第12話 ― 小さな爪
フォレストの午前
窓から暖かな日差しが店内へ差し込んでいた。
暖かくなるにつれて、フォレストを訪れるお客さんも少しずつ増えていた。
仁は朝から忙しく動いていた。
床をきれいに掃き
トリミングテーブルを拭き
前日に使ったタオルを片付けた。
そして、トリミング道具がきちんと準備されているかも一つずつ確認した。
フォレストで働き始めたばかりの頃は、花子にいちいち聞かなければならなかったことだった。
しかし今では、わざわざ聞かなくても何をすればいいのか分かるようになっていた。
「仁さん」
カウンターの方から花子の声が聞こえた。
「はい」
「今日も早く来たんですね」
仁が振り返った。
花子はカウンターに座り、
今日の予約表を確認していた。
「朝にやることが多かったので」
「一人でやらないで分けてくださいね」
「私がやった方が楽です」
「そう言うと思いました」
「仁さん、最近本当に頑張っていますね」
「仕事を覚えているところですから」
「それでも、あまり無理はしないでくださいね」
「無理はしていません」
仁はそう答えながらも、手に持っていたタオルをもう一度きれいに整えた。
花子はその様子を見て笑った。
「それが無理している人の行動なんですけど」
「……そうですか?」
「はい」
仁はしばらくタオルを見つめてから、置いた。
「それなら、少し休みます」
「えらいです」
花子が満足そうな表情を浮かべた。
仁はソファに座った。
しばらく休んでいた
その時
チリン
玄関に付いたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
花子が立ち上がった。
一人のお客さんが、小さな犬を抱いて入ってきた。
長い胴体と短い足
そして大きな目をしたミニチュア・ダックスフンドだった。
犬は慣れない店が緊張するのか、飼い主の腕に体をぴったりと寄せていた。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
花子が笑顔で犬を見た。
「今日はどうされましたか?」
「爪を切ってもらおうと思って」
お客さんが犬の足をそっと持ち上げた。
「家で私がやってみようと思ったんですけど、どうしてもできなくて」
犬は足を掴まれた瞬間、体を動かした
「あっ」
お客さんが困ったような表情を浮かべた。
「この子、足を触られるのが本当に嫌いなんです」
「そういうこともありますよ」
花子が犬の前足を確認した。
「爪も結構伸びていますね」
「名前はマメです」
お客さんが犬を見ながら言った。
「マメ、今日は大人しくちゃんとしてこようね」
マメは返事をするように、飼い主の胸に顔を埋めた。
仁は隣でその様子を見ていた。
花子が仁を見る。
「仁さん」
「はい」
「今日は爪切りを一度、覚えてみますか?」
仁の視線がマメの足へ向いた。
「私が直接やるんですか?」
「はい」
仁は少し考えた。
「やってみます」
「いいですよ」
花子はマメをトリミングテーブルの上に乗せた
マメはテーブルの上に乗ると、周囲をきょろきょろと見回した。
仁が近づくと、また体を縮こませた。
仁はそんなマメをじっと見つめた。
「緊張していますね」
「はい」
花子が頷いた。
「だから、最初から爪を切ろうとしちゃダメですよ」
「では、何からするんですか?」
「まずは近づくところからです」
花子がマメの隣へゆっくりと手を伸ばした。
すぐに体へ触れず、しばらく待った。
マメが花子の手を見つめた。
そして、おそるおそる匂いを嗅いだ。
花子はその時、手でマメの背中をゆっくりと撫でた。
「こうです」
仁は隣でじっと見ていた。
「それで、足は?」
「まだですよ」
「まだですか?」
「はい」
花子が笑った。
「仁さんは何でも早く覚えようとするみたいですね」
「覚える立場ですから」
「それでも、犬は人間みたいに待ってくれませんからね」
仁はマメを見た。
花子に撫でられていたマメは、少しずつ緊張が解けていた。
「じゃあ、今度は足を触ってみますね」
花子が前足の近くへ手を伸ばした。
すると、マメが足を引こうとした。
花子はすぐに手を離した。
「……」
仁は何も言わず、その様子を見ていた。
「なぜ、すぐに離したんですか?」
「嫌だっていう意味だからです」
「それなら、もう一度掴むのでは?」
「いいえ」
花子は首を横に振った。
「少し待つんです」
仁はマメを見つめた。
「待てば、また触れるんですか?」
「はい」
花子が優しく言った。
「マメが大丈夫だと思うまで待つんです」
しばらく時間が流れた。
マメは花子を見つめてから、再び足を下ろした。
花子がゆっくりと手を伸ばした。
今度はマメが足を引かなかった。
「もう大丈夫です」
花子が仁に場所を譲った。
「仁さん、やってみてください」
仁はゆっくりと手を伸ばした。
大きな手が、小さな足の前に置かれた。
マメが仁の手を見つめた。
仁もじっと待った。
そして、マメが足を動かさないことを確認してから
そっと足を掴んだ。
「……掴みました」
「いいですよ」
仁はマメの足を確認した。
小さな足の指の間から、爪が見えていた。
「思ったより小さいですね」
「だから、もっと慎重にしないといけません」
花子が言った。
「爪を切りすぎると、血が出ることもありますから」
仁の表情が少し真剣になった。
「それなら、どこまで切ればいいんですか?」
花子が爪の位置を説明する。
「ここまでです」
「分かりました」
仁は爪切りを手に取った
しかし、指に力が入った。
「仁さん」
「はい?」
「もう少し力を抜いてください」
仁は自分の手を見た。
「私、力を入れていましたか?」
「はい、ほんの少しだけ」
「……分かりました」
仁は手の力を抜いた。
「それから、マメが動いたらすぐに止めてくださいね」
「そうすると作業が遅くなりませんか?」
「遅くなっても大丈夫です」
花子が言った。
「早く爪を切ることより、マメが怪我をしないことの方が大切ですから」
その言葉は、以前にも聞いた言葉と似ていた。
犬が楽であることが先だということ。
仁は頷いた。
「分かりました」
一本目の爪を掴んだ。
仁はゆっくりと爪切りを近づけた。
カン
小さな音がした。
マメがびくっとした。
仁の手がそのまま止まった
「……」
花子も何も言わず、マメを見つめていた。
マメは仁を見上げていた。
「少し驚いたみたいですね」
花子が言った。
「もう一度やってもいいですか?」
「少し待ってください」
仁は足を離した。
そして待った。
数秒が経つと、マメが再び仁の手に鼻を近づけた。
「もう大丈夫そうですね」
花子が言った。
仁はもう一度足を掴んだ。
二本目の爪を整えた。
今度はマメが動かなかった。
「いいですね」
花子が笑った。
仁はその後も急がなかった。
一本切って
少し待ち
また一本切る。
マメが動けば、すぐに手を離した。
そして、また落ち着くまで待った。
最初は思ったよりも時間がかかった。
仁は心の中で少しもどかしさを感じた。
しかし、すぐにその考えを消した。
今、大切なのは早く終わらせることではなかった。
マメが怖がらないことが大切だった。
「……」
仁はマメの表情を見た。
先ほどよりも目の力が抜けていた。
体も少し楽になっているように見えた。
「花子さん」
「はい?」
「最初より、かなり楽になったみたいです」
「そうですね」
花子が笑った。
「仁さんが待ってあげたからですよ」
仁は再び小さな足を見た。
そして最後の爪を慎重に整えた。
カン
「終わりました」
仁が爪切りを置いた。
花子が確認した。
「上手ですよ」
「本当ですか?」
「はい」
花子が笑った。
「初めてにしては、とても上手です」
仁はマメの足をもう一度確認した。
「怪我はしていませんか?」
「大丈夫ですよ」
その瞬間
マメが仁の手の甲を舐めた。
仁は少し目を見開いた。
「……」
花子が吹き出した。
「気に入ったみたいですね」
仁はマメを見た。
「最初は私の手を避けていたのに」
「もう大丈夫だと思ったんでしょうね」
マメはもう一度、仁の手を舐めた。
仁の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
「それなら、よかったです」
しばらくして
お客さんがマメを迎えに戻ってきた。
「あら、もう終わったんですね」
「はい」
花子がマメを抱き上げた。
お客さんはマメの足を確認した。
「本当にきれいになっていますね」
「お家ではかなり嫌がるとおっしゃっていたので、ゆっくり進めました」
花子が説明した。
「なので、少し時間がかかりました」
「大丈夫ですよ」
お客さんが笑った。
「むしろ、この子が落ち着いているみたいで嬉しいです」
仁はその言葉を聞いて、静かにお客さんを見た。
「ありがとうございます」
お客さんは仁にも笑顔を向けて頭を下げた。
「また次もよろしくお願いしますね」
「はい、お気をつけてお帰りください」
お客さんが出ていき
玄関のドアが閉まった。
フォレストの中が再び静かになった。
仁は使った道具を片付け始めた。
花子は隣でその様子を見ていた。
「仁さん」
「はい」
「今日はどうでした?」
仁は少し考えた。
「難しかったです」
「そうですよね?」
「はい」
仁は爪切りを見つめた。
「思ったより小さな作業なのに、気をつけることが多かったです」
「爪切りは簡単そうに見えて、
結構難しい作業なんですよ」
「それと、待つことが一番難しかったです」
花子が笑った。
「早く終わらせたくなったでしょう?」
「少しはそう思いました」
「そういうこともありますよ」
仁はしばらく黙っていた。
「でも、待ってみたら、かえって楽になりました」
「マメもですか?」
「はい」
仁が頷いた。
「最初は何度も足を引こうとしていたのに、最後には私の手を舐めました」
「そういうことです」
花子が微笑んだ。
「犬は思っているより、人の行動をよく覚えていますから」
仁はその言葉を聞いて、考え込んだ。
自分は昔から、力を使うことに慣れていた。
何かを早く解決しなければならない時は、力で解決するのが一番簡単だった。
しかし、フォレストでは違った。
犬を無理に動かすこともできなかったし
怖がっているからといって叱ることもできなかった。
待って
見守って
相手が楽になるまで合わせなければならなかった。
「花子さん」
「はい?」
「ここでは、待つことも技術なんですね」
花子は少し仁を見つめてから笑った。
「そうですよ」
「それなら、まだまだ覚えることが多いですね」
「もちろんですよ」
花子がいたずらっぽく言った。
「仁さんが一日で完璧なトリマーになったら、私がやることなくなっちゃいますから」
「それは困りますね」
「だから、ゆっくり覚えてください」
仁は小さく笑った。
「分かりました」
その時
ソファからモチが降りてきた。
モチは仁のところへ近づくと、前足を差し出した。
仁はモチの足を見つめた。
「……」
花子が笑った。
「モチもやってほしいみたいですよ」
「爪を整えてほしいんですか?」
「たぶん」
仁はモチの前足をそっと掴んだ。
モチは何の抵抗もしなかった。
「大人しいですね」
「仁さんには特に大人しいですよ」
仁はモチの足を確認した。
そしてふと、今日覚えたことを思い出した。
急がない。
無理にしない。
相手が楽になるまで待つ。
仁はモチの足を離した。
「今日はやめておきます」
「どうしてですか?」
「今日はもう十分に学びました」
花子が笑った。
「それもいい判断ですね」
モチは仁の手に顔を擦りつけた。
仁はモチの頭を撫でた。
暖かな春の日差しがフォレストの中へ差し込んでいた。
仁はしばらくモチを見つめた。
今日覚えたのは、爪を切る方法だけではなかった。
急がないこと
無理にしないこと
そして、相手が安心できるまで待つこと
それが今日、仁がフォレストで覚えた、もう一つの技術だった。




