第11話 ― 春の換毛期
フォレストの二階
暖かな日差しが窓から部屋の中へ差し込んでいた。
仁はゆっくりと目を開けた。
しばらく天井を見つめていた仁は、ベッドから体を起こした。
昔なら、目を覚ました瞬間に今日は何をしなければならないのかを考えていただろう。
しかし、今は違った。
今日何をすればいいのか、すでに分かっている。
仁は着替えて部屋を出た。
階段を下りると、フォレストのリビングではモチがソファの上に横になっていた。
モチは仁が降りてくるのを見ると、ゆっくりと顔を上げた。
「おはよう、モチ」
モチが尻尾を小さく振った。
「今日も早起きですね」
後ろから声が聞こえた。
仁が振り返ると、花子がキッチンから出てきた。
「花子さんも早起きですね」
「私は毎日この時間に起きてますから」
花子が軽く笑った。
「仁さんは最近、本当に早起きになりましたね」
「もともと早起きでした」
「そうでしたっけ?」
「……たぶん」
花子が吹き出した。
「そんな自信のない答え、初めて聞きました」
仁は特に答えず、フォレストのドアを開けた。
暖かな春風が店の中へ入ってきた。
冬には冷たく感じていた朝の空気も、今ではずいぶんと柔らかくなっていた。
「もう四月ですね」
花子が窓を開けながら言った。
「そうですね」
仁は床を掃き始めた。
店の中を片付け
トリミング道具を確認し
綺麗なタオルを用意した。
初めてフォレストに来た頃は、
花子に言われたことをこなすだけでも精一杯だった。
しかし、今は違った。
何を先にやるべきなのか
どの道具がどこにあるのか
客が来る前に何を確認すればいいのか
少しずつ体に馴染んできていた。
花子もそんな仁の姿を、静かに見つめていた。
「仁さん」
「はい?」
「最近、本当に慣れてきましたよね」
「そうみたいです」
花子が微笑んだ。
「もう仁さんがいないフォレストのほうが、少し変に感じるくらいですよ」
仁の手が一瞬止まった。
「……そうですか」
何気ない言葉だった。
しかし、不思議と嬉しかった。
その時、玄関のドアについたベルが鳴った。
チリン
「こんにちは」
「はい、いらっしゃいませ」
花子が客を迎えた。
客の腕には、小さなペキニーズが抱かれていた。
豊かな毛が全身を覆っている、可愛らしい犬だった。
「今日、トリミングできますか?」
「はい、可能です」
花子が犬を受け取った。
「お名前はなんていうんですか?」
「コムギです」
「コムギちゃんね」
花子はコムギを床に下ろした。
コムギは周囲を見回してから、仁を見つけると足を止めた。
目が合った。
「……」
「……」
仁は静かに犬を見つめた。
花子が笑った。
「仁さん、そんなに怖い顔で見ないでください」
「いつもと同じ表情ですが」
「そこが問題なんです」
花子が小さく笑った。
客も笑いながら言った。
「ふふ。最初は少し驚きましたけど、思ったより優しそうですね」
「ありがとうございます」
仁が頭を下げた。
花子がコムギの毛を確認した。
「今日は換毛期のお手入れですか?」
「はい。最近、毛が本当にたくさん抜けるので」
「春だからでしょうね」
「そうみたいですね。それじゃあ、お願いします」
「はい、お任せください」
客が帰ると
仁はペキニーズをトリミングテーブルの上に乗せた。
犬は周囲を見回しながら、少し緊張しているようだった。
「まず状態を確認しますね」
花子が手で毛を確認した。
「かなり毛が絡まってますね」
仁も隣から確認した。
「思ったよりひどいですね」
「春は毛がたくさん抜けますから、抜けた毛がもともとの毛の間に残ってしまうんです」
花子がトリミング道具を用意した。
「仁さん、今日も隣でたくさん手伝ってくださいね」
「はい」
仁は頷いた。
花子が毛を整え始めた。
仁は隣で落ちていく毛と犬の様子を注意深く見ていた。
以前なら目の前のトリミングだけを見ていただろう。
しかし今は、犬の表情や動きも一緒に見ていた。
コムギが少し体を動かすたびに、花子は手を止めて姿勢を整え直していた。
「やっぱり花子さんは、犬が動くとすぐに止めるんですね」
「無理に続けたら、怪我をするかもしれませんから」
仁は静かに頷いた。
カットが終わると、仁が道具を片付けた。
「次はシャンプーですね」
そう言って、仁は犬をそっと抱き上げた。
シャンプースペースへ移動すると、温かいお湯の温度を確認した。
「ちょうどいいな」
仁は独り言を呟いてから、コムギをゆっくりと浴槽に入れた。
最初は少し体を強張らせていたコムギも、温かいお湯に慣れていくにつれて、少しずつ緊張が解けていった。
シャンプーをして
毛の間に残っていた汚れと抜け毛を洗い流した。
「……本当にたくさん抜けますね」
仁が排水口を見ながら言った。
花子が笑いながら言った。
「換毛期ですからね」
「今日は仁さんが換毛期の恐ろしさを、しっかり知ることになりますよ」
「もう十分分かった気がします」
シャンプーが終わると、仁はタオルで犬の体を拭いた。
そしてドライを始めた。
暖かな風が犬の毛を揺らした。
仁は片手で毛を整えながら、もう片方の手でドライヤーの向きを調整した。
「仁さん」
「はい」
「もう少しゆっくりで大丈夫ですよ」
「大丈夫です。犬も大人しくしています」
「それでも、あまり早く乾かそうとしないでくださいね」
仁はドライヤーを一度止め、コムギを見つめた。
コムギは目を瞬かせながら仁を見上げていた。
「……分かりました」
仁はドライヤーの風を少し弱く調整した。
ゆっくりと毛を乾かした。
そして最後にブラッシングを始めた。
ブラシが毛の間を通るたびに、抜け毛が次々と出てきた。
一回
二回
三回
ブラッシングするたびに、毛が一掴みずつ抜けていった。
「……」
仁は黙ってブラシを見つめた。
「どうしたんですか?」
花子が尋ねた。
「まだ出てきます」
「そうなんですよ」
「これでは犬の体にある毛が全部抜けてしまうのではありませんか?」
花子が吹き出した。
「そんなわけないじゃないですか」
「ですが、まだ出てきます」
「春の換毛期は、そういうものですよ」
仁は再びブラッシングを始めた。
しかし今度は少し速かった。
ブラッシングをするほど、抜けていく毛が目に見えたからだ。
「仁さん」
「はい?」
「もう少しゆっくりお願いします」
仁は手を止めた。
「私、速すぎましたか?」
「少しだけ」
花子が犬を見つめた。
「毛がたくさん抜けるからって、急いでブラッシングすればいいわけじゃないんですよ」
「……そうなんですね」
「犬が楽にしていられることが一番ですから」
仁はその言葉を聞いて、犬を見つめた。
ペキニーズは少し体を動かしていた。
ほんの小さな動きだった。
しかし仁は今度、その動きを見逃さなかった。
「嫌だったようですね」
「はい、本当に少しだけですけど」
花子がブラシを差し出した。
「仁さん、もう一度やってみますか?」
仁はブラシを受け取った。
今度はゆっくりと動かした。
一度ブラッシングして
犬の表情を確認する。
もう一度ブラッシングして
体に力が入っていないか確認する。
毛が絡まっている部分があれば、無理にブラッシングしなかった。
手で少しずつ毛をほぐしてから、再びブラッシングする。
最初は少しもどかしく感じた。
しかし、時間が経つにつれて犬が少しずつ楽になっていくのが分かった。
耳が下がり
体の力が抜けていく。
そして、ある瞬間
ペキニーズが仁の手に頭をそっと預けた。
仁はそのまま動きを止めた。
「……」
花子はその様子を見ながら微笑んだ。
「仁さん」
「はい」
「上手にできてますよ」
仁は静かに頷いた。
それからは急がなかった。
抜ける毛がどれだけ多くても
一度で終わらせようとはしなかった。
犬が楽にしていられる速さに合わせて、ゆっくりとブラッシングを続けた。
しばらくして
最後に毛を整え、トリミングを終えた。
最初にテーブルへ乗った時より、ずっと綺麗になった姿だった。
ペキニーズは仁の手を舐めた。
「……」
仁の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「仲良くなったみたいですね」
花子が言った。
「そうみたいです」
しばらくして、客が店へ戻ってきた。
「まあ」
客は犬を見ると目を大きくした。
「すごく綺麗になりましたね。毛もたくさん取れてます」
「春なので毛がたくさん抜けていて、今日はブラッシングを少し丁寧にしました」
花子が説明した。
「ありがとうございます。家でもこうやって手入れしてみます」
客は犬を抱きながら笑った。
「コムギもお疲れさま」
コムギは尻尾を振りながら飼い主の腕の中に抱かれていた。
客が帰ったあと
仁は使った道具を片付けた。
花子が隣でタオルを畳みながら言った。
「今日はどうでした?」
「思ったより時間がかかりました」
「そうですよね」
「ですが、理由は分かった気がします」
仁がブラシを見つめた。
「早く終わらせることより、犬が楽にしていられることのほうが大切ですから」
花子が微笑んだ。
「そうですよ」
仁はしばらく考えてから言った。
「最初は、トリミングというのは技術だと思っていました」
「今は?」
「技術も大切ですが、それがすべてではないように思います」
花子は何も言わず、仁を見つめた。
「犬がどう感じているのかを見て、それに合わせて動くこともトリミングの一部だと思います」
花子の顔に小さな笑みが広がった。
「仁さん」
「はい?」
「本当に上達しましたね」
「そうですか?」
「はい」
花子が微笑んだ。
「最初は犬が動いたら、どうすればいいのかも分からなかったじゃないですか」
「今でも分からないことは多いです」
「それは当たり前ですよ」
花子が仁の肩を軽く叩いた。
「ゆっくり覚えていけばいいんです」
仁は静かに頷いた。
その時、ソファのほうで何かが動いた。
モチだった。
モチはソファから降りると、仁のところへ近づいてきた。
そして仁の足に体を擦りつけた。
「モチ」
仁がモチの頭を撫でた。
指の間から柔らかな毛が感じられた。
仁はモチの毛を一度撫でた。
すると、手に何本か毛がついた。
「……」
仁は手のひらを見つめた。
花子もそれを見て笑った。
「あ」
「……これも換毛期ですか?」
「はい」
花子が頷いた。
「モチもそろそろ始まったみたいですね」
仁はモチを見つめた。
そして再び、自分の手についた毛を見た。
「春は恐ろしいですね」
「ふふ」
花子が笑った。
「仁さん、まだ始まったばかりですよ」
「……」
仁はしばらく無言でモチを見つめ、それからモチの毛をゆっくりとブラッシングした。
モチは大人しく仁の隣に座っていた。
暖かな日差しがフォレストの中へ差し込んでいた。
仁はモチの毛をゆっくりと撫でた。
春の日のフォレストで
仁は今日も少しずつ成長していた。
ただ犬をトリミングする人ではなく
犬が安心していられるように考える人へと
それが、仁がフォレストで学んでいる新しい技術だった。




