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第14話 ― 仁の料理

フォレストの朝


フォレストには、いつもと変わらない朝がやってきた。

窓の隙間から、暖かな日差しが差し込んでいる。

仁はいつものように朝早く起き、店の片付けをしていた。


床を掃き

トリミングテーブルを拭き

前日に使ったトリミング道具を一つずつ片付けた。

タオルも確認し、必要なものを元の場所へ戻した。

数日前までは花子に一つずつ確認してもらわなければならなかったことも、今では自然と身についていた。

仁は最後に窓を開けた。

暖かな春風が店の中へ入ってくる。


「……いいな」


仁はしばらく外を眺めると、再び掃除を始めた。

いつもなら、このくらいの時間には花子が階段を下りてくる音が聞こえるはずだった。

しかし、今日は静かだった。

仁は壁に掛かった時計を見た。

「花子さん、今日は少し遅いな」

数分ほど遅れているだけだった。

仁はそれほど気にしなかった。

まだ時間はあるし、もう少し待てば下りてくるだろうと思った。


だが、しばらく経っても花子は姿を見せなかった。

仁は再び階段のほうへ目を向けた。

「……妙だな」

いつもの花子なら、もう下りてきている時間だった。

そのときだった。

上のほうから足音が聞こえてきた。


コツ


コツ


ゆっくりと階段を下りてくる音だった。

仁が顔を上げる。

「おはようございます……」

花子が階段を下りてきた。

「おはようございます」

仁が挨拶をする。


しかし仁は、すぐに花子の様子をじっと見た。

いつもより顔が赤い。

歩く速度も遅かった。

「花子さん」

「はい?」

声もどこか弱々しい。

具合が悪いのは間違いなかった。

「かなり具合が悪そうですが、病院へ行ったほうがいいのでは?」

「大丈夫ですよ」

花子はそう言いながらエプロンを手に取った。

仁は彼女を見つめた。

「本当に大丈夫ですか?」

「はい」

花子が笑った。

「仁さん、心配しすぎじゃないですか?」

「そうでしょうか?」

「はい」

花子はエプロンを身につけながら言った。

「これくらい、誰にでもあることですから」

仁はしばらく花子を見つめたあと、頷いた。

「それならよかったです」

「それじゃあ、今日もよろしくお願いしますね」

「はい」

大丈夫だと言い張る花子を説得することができなかった仁は、あとで薬でも買ってこようと思いながら、再び掃除を始めた。


花子もカウンターのほうへ向かった。

しかし、しばらくして

花子が突然、足を止めた。

「……あれ?」

仁が振り返った。

「花子さん?」

花子はカウンターにつかまった。

「ちょっと……」

「大丈夫ですか?」

「急に……目が回って……」

花子の体がふらついた。

「花子さん!」

仁が素早く駆け寄った。


倒れそうになった花子の体を、両腕で受け止める。

「大丈夫ですよ……」

「大丈夫には見えません」

仁は花子を支えた。

そして彼女の額に手を当てた。

熱かった。

「熱があります」

「熱……?」

花子がぼんやりとした表情を浮かべる。

仁はすぐに彼女をソファへ連れていった。

「とりあえず、座ってください」

花子はソファに体を預けた。

「今日の予約が……」

「今日は休みにします」

「でも、お客さんが……」

「花子さんがその状態で仕事をするわけにはいきません」

仁の声は、いつもよりはっきりとしていた。

花子はしばらく仁を見つめていたが、力なく頷いた。

「……分かりました」

モチがソファの下から近づいてきた。

モチは花子の隣に寄り添い、顔を見上げている。

「モチも心配しているみたいですね」

花子はモチの頭を撫でようとしたが、手に力が入らないのか、すぐに下ろした。


仁はその様子を見て、再び花子に目を向けた。

「今日はフォレストを休みにします」

「仁さん……」

「私がお客様に連絡します」

「でも……」

「大丈夫です」

仁ははっきりと言った。

「今日一日、休めばいいんです」

花子はしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく笑った。

「仁さんにそこまで言われたら……何も言えませんね」

「それならよかったです」

「本当に……なんだか頼もしいですね」

仁は答えなかった。

ただ、花子がゆっくり休めるようにクッションを持ってきた。


そして電話を手に取った。

今日予約の入っているお客様に、臨時休業の連絡をするためだった。

しばらくして、すべての連絡を終えた仁は店の扉に鍵をかけた。

今日一日だけは、フォレストの扉を

開けないことにした。

仁は再び花子のところへ戻った。

「花子さん」

「はい……」

「今日は何も心配しないでください」

「……はい」

「私がいますから」

花子は仁を見つめたあと、小さく微笑んだ。

「ありがとうございます」

仁は静かに頷いた。

仁は花子を支えながら、階段を上った。

普段なら花子が先に立って、軽い足取りで上っていく階段だった。


しかし今日は、一段上るたびに少し休まなければならなかった。

仁は花子がふらつかないよう、ずっと隣で様子を見ていた。

「ゆっくり上ってください」

「はい」

「目が回ったら言ってください」

「分かりました」

花子は数段上ったところで、仁を見た。

「仁さん」

「はい」

「私、そんなに弱そうに見えます?」

「今は、そう見えます」

「……正直すぎません?」

「すみません」

花子は疲れた顔で笑った。

「ふふ……いいですよ」

部屋に着くと、仁は花子をベッドに座らせた。

「ベッドに横になってください」

「はい」

花子はゆっくりとベッドに横になった。

仁は布団を掛けてやった。

「水を持ってきます」

「はい」

しばらくして、仁は水を持ってきた。


そしてベッド脇のテーブルにコップを置いた。

「喉が渇いたら飲んでください」

「ありがとうございます」

花子は水を一口飲んだ。

「仁さん」

「はい」

「本当に大丈夫ですか?」

「何がですか?」

「今日はフォレストも休みにして……私のことまで看病してくれるじゃないですか」

「大丈夫です」

「でも……」

「普段、花子さんには私のことをたくさん気にかけてもらっていますから」

仁は淡々と言った。

「今度は私がやればいいんです」

花子はしばらく仁を見つめた。

「……仁さんって、本当に不思議な人ですね」

「どういう意味ですか?」

「最初は、本当に怖い人だと思っていたんですけど」

花子がかすかに笑った。

「一緒にいると、思っていたよりずっと優しい人だったから」

仁はしばらく言葉を失った。

「……そうですか?」

「はい」

「よく分かりません」

「私は分かりますよ」

花子はそう言うと、目を閉じた。

「少しだけ寝ますね」

「はい」


仁は静かに部屋を出た。

フォレストは再び静かになった。

仁は時計を見た。

いつの間にか、昼食の時間が近づいていた。

朝から花子は、ろくに何も食べていない。

仁はしばらく階段を見つめた。

そしてキッチンへ向かった。

冷蔵庫を開けた。

ご飯

卵

長ネギ

醤油

そしていくつかの野菜が入っていた。

仁は材料を一つずつ取り出した。

何を作るか、少し考える。

普段なら簡単にご飯を温めて食べるだけで済ませていただろう。

しかし、今日は違った。

具合の悪い花子に、適当なものを食べさせるわけにはいかなかった。

仁はキッチンの隅に置かれた鍋を見つめた。

「……お粥がいいな」

仁は米を取り出した。

きれいに洗ってから鍋に入れる。

水を注ぎ、火にかけた。

ゆっくりと煮立ってくると、仁は火を弱めた。

しゃもじでゆっくりとかき混ぜる


そして卵を溶いた。

卵を入れる前に、味を確認する。

「少し薄いくらいがいいな」

仁は醤油をほんの少しだけ加えた。


そして最後に、溶いておいた卵を

ゆっくりと流し入れる。

ふんわりとした卵がお粥に混ざっていく。

暖かな香りがキッチンに広がった。

仁は鍋を見つめた。

見た目は決して華やかではない。

だが、味は悪くない。


そのとき、部屋のほうから小さな声が聞こえてきた。

「……仁さん?」

仁が振り返った。

花子がドアのところに立っていた。

「どうして出てきたんですか?」

「いい匂いがしたから……」

花子がキッチンの中を覗き込む。

「何を作ってるんですか?」

「卵粥です」

「卵粥?」

「はい」

仁は鍋を見つめた。

「体調が悪いときに食べやすいと思って作りました」

花子はしばらくお粥を見つめた。

そして、ほんの少し微笑んだ。

「卵粥……」

「食欲がなくても、少しなら食べられると思います」

「……そうですね」

花子の表情が少し変わった。

仁はそれに気づかないまま、器にお粥をよそった。

「部屋に戻って待っていてください」

「はい」

「私が持っていきます」

「分かりました」

花子が部屋へ戻ると、仁はお粥を食卓へ運んだ。

「ゆっくり食べてください」

「はい」

花子はスプーンでお粥を少しすくって口に運んだ。


そして、しばらく動きを止めた。

「……美味しいです」

「それならよかったです」

花子はもう一口食べた。

温かいお粥が喉を通っていく。

少しだけ体が楽になったような気がした。

「仁さん」

「はい」

「これ……誰かに教えてもらったんですか?」

「誰かに教えてもらったわけではありません」

「じゃあ、どうやって作ったんですか?」

「以前、簡単な料理を作ったことがあるので」

仁は少し考えてから言った。

「それに、体調が悪いときはこういうものがいいと聞いたことがあります」

花子はお粥を見つめた。

「……そうなんですね」

しばらく沈黙が流れた。

やがて、花子がそっと口を開いた。

「これ……」

「はい」

「昔、おばあちゃんが作ってくれたのに似ています」

仁の手が止まった。

「おばあちゃんが?」

「はい」

花子は小さく笑った。

「私、子供の頃に風邪を引くと、おばあちゃんが必ず卵粥を作ってくれたんです」

「……そうなんですね」

「そのときは、ただ美味しいから食べていただけなんですけど」

花子はスプーンでお粥をゆっくりとかき混ぜた。

「今思えば、私が具合が悪いって言うと、おばあちゃんはいつもキッチンに行ってた気がします」

花子の視線が、少し遠くへ向いた。

「お粥を作ってる匂いがしてくると、それだけで安心したんです」

「どうしてですか?」

「おばあちゃんが作ってくれてるってことだから」

花子はかすかに笑った。

「だから、この匂いを嗅いだら昔のことを思い出しました」

仁はしばらく何も言わなかった。

「味、似ていますか?」

花子はもう一口食べた。


そして頷いた。

「はい」

「それならよかったです」

「でも、仁さん」

「はい」

「仁さんが作ったほうが、少し薄味ですね」

「……すみません」

「違いますよ」

花子が笑った。

「だから、もっといいのかもしれません」

仁はしばらく花子を見つめた。

「そうですか?」

「はい」

花子はゆっくりと笑った。

「おばあちゃんが作ってくれた味とまったく同じじゃないけど……」

そこで一度言葉を止めた。

「なんだか、すごく落ち着きます」

仁は静かに頷いた。

「それならよかったです」

花子はお粥をゆっくり食べた。

普段より遅かったが、結局、器の半分以上を食べた。

「ごちそうさまでした」

「大丈夫ですか?」

「はい」

花子が自分のお腹を軽く撫でた。

「少し元気が出てきた気がします」

仁は頷いた。

「それならよかったです」

しばらく沈黙が流れた。

やがて花子が仁を見た。

「ところで、仁さん」

「はい」

「どうして今まで料理をしなかったんですか?」

仁の手が一瞬止まった。

「料理をしなかったわけではありません」

「じゃあ?」

「一人のときは、簡単なものを作って食べていました」

「でも、誰かに作ってあげたことはなかった?」

「はい」

「どうしてですか?」

仁は少し考えた。


そして正直に答えた。

「人に食べてもらう自信がありませんでした」

花子が目を瞬かせた。

「料理しているところを?」

「いえ」

仁は少し言葉を選んでから言った。

「自分が作った料理を、誰かに食べてもらうことです」

花子は静かに仁を見つめた。

「美味しくなかったらどうしようと思っていました」

「……」

「せっかく作っても、相手をがっかりさせたらと思って」

仁は少し視線を落とした。

「だから、言わなかったんです」

花子はしばらく何も言わなかった。

やがて、優しく笑った。

「でも、今日は作ってくれましたね」

「花子さんが具合を悪くしたので」

「それでもですよ」

花子は笑った。

「私は美味しかったです」

仁が顔を上げた。

「本当ですか?」

「はい」

花子は微笑みながら言った。

「また作ってくださいね」

仁はしばらく花子を見つめた。

「……分かりました」

「約束ですよ」

「はい」

昼食を食べたあと、花子は再びベッドに横になった。

仁は水を取り替え、必要なものがないか確認してから部屋を出た。

普段ならお客様で賑わっているフォレストは、今日はいつになく静かだった。

トリミングテーブルも使われていない。

ドライヤーの音も聞こえない。

仁は一人で店を片付けた。


そして、合間を見ては花子の部屋を確認した。

「花子さん」

「はい……」

「大丈夫ですか?」

「うん……」

朝よりも声が少し良くなっていた。

仁はほっとした。

「何か必要なものがあれば言ってください」

「仁さん」

「はい」

「本当にありがとうございます」

「大したことではありません」

「違いますよ」

花子はかすかに笑った。

「私にとっては、大したことなんです」

仁はしばらく何も言えなかった。

そして静かに頷いた。

「それならよかったです」

時間が過ぎ、夕方が近づいた。

花子の熱は朝より少し下がっていた。

仁は夕食に温かい汁物とご飯を用意した。

昼にお粥を作ったことでキッチンにも慣れたのか、今度は朝よりずっと自然に動けた。

ご飯を温め

汁物も温めた。

そして花子が食べやすいよう、食卓に並べた。

「食事の準備ができました」

「今日は仁さんに本当に色々してもらってますね」

「大したことではありません」

「その言葉、何回言うんですか?」

花子が笑った。

仁は少し考えた。

「……そうですか?」

「はい」

「では、これからは減らします」

「ふふ……それも仁さんらしいですね」

花子はゆっくりと体を起こした。

「今日は一日中、私のせいで大変でしたね」

「大変だとは思っていません」

仁は淡々と言った。

「花子さんには、普段から私のことをたくさん気にかけてもらっていますから」

「そうですけど……」

「今度は私が気にかければいいんです」

花子はその言葉を聞くと、しばらく何も言わなかった。


そして、静かに微笑んだ。

「そうですね」

「はい」

「じゃあ、今日はもう少し甘えてもいいですか?」

「いくらでも言ってください」

花子は少し迷ってから言った。

「少しだけ、そばにいてください」

仁は一瞬、動きを止めた。

だが、すぐに頷いた。

「分かりました」

仁はベッド脇の椅子に座った。

花子はゆっくりと目を閉じた。

ほどなくして、寝息が規則正しくなった。

眠ったようだった。

仁は静かに花子を見つめた。

朝よりも顔が穏やかに見える。

仁はほっとした。


そして静かに立ち上がった。

ドアを閉める前に、もう一度振り返った。

「ゆっくり休んでください」

小さく呟いてから、部屋を出た。

夜が深くなった。

花子は少し目を覚ました。

喉が渇いたような気がして、体を起こそうとしたときだった。

ベッド脇のテーブルに、水が置いてあるのが見えた。

そして、その隣には小さなメモがあった。


――起きたら、水を飲んでください。

花子はメモを見つめ、ふっと笑った。

「本当に……」

今日一日のことが頭に浮かんだ。

朝から体の調子がおかしかったけれど、大丈夫だと思っていた。

いつもどおり仕事ができると思っていた。

けれど、結局倒れてしまった。


そして、仁が自分の面倒を見てくれた。

水を持ってきてくれて

フォレストのお客様に休業の連絡をして

昼食を作ってくれて

夕食まで用意してくれた。


そして、自分が子供の頃におばあちゃんから作ってもらった卵粥まで思い出させてくれた。

花子はゆっくりと布団を引き上げた。

「仁さんって、料理もできたんだ……」

さっき聞いた言葉も思い出した。

人に食べてもらう自信がなかった。

その言葉が、なぜか心に残っていた。

見た目には、何でもできそうに見える人。

大きな体に、怖そうな顔。

初めて会ったときは、自分も少し怖かった。


けれど、一緒に過ごしているうちに分かってきた。

仁は、思っていたよりずっと繊細な人だった。

犬が嫌がれば待ってあげる。

自分がした失敗を、いつまでも覚えている。

誰かが困っていれば、何も言わずに助けてくれる


そして今日は、自分のために料理まで作ってくれた。

「私のために、料理まで作ってくれて」

花子の口元に小さな笑みが浮かんだ。

「仁さんって、本当に不思議な人」

けれど、嫌ではなかった。

むしろ、嬉しかった。

誰かにこんなにも自然に気にかけてもらったのが、いつ以来なのか思い出せなかった。


そして、いつの間にかこんなことを考えていた。

もう少し仁と一緒にいたい。

もう少し仁のことを知りたい。

どんな料理が好きなのか

何が嫌いなのか

どんなことを考えて生きてきたのか


そしていつか、自分も仁の力になれる人になりたい。

花子は目を閉じた。

「……明日には元気になってるといいな」

そして、ごく小さな声で呟いた。

「仁さんに……ちゃんとお礼を言わないと」

花子の顔に、小さな笑みが浮かんだ。

「それから……」

花子は少し言葉を止めた。

「もう少し、知りたい」

誰よりも怖そうに見えた人。

けれど、誰よりも優しい人。


黒沢仁


花子はその名前を思い浮かべながら、再び眠りについた。

二人の距離は、以前より少しだけ近くなっていた。


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