターで予約表を確認していた。

掃除を終えた仁が、ほうきを立てかける。

「今日の片付けは終わりました」

「お疲れさまでした」

「花子さんもお疲れさまでした」

花子が席を立った。

「仁さん」

「はい?」

「明日も笑えそうですか?」

仁はしばらく考えた。


そしてモチを見る

ソファの上で気持ちよさそうに横になっている姿が見えた。

「……分かりません」

「ふふ」

「ですが」

仁が再び花子を見る。

「今日のように笑うことは、あるかもしれません」

花子はしばらく仁を見つめ、それから微笑んだ。

「それなら、十分ですね」

二人は一緒にフォレストの明かりを消し始めた。

最後に仁が扉の鍵をかける


そして花子と一緒に階段を上っていく

モチが二人の後ろをついてきた。

仁は階段を上りながら、ふと後ろを振り返った。

暗くなったフォレストの中には、昼間使っていたトリミング道具が綺麗に並べられていた。

今日も、平凡な一日だった。

けれど、仁にとっては少し違う一日だった。

小さな犬と出会い

その犬を丁寧に洗い

声をかけて


そして、笑った。

昔は笑わなかった。

けれど今は、理由もなく笑うことを知った。

それだけで、十分だった。

そうして、フォレストでの一日が暮れていった。

そして仁の口元には、ほんのかすかな笑みが残っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。