第13話 ― 仁のミス
フォレストの朝
仁はいつもと変わらずフォレストの扉を開け、一日を始めた。
床を掃き、トリミングテーブルを拭いた。
前日に使ったタオルを片付け、トリミング道具がきちんと揃っているかも確認した。
今では花子に先に言われなくても、自然とやるべきことを見つけて動けるようになっていた。
ここで働き始めたばかりの頃と比べれば、確実に変わった姿だった。
「仁さん」
花子が仁を呼んだ。
「はい」
「今日の最初の予約、覚えていますよね?」
「はい。ポメラニアンだと聞いています」
「そうです」
花子が笑った。
しばらくして
チリン
フォレストの扉が開いた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
一人の女性が、小さなポメラニアンを抱いて入ってきた。
ふわふわの毛と丸い目。
小さな体とは裏腹に、じっとしていられず、周囲をしきりに見回している姿が目に入った。
仁は犬を見つめた。
「この子が今日、トリミングを受ける子ですか?」
「はい」
女性が笑って答えた。
「名前はまるです」
「まる君ですね」
仁は慎重に手を差し出した。
まるはしばらく仁の手を見つめると、鼻先を近づけた。
クンクン
匂いを確認したまるは、再び仁を見つめた。
すると今度は、仁の靴のほうへ顔を向けた。
仁は手を動かさずに待った。
まるはしばらく周囲を見回したあと、再び仁の手の甲に鼻を近づけた。
「まるは、あまり人見知りしないみたいですね」
花子が言った。
飼い主もまるを見ながら笑った。
「はい。まるはもともと、あまり人見知りしないんです」
しかし、まるは再び周囲をキョロキョロと見回し始めた。
仁が動けばその動きを目で追い、トリミングテーブルや周囲の道具も一つずつ確認している。
床に下ろすと、あちらこちらへ動き回り、新しい場所を見て回るように周囲を歩き回った。
飼い主が困ったように笑った。
「ただ、この子はもともとちょっと落ち着きがなくて」
「落ち着きがないんですか?」
「はい」
飼い主が頷いた。
「特に知らない場所に来ると、もっと落ち着かなくなっちゃうんです。新しいものを見つけると気になって、じっとしていられなくて」
仁はまるを見つめた。
まるはその瞬間も周囲を見回していた。
「好奇心が旺盛な子なんですね」
「そうなんです」
飼い主が笑った。
「家でも何か新しいものがあると、必ず確認しに行くんですよ」
花子がまるを見ながら微笑んだ。
「そうなんですね。じゃあ、まるが気になることが多い分、少しゆっくり様子を見てあげたほうがよさそうですね」
「お願いします」
飼い主はまるの頭を軽く撫でた。
「まる、いい子にしてくるんだよ」
まるは尻尾を少し振った。
飼い主がフォレストを出ると、仁はまるを見つめた。
「では、始めます」
「はい」
花子がまるをトリミングテーブルの上に乗せた。
最初はまるが周囲を見ながら、少し体を動かした。
花子は急がずに、まるの様子を見た。
まるが動けば一度手を止め、再び大人しくなるとゆっくりとカットを続けた。
仁は隣で静かに見守りながら、必要な道具を手渡した。
「ハサミ、ここです」
「ありがとうございます」
「はい」
花子の手がまるの毛に沿って動いた。
サッ
サッ
まるは何度か体を動かしたが、大きく抵抗することはなかった。
仁はまるの動きを確認しながら、落ちた毛を片付けた。
「上手にできていますね」
花子が言った。
仁はまるを見つめた。
「まるも大人しくしてくれて助かります」
まるが仁を見つめた。
尻尾が少し揺れた。
仁の口元にも、ほんのわずかに笑みが浮かんだ。
しばらくして花子のカットが終わった。
「カットはこれくらいで大丈夫です」
花子がハサミを片付けた。
「仁さん、次はシャンプーをお願いします」
「分かりました」
仁はまるをそっと抱き上げ、シャンプー台へ移動した。
温かいお湯が毛を濡らしていく。
まるはお湯が触れると少し体を震わせたが、
仁がゆっくりと体を支えると、
すぐに落ち着きを取り戻した。
「ごめん。急に驚いたな」
仁は低い声で言った。
「気をつけるから」
仁はまるが驚かないようにゆっくりとシャンプーをして、きれいに洗い流した。
シャンプーが終わると、仁はまるを再びトリミングテーブルへ移した。
タオルで水分を拭き取ったあと、ドライヤーを準備した。
ドライヤーの電源が入った。
ブーンという音に、まるが顔を向けた。
仁はまるの様子を見ながら、ゆっくりとドライヤーを動かした。
まるはドライヤーの音に少し体を震わせたが、すぐに慣れ、仁の手の動きに合わせるように顔を動かした。
「大人しいですね」
花子が言った。
「まるも仁さんにだいぶ慣れてきたみたいです」
「そうみたいですね」
仁も少し安心した。
初めて会った犬だったが、思ったより順調に進んでいた。
まるが落ち着きのない子だと聞いたときは、
事故が起きるのではないかと心配していたが、
今のところ大きな問題はなかった。
仁はドライヤーの動きに合わせて顔を動かしているまるを見つめた。
「新しいものが見えると、必ず確認するんだな」
仁が独り言のように呟いた。
その瞬間だった。
仁が新しいタオルを取りに、少しだけ体を向けた。
ほんの一瞬
まるは仁が何をしているのか気になったのか、
顔を上げた。
そして仁のいるほうへ一歩近づいた。
一歩
また一歩
小さな前足がトリミングテーブルの端に触れた。
まるは下を見下ろした。
初めて見る場所が気になったのか、体を少し前へ傾けた。
そのとき、まるの足が滑った。
仁がタオルを持って戻ってきたときには、すでにまるがテーブルの下へ落ちかけていた。
「まる!」
仁はまるの名前を叫びながら、体を投げ出した。
幸い、まるの体が床に触れる直前、仁がまるを受け止めた。
「……」
その瞬間、フォレストの中が静まり返った。
仁はまるを抱いたまま、その場で固まっていた。
まるは驚いたように目を大きく見開き、仁を見つめている。
仁の心臓が激しく鼓動していた。
もう少し遅かったら
そんな考えが頭をよぎった。
仁はまるの体をゆっくりと確認した。
怪我はないようだった。
「仁さん! 大丈夫ですか?」
花子が慌てて駆け寄ってきた。
「はい、私は大丈夫です」
仁が答えた。
「まるも、とりあえず怪我はないみたいです」
花子もまるの様子を確認した。
まるはしばらく仁の腕の中にいたあと、尻尾を少し振った。
「よかった」
花子が安堵の息を吐いた。
仁はまるを見つめた。
そして、自分の手がほんの少し震えていることに気づいた。
「……すみません」
「仁さん」
花子が落ち着いた声で言った。
「今、すぐに受け止めたのは本当にすごかったですよ」
「おかげでまるも無事ですし」
「でも、そもそも落ちないようにすることのほうが大切です」
「はい」
仁は頭を下げた。
「まるが落ち着きのない子だということも、前もって聞いていましたよね」
「……はい」
仁は何も言えなかった。
「私が少し目を離しました」
花子が仁を見つめながら言った。
「でも、失敗したからといって、ずっと自分を責める必要はありませんよ」
仁が花子を見つめた。
「大切なのは、次に同じことが起きないようにすることです」
「……分かりました」
仁は再びまるを見つめながら考えた。
まるは最初からずっと周囲を見回していた。
新しいものを見つければ近づき、匂いを嗅ぎ、確認していた。
それをただ落ち着きがないのだと思っていた。
だが、まるにとっては、ただ気になるものを確認したかっただけなのかもしれない。
問題は、その好奇心をきちんと見ていなかった自分のほうだった。
仁は再びトリミングテーブルを見た。
「もう一度やってもいいでしょうか?」
「もちろんです」
花子が笑った。
「ただ、今度はもう少し注意深くやってみましょう」
「はい」
仁はまるを再びテーブルの上に乗せた。
今度は目を離さなかった。
まるが体を動かせば、すぐに手を止めた。
周囲を見た。
テーブルの位置も確認した。
まるが動ける範囲についても、もう一度考えた。
「……」
仁は先ほどよりもずっと慎重にドライヤーを動かした。
まるが顔を向けた。
仁はすぐにドライヤーを止めた。
まるがどこを見ているのか確認した。
そして再び仁を見ると、ゆっくりとドライヤーを動かし始めた。
「仁さん」
花子が言った。
「はい」
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「でも、また滑るかもしれません」
「そうですね」
花子が頷いた。
「だから、見るんです」
「……見る」
「はい」
花子がまるを見つめた。
「気をつけることと、怖がることは違います」
仁は少し考えた。
「注意しながら、普段どおりにやるということですね」
「そうです」
花子が笑った。
「仁さんが緊張しすぎると、逆にまるも緊張しちゃいますから」
仁は頷いた。
「分かりました」
その後、仁は少しずついつものペースを取り戻していった。
まるの動きを確認しながらドライを終えた。
そして最後にブラシを手に取った。
ふわふわの毛の間をブラシが通っていく。
一度
二度
三度
まるの毛がきれいに整っていった。
「終わりました」
仁が言った。
まるはテーブルの上で大人しく座っていた。
花子がまるを見ながら笑った。
「きれいに仕上がりましたね」
仁はまるの頭を軽く撫でた。
「お疲れさまでした」
まるは仁の手を舐めた。
仁はしばらくまるを見つめてから、小さく笑った。
「……よかった」
しばらくして
フォレストの扉が開いた。
まるの飼い主が戻ってきた。
「まる、ちゃんとできた?」
まるは飼い主を見つけると、尻尾を振った。
「大人しくしていましたか?」
飼い主が笑いながら尋ねた。
花子は一度仁を見たあと、口を開いた。
「トリミングは無事に終わりました」
「よかったです」
「ただ、途中で少し危ないことがありました」
飼い主の表情が固まった。
「もしかして、まるが何かしちゃいましたか?」
「はい。ドライをしている途中で、まるがトリミングテーブルから落ちそうになりました」
花子が状況を説明した。
「幸い、仁さんがすぐに受け止めてくれたので怪我はありませんでした」
飼い主はまるを見つめた。
そして小さくため息をついた。
「あ……やっぱりそうでしたか」
「やっぱり?」
仁が尋ねた。
飼い主は困ったように笑った。
「まる、もともとよくそういうことになるんです」
そして仁に向かって頭を下げた。
「すみません。最初にもっと詳しくお伝えしておけばよかったんですが……」
「いえ」
仁が首を横に振った。
「私がもっと注意するべきでした」
「それでも、すぐに受け止めてくださったんですよね」
飼い主がまるを抱き上げた。
「怪我がなくて本当によかったです」
まるは何事もなかったかのように尻尾を振っていた。
その姿を見た仁は、安堵の息を吐いた。
「まるは本当に元気な子ですね」
「はい」
飼い主が笑った。
「家でもじっとしていないんですよ」
「好奇心が旺盛な子なんですね」
「そうなんです。何でも気になっちゃうので」
飼い主が笑って答えた。
「大変なときもありますけど、可愛いから仕方ないんです」
「そうなんですね」
「今日は本当にありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
飼い主はまるを抱いたままフォレストを出ていった。
扉が閉まった。
仁はしばらく扉を見つめていた。
花子が隣へ歩いてきた。
「かなり驚きましたよね?」
「はい」
仁は正直に答えた。
「一瞬、何も考えていませんでした」
「体が先に動いたんですね?」
「はい」
仁は自分の手を見つめた。
「それは私が昔から慣れていたことでもあります」
花子は仁の顔を見つめた。
だが、それ以上は尋ねなかった。
「でも、今日は一つ、また勉強になりましたね」
「……はい」
「事故が起きてから対処することより……」
「事故が起きないように、あらかじめ注意することのほうが大切だ」
花子が言葉を続けた。
仁はしばらく、まるが動いていた姿を思い出した。
まるは最初からずっと周囲を見回していた。
何かを見つければ近づき、匂いを嗅ぎ、確認していた。
そのすべての行動が、ただ落ち着きがないからではなく、新しいものが気になっていたからだった。
しかし、そんな好奇心も状況によっては危険な行動につながることがある。
「……私が少し油断していたのかもしれません」
「そういうこともありますよ」
花子が言った。
「最初から完璧な人なんていませんから」
「でも、同じ失敗をもう一度したくはありません」
「じゃあ、覚えておけばいいんです」
花子が微笑んだ。
「今日、まるがどう動いたのか」
仁は頷いた。
「はい」
その日の営業が終わったあと
フォレストの中は静かになった。
仁はトリミング道具を片付け、テーブルを拭いた。
そして最後に、トリミングテーブルの周囲をもう一度確認した。
テーブルの位置
犬が動けるスペース
床に落ちている物
手が届く位置
一つずつ確認していった。
花子はそんな仁を見ながら笑った。
「確認するのはいいですけど、今日一日ずっとそのことばかり考えちゃダメですよ」
「分かりました」
「失敗を一つしたからって、自信をなくす必要もありませんからね」
仁はしばらく黙っていた。
「自信をなくしたわけではありません」
「じゃあ?」
「次はもっと上手くやりたいだけです」
花子はしばらく仁を見つめてから、微笑んだ。
「それなら大丈夫ですね」
仁もほんの少しだけ笑った。
今日は失敗した。
そして、とても驚いた。
だが、その失敗のおかげで、自分が何を見落としていたのかも分かった。
素早く動くこと
強い力で解決すること
それだけでは足りなかった。
犬をトリミングする人間に必要なのは
犬が何をしようとしているのかを見ること
何か不快に感じていないか確認すること
そして、事故が起きる前に防ぐこと
仁は最後に、フォレストの中を見渡した。
暖かな照明の下、トリミングテーブルが静かに置かれていた。
今日の失敗は、仁にとって小さな傷として残った。
しかし同時に、新しいことを学ばせてくれた経験でもあった。
仁は静かに思った。
次は同じ失敗をしない。
そして次は、犬が何を気にしているのかも見落とさない。
そうして、また一つのことを学びながら
仁の一日が終わった。




